し ゅ ゆ
須臾
槇 弘樹


 幾度かではあるが、考えたことがあった。もし己が斬られることとなった時、何が見えるであろうか。そこにはどんな世界が広がるのだろうか。その想像は大抵の場合、振り上げられた刃が眉間に向かい真っ直ぐに振り下ろされて来る光景から成っていた。確証は無いが、何とは無しく思う。恐らく、それは瞬く間の閃きであろう。あるいは視界を真中から縦に割る、細い斜線が見えるのみか。いずれにせよ、全ては一瞬の後に終わるのではあるまいか。襲い来る最後の一太刀を眼に捉えた瞬間、思考するいとまも与えず刃は眉間を割き、意識は唐突に途絶える。そうして人は十万億土へ発つ。
 所詮は学無き無骨な兵ということか、今、その状況が目前に迫るに至って、己の想像が如何に貧弱であったかを知った。
 まず、それは刹那のうちには終わらなかった。目を見開き、粘つく糸を引きながら獣のように歯牙を剥いて、目の前の若き兵は刀を真上に振りかぶった。そして、それを振り下ろしている。上段に持ち上げられた刃が、真っ直ぐに眉間目指して落ちてくる。確かにそれは、曖昧ながらも想像していた情景そのままであった。
 だが予測に反して、時は酷く緩慢に流れていた。視界にある物が、あまねく良く知れる。眼前で刀を振り下ろす兵と、迫り来る刃の刃毀はこぼれ、こびり付いた血糊、掠れた脂の痕とそれが生む鈍い曇り。己に対峙する兵の後ろで、今まさに一合目の火花散らした老兵と血塗れの敵兵。蹄に穿たれた錆色の大地に濛々と立ち込める砂煙。飛び交う矢も、遠くで戦場の熱風に棚引く旗号も、武人たちの咆哮と共に撒き散らされる唾と汗の一粒までもが、まるで琥珀の樹液に閉じ込められた小虫のように、その動きを止め己の眼に飛び込んでくるのだ。
 思わず、合戦の絵巻を思った。そこに描かれた全てを見切った後、巻物を繰り広げ次の動きを描いた絵に目を移す。こちらが全てを把握するまで、そこに流れる時と展開はそれを待つ。
 また絵巻と同様に、己がそこにある出来事に介入できぬことまでもが共通されていた。如何に緩慢に見えようとも、振り下ろされる刃をかわすことも受けることも、無論流すこともできない。ただ見ていることしかできぬのだ。
 己が斬られるであろうことは、もはや疑う由も無い。瞬息のうちにその刃は皮膚に到達し、その勢いのままに頭蓋を割って、ことによると頭部を両断しても尚余り、咽喉を裂いて胴にまで及ぶやも知れぬ。無論、命は無かろう。瞬時に絶命ということになろうとも思う。
 否、本当に人は頭を割られると即座に死に至るのであろうか。その瞬間を客観的に捉え、観測し得た者はおらぬわけであるから、確かなことは言えまい。もしや胴と別たれ宙をさ迷う頭は、隔たれた己の胴体を数瞬ならば眼に収めることとてできるのではないか。
 首を失った者、頭部を割られた者は、書も言葉も残せない。また生ある者が、彼らに事を問うこともできぬ。真のことは、それに己が至ってみない限り知れぬものだ。
 だが叶うことならば、斬られたと同時に意識も手放したいものだ。死に至る痛手を被りながら、命果てるまでの己を静かに観察するも一興――そう考える者も在るやもしれない。しかし、やはり死は潔く迎えたいとも思う。そして出来るならば、幸ある思い出と共に果てたい。
 だが、こちらはそれで良いとして、剣を振り下ろす側は一体何を思うのであろう。今まさに、目の前の若き兵は一つの人命を断とうとしているのだ。戦場という特異な世界の瘴気にあてられ、理性のたがを半ば外してしまっているこの男は、まだその面貌に幼さすら残す青年だ。恐らく、まだ元服間も無い歳の頃であろう。血走った目と断末魔のようにさえ聞こえる雄たけびからは、半ば狂気に近いまでの恐怖が如実に窺える。明らかに戦慣れしていない新兵だ。或いはこれが初陣で、未だ人を殺めた経験を持たない者かもしれない。
 だとすれば、初めて人を殺したときの感覚は長くこの者の手に残るだろう。一度その手を血で汚せば、それは如何に拭おうとも落ちることはない。生涯、抱えて生きることとなる咎として残る。
 刃を振り下ろし終え我が命を奪ったとき、この男は一体何を思うであろう。いかようにそれを受け止め、どのようにそれを処理するのだろう。初の手柄と喜色を浮かべるか、剣を振るということが相手の命を我が手に掴むことと知り戦慄するか。
 かく云う己はどうであったかと問われれば、いずれでもなかった――というのが答えになる。初陣の折の記憶はほとんどない。ただ己の剣を両手で握り締め、矢鱈に叫び散らしながら震えていたというのが実際のところだ。酷い乱戦で、とにかく恐怖に振り回されるまま手にした剣に縋りつき、何とか正気を保とうと精一杯であったように思う。初めて人を斬ったのはその次、二度目の戦のときであった。突然、目の前に橙色の胴当を着けた敵兵が倒れ込んできたのである。やはり乱戦の最中であったので、前後を失い転倒してしまったのであろう。その兵と、一瞬眼が合ったのだ。その時に全身を貫いた戦慄は、未だに記憶の中にある。
 気が付いたときには、剣を逆手に持ち起き上がる暇を与えずその兵をめった刺しにしていた。今思えば、最初の二、三太刀で既に相手は息絶えていたはずだ。だがそれを知らぬまま、何度も何度も屍に剣を突き立て続けた。
 両営が陣を退けた後、そこにあったのは歓喜でも恐怖でもなく、ただ虚無だった。いつまでも己の両手を呆けたように見つめたまま、ただ言葉にしようもない空しさを感じていたのを覚えている。
 あれから一体幾つの戦場を潜り抜けてきたのか、既に記憶にはない。こうして自分が斬られる段に至っても、未だに人が人の命を奪うこと――殺生というものの正体は掴めていないのだ。或いは、解など無いという今の極致こそが、ひとつの解なのやもしれぬ。いずれにせよ、死をまさに目前に控えた者が殺生に頭を悩ませても、詮無きことだ。

 しかし、思えば様々なことがあったものだ。結局、子宝に恵まれるに至らなかったのはいささか心残りではあるものの、総じて恵まれた悔いなき人生だったとは云えるだろう。結局は一介の田舎侍で生涯を閉じることとなるわけだが、特に出世を考えていたわけでもない。低くもなく、さりとて領地を構えるほどでもなく、分相応の身の上に生まれたち、そして死ぬ。己には似つかわしい道であっただろう。幼少の頃より、やはり自分は精々奉公し、戦の中で剣と共に果てるのであろうと思い込んでいた。その通り、さして大変もなく脳裏に思い描いていたように時は流れた。
 男子たるもの立身出世と野心に身を焦がすべきであるのやも知れぬが、どうも自分はそういう性質たちではなかったらしい。学問に通じ、文官として身を立てられるほどの頭もない。所詮は無骨で不器用、剣を振ることしか能のない二流武官。こうして生を閉じるのは、妥当と云えば妥当なのだろう。
 だが、存外恵まれた――身に余る幸運にも幾つか遭遇することができた。菊である。元服からしばらく後に貰った菊は、良い女房であった。強い女で、戦で家を長期空けることになっても安心して留守を任せられた。いつ果てるとも知れぬ夫を、いつも笑顔で送り出してくれた。二子をもうけたが、いずれも死産。随分と心細い思いもさせたことであろうが、そんなことはおくびにも出さぬ気遣いの女でもあった。
 真にもって、己には過ぎた女房であったと思う。案外ひとり身になれば、甲斐性なしと漸く縁が切れたと清々したように思うかもしれない。それも良い。思い残すことなく逝ける。
 この世に生を受け、そして今日この日に至るまで……我ながら小さな男であったが、こうして見ると実に数多の出来事、長い年月を潜り抜けてきたものである。人は皆、このような重さをその生命に秘めているのかと思えば、他者を殺めたときに感じた虚脱感も理解できそうな気がする。
 今も朧げながら記憶に残っている、幼き日に感じた母の温もり。同じく武士として生涯を閉じた厳しく大きかった父の背。親方様にお目通りを許された日のこと、身震いと共に初めて眺めた大海、何も出来なかった初陣のこと、菊との逢瀬の思い出。
 夜桜に見惚れた春、灼熱の日差しに焼かれ咽の乾きに干されそうになった夏の戦場、菊と見た美しい紅葉の秋、剣の稽古で火照る身体では寒さも感じられなかった冬の日の道場。
 脳裏に、それらの風情ある景色が次々へと流れては消えてゆく。緩やかに舞い落ちてくる桜吹雪、それはすぐに燦燦と降り注ぐ夏の日差しに変わり、かと思うとはらはらと散っていく赤や黄色のもみじ葉が、更には世界を覆い尽くさんばかりの白雪が視界を過った。同時に、今まで同じ時を過ごしてきた幾千もの人々の相貌が、雨に打たれて広がる小池の波紋のように止まることなく浮かび上がってきた。どれもありきたりで、だが掛替えなく思える記憶の種子だ。
 これは神仏が与えたもうた最後の奇跡か。天は死にゆく者に、その瞬間、生涯を省みる余地を与えるものなのか。記憶の舞灯籠が、緩やかに踊る。
 ――不意に、いつの間にか途絶えていた戦場の喧騒が耳元に甦った。剣戟の音、悲鳴と怒号、腹を打ち抜くような大地を揺らす足音が交じり合って耳朶を叩く。その衝撃に我に返った瞬間、目の前を流れてゆく光の軌跡を見た。それが終幕を告げる刃の閃きであることを知る。
 そして視界が深紅に染まった。額から眉間にかけて、刹那の灼熱感が走り抜ける。金属のよう乾いた硬質のもの同士が触れ合い、どちらか、あるいは両者に亀裂が入るような鈍い音が頭蓋の中で暴れたような気がした。
 その時は唐突に訪れた。痛みは無かった。






概算:3900字、原稿用紙11枚、8kb
脱稿:2003/08/03 15:39:53



あとがき

 俗にいう死に際の「走馬灯」というものは、科学的にある程度認められているらしい。人は死に貧すると、脳内麻薬とも呼ばれるエンドルフィンを分泌する。これは極度の緊張状態を緩和するため、記憶を検索し状況に適した記憶や経験を呼び起こす作用があるという。この働きによって、死に際に走馬灯を見ることがあるというのが有力な説だ。低酸素状態が見せる幻覚ではないか、という別の説もあるが、いずれにせよ走馬灯が巡るというのは場合によってはあり得る話らしい。

 タイトルの須臾は「しゅゆ」と読み、分が10-1(=0.1)、厘が10-2(=0.01)をあらわすように、10-15=0.0000000000000001を意味する。以下、瞬息、弾指、刹那、六徳、空虚、清浄と続く。
 この話は、数年後――或いは数十年後にもう一度書いてみたいと思う。やはり死を間近に見る年齢になると、同じアウトラインの作品でも違った味わいが出るだろう。それを期待したい。いや、それまで執筆を続けていればだけれど。

しばら‐く【暫く・須臾】《副》
(シマラクの転)
1.少しのあいだ。しばし。暫時。当分の間。大唐西域記長寛点「少シハラク此に留りたまへ」。「ここ―が山だろう」「―待ってくれ」「―してドアがあいた」
2.久しいさま。久しぶり。「―田舎に帰っていない」「やあ、―」
3.(「姑く」とも書く) かりに。かりそめ。一応。徒然草「匂ひなどは仮のものなるに、―衣裳に薫物すと知りながら」。〈名義抄〉

――広辞苑第五版