年代 1894年11月 高さ209センチ 幅127センチ
碑面の読み下し 裏面の文面
七十六叟(そう) ふたを 書
きょうげん塚
二世河竹新七、俳名は其水、晩に古河黙阿弥(ふるかわもくあみ)と改む。壮年より演劇作者となり、古稀の齢を踰(こ)えて明治二十五年の春、Aの字の祝さえなしけるに、明くる年料(はか)らずも病のために身まかりぬ。その一生の間に書き綴りたる新作の狂言およそ三百余ほどありて、古来の作者に珍しきことなれば、その名を続ける門人等師のむすめと計り、これを後の世に伝えてんと、石を建てて狂言塚と名づけ、初代の名残りの葱塚になずらえて、しのぶの文字を書きつくることしかり。
明治二十七年十一月
女(むすめ) 吉邨(むら)いと子 三世河竹新七 門人竹柴其水
(以下略)
解 説
○叟=おきな、老人。
○狂言=ここでは歌舞伎狂言のこと。歌舞伎芝居の仕組、脚色。転じて芝居そのもの。
○晩に=晩年に。
○なずらえて=準じて、擬して。
○しのぶの文字=偲ぶ文。
〇二世河竹新七=古河黙阿弥=(一八一六〜一八九二)現今では「河竹黙阿弥」をもって一般的な作者名としている。幕末、明治の脚本作者。本姓吉村、江戸の人。五世鶴屋南北に師事し、天保十四年(一八四三)二世河竹新七を襲名、立作者の地位に上る。舞台技巧に秀で、写実に人形劇の形式を加味した生世話物(きぜわもの)、即ち新社会劇を得意とし、新史劇活歴(かつれき)物をはじめた。作は「三人吉三(さんにんきちざ)」「鼠小僧」「島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」など三百五十余篇にのぼる。門弟五十余人を薫育し、三世河竹新七、竹柴其水、河竹能進は高足といわれている。
○ふたを=高林二峯 (当園No7碑解説参照)。
規格外漢字
@ A B C D 姿 読み音読み ねん
訓読み としき
喜