年代 1892年 高さ 177センチ 幅 66センチ
碑面の読み下し 裏面の文面・読み
木石菴<あん>柘植<つげ>黙翁大人一周忌
辰門弟等遺志を継ぎこれを建つ茶筅<ちゃせん>塚
織りたらん 草の錦や 花やしき 黙翁
明治壬辰<じんしん>九月 如電居士<にょでんこじ>大槻修書 田鶴年 刻
(省略)
解 説
○茶筅=点茶の際、茶を振って泡を発するために用いる具。晒竹、青竹、油竹にて製す。奈良県生駒郡高山に産するもの著名であるが、石政の作が最良とされている。また空也上人門徒、黒衣を著てこれをつくり、これを販うという(平凡社『大百科事典』)。
○花やしき=百花園のこと。
○明治壬辰=明治二十五年。
○関東空也門=不詳であるが、茶筅の解説の空也上人門徒云々や、門人の号などから、茶道の一派ではないかと思われる。なお、当園No12碑の建碑者の中に 「空也門人」 の文字が記されている。
○如電居士大槻修=(一八四五〜一九三一)漢学者大槻磐渓の長男、本名清修、通称修二、如電はその号。明治五年以来文部省の『新撰字書』の編集に従事していたが、同八年家督を弟の文彦(国語学者『言海』その他名著多し) に譲り隠居し、爾後悠々自適して学問に親しみ、一世の碩<せき>学と称せられた。(平凡社『日本人名大事典』)
○田鶴年=田鶴年刻の碑は当区内に多く、当園だけでも四碑ある。また七福神の碑は、すべてこの人の刻である。
規格外漢字 @ A B C D 姿 読み