「しのぶづか」
年代 1880年3 高さ 172センチ 幅 119センチ
碑面の読み下し

裏面の文面


    
二世 河竹新七 記す

 隅田川よ二面(ふたおもて)よと、歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売(しのぶうり)は、安永四とせ 中村座の春狂言に初代中村仲蔵(なかぞう)が勤め、前(さき)の河竹新七の作なり。そが正本(しょうほん)を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸(しあわ)せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳(はか)と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えせず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。

  しのぶづか

 明治十三年三月
    
ふたを 書
       松仙@鐫る

解 説

〇二面(双面)=亡霊ののり移った人間と亡霊自身とが相舞を演ずる所作の形式。
○荵売〈垣衣戀寫繪(しのぶぐさこいのうつしえ)〉=双面の所作のうち、初代河竹新七が初代中村仲蔵のために作った浄瑠璃。
○正本=@節付けや仮名遣いにいたるまで、太夫使用の原本のままである浄瑠璃本。A浄瑠璃・説教節・長唄などの詞章に曲節の譜を記入した版本。B省略のない完本。丸本。ここでは@の意味か。
○初代中村仲蔵=一七三六〜一七九〇)寛政二年四月二十三日没、享年五十五歳じ明和三年(一七六六)斧定九郎役が出世芸となり、のち大立者となる。所作事は志賀山流の名手で「関の扉」「戻駕」「荵売」等を演じた。著述に、自伝『雪月花寝物語』がある。
○初代河竹新七=(一七四七〜一七九四)伝記は不詳、ただ狂言作者掘江勘次の門人で、初めは竹三郎、のち能進と号し、安永七年森田座の立作者となったこと、「荵売」を作ったことが伝えられているにすぎない。(平凡社『大百科事典』)
○ふたを=高林信好、二峯と号す。書家。碓氷郡下後間邨(むら)に出生。二峯の号は、対峙する榛名、妙義二山の間の村に生まれたからともいう。明治三十年歿、七十九歳。請地村円通寺に葬る。(円通寺〔押上二丁目〕門前「二峰先生之碑」)
〇二世河竹新七=古河黙阿弥(当園13碑参照)

規格外漢字

@
A
B
C
D
姿
読み