年代 1814年 高さ 120センチ 幅 60センチ
碑面の読み下し 裏面の文面・読み
こにやくの さしみもすこし 梅の花
芭蕪
@甲戌年春正月
美知□
手□□
□口口□□□文化甲戌年春正月 美知氏 手焉置 金令舎□彦書
<島田正三『百花園碑林調査』により補足>
解 説
○こにやく=蒟蒻(菎蒻)
○文化甲戌年=文化十一年(一八一四年)。元禄六年。『芭蕉句集』には「此句は無人(なきひと)のことなど云(い)うついでと云(い)り」と注する。
○こにやくのさしみ=伊賀の料理で、菎蒻を薄く刺身形に切り、ゆがいて酢味噌で食べるという(菊山当年男『はせを』)。『芭蕉句集』の注によって、菎蒻は故人の仏前への供物。この句の前書に 「去来へ遣(つかわ)ス」とある。去来と芭蕉との共通の知人の死を悼んで去来へ報じた句。(岩波書店『日本古典文学大系・芭蕉句集』)こんにゃくの薄い刺身と梅咲く余寒の時季とを、とりあわせての弔意を示した句である。
〇芭蕉=松尾芭蕉(一六四四〜一六九四)江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号蝉吟)の近習となり俳譜に志した。一時京都にあり、北村季吟にも師事。のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅宿に歿す。句は『俳諧七部集』などに結集。主な紀行・日記に『野晒紀行』『笈の小文』『更科紀行』『奥の細道』『嵯峨日記』などがある。
墨田区内には、芭蕉の句碑が当園の二碑のほか、長命寺、旧安田庭園、要津寺とそれぞれ一碑ずつあり、要津寺には「芭蕉翁俤(おもかげ)塚」「芭蕉翁百回忌発句塚」の碑もあり、芭蕉と墨田区とのゆかりの深さがうかがわれる。
○美知氏=現在は地中に埋っている部分に「金令舎□(欠)彦」の文字があったという。それは、号を金令舎と称する鈴木道彦のことであろう。(当園No4碑解説参照)
規格外漢字 @ A B C D 姿 読み 文と化との合字。このような合字は、昔の公文書などで、位勲、役職名、氏名を一行に書かねばならない場合など、短かくつめるためかよく使われている。