本書は原稿用紙20枚という文字数制限のもと制作された

 ポケットから出した右手は、かすかに震えていた。
 その手でドアを押し開ける。店内に入ると、いつもの場所へ真っすぐ向かった。カウンター席、その一番奥である。
 薄汚れた外套を羽織ったまま、固めの椅子に腰を落とした。
「アーリィタイムズをください」
 いつもと同じ言葉を繰り返す。すぐに店主がボトルとグラスを運んできた。無言で注文の品を置き、無言で立ち去っていく。
 小刻みに揺れる指先で酒瓶を握り、最初の一杯をグラスに注いだ。震えのせいで上手くつげない。飛沫が数滴、カウンターにはね散った。
 グラスを傾ける。液体が喉を流れていく感覚。アルコールがもたらす灼熱感に似たものは、すこし遅れてやってきた。
 それが合図だった。通り雨が過ぎ去ったように震えが止まる。まともな人間にもどる。

「――そういう現象、本当にあるのね」
 二杯目を流し込み、グラスを置いた時だった。
 馴染みのない芳香が周囲に漂い、その声が聞こえてきた。
「飲んでいないときは酔ってるようで、飲みはじめると素面みたいになる」
 匂いが強まった。甘雨に湿った熱帯の花を思わせる匂い。同時に、右隣の椅子が微かな軋み音をたてる。
「私、自転車に乗れないの」
 彼女は突然、そう言った。
「たぶん乗れないはずよ。一度も乗ったことがないから。でも一度乗り方を覚えると、たとえ三〇年経ったって忘れることはないんでしょう?」
 三度グラスを満たし、波紋が消えていくのを無言で眺めた。それから静かに首をひねる。
 若い女がいた。多くの男が夢に見るような女だった。
「それは僕に対する質問ですか」
「ええ」
 グラスの外側に映る彼女を見ながら、知らないと答えた。
「僕も自転車に乗ったことがない。所有したことがない」
 彼女は柔らかく目を細めて聞いていた。やがて口を開く。
「あなたの部屋、ここから遠いの?」 
「遠くも近くもないですね。それが、何かあなたに関係あるんですか」
「関係はつくるものよ」
 二度にわけてグラスの中身を飲み干した。深く、時間をかけて息をつく。沈黙が訪れ、ささやき声ほどに音量のしぼられたBGMが耳に入ってきた。ピアノとドラムス、テナーサックスによる落ち着いた旋律だった。
「――ねえ、私に興味はないの?」
 グラスの中の氷がとけて硬質な音をたてた時、右隣から声が聞こえてきた。
「ありません」そちらを見ずに答える。「あなたは見ず知らずの人間に良く興味を抱くんですか」
 その言葉に、彼女は嫣然と笑んだ。
「ええ、良く」


瓦礫の森を哀れむように


 1

 遠くから誰かに何かを問われたような気がして、目を開いた。
 寝台で横になっていたのではない。居間である。三人がけのソファの上だった。
「起きた?」
 首を横にひねると、すらりとした白い脚が目に入った。視線を上方にスライドさせていくと、若い娘の相貌と突き出されたトレイが見える。トレイにはティセットがのっていた。
「朝食もできてるのよ。食べるでしょう」
 受けとったカップを傾け、十分に間をとってから答えた。
「エネルギィの補給としては、ウイスキィを一杯飲むほうが効率がいい」
 途端、彼女が眉間に小さなしわを寄せた。
「前から気になってたんだけど、あなたって食事を単なる栄養摂取だと思ってない?」
「そういう認識があっても、僕は特に不自然を感じないな」 
「それって作った人間に対して失礼よ。もしかして、昨日の朝ご飯の献立も覚えてなかったりするんじゃない?」
 もう一度カップを傾けてから、質問に答えた。カフェインの効果で発声に明瞭さがもどっている。
「スクランブルド・エッグズと、シリアルにヨーグルトを添えたもの。細かくしたバナナが入っていた」
「じゃあ、その前の朝食は?」
「米と味噌汁。トマト。塩と胡椒で味付けしたキャベツ。ちなみにその前、さらにその前の朝食もウイスキィだった」
 彼女は押し黙った。珍獣を見るような目つきをしている。
「こっちからもそろそろ訊かせてほしい。朝食も珈琲も僕が頼んだことじゃない。君はいつまで――そもそも、何ためにこんなことをするんだろう?」
 言ってから、立ちあがってキッチンに向かった。カップをシンクに置き、蛇口をひねって顔を洗う。大雑把に歯も磨いた。
「これ、何だか分かる?」
 タオルで口元を拭っている時だった。
 声に応じて視線をよこすと、彼女が右手を突き出していた。棒状の長方形を握っている。巨大なチョコバーのようにも見えた。
 受け取り、自分のてのひらの中で転がす。重量、サイズ、包装。一瞬、無意識に手の動きが止まった。
「――君、これどうしたの?」
「先に私の質問に答えて」彼女が遮るように言った。
「包装の表示どおりなら、混合爆薬だね」
 その言葉にも、娘は表情をまったく変えなかった。瞬きもせず真っすぐに見つめ返してくる。
「具体的には、どんな?」
「爆轟っていう反応を引き起こすものだよ。コンポジションのBシリーズ。その中でもワックスを一番多く使っているタイプみたいだね」
 炸薬といって、砲弾やミサイルなどに詰められることが多いものだ、と説明をつけ加えた。爆発すると衝撃波が生じて辺りが滅茶苦茶になる。
「危険なもの?」
「食べたら危険だよ。でも、ライターを近づけても爆発はしない。ガスの元栓をしめずに出かける方がリスキィだろうね」
「威力はどれくらいあるの」
「それはね、だいたい幅五cm、高さはその半分、長さを二八cmにして固めてあるみたいだ」
 あごで物を指しながら言葉をつぐ。
「多分、軍の標準的なまとめ方に準拠したんだね。重さは五〇〇gよりちょっと重いくらいだと思う。このアパートは鉄筋コンクリートの四階建てだけど――うまく使えば、その爆薬の半分で瓦礫の山にできるよ」
「仕事で使ったことがある?」
「いや、ない。国内の発破で使うようなものじゃない」
 彼女の横をすり抜け、ダイニングの食卓についた。すでに彼女の作った朝食が並べられている。
「あなたは昔、爆破施工を専門にしていた。それが生業だった」
 追ってきた娘が向かいの椅子を引いた。流れるような動作で腰を落とす。それからまた口を開いた。
「高校卒業後、あなたは単身アメリカに渡って、当時の日本では珍しかった制御発破工法を習得した。そうでしょう?」
 一九八四年に帰国し <中部産業化薬社> に入社。八六年には「つくば'85」国連平和館爆破解体プロジェクトにも参加している。以後、同社発破事業部主任として長く務めた。
 他人の半生を、彼女は自分のそれのように朗々と語っていく。
「九五年、春池発電所における屋内貯炭場解体を最後に一線を退き、以後は後進の指導に当たった。九八年、胃がんに伏した妻の介護のため、三二の若さで退社。翌年、その妻が亡くなって以降の消息は不明」
 彼女の声を聞きながら、トーストにバターを塗った。ひと口かじる。それからフォークでトマトとレタスを同時に串刺しにし、口内へ放り込んだ。
「よく調べたね」
 フォークを置き、グラスに牛乳を注いだ。一息にあおる。
「で、僕に何をやらせるつもりなのかな」
「なんで、私があなたに何かをやらせるつもりだと思うの」
「君は三日前、店からみた僕の部屋の距離を訊いた。でも本当は聞く必要なんてなかったんだ。事前の身辺調査で把握済みだったろうからね。 <部屋> という断定的な表現もそこに由来してる。相手がアパート住まいであると知ってたんだ。
 さらには、同じ重さの金塊より入手が難しい軍用爆薬をチョコバーみたいに振り回して見せる。これ以上のアピールはない」
「アル中の一歩手前にしては頭が回るみたいね」
 彼女は卓上に右ひじを置き、頬をてのひらで支えた。薄桃色の唇がゆるやかなカーブを描く。優しく目が細められた。
「――橋を爆破してほしいの」
「橋?」
「県境にある音羽峠に小さな渓谷があって、下に川が流れてる。そこに架かってる古橋。新しい橋が開通して、冬に取り壊しが決まってるやつなの」
「じゃあ、冬まで待てばいい」
「いえ。指定した時間に、指定した箇所のみを確実に崩壊させたいの。乗用車を二台、巻き添えにして」


 
 2

 久しぶりの運転を楽しみながら峠を走っていた。
 しばらくすると、木々の狭間に渓谷と灰色の橋がチラつきはじめる。遮蔽物が途切れたのを見計らい、サイドブレーキを引いた。
 コンクリート製カンチ・レバー桁橋。
 渓谷にコンクリートの柱――すなわち橋脚を立て、そこに巨大な板チョコを置いたような単純な構造である。
 タイヤのロックを解除し、アクセルを踏んだ。今度は橋を直接的に往復する。メーターを注視しつつ、大雑把にスパンを確かめた。
 それからは路肩に車を止め、徒歩に切替えた。用意してきたメジャーで幾つかのポイントを数値的に把握していく。
 渓谷を下り、見上げるようなアングルからも必要箇所を確認した。全行程を通し、旧式のカメラを構えシャッターを何度か切った。

 帰宅したのは丑三つ時といわれる時間帯だった。
 靴を脱ぎ、外套を放り投げ、闇の中を手探りで寝室に向かう。毎日のように繰り返してきたことである。目をつぶってでも移動に困難はない。
 だが、酔っていたのも事実である。
 結局は、寝台に倒れこむまで自分の誤りに気付かなかった。
 柔らかな感触。他人の体温。
 息を呑むような気配が間近に伝わった。
「――申し訳ない。部屋を間違えた」
 言葉と同時に寝台の隅まで移動した。彼女に背を向け、両足を床につく。
「待って」
 衣擦れの音がして、ベッドサイドに光がともった。
「どこに行ってたの」
「橋を見てきた」
 言いながら身体の向きを変えた。視界の端に彼女の姿を入れる。
「引き受けてもらえるの?」
「いや」
「じゃあ、なんで橋を見にいったの」
「壊したがる人間の気持ちが分かるかもしれない」
「……そう」と彼女はつぶやき、一拍置いた。
「で、何か分かった?」
 無言で身体の向きを元に戻した。
 沈黙が下りる。
 立ち上がろうと膝に力を入れかけた瞬間、再び彼女の声がした。
「私ね、一七歳のときまで社長令嬢だったの」
 とはいえ、板金工場ひとつの零細企業だけどね。そんな言葉とともに、彼女が自嘲的な笑みを浮かべたのを背に感じる。
「で、その社員四人の工場ね、九〇年代に入って傾きはじめたの。資金繰りに困るようになって、仕事が減って、しまいには私も社員みたいに働いたくらい。裏方だったけど……母がいなかったから、家事は全部やったのよ」
 炊事はもちろん、簡単な事務処理、泊り込んで働く社員の下着まで洗う毎日だったという。
「一番キレイな時期なのにね。もう手の指なんか四〇のオバさんみたいにボロボロ。どうせ忙しくて休みがちだったけど、そうじゃなくても学校なんていけなかった」
 それでありながら、工場はあっけなく潰れたらしい。多額の負債を抱えて。
「いわゆる多重債務ってやつ。父がお金を借りて回った相手は、銀行なんて健全な所ばかりじゃなくてね。だから取立ては苛烈だった。――で、なにが起こったかというと人身売買。私は男からするとそこそこ見栄えする容姿だったみたいだから」
 信じられる? 彼女は半ば笑いながら言った。今どきドラマでもやらないような話が、でも本当にあるの。
「人権なんて幻想よね。唯一与えられた選択権は、客をとって商売をするか、幹部のイロになるかだった」
 彼女は後者を選んだのだという。
「イロ、というのは?」
「そうね。なんていうのかな。情婦? 愛人とか。分かる?」
 しばらく吟味したあと、語意は理解した、と返した。
「――そう。でね、私は一〇年かけて彼らに満足してもらったの。結果、最近になってやっと自由を得た」
 だけど、もう二度と前みたいには戻れないのよ。
 空虚な声が言った。
 父にも会ってない。帰る所もない。莫迦みたいな話。
「人間性ってね、玩具みたいに扱われていくうちに死んでいくの。本当に玩具の人形になる。私も今じゃ、もうからっぽ。だからかどうか知らないけど、時々なにもかもを壊してしまいたくなる」
 その言葉を最後に、夜本来の静けさが戻った。
 再び膝に力をいれ、そのまま立ち上がる。
「あの橋は、二箇所に爆発物をしかければ崩壊させられるよ」
「そう」
 その声には歓喜も絶望もなかった。
 振り返って彼女を見る。
「橋と一緒に落ちていく車には誰が乗ってるの?」
「人形の持ち主だった男たちよ」

 
 3

 図面、成形爆薬、工業雷管、導火管付雷管および電気雷管。i-det、送受信機とスクランブラ、振動計測装置、検流計、検尺棒、M2プライヤーなどはもちろん、ボロ布やビニルテープに至るまで娘は必要品を全て揃え、信用のおける作業員をも希望通りに寄越した。
 どこからどのように調達したかは問わなかった。彼女もまた自ら話そうとはしなかった。
 
 ――かかった準備期間は半月足らずだった。

 
 4

「爆弾の量、なんだか少ないのね」
 橋の上に立ち、現場を物珍しそうに見回しながら娘が言った。
 実際に設置された爆弾が見えているわけではない。すでに日は落ちている。周囲に張られた飛散防護ネットやフェンスさえ、闇に溶け込んで視認することは難しい。
「車で体当たりしなくても、両足を軽く払ってやるだけで人間は簡単に転ぶ。橋も同じなんだ。支えの部分を最小限破壊すれば、あとは勝手に落ちていく。問題は――」
「半年も前から通行止めになってる所よ。今じゃ、ブーブーでレースごっこやってる大きなお友だちが遊び場にしてるくらい」
「あるいは、後ろ暗い人間が非合法取引の場所にする程度?」
「そう」彼女がくすりと笑う。「その程度」
「じゃあ、これを渡しておく」
 ポケットを探り、リモコンを取り出した。白い手がそれを受けとる。
「結線は終わってる。電源とコード入力を有効にして実行ボタン。それで橋の後ろ半分だけが落ちる」
「ありがとう」彼女が微笑んだ。
「十分に離れて、安全を確認した上で――」
 言いかけた時、正面方向から車のヘッドライトが近づいてきた。彼女の獲物は背後から来るはずである。
「心配しないで。ゲストよ」彼女が落ち着いた口調で言った。
「橋と一緒に落ちてもらう奴らの取引相手。彼らには話を通して、協力をとりつけてある」
 車は橋にさしかかり、半ばほど進んで停まった。娘が至近距離から浴びせられるライトに目を細める。
 エンジン音とライトをそのままに、黒塗りのドアが開いた。スーツ姿の男が二人おり立ち、娘に歩み寄っていく。
「首尾は」片割れが低い声で問いかけた。
「ええ」
 娘が手の中の物を見せる。
 ふと、背後から複数の排気音が微かに聞こえてきた。峠特有の木霊である。響きからいって、まだ五分程度の距離があった。

「君、知ってる?」
 ポケットに右手を突っ込みながら娘に声をかけた。
「そこの二人は近づいてくる車と一緒に、僕も始末するつもりだ」
 その言葉がもたらした反応は劇的だった。
 彼女は目を大きく見開き、跳ねるように後ろをうかがう。スーツたちは薄い微笑でその凝視を受け止めた。
「そのリモコンを受けとった後、彼らは僕をこの場に釘付けにする。そして後ろの車が橋に乗った瞬間、スイッチを押す」
 娘はその言葉に一瞬こちらを向き、そして再びスーツたちを睨みつけた。鋭く問う。
「彼の言ってることは本当なの?」
「小聡い酔っ払いだな」
 スーツの片割れが唇の端を吊り上げ、娘を見つめ返す。
「お前の色仕掛けは通用しなかったらしいぞ」
「彼女の演技力だけの問題じゃありませんよ。この計画のために集められた物は、個人で揃えられる域を超えている。つまり、彼女と組織との関係はまだ切れていないんだ。糸で繋がれてる。それがどこに伸びてるかは自明の理でしょう」
 月明かりのせいか、彼女の顔が蒼白に見えた。
 瞬きを忘れたかのように、こちらを見つめ続けている。
「……知ってたの」
 やがて、搾り出すような声が聞こえた。
「君は、誰かに命じられて僕に接近した。後ろからこっちに来てる連中は、対抗組織の幹部ってところかな。特攻や狙撃じゃ仕留められない相手だ。だから偽の取引をでっち上げ、誘き寄せることにした。そして酔いどれの元解体屋を利用して橋ごと消し去る。国内では珍しい大がかりな手口だけど、海を渡ればスタンダードだ」
「そう――」
 しばらくして、娘の口元に強張った微笑が浮かんだ。
「あなたは昔、海を渡った所にいたんだったわね」
「こんな茶番に最後まで付き合うことはない」
 娘を見たまま言った。
「僕と一緒に帰らないか?」 
「よく考えろ」
 遮るようにスーツが横から口を入れる。
「俺たちと戻るか。トチ狂って、その酔っ払いと一緒に虫みたいに潰されるか。正解はどっちだ?」
 彼女はしばらくの間、二組に割れた男たちの間で視線をさ迷わせた。
 標的となる車の排気音が徐々に近づいてくる。
 月の良く見える晩だった。
 ――ごめんなさい。
 どれくらいしてか、ポツリとその声が聞こえた。
 彼女がこちらへ静かな視線を投げかけていた。
「二度と元には戻れない。これは本当なのよ」
 黙って彼女の次の言葉を待った。車のヘッドライトを背中に感じる。
「私はもう、この世界から抜けられない。今じゃ、週に一度は美容院にいく生活よ。爪を磨いて、装飾して、マッサージを受ける。その指に、負け犬の父が死ぬ気で稼いだ金でも買えない指輪を幾つも飾る。それを捨てられない人間になったの」
 スーツの片方が拳銃を抜き、こちらに銃口をむけた。
 あごを振って後ろ向きに距離をとるよう指示される。
 無言で応じた。身体と顔を彼らに向けたまま、一歩ずつ後退していった。同様に娘と二人の男も、ゆっくりと危険区域から距離を取って行く。

「僕がただの酔っ払いだ、という評価は正しい」
 後ろ向きに歩きながら、ポケットに手を入れた。
「それでもかつては職人と評された人間なんだ。自転車の乗り方は、一度覚えると忘れない。その事実を過小に評価するべきじゃなかった……」
 足をとめ、リモコンの電源を入れる。コード入力を有効化。そして実行。
 瞬間、大地が信じがたいほど揺れ、鼓膜を引き裂くような轟音が周囲に響きわたった。
 それで全てが終わった。
 橋の崩落というのは一般人が漠然とイメージするほど長い余韻を残すものではない。下に川が流れている場合、十五秒もあればすべてが沈静化する。
 舞い上がった砂塵さえ。
  

 崩落は計算どおりに起こっていた。
 計四ヶ所の発破とコンクリートの自重が、橋の両端を綺麗にそぎ落としている。残ったのは橋脚と、それに乗った中央部のみ。
 それは渓谷の狭間に立つ歪な鳥居のようにも見えるはずだった。
 三台存在したはずの車は忽然と消えていた。
 谷底に積もった瓦礫の山は、夜の闇と同化して黒い塊にしか見えない。ただ静かに流れる川の水面だけが、月明かりを受けて輝いていた。
 外套のポケットからウイスキィの小瓶を引っ張り出す。
 しばらく待つと、くぐもった爆発音があがった。重々しい軋み音が続き、徐々に大きくなっていく。
 発生源は、帰路側の岸に聳え立つ巨木だった。
 その影が揺らめいた瞬間、加速度を立てて倒れこむ。
 大樹は砂煙をあげて動きを止めた。残った橋の縁に引っかかり、渓谷に新たな橋として架かる。
 ウイスキィの瓶を谷底へ放り投げ、鳴らない破砕音を聞きながら倒木を渡った。
 東の空が白みはじめている。
 朝食と珈琲のない朝であった。
 もう一度、全てが消えていった渓谷を見下ろす。
 ――完全なる自由。大いなる眠り。
 光が瓦礫を照らしだす前に、帰路へと足を踏み出した。




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