井上和紫「紫の」の句碑
年代 1888年11月 高さ 145センチ 幅 86センチ
碑面の読み下し

裏面の文面・読み

紫の ゆかりやすみれ

 江戸生まれ    和紫<わし>

(氏名省略)
 和紫は、天保十一庚子<こうし>年十月二十一日を以て魚川岸に生まる。
幼名平治郎、父は四代目井上彌兵衛、母は渡邊氏。世々魚問屋を業とし鷲屋と号す。十五歳にして父の名を継ぎ、当市場世話役に挙げ用いられたり。
 そのころ宮城玄魚と深く交わり、同人の紹介を得て、今紀文と称されたる山城川岸津藤氏に親しみ、当時艸阿禰<そうあみ>と号し、花の朝<あした>月の夕べ、相携えて遊里に往来す。性遊芸を嗜<たしな>み、和合連に入りて善く義太夫を語り、随って観劇を好む。故に、猿若町に三座ありし時より、市川三升、尾上梅幸等と交わりあり。俳諧を老鼠堂永機翁に学び、当代諸大人<たいじん>と友たり。平素、神仏を信じ堂宇の建築に尽力し、爾来日光山百万講に幹たり。
 今茲<こんじ>還暦に当り、今津源右衛門氏の勧めに随い、寿筵を江東井生村楼に開き、会する者甚だ多し。この碑を建つるに当り、みずから句を書す。その、人に交わるや義侠の心を以てす。真に魚川岸の江戸っ子と称すべきなり。
 
明治三十二年十一月         半古墨僊 之を録す

解 説

○和紫=碑陰の履歴にあるように、屋号の鷲尾の「わし」の音による俳号である。
○紫=むらさき草、根を染料に使う。武蔵野のものが有名。
○天保十一年=一八四〇年。
○猿若町=天保末期江戸三座が転設された地名。もと浅草聖天町の小出信濃守の下屋敷。江戸三座が猿若町に転設するに及び、これを三区分して一丁目(中村座)二丁目(市村座)三丁目(河原崎座ー森田座の控櫓。森田座は休座)と称した。
○魚川岸・四日市=町名(当園No15碑解説参照)
○宮城玄魚=宮城喜三郎、号は梅素亭。東京浅草の人で、書画の版下、摺物等をかいた。明治十三年没、年六十四。(金園社『書画骨董人名大辞典』)。三囲神社の「一勇齋歌川先生墓表」碑陰と 服部山蝶「きぬぎぬの」句碑陰の文字は、いずれも玄魚のもので、「梅素玄魚書」となっている。
○山城川岸津藤氏=細木香以(一八二二〜一八七〇)。もと江戸の富商。世称は、津の國屋藤次郎、略して津藤として知られる。香以はその号である。のち産を破り、明治三年九月十日、下総国寒川に歿した。年四十九(東京堂『人物逸話辞典下巻』)。山城川岸(現銀座六丁目)に住み、その豪奢をうたわれた。
○市川三升=九代目團十郎の俳名(『墨田区文化財報告書X』P40参照)
○尾上梅幸=五代目尾上梅幸。
○老鼡堂永機=其角堂七世穂積永機(当園No17碑参照)。
○櫻痴居士=福地櫻痴〔一八四一〜一九〇六)小説家。脚本作家。新聞記者。名は源一郎、長崎の人。明治元年「江湖新聞」を発刊、同七年「東京日日新聞」の主筆。また歌舞伎改良に尽力、活歴劇運動の指導者として活躍。
○尾上菊五郎=五代目尾上菊五郎(当園No17碑解説参照)。

規格外漢字
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姿
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