「矢田蕙哉翁之碑」
年代 1893年7月 高さ 168センチ 幅 80センチ
碑面の読み下し

裏面の文面

 鷺流狂言師      晋永機 書

矢田蕙哉翁之碑

 花暮れぬ 我も帰りを 急どうずる  蕙哉

空也門中     滑川 正三郎  遺弟
           服部 彦七   伊藤 泰二郎
藤間 勘右衛門           鏑木 建一
菊川 錦蝶    下田 好升   市川 猿蔵
宇治 紫文    白木 惣哉   市川 染五郎
宇治 倭文    岡田 龍吟   市川 新蔵
宇治 紫登    江東 中邨樓  江澤 梅逸
菅野 滿舞    市川 團十郎  未亡人
關岡 長左衛門  鶴岡 三翁    矢田志幾
   
明治廿六年癸巳七月建之

解 説

○鷺流=能楽の一分科である狂言の一流(大蔵流・和泉流に対す)長命權之丞(驚太夫)を祖とす。子孫、徳川幕府に仕えて、狂言一流の家元なりしが、その家絶えて今は流のみ残れり。(富山房『大言海』)
○矢田蕙哉=(?~一八九三)今は絶えた鷺流の狂言師。蕙哉が同流の最後を飾る名手であった。明治二十六年四月十六日、神田佐久間町の質屋江島屋の隠居所に歿して、深川猿江の明住寺に葬られた。辞世の句にいう「花暮れぬ われもかへりを 急がうずる」
○藤間勘右衛門=二世勘右衛門(一八四〇~一九二五)舞踊振附師藤間流家元。のち勘翁と称した。初世勘右衛門の子。大正十四年一月三日歿す。年八十六。
○市川新蔵=(一八六一~一八九七)俳優。成田屋。九世團十郎門。明治二十三年歌舞伎座の「相馬源氏」に美女丸に扮して好評を博し大いに将来を嘱望されたが、不幸にも眼疾に罹り、押して舞台に出ていたけれども、三十年七月九日ついに歿した。年三十七。新蔵は文学の趣味を解した。その作るところの小説に『木枯』がある。(共に、東京堂「明治人物逸話辞典」)
○鏑木健一=鏑木清方(一八七八~一九七二)。日本画家。東京の生まれ、浮世絵画家水野年方に師事した (当園No14碑陰参照)。昭和二十九年度文化勲章受賞。代表作に「築地明石町」「三遊亭円朝」「ためさるる日」などがあり、随筆に「こしかたの記」などがある。(東京堂『世界人名事典・日本篇』)なお、清方は「こしかたの記」に、蕙哉の思い出を書いている。
 鷺流狂言師矢田蕙哉の歿した年の七月に、蕙哉とゆかりのあった人々の手により建立された碑である。碑の表面の辞世句のほかの字は、其角七世永機の筆になり、師弟の間がらが偲ばれる。

規格外漢字

姿
読み