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プロローグ



 なだらかにどこまでも続くかのように思われた丘陵地帯は、徐々にその眺めを変えようとしていた。
 有視界飛行、上空四百メートルの眼下――緑の絨毯に開いた虫食いのように、ぽつぽつと民家が見えはじめた。それらは数と密度を増し、やがて町と呼べる規模にまで至る。
 歴史ある南部の街並み。人で賑わう昼の市場。揺れる聖堂の鐘に驚き、蒼穹へと羽ばたいていく鳥の群れ。
 そんななんでもない日常風景こそが、一種の奇跡だった。
 百年前、二十億を数えていた世界人口は十年でその三分の一を失った。ポーランドも一時は壊滅すんでのところまで追い込まれている。この南部は比較的ではあれ被害が少なかったと聞くが、それでも生きた人間――そして正気を保った人間――は、溢れかえった屍の山に埋もれ、見出すことすら困難な時代が続いたはずだった。
 それがいまや、世界には五十億もの人間がひしめこうとしている。
 まさに奇跡を冠するに相応しい復興といえた。
 と、眼下の景観を、陽光きらめく大河が唐突に貫いた。河川敷の艶やかな芝の上には、人々が貴重な欧州の陽光を求め集まっている。ポーランド最大河川、ヴィスワの流れだ。
 この大河とソワ川との合流地点こそが本日の目的地であった。
「――もう、マウォポルスカ県に入ったのですか?」
 イレナ・コワルスカは対面に顔を戻して訊いた。
 国賓専用の特別機ではないが、ヘッドセットのおかげで声を張り上げる必要はなかった。ノイズキャンセラーも効いているらしく、プロペラとエンジンの轟音もそう気にはならない。
「はい、閣下」
 膝を付き合わせた軍服が唇を動かす。彼の低音は、耳元のヘッドフォンから間接的に聞こえてきた。
「見えませんが、県都《クラクフ》を西に通り過ぎたあたりです」
「では、間もなくね?」
「約二十分で到着予定です」
 その国防長官の言葉に、イリナはうなずいて了解を示した。
 就任演説から二日。大統領の激務は殺人的だった。だからこれが単なる移動であったなら、イレナも――目を通しておけと補佐官が書類の束を持ってこなければだが――仮眠を取ろうとしただろう。
 しかし、今回ばかりはそんな気にもなれない。
 あと二十分で、あれが視界に姿を現すのだ。
「――大統領」
 違う声が耳元で聞こえた。イレナと同席するのは五人。うち三人が男性で、その全員が少しずつデザインの違う軍服をまとっている。名称こそ異なれ、最上位か限りなくそれに近い位置にいるという点においても、彼は互いに共通していた。
「なんでしょう、コルベ中将」イレナは右隣に顔をやる。
「失礼ですが、陰相領域についてはどういった認識をお持ちですか」
「たぶん、大衆と変わりません。何も知らないのと同じでしょうね」
「実を言えば、私もそうです」中将は薄く笑む。「ただ、代々の大統領閣下にもそうしてきたように、今回も注意事項の確認をさせていただかなければいけません。一応ながら、規則ですので」
「構いません。災害地域の視察でも同様の手続きは踏むのですから」
 中将はあごを引くようにうなずき、「では」と語りはじめた。
「あれは一種の汚染地帯とお考えください。また物理法則が通用しないため、内部の詳しい観測や分析は行えません。したがって、我々にできるのは近くからあれの表層を眺めることだけとなります」
「それは聞いていますが、光も通さないのですか?」
 民間出身ということもあり、イレナは陰相転化した土地をその目で見たことがない。もちろん、それはこの上なく幸せなことなのだが――
「濃度というのでしょうか、形成された位相空間の質にもよるようです。が、原則として光はわずかしか通りません。正確には通った光が正常な形で跳ね返ってきません。薄い部分でも数メートルが限界で、可視光以外の、つまりレーダーで用いるような超音波や放射線、各種粒子などは最悪、跳ね返ってくることすらないのです」
「なにかブラックホールを連想させるお話ね」
「ある意味でそれ以上の怪物です。なぜなら、あれは人間の心理にも直接的に影響を与えることが確認されています。今回、大統領閣下にも特別注意していただきたいのはその点です」
 イリナは神妙にうなずいた。ここまでは中学校《ギムナジウム》で誰もが知らされる内容である。が、教科書で歴史上の偉人を知るのと、実際に本人に会うのとでは話の次元が違う。
「あれは見ただけで、その人間の精神を不安定にします」中将が言った。「根源的・本能的な、逃れようのないショック反応を強制的に押し付けられるのです。個人差はあれ、それは恐慌・混乱・麻痺・気絶・錯乱……を引き起こし、抵抗力のない者は発狂、死亡することも珍しくありません」
「写真や映像といった記録媒体を介しても影響があるというのは本当なのですか? 教科書にはその理由でイラストしか載っていなかったわ」
「事実です」中将はきっぱりと言った。「影響力は減衰しますが、たとえばバラバラ殺人の遺体写真や、狂気的でグロテスクな絵画が人間に強い衝撃を与えるのと原理は同じとお考えください」
 彼の口調はある事実を暗に告げていた。
 すなわち、原理は同じでも効果のほどは比較にすらならない――
「まるで呪いね。そして、その呪いの空気を <オンラ> たちは一体一体が身にまとっているということなのね」
「そうです、閣下。もっとも、内向きと外向きの違いはありますが。オンラどものまとう外向きの陰相領域を、英語圏ではAEだとかアロゥイーターなどと、我々は語源にしたって <ヤグイ> と呼称しております」
 その言葉の響きで、イリナはふと思い出す。顔をあげて言った。
「確か、日本《ヤポーニャ》由来の言葉、だったしから」
「閣下はワルシャワ大学のお出でしたね」中将が薄い唇を歪めた。
 近年、ポーランドでは日本文化――とりわけアニメーションやマンガが流行している。若年層にそれは顕著で、国立大における日本学科の競争率は天文学的数字になっていた。
 ワルシャワ大学はその典型例であった。
「そう、オンラどもの爆発的増加があの国からはじまったとする説は、専門家の間でも大筋で認められています」
「千六百年も前の話ね」イリナはうなずきながら言った。「モウタウーロとかいう日本の英雄が、オンラの古代種に挑み、破れた。そこから均衡が崩れたと聞いています」
 その英雄はオンラの王に矢を放ったが、敵の周囲を漂う岩に喰われて届かなかった。矢を喰らうがごとき不可侵の領域。アロゥイーター。すなわち、矢喰《ヤグイ》。
 かの地には、その伝承に由来するヤグイ神社《プシビテク》やヤグイ公園《パーク》なるものが残されているとも聞く。
「矢が銃弾に変わっても、実情は変わっておりません」硬い表情で中将が続けた。「陰相領域《ヤグイ》は一種の結界としてオンラどもを覆い、一切の物理兵器を受け付けないのです。熱・光学もそうですが毒や細菌、ウイルスなどの生物化学兵器もしかりです」
「それを実証したのが――」
 みなまで言わせたくなかったのかもしれない。中将は顔を伏せがちにしながらも、自らそれを口にした。
「はい。間もなく見えてきます。オシフィエンチムの惨劇と呼ばれるものの跡地です」
 もう半世紀以上も前の話だ。当時、ユダヤ民族がオンラの血脈であるという根も葉もないデマが流行した。恐るべきことに、それはいつしか一種の思想にさえなっていったのだという。
 これは結果として軍部の暴走を招いた。彼らはオシフィエンチム地方に収容所を作り、そこに狩り集めたユダヤ人を置いた。オンラを釣るためのエサとしたのだ。そして思惑通りにオンラが群がると、軍は生物化学兵器を使い、ユダヤ人ごとオンラの殲滅にかかった。
 作戦名「夜の霧」。オシフィエンチムの惨劇――
 結果としてこの軍事実験は、屍の山を築いたとされている。
 ただし、そこにオンラの死体はひとつも含まれていなかった。
 以降、オシフィエンチムは魑魅魍魎どもの住処となり、一帯ごと陰相転化。人類にとっては足を踏み入れることはおろか、接近することさえ困難な魔境と成り果て、現在に至っている。
「大統領、見えてきました。間もなくオシフィエンチムです」
 前部、操縦席からのアナウンスが耳元に届く。
 一拍遅れて、音もなく現われた黒い膜が窓を外側から覆っていった。皮膜は刹那的にチカリと光り、周囲に溶け込むようにして透明化していく。その一瞬、膜の全面にびっしりと細かい文字が浮き上がって見えたのはイリナの気のせいではない。
 木や石碑に掘り込むために最適化された、直線的ラインの組み合わせ。北欧からゲルマン民族が持ち込んだという、咒的古代文字だ。
 機内の空気は、それと分かるほどはりつめていた。
 何か言わなくては。ここで沈黙を作っては、もう二度と自分からそれを敗れなくなる――
 そんな強迫観念につき動かされ、イリナは口を開いた。
「直接、肉眼で見て良いのですか?」
「はい」向かいの長官が眉間にしわを寄せてうなずく。「この機体と窓には幾層ものフィルタ処理が施されていますので。しかし、場合によっては気休め程度にしか効かないことがあることにご注意を。下腹部に力を込める感じで、気を強く持ってください」
 もともと、度胸試しとそのアピールのためだったのだろう。
 就任直後に、陰相転化した地域の視察をしはじめたのは数代前の大統領だ。
 いかにも男が考えそうな見栄《みえ》だが、慣例化したそれを無視できない自分に彼らを揶揄する資格はないのかもしれない。
 イリナはそんな愚痴めいたことを考えながら窓の外に目をやった。
 口内はからからに乾いている。なのに、喉の奥には妙に粘つく不快な感覚がこびりついていた。脇の下を冷たい汗が流れていく。
 ヘリはいつの間にか前進をやめていた。ホバリングしたまま、進行方向から顔を反らすように機体の角度を変えようとしている。
 うなじの毛がちりちりと逆立つ。ヘッドセットを通して誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
 徐々に前方の視界が開かれていき――
 そして、イリナはそれを見た。


to be continued...
つづく
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