年代 1885年 高さ 143センチ 幅 96センチ
碑面の読み下し 裏面の文面・読み
芦の芽や 田へ来る水も すみだ川
螺舎秀民(らしゃしゅうみん)
寶晉齋 書
螺舎秀民は、四世大黒屋庄六、本姓は片岡氏。江戸芳原(よしわら)の人、文政五年に生まる。秀民、酒及び佳刀を愛し、任侠を以て自負す。また読書を好み、兼ねて俳諧点茶を善くす。而(しこう)して、茶の儀は則ち不昧(ふまい)宗納の法を伝え、俳句は則ち晋子の体格を奉じ、其角堂の門に入る。のち晋子の別号螺舎を襲(おそ)う。家もとより風流瀟洒に富み、蔵する所の古器物は皆希珍なりという。明治丁丑(ていちゅう)十二月二十一日、享年五十有六を以て歿す。山谷廣徳寺に葬る。三世螺舎孝節、ここに小碑を建て以て欽慕の意を表(ひょう)す。 市川三兼書三世 螺舎孝節
田へ引た
あとの流や
芦 の 花
明治十八年十月田へ引いた あとの流れや 芦の花
三世螺舎孝節
明治十八年十月
解 説
○文政五年=一八二二年。
○佳刀=美しい刀。
○任侠=男だて。
○点茶=抹茶をたてること。
○不昧宗納=不昧、宗納は共に松平冶郷の号で、松平不昧(一七五一〜一八一八) をさす。出雲松江藩第七代の主で、茶道に通じ石州流不昧派を創む。
○体格け詩文の形式。
〇襲う=つぐ。
○瀟洒=あっさりと品がよい。
○希珍=まれで珍しい。
○欽慕=うやまい慕うこと。
○明治丁丑=明治十年。
○晋子=宝井其角のこと。(『墨田区文化財報告書V』 P28参照)
○其角堂=ここでは七世永機を指す。(当園17碑参照)
○山谷廣徳寺=現、台東区東浅草二〜15にある。
○市川三兼=幕末の三筆の一人市川米庵の息子である。号は萬庵。(『墨田区文化財報告書V』P130参照)
二世螺舎秀民の句碑を三世孝節が建て、秀民の閲歴を、市川三兼の書で漢文で記してある。其角の別号の一つである螺舎を秀民が襲うには、師の七世永機の力が与(あずか)っていることはいうまでもない。表の「寶晉齋」とあるのもまた七世永機の別号である。
螺舎俳諧の流れは明治大正と続き、昭和に入っても存在していたことは、豊島区在住の故大沢三夫氏(もと本所柳島村組頭) 未亡人富士子氏所蔵の俳諧関係文書によって認められる。
規格外漢字 @ A B C D 姿 読み