本書は原稿用紙50枚という文字数制限のもと制作された
よく情況は掴めなかったけれど、とにかく自分は空を飛んでいるんだと思った。
つまり、記念すべき三回目の飛行だ。
記憶が正しければ、香奈子が初めて空を飛んだのはたぶん五歳くらいの時だった。素早く足を動かせば宙だって歩けるに違いない。そう考えた末、屋根に上って足をしゃかしゃかしながら飛んだ。
で、落ちた。
近所のおっちゃんの上だった。
おっちゃんは尻をしこたま打ったと言っていたが、香奈子はわりと無事だったあの日の思い出。
それからしばらく――正確には八歳の時――チャリの補助輪も外れたし、これで加速をつければ、あるいは……と思いはじめた。
しかも今度は、スペースシャトルも導入している多段式。自転車ごと飛び、それを空中で切り離して加速。そして宇宙へ。
これはいける。確信した香奈子は、英語っぽい叫びをでたらめなメロディにのせ、ロックンロールに崖の上から発進した。
で、落ちた。
挙句、チャリは大破した。
あれから八年。ついに自分はやりとげたのだと香奈子は思った。
自在に動けるし、さっき気づいたことだが、壁や電柱をすり抜けることだってできる。
香奈子はこの特性を最大限活かして、スズメとドッグファイトを繰り広げたり、雲に潜ったり、通行人の身体をきりもみ式で通過したりして、束の間の奇跡を楽しんだ。
自分と同じようにふわふわ浮いているおっちゃんが、何か疲れた顔でこっちを見ていることに気づいたのは、それからしばらくしてからだった。
ロスト・マイミュージック
「KIMINITODOKE→」
槙弘樹
copyright (C) 2007 by ROSYU TAKANASHI / O.I.B.
「――やっと気づいてもらえたか」
どうやら夢や幻の存在ではなかったらしい。声をかけてみたところ、おっちゃんから返った第一声がそれだった。肩を落とし、深々とため息をつきながらの言葉である。
たぶん、父親が生きていたら同じくらいの年代になっていたのだろう。
頭はいわゆるバーコードで、薄灰色をした天使が着るようなローブをまとっている。膝下まで伸びる裾からは、すね毛に覆われた二本の素足が覗いていた。どうやら幽霊の類ではないようだけれど、だったらふわふわ浮いているなんて非常識だ、と香奈子は自分のことを棚に上げて思った。
「お前さん、杉本香奈子だろう」
おっちゃんが言った。
「のんきに遊んでるが、手前が死んだってこと理解してるか?」
「……へ?」
「やっぱりか」と片眉をあげる。「ウソだと思うなら最後の記憶、辿ってみな。ヒントは朝の通学路だ」
胸の辺りで腕を組み、おっちゃんはいかめしい顔で「酒気帯び。子ども。トラック」と続けた。最後に「ドラマじゃよくあるパターンだ」と締めくくる。
それで一気に思い出した。
「そうだ、あの子!」
思わず叫びをあげながら、香奈子はパンと手を打つ。
「なんで忘れてたんだろ。あの子、どうなった? おじさん知ってる?」
「――ああ」静かな声が返った。「お前さんが突き飛ばしたおかげで助かったよ」
ついでにトラックの運転手もな、とバーコードのおっちゃんは欧米人みたいに両肩をすくめる。
「なあんだ」
一瞬にして全身から力が抜けていった。
だったらぜんぜん問題ない。素直にそう思った。そのままのことを口にも出して言う。だけど返ったのは、ばか言えという手厳しい一言だった。
「むしろ大ありよ。お前さん、あの男の子の代わりにハネられたんだぞ。見ろ」
言葉の終わりにおっちゃんは顎で地上を指す。
釣られて眼下に視線を落とすと、そこはいつもの通学路だった。ちょうど事故が発生した辺りで、歩道には事故の生々しい傷跡と黒っぽい巨大なシミが残っている。
花とお菓子とヌイグルミで埋め尽くされた献花台は、死人が出たことの証明だ。
「うわー、本当に凄いことになってる」
バーコードの言葉を信じるなら、あの花とお菓子は他ならぬ香奈子のために捧げられたものだということになるのだろう。しかも、よく見ると、その中には好物の「うまい棒めんたい味」と集めていたスヌーピィグッズが非常に目立つのだ。
それは遺影が飾られているより確実に、死人が香奈子であることを物語っていた。
「なんてこった……私、冗談抜きで死んじゃったみたいだね」
とはいえ、死という言葉を自分で使ってみても、なぜだか実感や特別な思いがかきたてられることはなかった。なにか遠い思い出話を語るような感覚しかない。
死ぬと、案外この世のしがらみからは無縁の、ふわふわした存在になるのだろうか。そんな気もしてくる。実際、今の香奈子がふわふわ浮いているように。
「どうも実感無いなあ。はねられた瞬間のこと覚えてないし、全然怖くも痛くなかったし」
「即死だったからな」
その言葉で、年頃の乙女としては無視できない問題に気がつく。
「ひっとして私、タイヤに轢かれてピラピラになった?」
「いんや」
返った答えに安心しかけるが、紙みたいに平たくなるだけが最悪のパターンではない。
「じゃあ、グチャグチャ? 血のシミ残ってるし」言っているうちに嫌な想像が広がっていく。「うわ、なんかそっちの方が嫌だなあ」
「安心しな。割と綺麗なもんだったよ。頭ってのはちょっと割れただけでドバドバ出血するもんなんだ」
「本当?」
「ああ、案外そんなもんさ」
遠い目をするバー公を見て、また新しい疑問が頭に浮かんでくる。
「ねえ、もしかしてさ。おじさんもあの事故の巻き添えでピラピラになった派?」
「そうじゃない」
おっちゃんはバーコード頭を静かに左右した。
「違うの?」
「俺は、あれよ。フランダースの犬で言うところの、ネロとパトラッシュの導き手みたいなもんなんだ。天に召される連中を引っ張り上げるように、こう、ぱたぱたとな」
バー公は、「ぱたぱた」のところで両手をひらひらさせる。それだけで説明は十分といった顔だったものの、香奈子としてはまったく理解できない。
「ネロト・バトルラッシュって誰?」
聞き返すと、バー公は仰天したようだった。すごい手品を見せられたように口をあんぐりと開ける。
「ウソだろう。お前さん、フランダースの犬を知らんのか」
「知らないよ。それよりちゃんと教えてくれよう。おじさんって結局、誰なの?」
バー公は香奈子の反応に不服そうな様子だったが、ぶつぶつと文句をいったあとようやくその質問に答えはじめた。
「まあ、その辺は観測の仕方しだいってとこだな。あと信仰の影響も無視できん。仏だとか天使だとか、他にも死神、精霊、ご先祖、近所の親父。巷のやつらは手前の都合で言いたい放題よ」
「え、天使? おじさん、羽なしバーコードなのに」
言うと、バー公は気取った仕草で両肩を持ち上げた。
「この姿は、あれだ。見る者の想像なんだよ。お前さん、空を飛ぶってイメージから、むかし下敷きにした近所のおっさんを連想したのさ。無意識に」
「ふうん……」
正直な話、尻をしこたまうった近所のおっちゃんの顔はあまり覚えてない。
幼かったし、あの時はとにかく飛べなかったことが悲しかったのだ。
「――で、実はだな」
少しの間をおいたバー公は、何やら言いにくそうに切り出した。
「これが本題なんだが、お前さんが助けた子も実は俺の同類だったことが分かってな。それで今、ちと問題になってるのよ」
その言葉の意味を理解するには、少しの時間が必要だった。
「え……じゃあ、あの子も天使だったってこと?」
「ちょっと違うが、まあ、まっとうな人間じゃあないな」
「もう何でもありって感じですな」
「とにかく、そういうのを庇うために死ぬってのは普通ならちょっとありえない事件でな。実際、嬢ちゃんは本当なら九四歳まで生きる予定だったのよ。それが狂っちまったから、俺は事後処理のために出張ってきたんだ」
そう言うと、バー公は疲労を滲ませた顔で深く息を吐く。
「じゃあ、死ぬはずじゃなかったのに死んだから、私、こんなになってるの?」
「まあ、そういうことだな。こっちのミスだ。お前さんには申し訳ないことをした。上やその他もろもろを代表して謝らせてほしい」
親ほどの大人に頭まで下げられると、さすがに心配になってくるのが思春期たるものだ。
「それで、私どうなるの」
「まだ分からねえ。……まあ、相手に自分の姿を見せて会話もできるようにしておくから、ちょっと娑婆でハシャいできな。処遇が決まったら知らせに行くから」
「お母さんとか、友達に会ってもいい?」
聞くと、バー公は少し神妙な顔つきをした。
「ああ、行ってやりな。特に親ってのは、死んだ子にもう一度会えるなら化物でも幽霊でも姿形は構わねえって思いになるもんだ」
「そうかな」
「ああ。親なら、誰だってそうだ」
その瞬間だった。
香奈子の頭に突然、小さな女の子がでピアノを弾いているセピア色の光景が浮かび上がった。
なぜだかは分からない。でも、実際目にしているように鮮やかなヴィジョンだった。
それだけではなく、彼女の名前、生まれて最初に話した言葉。ピアノを辞めてしまった理由。いまどこに居て、何をしているか。友達は何人いるか……全てが一瞬で分かった。流れ込んできた。
沈黙は、時として言葉より雄弁に何かを語ってしまうことがある。きっとそれと同じなのだ。理屈ではなく、香奈子は直感的にそう理解した。
その気がなかったとしても、強すぎる思念は相手に伝わる。
今、自分はその瞬間に立ち会ったのだ、と。
「――まあ、とにかくだ」
その声で、香奈子は一瞬の白昼夢から我に返った。
イメージの流出に気づいていないのか、バー公は目を細めて笑っている。
きっと、幻の女の子にもかつて同じような眼差しを向けていたのだろう。
「お前さんは会いたい人間に会う権利がある。だから、思うままにやってきな」
「どれくらい待ってれば良いの?」
「そうさな」一瞬、バー公は考え込むような仕草を見せた。「まあ、今日いっぱいだろう」
「よく分からないけど、よろしくね」
「ああ、こっちの不手際で起こった事故だ。上もフォローはしてくれるだろ。安心して楽しんできな」
楽しいばかりじゃ済まねえだろうが。
最後にぽつりと付け足されたその一言については、どう考えて良いのか良く分からなかった。
*
なんであれ、もちろん最初に行くべき――と言うより、帰るべき場所は自宅だった。
香奈子の父親が他界したのは、第一回目の飛行実験を敢行する数年前だったと聞いている。杉本家は以来の母子家庭を続けてきた。
ふたりぼっちの生活だったけれど、香奈子は寂しいと思ったことはない。きっと、母もそうだろう。
少なくとも先日まではそうだったはずだ。
「いま帰ったぞう」
幽霊の作法なんて知らない。バー公も特に言ってなかったから、気にしなくて良いに違いなかった。だから香奈子は、ドアをすり抜けると例のように声を張り上げた。
「腹減った。お母さん、ごはんー」
「パープリン娘、玄関で大きな声だすんじゃないよ。よそ様に迷惑だろ」
たぶんキッチンからだろう。いつもの怒鳴り声がほとんど反射的に返ってくる。
普段と違ったのは、しばらくの沈黙を挟んでドタドタと慌しい足音が近寄ってきたことだ。待っていると、予想通り母――浩子が血相を変えて飛んで来くる。少し遅れて現れた、よれよれのYシャツ姿は中村さんだ。
二人は玄関で香奈子の姿を確認するや、関節が外れそうなほど顎を落とした。
「やあ、ご両人。元気?」
「あんた、なんで……」
真っ青な顔で金魚みたいに口をぱくぱくさせたあと、母は瞬きもせずにそうつぶやいた。香奈子に向けられた右手の人差し指が、震度七くらい揺れている。
「なんかさ、私、幽霊になっちまったんだぁ」
その一言で時が凍りつく。
やがて、母は中村さんを巻き添えにその場でへたりこんだ。
*
自分が悪霊でないことを納得させ、細かい事情を説明するのは二時間がかりの大仕事だった。
その後、うやむやのうちに再会の場は夕食の席に移され、そこで香奈子は自分が五日前に死に、葬儀がもう終わったことや、愛用の身体が火葬されて骨だけになったことを知った。
小箱に入れられたカラカラの遺骨を見せられた時は、さすがにショックだったものだ。
自分が死んだことを一番強く実感した瞬間があるとすれば、たぶんこの時だったんだろう。
「――しかし、今でも信じられないよ。まさかこんなことがあるなんてね」
食後、居間のソファに深々と身体預けた中村さんがどこか遠くを見るような目でつぶやいた。
母は食事を終えると食器をキッチンに運んで行き、いつの間にかそのキッチンからも姿を消している。居間に残ったのは香奈子と中村さんの二人だけだった。
母がどこに行ったのかは分からない。
きっと誰もに、色々な種類の時間が必要なのだろう。
「いや、信じないぞ」
自分に言い聞かせるように中村さんは声を張り上げる。そして香奈子に視線を向けた。
「なあ、カナちゃん。言ってくれ。本当は全部ウソなんだろう?」
「だったら良いんだけど、残念ながら私が幽霊になったのは本当だよ。この通り浮いてるしね」
香奈子はふわふわして見せる。
「でも、カナちゃん」
「それよりさ」さえぎって言った。「私が死んだ時、お母さんどんなだった?」
「それは……」
中村さんは一瞬口ごもったけれど、やがて香奈子の方を見ずに教えてくれた。
「ずっと気丈に振舞ってたよ。人前では涙も見せなかった」
「そうなの?」
「うん」沈んだ表情で小さくうなずく。「葬儀の時さえ、普段どおりに見えたくらいだよ」
「お母さんなら、そうかもなあ」
香奈子のそのつぶやきは小さく部屋に響き、やがて夜のしじまに溶け込んでいった。
「でも、僕に言ってたよ。何でそこにいたのが自分じゃなかったんだろうって。伊織さんが――君のお父さんが亡くなった時、命がけで君を守るって誓ったのに、自分にはそれが果たせなかったって。自分は駄目な母親だって」
「そんなこと、全然ないのにね」
香奈子は微笑む。
母子家庭は楽ではない。母が人の倍の努力をして自分を育ててくれたことはずっと感じていた。
だから、そうして生かされている自分を安く見たこも、粗末に扱ったこともない。そのつもりで生きたし、そのつもりで死んだと香奈子は思っている。
でも、そんな風に納得できているのは自分だけなのかもしれない。ふと、そんな気がした。
「……私、ちょっとお母さんの様子見てくるね」
「ああ、それが良いよ」
中村さんははっきりと頷いて、背中を押してくれた。
「君がこうして戻ってきた理由があるとするなら、彼女ともう一度会うためなんじゃないかな」
「うん。私もそう思う」
香奈子は笑顔を返すと、壁を抜けて部屋の外に出た。
でも、やっぱり思い返して、上半身だけ居間に戻す。
「あのさ、中村さん」
「どうした?」驚くそぶりも見せず、中村さんは言った。
「お母さん、大丈夫だよね。ひとりぼっちじゃないしさ。中村さんがいるもんね」
「確かに僕がついてはいる。その意味では、ひとりじゃないかもしれない。だけど、カナちゃん。君の代わりになれるひとなんてこの世に誰もいないんだよ。それも確かなことだ」
「うん――」
しかし、予感があった。どうしようもないこともあるのだと。いかなる理由があろうと、どんなに理不尽だろうと、変えてはならないルールがあるのだと。
そして同じことを中村さんも心のどこかで感じ、覚悟しているのだ、と。
つかの間の沈黙がおとずれ、香奈子がそれを破った。
「ねえ、中村さん、ひとつお願いしていい?」
「なんだい」
「お母さんのこと、よろしくね」
中村さんは答えなかった。言葉につまったという様子でもない。ただ、長いこと香奈子を見つめていた。
そのままどれくらい経ってか、ようやく「ああ」とつぶやく声が聞こえた。
「でも、僕は君と家族になれることも楽しみにしていたんだよ」
「うん。私も」
改めて想像するまでもない。三人は良い家族になったはずだ。杉山家バージョン2だ。きっと、絶対にぎやかにやれただろう。香奈子にはその光景が、以前からはっきりと目に浮かんで見えていた。だからこそ、改めて思う。
「私、中村さんがお母さんと出会ってくれてよかった」
香奈子は笑顔で言った。自然に浮かべることができた表情だった。
「ありがとう、中村さん」
*
満天の星空と、真ん丸の月。
狭い2LDKの全室とベランダを訪れた後、ふわふわ外へ漂い出た香奈子を迎えてくれたのはそんな夜だった。
――あんたは、こんな日に生まれてきたんだよ。
いつか、同じような夜に聞かされた言葉が蘇る。
しばらく探し回った結果、その語りの主は団地の屋上で見つかった。月がとても明るかったせいで、遠くの背中でも見つけるのに苦労はない。風が後髪を優しくなびかせているのも分かる。香奈子は感じることができないけれど、きっとそれは生身の人間にとって、とても心地よい夜風なのだろう。
「いやあ、良い夜ですなあ」
後ろからふわふわ近づくと、香奈子は相手を驚かさないよう慎重に肩を並べた。
母はそんな娘をちらりと見たものの、またすぐに夜空へ視線を戻してしまう。その横顔からはどんな表情も読み取れない。
二人の間に静かな時が流れた。
「まったくねえ……」
ややあって、母がぽつりとこぼす。
「うん?」
「よもや、死んだ娘が幽霊になって帰ってくるたあね」
「びっくりした?」
「あんたが死んだと聞かされた時ほどじゃないさ」
「なるほど」香奈子は小さくうなずく。「そりゃそうだ」
「しかし、幽霊ってのは本当にいたんだねえ。あたしゃ、この歳までホラ話だとばかり思ってたよ」
「私もはじめて知ったよ。あ、それとね、天使もホントにいるんだよ」
「会ってきたような口ぶりだね」
たいして興味を抱いた風もなく母がたずねた。
「うん。でもね、なんか普通のおっちゃんだった。バーコードで羽もなかった」
「あんた、それ、だまされてるんじゃないかい?」
「え、そうかな」
その可能性は考えていなかった。言われてみれば、確かに大変怪しげな風体だったような気がする。
不安になったので、香奈子は羽のない天使とのやりとりを仔細もらさず話して聞かせた。
ただ、助けた相手のことと、頭の中に流れてきた例のイメージのことだけは避けた。特に後者は慎重に扱うべきことだ。たとえ肉親相手であろうと、ぺらぺらと吹聴して回って良いものだとは思えない。
幽霊でも、守らなければならないものはあるはずだった。
「――あんた、それ本物の天使だよ」
全てを語り終えた香奈子に、母は開口一番そう断言した。
「フランダースの犬で感涙にむせぶ人間に悪いのはいないからね。そのバーコードが自分を天使だって言ってたんなら、信じてもいいはずだよ」
「あ、それ」香奈子は手を打つ。「そのフランダースの犬ってなに。有名な話?」
「まあね。あんたみたいな若い子が犬と一緒に死んじまう話さ」
「ふうん」
「でもね、ああいうのは話の中だから感動できるんだよ。なにも実践するこたあないんだ」
それについては何も言えなかった。資格もない。
「まあ、あんたが私より早く人生にオチつけるようなことがあれば、こういうパターンだろうとは思ってたけどさ」
「ごめん。気づいたら勝手にやっちゃってた」
正直にそう言うと、隣から盛大なため息をつく音が聞こえた。
「――だと思ったよ」
「まさか、こんなことになるなんて思わなかったよ」
「ちったあ考えてから行動しろって、あれほど口をすっぱくして言ってあったのにそれかい。学習能力がないというか……本当、アホな子だねえ」
「ごめんよう」
それからまた、二人して夜景を眺める。
きっと母は、ここ数日のうちにこの景色を何度も見たのだろうと思う。誰の前でもそうだったからといって、一人の時も平静でいたとは限らない。
思えば、決して楽ではない環境下にいながら、母は一度も香奈子の前で顔をしかめたことがなかった。彼女は、辛いとも痛いとも決して口にしてこなかった。娘なのに、香奈子には母の寝顔を見た記憶がほとんどない。辛さや痛みがなかったわけではなく、眠らなかったわけもないのに。
「――あんたはそんな風にアホだから」
やわらかな声がした。
鉄の柵に頬杖をついて、母は遠くの町並みを見下ろしながら続ける。
「あたしが何をどれだけ言おうが、似た状況にもう一度置かれればきっと同じことをするんだろうねえ」
ふわふわ浮かぶ香奈子を見上げ、母はやわらかく目を細める。
「こりもせず、この世に生を受けるたび何度でも、さ」
聞かなくても答えが分かっている人の、それは質問ではなく確認だった。
「考える前に動いちゃうのはお母さん譲りだから、そこはしかたないんだぞう」
「そう、それは……確かにその通りさね」
「血はあらそえないものなんだよ」
お互いに微笑みあう。
「まあ、なんにせよ未来ある命を一個救ったんだ」
一息つくと、母は空気を変えるように明るくそう言い放った。
「こっちが死んじまったら差し引きゼロだけどね。仕方ないさ」
「うん」
「もちろん、親より先に逝くなんてとんでもない話だから、母としては褒めてやらん」
とはいえ、と言葉は続けられる。
「あんたは良くやった。現場にゃ沢山通行人がいたそうだけど、走ったのはあんただけだった。それは一番勇敢で、杉本家の女として恥ずかしくない行いだった。あたしゃ、それを誇りに思う」
思うことにしたよ。最後に、そんな囁きが添えられた。
怒鳴られたり叱責されたりするより、その小さな声は胸にこたえた。
「――うん」
「でも、やっぱり許さん」
母は香奈子に勢い良く顔を向けると、眉を吊り上げる。
「この大ばかパープリン娘が。一生、親不孝者ってののしってやる!」
「それは……まあ、仕方ないね」
「そうさ」母はまたプイと夜景に目を戻してしまう。「まったく、仕方のない子さ」
「ごめんね、お母さん」
「それであんた、いつまでここに居られるんだい」
夜風に髪をなびかせながら、母はどこか穏やかにも聞こえる口調で言った。
視線は遠く、キラキラした街並みに注がれている。
「どうなんだろう。今日中に処分が決まるって話だから、実はそろそろ結果を聞きに行かなきゃいけないんだけど」
「まあ、あれだよ。案外、こっちでやっていけるんじゃないかい?」
返事をする間を与えず、母はすぐに自ら続けた。
「幽霊がいるくらいだから、やっぱり天国とかも本当にあるんだろうけどさ。こっちに居ても問題なさそうだし、無理して行くこたあないだろう」
「そうかもしれないけど、でも、どんなとこなんだろうね。天国」
「さあね。ただ、もしも」
「なに?」
「まあ、万が一の話なんだけどね。もし、仮にだよ? どうしてもそっちに行かなきゃいけないようなことになった場合は――」
一旦言葉を区切って、母はちらりと香奈子を見た。
「それで、もし困ったことがあったときは、杉本伊織って人を探しな。きっと、どこかにいるだろうからね。ちょっと頼りなく見えるかもしれないけど、何も聞かずにあんたを助けてくれるはずだよ」
「うん」
「なにせ極楽なんだからね、美味いもんもそりゃたくさんあるんだろうけどさ。だけどあんた、あたしが見てないからってお菓子ばっかり食ってんじゃないよ。例のなんたら棒とかね。あんたは調子に乗るといつまでもサクサクやってるような子だから」
「気をつけます」
「本人は分からないと思って油断してるかもしれないけどね。美人薄命っていって、あたしみたいなのは長生きできないようになってんだ。いずれそっちに行くことになるんだから、悪事はすぐバレちまうんだよ」
「分かってるよう」
「あれだったら、毎日メシ作って供えてやるから、見張りの目チョロまかして食いに来な」
香奈子はだまって首を縦にふった。なにか言葉で返そうと思ったけれど、結局うなずくことしかできなかった。
何度もうなずいて、そして急いで上を向く。
なぜだか突然、とても人様には見せられない顔になってしまっていた。きっと、ぼろぼろのぐちゃぐちゃに違いなかった。声がこぼれてしまわなかったのが不思議なくらいに。
「いくら居心地良い場所でもダラダラすんじゃないよ。特にあれ、あんた楽だからってスカートの下にジャージィとかはきたがるだろ。あれは端から見るとみっともないんだからやめときな。もちろん格好だけじゃなくて、日ごろの行いにも気をつけてしゃんとすんだよ。これ、一番肝心なんだからね。女ってのは――」
「タフで優しくないと一人前とは言えない、でしょ。ちゃんと覚えてるよ。いっつもガミガミ言われてたんだから」
声が震えないよう一気に言うと、香奈子は微笑みながら母の横顔にそっと目を向けた。
「でも、ありがとね。お母さん」
すごく、ありがとう。
「分かってるなら……それで良いんだよ」
それきり、会話は途切れた。
香奈子と母はお互いを視界から外して、それぞれに夜空を見上げた。
一通り言葉を交わし合ったあとは、そこに流れる沈黙に浸る。受け取った相手の気持ちを汲み取り、消化していく時とする。
それが杉本家一流のコミュニケーション形態だった。
今度の沈黙はこれまでより少し長めに続くかもしれないけれど、それでも一家の間に流れる空気はきっといつまでも変わらないだろう。
自分の一部にしてきた家族たちの意思と一緒に、たとえ距離を隔てても、住む世界を違えても、いつも杉本ファミリィの一員として恥ずかしくないようやっていく。
人間でも幽霊でも、ずっと。
沈黙は不安じゃない。
だから、きっとこれからも大丈夫に決まってる。
――そろそろ、いくね。
女の意地で、香奈子も母も夜空に向けたまま顔を動かさない。
満天の星空と、真ん丸の月。
こんな夜に、はじめて彼女と出会った。はじめて顔を見せあって、抱きしめてもらった。
絶対に忘れることはない。
香奈子は微笑んで、ゆっくりとその場を離れていった。
*
最後に行くべき場所は、最初から決めていた。
タフで優しい杉本家の幽霊であるために、自分がいまできること。残念ながら、それはあまり多くない。でも、香奈子は少ないその中から、大切なひとつを見つけたつもりだった。
だから母も中村さんも、きっと許してくれるだろう。
目的の場所は、名前も知らなかった町の丸っきり他人の家だったけれど、それを簡単に見つけられたのには理由がある。
小さな一軒家の二階、薄桃色のカーテンの揺れる部屋。
あの時、受け取ったイメージを頭の中で再現するだけで、香奈子はもうそこにいた。
あとは簡単である。
天井付近から見下ろした部屋は、明らかに年頃の女の子の部屋だった。
実際、室内には香奈子くらいの女の子がいて、机に向かってノートを広げている。
一目で探していた彼女だと分かった。
考えることが苦手な人間なりに考えた末、香奈子が得た結論はすなわち正攻法だった。
うまくやろうだとか、失敗しないように、なんて策を凝らしてみても成功しそうな気がしない。むしろ裏目に出るに決まっている。
だから、香奈子は真っ向から近づき、真っ向からの接触を試みた。
「こんばんは。私、杉本香奈子っていうんですけど」
なるべく陽気に言葉をかけてみたものの、ちょっと効果的だったとは言いがたい。
無理もない話である。天井から声が降ってきたのだ。当然、少女はその声にびくっと身体を震わせて、香奈子の姿を見た。その顔が、見る間に帰宅した時の母と中村さんそっくりに変わっていく。あるいは、バトルラッシュを知らないと言った時の羽なし天使そっくりに。
それでも、状況を考えれば悲鳴を上げられなかったのは幸運だったんだろう。
第一声として至極適切な「誰?」という誰何を受け、香奈子はできるだけ礼儀正しく名乗りなおした。ふわふわ浮いているのは幽霊みたいな存在だからだ、と付け加える。
そして、念のために相手の名前を確認した。
「突然、すみませんなあ。信じられないかもしれないけど、私、ちょっと前に交通事故で死じゃったらしいのです。だからこうして幽霊になった次第なんですけど」
その言葉に、顔面蒼白の少女はぴくりと身体を震わせた。
「でも怖くないよ」急いで言い添える。「ふわふわ浮くしかできない、キャスパーと同じくらいの良い幽霊だから」
用事が終わればすぐに帰るから、と繰り返し説明する。
結局、女の子は「大きな声を出さないで」「逃げないで」「除霊しないで」という三つの願いを、わりと大人しく聞き入れてくれた。
おそらくは、固まって動かなくなった彼女からなるべく距離をとって、うまい棒やスヌーピィグッズについての薀蓄を小一時間聞かせたのが功を奏したのだろう。
でも、一番効いたのは、香奈子にも父親がいないという打ち明け話だったはずだ。
「――でね、用事っていうのが何なのかって言うと、羽なし天使からのメッセージを伝えること」
ちょっとだけ緊張がとけたのを見計らって香奈子は言った。
とはいえ、本当のところあまり悠長にやっているような時間的余裕はない。
いつごろからだろう。たぶん、母と言葉を交わしている最中のことだった。最初に、残された時間がもう少ないことに気が付いたのは。
それは自分の処遇が決まったことを知ってしまった瞬間でもあった。
はじめから分かっていて、ある程度の覚悟を決めていたことではあったけれど、やはりショックでなかったと言えばうそになる。
とはいえ、それは女の子にはなんの関係もないことだった。自分の焦りを少しでも見せてしまえば、逆に彼女の態度を硬化させてしまうことになるかもしれない。だから、香奈子は努めて明るく振舞うようにしていた。
「まあ、本当いうと、伝言っていうほどはっきりお願いされたわけじゃないんだ。でも、君のお父さんが伝えたがってたことを預かってるのはうそじゃないよ。だから、私はそれを渡しに来たのです」
それでも警戒を緩めきってはいない女の子は、瞬きもせずに香奈子を見つめ返す。そうして穴が開くほど香奈子を凝視し続けた末、ようやく小声で
「信じられない」
と、囁いた。
「本当だぞう」
「だって、お父さんはもうずっと前に死んじゃったのに」
「私も幽霊だもん。だから、仲間同士で会話できるんだよ」
「でも……だったら、どうしてお父さんが自分で来ないの」
言葉につまる質問だった。
実際のところ、あの羽のない天使がなぜ娘に直接会いにいけないのかは、香奈子にもくわしく分からない。しかし、なにか大きな理由があるに決まっていた。絶対にそうなのだ。理屈ではないなにかで、そう強く感じたのだから間違いない。
そうでなかったら、あんな風に――何年も何年も、思わず他人に漏れ伝わってしまうほど強く家族のことを思ってなどいられないものだ。
だけど、彼はいつも思っていた。もう二度と会えないからこそ、あんなにも。今の香奈子には、それが良く分かる。
「あのね、君のお父さんがどうして自分の子供のところに直接来れないのかは、実を言うと私にもよく分からないんだ」
上手な作り話なんてできる頭じゃない。正直に言うことにした。
一生懸命、本当のことを伝えればきっと通じると思った。
「たぶん、君のお父さんは私みたいな適当な幽霊とは違って、ちゃんとした立場の人なんじゃないかな。だって、私に会いに来た時も、なんかそれが仕事なんだ――みたいなこと言ってたから。きっと責任とか規則とか、家族と会うのが禁止されてたり、生きてる人とは会話できる能力かなかったり、そういう縛りが色々あるんだよ」
「そんな縛りなんかない」
女の子はきっと眉を吊り上げて香奈子に言った。それは、目の前の幽霊に抱いていた恐怖なんて、とっくに忘れてしまったかのような口ぶりだった。
「お父さんはもういないんだから。もし心が残ってたとしても、私の顔を見たいなんて絶対思ってるはずない」
「そんなことないよ。君のお父さんは――」
「うそ」
声を荒げて、少女は香奈子の言葉をさえぎる。
「本当だよ」
香奈子は少し間を置いて、落ち着いた調子で言った。
「本当にお父さん、君がピアノやめちゃったのを悲しんでたよ」
その言葉に、女の子ははっと顔を上げた。
「私、分かったよ。頭の中、君とのことでいっぱいだった。ずっと大切な思い出だよ」
「そんなの……うそ……」
女の子が消えそうな声で言う。
香奈子が見たあのイメージが真実を語っていたなら、女の子は父親の影響でピアノをはじめた。まんぞくに言葉を覚える前から、その小さな手で鍵盤を叩くようになった。父親はときどき厳しかったけれど、でも教え上手なやさしい先生だった。女の子もがんばったから、発表会で他の子の親からも賞賛の拍手をもらえるほどに成長した。
でも、ふたりの時間はあまり長くは続かなかった。
「――お父さん、約束守ってくれなかったんだね。ピアノ教室でやる小さな発表会じゃなくて、六歳になって初めて出られるようになった、最初の大きなコンクール。ずっとむかしからの約束だったのに、君のお父さんは来てくれなかった」
香奈子はできるだけ優しい声で続けた。
「その発表会、君はがんばったけど散々だった。だから、お父さんはとても悲しんでる」
女の子は顔を伏せてじっと何かに耐えるようにしていた。握った拳の震えは、ゆっくりとだけれど確実に全身へ広がりつつある。
「でも、悲しかったのは君が失敗したからじゃないよ。そのことで君がピアノをやめちゃったから。ピアノもお父さんのことも、みんな大嫌いだと思いこんじゃったから。そのまま考えるのをやめて、ずっと元気がないから」
女の子が驚いたようにまた顔を上げたのを見て、香奈子は笑顔を返した。
そしてふわふわ壁に浮かび寄っていく。
「君のお父さん、発表会見てたよ。君は悲しくてうまく弾けなかったけど、がんばった。お父さんはそれを天国中に自慢して回ったよ」
「――うそ!」
その言葉は、香奈子が聞いた女の子の一番大きな声で放たれた。
それで、もう大丈夫だと分かった。
「本当に……本当に、お父さん、私のことがっかりしなかったの」
「幽霊はウソ言わないぞう」
突然消えて彼女を怖がらせたくない。言いながら、壁をすり抜けて身体の半分を外に出した。
「ねえ、お父さん、今もどこかにいるの? 私は会えないの」
「会えなくたって、思ってることは伝わるよ。もう分かったでしょう」
身体じゅうに広がる倦怠感と自身に対する違和感はどんどん強くなりつつある。一度意識したら、あとは坂を転げ落ちる石ころみたいなものだった。少し前から、トンネルの中みたいに自分の声が木霊して聞こえはじめていた。視界からは色彩や鮮明さが急速に失われつつある。
「でも、どうしたら良いか……分からない。どうすれば良いの」
「そうだねえ」
音楽のことは良く知らなかったけれど、香奈子はソフトボールになら詳しかった。
小学生のころ男子に混じってはじめたリトルリーグでは、三年生のころから四番を打ち、ショートを守るようになった。中学でも、高校でもずっと主砲と呼ばれてきた。
目の前の女の子に父親という先生がいたのと同じく、香奈子にもソフトボールをはじめるきっかけをくれた人物がいる。それが、リトルリーグ監督をしていたよぼよぼの老人だった。ヤギみたいな白いヒゲをたくわえていたので、みんなにヤギ先生とかヤギ監督と呼ばれていた。
そのヤギ監督が亡くなったのは、香奈子が中学二年生のときだった。
もちろん、訃報を聞いた香奈子は落ち込んだ。気力がごっそり無くなった。
でも、監督に教えてもらったことが消えてなくなったわけではない。それらは全て香奈子の一部となって、もう切り離せなくなっている。だから、ソフトをやめようとは思わなかった。
それに母にかけられた言葉がある。
あんたはこれから、ヤギ監督に教えてもらったことを武器にして打ちまくりな。来るボールはみんなかっ飛ばして、あんたとヤギ監督のコンビは最強なんだって世界にみんなに教えてやんな。
香奈子はまたグリップを握った。
そしてフェンスの向こうまで白球を飛ばす度、ふたりぶん胸を張ってダイヤモンドを回った。
――同じことが、ピアノでできないはずがない。
「ヤギ監督は凄いんだぞってアピールするためには、私がバカスカ打つのが一番良いんだと思った。お父さんを自慢するために、君ができることはなに? ふたりのコンビは最高なんだって、自分とみんなに証明していく方法を考えれば良いんだよ。きっと」
表情を大きく変えはじめた女の子に、香奈子は微笑みかける。
「本当は聞かなくても分かってるはずだぞう」
それだけ言うと、じゃあねと手を振って壁を潜った。
慌てた様子で内側から窓が開かれる。
でも、ここからは幽霊の領分じゃない。あとは彼女たちがどう考えて、どうしていくか。それは残酷で身勝手かもしれないけれど、時間と命を持つ人々が自分の力で取り組むことだと思った。
だから香奈子は、背中にかかる「待って」という声を振り切って、真っ直ぐ夜空を目指す。
下を見ずに飛び続け、速度を上げながら雲の海を突き抜けた。
今まで出会ってきた人々の顔を浮かべながら、彼らから得たものを確認しながら。さようならと、ありがとうを繰り返しながら、のぼった。
空にはたくさんの星が散りばめられていて、真ん丸い月が明るく輝いていたはずなのに、今の香奈子にはその光がもうほとんど感じられない。自分がどこに向かうべきなのかも分からないまま、ぼんやりとかすんで見える月へ真っ直ぐ向かっていく。
これから自分を待つ結末を思うと正直なところ、怖くてたまらなかった。それでも、幽霊になって自分のしてきたことには誇りを感じることができた。
その時を胸を張って迎えられると思った。
*
それからどれくらい昇り続けただろう。
よう、とかけられた声で香奈子は止まった。
「すまんな、嬢ちゃん」
声が続ける。
どこかで予想していた通り、そこにバーコードの天使はいた。月の光を浴びながら静かに香奈子を待っていた。もうその姿を視覚として捉えることはできないけれど、雰囲気とただよってくる気配でそれは確かに分かった。
「まだ一日も経っちゃいないんだが、なんだか久しぶりのような気がするな」
天使の声がいう。
同じことは香奈子も感じていた。でもそのことは口に出さず、代わりに「決まったんだね」と短くたずねた。
「ああ。もう気づいてるだろうが、時間切れなんだ」
「うん」
「温情ある裁定をとかけ合ってみたんだがな。駄目だった。お前さんを生き返らせることはできない。嬢ちゃんはこれから無に還る」
「おじさんが悪いんじゃないよ」
いつしか無視できなくなった息苦しさを押し隠しながら言う。
「ホントは最初からちょっと分かってたんだ。不運で死んじゃうのは私だけじゃないもんね。なにも悪くないのに、生まれてすぐ死んじゃう天使みたいな赤ちゃんだっていっぱいいるし。誤解とか何かの間違いとかで死んじゃうひともたくさんもいる。消えるのは怖いけど、でも私だけ特別扱いはできないよ」
そう考えると、自分は思わぬ幸運を掴んでいたのだと思えてくる。
不意の事故で、なにが起こったのかを理解するより早く死んでしまうひとは多い。自分も本来はそうだったはずなのだ。でも香奈子は、こうして家族に会い、色んなひとたちに見送られ、自分を持ったまま最後を迎えられる。
どんな風に別れを迎えるかはとても大切なことだ。幸福な気持ちの中でそのときを受け入れられる自分は、とても幸せなのだと感じた。
「申し訳ない」
気配で、羽のない天使が頭を下げたのが分かった。
「……それから、ありがとうな」
香奈子は微笑んで返す。
「私、ウソついちゃった。おじさんの気持ち、想像で勝手に喋っちゃった」
「嬢ちゃん、お節介なやつだって言われるだろう」
「うん。よく言われる」
一度出そうとしたその言葉は喉につかえてしまい、まともに口から出すまでにはさらに二度の言い直しが必要だった。取りつくろうように香奈子は続ける。
「アホな子のくせに、ひとのことばっかり世話したがるって。お母さんが、良く言ってた」
「さもあらん」
羽のない天使は唇をゆがめるように笑った。頭に直接、彼がそのイメージを送ってくれたような感覚だった。
「――確かに、嬢ちゃんは想像でしゃべったかもしれない。でも、結果としてありゃウソじゃないんだ。死んだ後も無に帰することなく意識を保っていられるのは、職務上の特権ってやつがあるからでな。だから、もちろんのこと代償としての制約もある。生身の人間に接触しちゃならねえってのもそのひとつだ。手前の家族とは特にだ。破れば俺自身はもちろん、その家族まで巻き添え食って処分される」
「うん。そんな感じだと思ってた」
「それに、俺はあの日、確かに我が子を自慢に思った。父親が死んじまってひと月と経たないのに、六歳になったばかりだったあの子は、目を真赤にしながら、それでも胸を張ってステージに歩いていった。上手くなんか弾けなくたっていい。向かって行ったことに意味があるんだ」
「そう。じゃあ、余計なことじゃなかった?」
「最初はまさに、余計なことをと思って腹も立てたけどな。まあ、記憶を漏らしちまった俺がそもそも迂闊だったんだ。責められないさ。なにより、俺にはどうしてもできなかったことをお前さんはやってくれた」
天使は言った。
「今は心から感謝している。ありがとう」
「……なら、良かった」
口にしながら、香奈子はその時が来たことを知った。
もう、何も見えない。なにも感じない。
だけど神様、もう少しだけ良いですか。念じながら言った。
「ね、おじさん」
何とか、声は出た。
「うん?」
「お別れだね」
「ああ」
次が最後になる。それが分かったから、香奈子は相応しい言葉を選んだ。
震えませんように。かすれませんように。そう祈って。
「……ピアノ、また聴けたらいいね」
満天の星空。真ん丸い月。
こんな夜に生まれてきた香奈子は、そう言い残して消えていった。
自分の願いが、もう現実になりかけていることを知りながら。
幽霊の飛び去っていった星空を見上げてひとしきり泣いた女の子は、やがて頬をぬぐうと、埃を被ったピアノへ風みたいに駆けていったに違いない。
そして上に置かれていた小物の群れを払い落として、蓋を開く。
鍵盤に置かれた手は、あの発表会の時のように震えていたことだろう。滲んだ視界に、楽譜はまともに映らなかったはずだ。
だけど、大丈夫に決まっている。
上手く弾けなくたっていい。そうしたことに意味がある。
満天の星空。真ん丸い月。
なぜなら遠く響きはじめたそれは、長くやんでいた、でも確かなピアノの調べだった。
Fin.