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07−エピローグ

  07

 それからの一週間は目まぐるしかった。
 恭は肩の緊急手術を受け、白芳系の大学病院に強制入院させられた。
 丸尾が撃った三十八口径は、恭の細胞と筋肉を滅茶苦茶に破壊していた。
 その一方で、骨と腱にはさほど影響を及ぼさなかったらしい。
 治癒に時間はかかる。だが、傷害が残る可能性は小さいであろう。
 それが主治医やナースがかけてくれた慰めの言葉であった。

 恭が術後の麻酔で眠っている間、びしゃもんが記録していたリージョンでの銃撃映像、および丸尾たちの身柄は警察に渡され、事件は明るみに出た。
 その後の取り調べでは、彼らが主婦狙撃の実行犯であったことも証明されたらしい。
 銃撃現場から採取されたDNAと、丸尾の仲間のそれとが一致したのだ。
 供述によれば、狙撃犯はあの時、自分の元へ一直線に駆けてくる梨木鷹一の存在に気付いていたのだという。
 これにより、速やかに現場から離れる必要に迫られ――焦りから、破れたフェンスの先に、頬の一部を引っかけた。
 薬莢を回収することもできずに逃げた。
 結果論だが、これが決め手になったことになる。
 鑑識は金網からDNAを採取し、後に犯人を特定する証拠として成立させたのである。

 本多慶祐の自殺も相まって、世間はこのセンセーショナルな話題に飛びついた。
 各メディアは連日事件を取り上げ、報道は現在も過熱傾向にあるという。
 そんな中、せめてもの慰めとすべきは、本多慶祐の死が多少なりとも慈悲の対象となったことである。
 少なくともマスコミという名のハイエナたちは、ユウコやセバスら遺族に対し、いつものような追い込みを控えた。
 彼らが未成年であり、孤児になったという事情も考慮されたのだろう。
 少なくとも夜討ち朝駆けでチャイムや電話が鳴り響き、自宅近くに停められた不審なワゴン車から隠し撮りされる――というようなことはなかったと聞く。

 被疑者が死亡すれば、刑事手続もそこで終了する。
 本多慶祐は本来、課せられるべき長い裁判や刑罰を免除され、家族はその余波にさらされることなく済んだ。
 死者に鞭打つべからず、という国民性も何らかの足しにはなるだろう。
 重犯罪者を親に持つという責め苦から、子をもっとも早く解放するための道が選ばれたということだ。
 だがそれは、あくまで第三者の想像力に欠いた見方でしかないのかもしれない――。
 半ば飛び出るようにして退院した恭は、久しぶりに登庁した司法局のビルで、そのことを思い知った。
 三係のオフィスで本多ユウコと対面した瞬間のことである。彼女が事件と父の死をどう捉えているかは、一目で分かった。

 幼くして両親を亡くしたユウコにとって、本多慶祐はかけがえのない存在だった。
 三人目の親であり、恩人であり、最後の拠り所であったのだ。ユウコはそんな存在を失ったという事実だけを切り取り、最も重要なポイントであると考えたのだ。
 だが、それは予期されていたことだった。
 病院へ見舞いに来てくれた彼女に事件のことを話したのは、他ならぬ恭自身だ。
 話せることは、本当に洗いざらい語って聞かせた。
 慶祐に銃を渡したのが自分であることすら、ありのままに打ち明けた。
 そして、話を聞いた瞬間、口元を押さえて部屋を飛び出していく彼女を見送った。
 その反応から、いつかこんな時が来るであろうことは覚悟にあった。
 だがそれでなお、憎悪を剥き出しにする彼女との対面は辛い試練だった。

「よくもあんなことができたものね」
 恭に向けて放たれた第一声には、初めて会った時と同じ冷ややかさがあった。
 理不尽な暴力をふるってきた相手へ咎を問う、断罪者の語調だ。
「あなたとは家族ぐるみの付き合いができると思ってた。強い人だって――。私の理想とする生き方と精神性を体現した人として、尊敬すらしかけていたのに」
 彼女は、家族を失った心労から肉体的には疲弊して見えた。
 だが、恭を睨《ね》めつける双眸には、憤怒と憎悪を拠り所にした活力が漲っている。
「まだ容疑の段階だったじゃない。あなたに銃を向けたのは、義父本人じゃなかったじゃない。冤罪の可能性だってゼロじゃなかったはず。何か別の物証が挙がって、全部何かの誤解だったって……。いえ、百歩譲って、彼が裁きを受けるべきことをしていたとしても、それは公判の場で決められることだったはずよ。それを、あなたは何の権利があって……」

 手首を外向きにして握られた拳が、それと見て分かるほど震えていた。
 白く浮き上がった関節は込められた力の強さを物語っている。
「キミがどう思おうが、俺は後悔していない」恭はおもむろに言った。
 ユウコはハッと目を見開き、顔を上げた。
「今また同じ選択を迫られても、そっくり同じ事を繰り返すよ」
「なっ……」
「今度の事件で家族を亡くしたのはキミだけじゃない。射殺された主婦にも、殺された例の少年三人にも等しく家族はいるんだ。警察は、まだ丸尾たちが使っていた違法リージョンに辿り着けていない。識者の間では、今後も無理だろうと言われている。あの三人の遺体は、永遠に出てこないだろう。
 なら、遺族はどうやって、昨日まで一緒だった家族の死を認めればいい? 彼らが家族を諦め、遺体のない葬儀を執り行う決心をするのはいつのことか。それがどれほどの苦痛を伴うか。――確かに俺には何の権利もなかった。でも、キミの親父さんを止めなくちゃいけなかった」
 たとえそれによって、彼女を失うことになると分かっていても。

 ユウコが刹那、鼻白むような表情を見せる。
 だが、今の彼女は多少の動揺など物ともしない激情を内に飼っていた。
「何と言われようと、絶対に……」
 迷いを振り切るように、ユウコは声を荒げた。
「あなたのことだけは、絶対に許さない。こんな理不尽が――」
 戦慄《わなな》き、目尻に薄ら涙を浮かべながら、彼女はきっと恭を見据えた。
「失った人間の気持ちはあなたが一番良く知っていたはずなのに。止めると言いながら、あなたがやったことは私から全てを奪ったのよ」
 恭は口を噤んだ。それは――確かに、ユウコの言う通りだった。
 少なくとも指摘の部分に限って、反論の余地などない。
 事実、本多慶祐に銃を渡したのは恭だった。
 ユウコにはそれを責める権利がある。

 だから、恭は黙ったまま目を閉じ、軽く顎を引いた。
 そうする以外に、彼女に対してできることは何もなかった。
 くっと歯を食いしばる息づかいが感じられたあと、恭の左頬に熱い衝撃が走った。
 目蓋の内側に閃光が走り、同時に乾いた音が周囲に響き渡る。
 恭は沈黙したまま、それを受け入れた。
 踵を返したユウコが足早に去って行く。
 その甲高い足音が消えるまで、恭は黙礼を続けた。
「――彼女も、少しすれば冷静に事件を見れるようになるさ」
 三係のデスク付近で、事を静観していた鷹一が近づいてくる。
「どうかな」
 恭はユウコが去っていた方を見たまま、短く返した。

 例の襲撃事件が本多慶祐の命令によるもであった――という事実は、なんとしてもユウコに伏せ通すよう、警察に頼んである。
 同様に薬の件も隠し続けている以上、彼女にとって本多慶祐は優しい義父のままだ。
 それが覆ることはないし、覆ってはならない。
「このままがベストだよ。事件への認識なんて、変わらない方が彼女のためだ」
 第一、ユウコが見せている反応はしごく真っ当なものだ。
 恭自身、育ての親がいきなり犯罪者として名指しされ、それを苦にして自殺したと聞いたら、告発した者を憎むだろう。
 ユウコにとって育ての親とは本多慶祐に他ならず、この場合、告発者に相当するのが恭なのだ。
「それよりお前、局を辞めるって本気か?」
「ああ」
 恭は表情を変えずに頷いた。
「課長が留守だったから、退局届はさっき主任に渡しといたよ。日付は入院前にしておいた。これで、後々、俺が自殺幇助に問われても局に迷惑はかからないと思う」

 先程、そのやりとりを見ていたジュリィは、泣いて慰留してくれた。
 どうして辞めちゃうんですか。そんなのイヤです。励ましてくれたこと、まだお礼もできていないのに……。
 そういって、恭の腰に齧り付き、恭のために涙を流してくれた。
 だが、いずれ退局届は課長に回され、最終的には受理されることだろう。
 既に白芳へ退学届も郵送してある。これにより、恭は遠からず学籍を失うはずだった。
 近日中にこの街を去らねばならず、そうなれば局も恭を雇用し続ける理由をなくす。
「何もそこまですることはないだろう。確かに独断専行だったかもしれないけどな。でも、きっちり犯罪者は検挙したし、この街に流れてた麻薬も大量に処分できたんだ」
 恭は首を振った。
「俺は自分が襲われた時、局員に内通者がいることを疑った。身内を裏切り者扱いしたんだ。それにユウ――本多さんの親父に銃を渡した責任がある」

 先ほどの反応を見ても、彼女を傷つけてしまったことは明らかであった。
 ユウコとその家族を救い、帰るべき場所を守ってやることはできなかったのだ。
「もう、同じ職場ではやっていけないよ。けじめつけるには、こうするしかない」
「……これからどうする気だ?」
「さあな。とりあえず、遠野の爺ちゃんの家に帰ってみる。もう何も残ってないだろうが、後片付けくらいはできるだろうしな。そのあとは――」
 自分でも想像が付かず、先ほどとは違う意味で恭は首を左右した。
 鷹一もかけるべき言葉が見つからなかったらしい。
 恭の無事な方の肩に、軽く手を置くだけだった。
 だがそれは、恭が友人に望み得る最良の振る舞いであった。




 研修を受ける必要がなくなったため、その後、恭は速やかに局ビルを出た。
 徒歩で寮まで戻る。
 中に入る前、なんとなく、ここ数週間の我が家を離れた場所から眺めた。
 日常の細々したシーンでその真価をフルに発揮してくれた井戸。
 飼料の運搬のため、幾度となく往復した納屋。
 精魂込めて耕し、ようやく充実してきた菜園。
 どれもが思い出深かった。
 びしゃもんに騒々しく起こされ、フランソワ女史彼女の世話から始まる朝も。彼女の牧歌的な鳴き声も。
 手製のヨーグルトと野苺のジャムで済ませる朝食も……
 全てが、間もなく終りを告げる。

 本多家の遺族に比べれば、小さな物なのかもしれない。
 だが恭は、自分もまた失う物のある人間であったという事実に、今更ながら気付いた。
 そして、手放さざるを得なくなったものに対し、自分が想像を超えた強い愛着を抱いていたことを知った。
 今、己の胸を強い喪失感が占めていることに愕然とした。
 不意に膝から力が抜けて、恭はその場に座り込んだ。
 瞬間、この数日で経験した様々な悪夢がフラッシュバックのように蘇る。
 それは精神を守るため、本能が一時的に処理を棚上げして続けてきた、負債とも言うべき記憶であった。

 最初に思い出したのは、丸尾に向けられた銃口の黒々とした穴だった。
 次に、何人もの屈強な男たちに取り囲まれ、絶え間ない殴打に晒された恐怖。
 これまでの人生の全てが詰め込まれた家が、永遠に失われた衝撃。
 本多ユウコに突き立てられた言葉の冷ややかさ……
 子供の頃そうしていたように、恭はその場でうずくまり、衝動が収まるのを待った。
 はち切れそうなほどの激情が胸の内で渦巻き、全身を震わせる。
 叫びだしたいような、体中を掻きむしりたいような……
 名も知らない感情が、どうにか引いてくれるのを亀のように丸まって待った。

「鷹取恭!」
 不意に悲痛な呼び声がして、間隔の短い足音が近づいてきた。
「どうしたの? 苦しいの?」
 びしゃもんが背中を撫でながら、心配そうに問いかけてくる。
 恭は鷲掴みするように左手で顔を覆い、親指と中指でこめかみの辺りを揉んだ。
 すぐには声を返さず、二度、時間をかけて深呼吸する。
 それからようやく「大丈夫だ」と応じた。
 閉じていた目を開くと、散髪前のセバスに似た髪型の子供がいた。
 華奢な骨格と透き通るような白い肌、何より空色の頭髪が特徴的だが、顔に見覚えはない。
 その一方で、発される声は聞き間違えようがないものであった。

「お前、びしゃもん……なのか?」
「そうだよ。ほんとは、もっと仲良くなってからお披露目しようと思ってたのに」
 びしゃもんは恭の背に添えていた右手を、そう言ってシャツごと握りしめた。
「言ったでしょ。ボクは特別製なんだ。クラス3程度のコンセラクスとは違うんだ」
「ああ。そう、みたいだな」
 恭は弱く笑んで返し、膝を立てて座り直した。
「俺が特別ばかだから、特別使えるコンセラクスを回してくれたんだろ?」
「そうだよ。キミは大ばかだ。局を辞めて、退学届まで出して……本多ユウコなんて気にすることないのに。なんで彼女のためにキミが傷ついて、学籍や家を失わないといけないのさ。その上、守った当人からも罵倒されて。こんなの、酷いじゃないか」

「びしゃもん。俺のキョウってのはな、通称なんだ」
 空色の頭に手を置いて恭は言った。
 特別に――最後のお別れに、とっておきの姿を披露してくれた友人へ、せめて返せるものと言えば、もうこれしかない。
「本当は、恭と書いてヤスシと読む。でも、誰も正解の読み方ができなくてな。俺も最初は教師やクラスメイトに訂正して回ってたんだけど……そのうち、面倒になってやめた」
 あだ名や通称と認識するなら、それも良いと思った。
 本当の名前は、限られた親しい人間たちが知っていてくれれば問題ない。
 真の名前は、付けてくれたその人にさえ呼んでもらえればいい。
 そんな風に考えるようになった。自らキョウと名乗るようにさえなった。

「爺ちゃんに初めて飯を貰った時な。俺は自分のを半分残して、残りを爺ちゃんに渡したそうだ。――小さかったから、俺自身は全然覚えちゃいないんだけど。でも、爺ちゃんはずっと覚えてて、それで俺の名前を恭にしたんだって言ってた」
「恭は形声けいせいだ」
 涙ぐんだ瞳で、びしゃもんが囁いた。
「心と、声符に共。両手でささげるという意味だ……」
「そうだ」
 恭は自然と笑んだ。
「爺ちゃんは、持たざる立場であっても人と物を分け合えるのが俺の美点だと言ってくれた。俺は生まれながらに人を羨まない性格を持ってる、と。本多の連中は俺にない家庭ってものを持っていて、俺はそれが壊れようとしてるのが我慢ならなかった。結局、崩壊は止められなかったけど」

 だが、本多ユウコの中にある優しい父親の肖像は守れた。
 それは一度砕ければ二度とは元に戻らないもの。
 何物にも代えがたい、無形の財産である。
「なんで余所の家族のためなんかに、そこまでしないといけないのさ」
 びしゃもんが涙ながらに訴える。
「本多家のためでもあったけど、結局、俺は自分のやりたいことを望むままがにやっただけだ。自己満足のために、人間ひとりを自殺に追いやりさえした」
 それはきっと罪深いことで、間違ったことであったのだろう。
 許されざることだ。そう思う。
「だけどな、爺ちゃんの前に出て恥ずかしい真似をしたとは思ってない」
 だから良いのだ、と続けた。そう思えることを支えに、多分、耐えていける。
 たとえ本多ユウコに恨まれ、嫌われたとしても、なんとかやっていける。

「とは言え、やっちまったことの責任はとらねえとな」
「でも、だからって……」
 恭のシャツを握りしめたまま、びしゃもんは感極まったように顔を伏せた。
 嗚咽をこらえるように震えていた。
「……いかないで、鷹取恭……」
「お前との暮らしは楽しかった。けど、花に嵐のたとえもあるだろう――?」
 びしゃもんは、いやいやをするように激しくかぶりを振った。
「ボクはそんなの、納得しないぞっ。さよならだけが人生じゃないよ」
 恭はもう、かけてやるべき言葉を持っていなかった。
 何を言っても悲しませることしかできないような気がした。
 だからただ、その心優しい同居人が泣き止むまで、髪梳くように頭を撫で続けた。






  エピローグ

 時間の経過は人に忘却をもたらし、忘却は苦痛をやわらげる。
 だが日を追うごとに、胸に空いた穴はむしろ拡大していくようだった。
 退局願を提出したその夜、恭は受理の連絡を待たずして学園都市を出た。
 びしゃもんは最後まで止めようとしくれた――最後は人間の姿で扉の前にたちはだかった――が、結局は恭の意思を尊重してくれた。
 恭は徒歩で三日かけ、遠野の実家に戻った。
 そして、あの写真が作り物でなかったことを知った。

 かつて自宅があった場所には、空襲後の焼け野原もさながらの惨状が広がっていた。
 よほどの高熱にさらされ続けたのだろう。
 トレーラーを改造した家は全焼し、合金製の壁は大きく歪んで剥がれ落ちていた。
 足下に散見されるガラス片は、業火に焼かれた周辺の土が熱で変位した姿に違いない。
 木造の納屋、家畜小屋などの惨状はもはや言うまでもなかった。
 全ての梁や柱が炭化した結果、自重を支えきれず完全崩落していた。
 それらには、もう何日も経っているというのに、触れればまだ火災時の熱が残っているような気すらした。
 本多慶祐の部下たちは徹底してやっていた。完璧な仕事であった。

 本当に、何もかもが失われていた。
 恭は、もはや原型すら定かでない思い出の残骸をひとりで片付け始めた。
 真っ黒に染まった炭の山をかき分け、生き残った物がないかを探し出す。
 そんなサルヴェージは、気の遠くなるような作業であった。
 これまでの半生全てが詰め込まれた家である。
 部屋の模様替えの最中、掘り起こされたアルバムをつい開いてしまう原理が何をするにしても常につきまとった。
 いちいち追憶が手を止め、仕事は全く進まない。
 だからだろうか。
 途中、恭は幾度となく崇一郎そういちろうを亡くした時のことを思い出した。

 育ての親ともいうべき彼を見送ったその翌日は、世界がとても静かに感じられた。
 なぜ彼が見当たらないのか不思議に思え、無意味に探し回ったことを覚えている。
 罠に掛かった猪を見付けた時、反射的に「爺ちゃんにも早く教えてやろう」と考え、しかしもうその必要がないことに気付いてしまった時の――あの虚無感。
 今、同じ絶望を味わっている自分に、恭は気付いた。
「ダメだ。悲観的になるな……」
 目眩にも似た感覚に翻弄されながら、自分に言い聞かせた。
「お前は……大丈夫だ。死ぬわけじゃない。死んだわけじゃない。まだやっていける。生きているなら立て。立てるなら歩け……」
 崇一郎が残した人生訓を反芻する。辛い時、いつも奮い立たせてくれた言葉だ。
「歩けるなら走れ……走れるなら戦え。生きるとは戦うことだ。……教えを守れ」

 だが、活力は蘇ってはくれなかった。全くの逆だった。
 足下が崩れ、現れた黒い沼に気力ごと全身を飲み込まれていくような錯覚。恐怖。
 そして抗いがたい重力。
 それらに膝が屈した。
 あっけない敗北だった。立っていられず、恭はその場にへたり込んだ。
 もう、自分が口にしていることを何一つ実行できる気がしなかった。

 俺は何を間違えたのだろう。そう思った。いつ、どこで道を誤ってこうなったのか――。
 答えはすぐ頭に分かった。結局、正解は崇一郎のやり方であったのだ。
 彼は恭と出会った時、既にかなりの高齢だった。
 そのため、子を守る盾になることより、子に戦い方と武器を与える道を選んだ。
 自分が死んだ後、子が独りでも生きていけるように。
 同じ事を俺もすべきだった。恭はふとそのことに気付いた。
 本多ユウコは自立心の強い人間だ。自分が受けるべき傷を肩代わりしてくれる盾など望まない。
 戦うべきとは自ら武器を取り、戦う。傷も自身が受止める。
 もし望む物があるとすれば、それは庇護してくれる誰かではなく、背を預けられる対等な同志だろう。
 だが恭は第三者でありながら彼女の問題に首を突っ込み、真実を隠し、そのまま勝手な幕引きまで演じた。
 当事者は終始、蚊帳の外に置かれたままだった。
 戦う機会を奪った。それは本多ユウコの人格に対する侮辱だろう。

 不意に、枯れ枝を踏み折るような乾いた音がした。
 この種の破裂音は、火事現場に長くいると幾度となく耳にする。
 炭化した木材が何らかの反応で小さく爆ぜているのだ。
 だが、今回はそれとは少し違った。
 何より、人の気配が伴われている。
 常人には聞き分けられなくても、恭の発達した聴覚は別だった。
 誰かが木片を踏み砕いて発生させた音だと、断定できた。

 ぼんやりとそちらに視線をやり、――恭は思わず幻覚、そして目の錯覚を疑った。
 本多ユウコが立っていた。
 目が合った瞬間、弱く微笑みかけてさえきた。
 恭は反射的に腰を浮かしかけて、しかし失敗した。
 力が入らず、一瞬浮いた臀部を再び地に打ち付けてしまう。
 だが、痛みは感じなかった。
 口を開けて呆然としているうちに、ユウコはゆっくりと歩み寄ってきた。
「鷹取君……」
 思い詰めた表情の彼女が言った。
「もう私の顔なんか見たくもないかもしれないけど……お願い。前の別れ際のこと、どうか謝らせて欲しいの」
 彼女は間を置かず、厳かに頭を下げた。

「感情に任せて、言ってはいけないことを口にしてしまいました。本当にごめんなさい。何か理由があったことは明白なのに。私、わざと酷い言葉を選んで……きっと、あなたのこと傷つけてしまった」
 恭は瞬きを繰り返しながら、小さく首を捻った。
「なんでそっちが謝るんだ? 親父さんの自決は、銃を渡した俺にも責任がある。それを家族になじられるのは、むしろ当然の話だ」
「でも――」
「俺はまだ、親父さんのことで本多さんに隠し事をしてる。今後も多分、話してやれない。キミには知る権利があるけど、俺はそれを蔑ろにしてるんだ。自分のわがままのために」
「わがままじゃなくて、知ってしまったら私が耐えきれないって思うからでしょう?」

「勝手にそういう判断をすることを、一般的にはわがままって言うんじゃないのか」
 恭は腰を上げ、尻を叩きながら立ち上がった。今度はなぜかスムーズに動けた。
「話すべきなんだ。でもその後、俺はキミの支えとして役に立てるか分からない。俺に力がないせいで、ベストの選択してやれないんだ」
「弱さを責めるなら、一番は私よ」
 ユウコは真っ直ぐ恭を見詰め、そう言った。
 ここ数日で様々なことを考えたのだろう。
 以前、双眸に宿っていた剥き出しの激情はなりを潜め、今は静けさと深みがそれに代わっていた。
「人を多面的に見たい、そのための力をつけたいと大言を吐いていながら、その実、私はもっとも身近な義父に対して盲目的だった。彼の表層的な所しか理解していなかった」

 恭が何も答えられずにいると、ユウコは自ら言葉をついだ。
「結局、私は未熟で、子どもだったの。だから自分の問題は自分で解決したい≠ネんて主張する資格はなかった。強い人に、自分の背中に隠れてろと命じられて仕方ないくらい非力だった。なのに何も分かろうとしないで、あろうことか鷹取君に八つ当たりまでして」
 ユウコはまた、深く腰を折った。「本当にごめんなさい」と繰り返す。
「キミが何と言おうと、俺は謝られることをされた覚えはない」
 恭は首を振り振り言うと、近くに置いていた手拭いを取った。
「それを言いに、わざわざこんな所まで来たのか?」
「いえ。もちろん一言お詫びしたかったのはそうだけど、それより――」
「待った。悪いけど、その前に着替える時間をもらえないかな」

 恭は両手を広げて自分の身なりを示した。
 汚れるため上半身には最初から何も身につけておらず、下は三日も替えていないジーンズ。
 その上、全身が煤に塗れ真っ黒に染まっていた。
 八割が黒か濃い灰色で覆われており、本来の肌色は探さなければ発見が難しい。
 風穴を空けられた左腕に至っては、もう三角巾とも呼べないボロ布で吊したまま。
 人類以前、まだ言語を知らなかった時代の類人猿もさながらの有様であった。
 ユウコは今はじめて気付いたという様子で「ごめんなさい」と顔を逸らした。

 せめて文明人の端くれに見えるようになるまで待つ、ということだろう。
 そう判断し、恭は井戸に向かった。
 三角巾と包帯を剥ぎ取り、患部にビニル袋を巻き付けた上で軽く沐浴する。
 汗と汚れを落とすと、かつて納屋であった瓦礫の影に移動して身体を拭いた。
 ジーンズを履き、左腕をどうするか悩み始めた時、壁越しに声が聞こえた。
「あの、鷹取君。私、必要だろうと思って包帯をたくさん持ってきたんだけど」
「ほんとに? それは助かる。同じ奴を洗いながら使い回してたんだ」

 一言断り、ユウコが壁を回り込んできた。
 恭がまだ首からタオルをさげているのを見ると、まず背に残った水滴を拭ってくれた。
 その後、恭がTシャツを着込のを待ち、彼女は持ち込んだバッグから包帯を取り出した。
 医師を義父に持っていたことが関係しているのか、ユウコの動きには全く無駄がなかった。
 この上ない手際の良さで包帯を巻き、三角巾を整えていく。
 最後に胴と肩をバンドで固める途中、彼女はふと作業の手を止めた。
「本当に、何も無くなってしまったのね……」
 ぽつりとつぶやく。

 ユウコの視線を後追いするように、恭は改めて周囲に視線を巡らせた。
 燃え残った物がほぼ無いに等しいのは、これまでの残骸処理からも分かっていることだった。
 あらゆる物が融解するか蒸発し、再利用は絶望的である。
 その意味で、ユウコの表現はあながち大袈裟とは言えなかった。
「お爺さんは、どこに眠っていらっしゃるの?」
 彼女が訊いた。
「それなら無事だ。もともと仏壇なんてないしね。五分くらいの所に墓石がある」
「お参りさせて貰っても良い?」

 無論、断る理由はなかった。
 墓石といっても、自分が適当な石を据えたに過ぎない物だが――と断った上で、恭はその場所へユウコを案内した。
 それは、もう恭しか知る者のいなくなった獣道の途中にあった。
 一般人が用いる山道との合流点近く、木々の中に生まれた小さな空間である。
 そのやや奥まった所に、一際目を引く巨石がある。
 うずくまった成人男性ほどの大きさがあり、周囲の風景から浮いていると言えば浮いている。
 だがそれも当然、これこそ恭が小型パワーシャベルを使える知人に頼み、墓石代わりに運び込んだものだった。
 もっとも、一見してこれを墓標と看破できる者はそういないだろう。
 表裏どこにも文字は刻まれておらず、供え物の類もない。
 役所に無許可で小量ながら遺灰を撒いたが、その痕跡も今や完全に掻き消えていた。

「ここで俺は爺ちゃんに発見されたんだ。俺と彼は、この場所で出会ったんだよ」
 墓石の前にしゃがみ込み、静かに合掌するユウコに、恭は言った。
 彼女が振り向く。
「ここで――?」
「そう。今でもその時のことだけは覚えてる。あの時の俺は脱水症状やら栄養失調やらで死にかけていて……ここでもう動けなくなって……今くらいの時期の、夜明け前だった」
 闇夜をなお黒く切り抜いたような木々のシルエットが自分を取り囲んでいて――
 ああ、この森は俺が死ぬのをじっと待っているのだ、とそう考えていたのを覚えている。
「夜明け前から狩りに出る習慣が爺ちゃんにもしなかったら、俺はあのまま冷たくなって、朝日を拝む前に死んでたかもしれない」

 あの時、恭にはまだ名前がなかった。
 たぶん、人間ですらなかった。
 ゴミ溜めから這いずり出てきた、死にかけの蛆虫も同然の存在だった。
 だが、冷ややかな木々が落とす深い暗がりの中で、聞こえたのだ。
 その声は優しく降ってきて、確かに恭を呼んだのである。
 生みの親からは遂に授かることのなかった、人としての名を。

「目を覚ませって――生きろって、そんな風に訴えかけてくるような声だった。今となっちゃ、俺が記憶を美化してるだけかもしれないけど。でも俺はやっぱり、爺ちゃんが引っ張り上げてくれたんだって思ってる。あの日、俺は本当に生まれたんだと信じてる」
 言葉にしながら、恭はユウコの隣に並んだ。
 立ったまま墓石に視線を注いだ。
「本多さん、いつだったか、俺に夢があるか訊いたよな」
 その声にユウコは屈んだまま顔を上げ、無言でゆっくりと頷いた。
 確か初めて彼女と出会った日、呼び出された司法局でそんな話題になった。
 あの時から既にそれは漠然とした考えとして胸にあったが、言葉にできるほど整理されたものでもなかった。

「俺みたいな人間はさ。この世界にはザラにいて、そいつらは多分――俺がそうだったように――独りじゃどう頑張っても抜け出せない穴にはまり込んでるんだと思う」
 本人の努力や運も、もちろん欠かすことはできない。
 だがやはり、誰かが手を伸ばし、声かけ、力添えしなければ彼らは救えない。
 自分の経験から確信的に言えることだ。
「俺は運良く爺ちゃんに出会えた。呼ぶ声に救われた。俺は相変わらず金も学も無けりゃ、住む家もないし……また家族もいなくなって、結局底辺のままなんだけどな。丸尾の言うように、消えても誰も困らない社会のクズなのかもしれない」
 ユウコが反論の口を開きかけたが、恭は機先を制して自分の言葉を重ねた。

「でもな。俺もやってみたいんだ。昔の俺みたいな、穴から出たくても出られない力のない奴に、今度は俺が。爺ちゃんが俺にしてくれたことを、俺もできるんじゃないかって、試してみたい。それが――」
 言葉の途中で、恭は唐突に気付いた。これは崇一郎から与えられたものではない。
 もちろん繋がってはいるが、究極的には自分自身の中から生じた存在だ。
 俺は初めて、継承という形を取らずに財産を手に入れたのではないか。
 そんな思いと共に恭は言葉を続けた。
「俺の夢は、そういうものなんだと思う」

 何を思っているのか、ユウコは沈黙したまま崇一郎の墓石を長いこと見詰めていた。
 やがて何かを決したようにごく小さく頷き、立ち上がる。
 正面から恭と向かい合った。
「もし、本気でそう思ってるなら、もう一度だけ私を助けて」
 意味が分からず、恭はただ目を細める。
「戻ってきて」
 ユウコが言った。
「学園都市に。――それと、司法局に」
「なにを言い出すかと思えば……」
 一気に脱力して、恭は半歩下がった。

「私、鷹取君を説得できなければ、自分も帰らないつもりで来たの」
「俺はもう辞めた人間だぞ」
 恭は何度もかぶりを振った。
「しかも自分で辞めたんだ」
「仲間を疑ったけじめ? なら、私にも同じ責任がある。それに、司法局は身内だからって甘くしていいものじゃない。私が義父のことで犯したようなミスをしないためにも」
「なんと言われようが無理なものは無理だ。俺はもう退学届と辞表を出したんだ」

「あれは無効よ。受理はされてないの。私とびしゃもんが途中で止めたから」
「止めた?」
 恭は思わず目を剥く。
「止めたって……」
 ユウコは一端、恭から離れ、バッグから見覚えのある封書を二通、取り出した。
「実際は、止めるまでもなかった。局長もこれは無効だと言ってくれたから」
 うまく言葉が出なかった。
 ややあって、ようやく「なぜ」と問い返そうとしたが、それより早くユウコが言った。

「鷹取君、自分がなんて書類を出したか覚えてる?」言葉と同時に、彼女は手にした恭自筆の封書を示して見せた。「あなた辞表を地表≠チて書いて提出したのよ」
「それが? 漢字ならあってるよ。そう書いてじひょう≠チて読むんだ。って字はな、組み合わせ次第じゃ地震のみたいに読みが変化するんだよ」
「――と、びしゃもんに漢字の書き方を訊いた時、教わったのね」
「まあ、重要書類だし。念のためにと思って」
 言葉の途中でピンときた。だが、人工知能コンセラクスは嘘をつけない。そして、つかない。
 なのに恭は直感した。
 勝手に出てきたり、人間の姿に変わったりと、あのコンセラクスは何かにつけて規格外の存在だった。
 他とは決定的に違っていた。

「……信じられねえ」
 恭は呆然とつぶやく。
「あの白丸、俺にウソ教えやがったのか!」
 その叫びを無視して、紙を引き裂く乾いた音がした。
 思わず「おい」と詰め寄るが、ユウコは恭を一瞥しただけで手を止めない。
 なおも地表≠ニ怠学届≠まとめて破り続け、あれよあれよと細切れにしていく。
「私と一緒に帰って。夢があるならなおさら。まずはその一歩を学園都市で実現させて」
「でもな――」
「びしゃもんは、ずっと牛の世話をしながらあの小屋であなたを待ってるのよ。ウィルキンソン局長も、錦城課長も必要な人材だと言ってた。私も、許されるなら失いたくない」
 言って、ユウコは勢いよく両手を跳ね上げた。
 手のひらの上で小山になっていた紙片が、紙吹雪となって周囲にばらまかれる。
「鷹取君、一緒に帰ろ」

 その声を聞きながら、恭は乱れ散った無数の白いひらめきを目で追った。
 抜けるような青空に、山地特有の上昇気流が吹き抜ける。
 まき散らされた紙切れはその流れに乗り、思いのほか高く遠くへと舞い上がっていった。
 海へ向かう東風は力強く、本当に紙片の幾つかを日本海まで運んでいくのではないかとすら思わせる。
 ――その途中に、あの学園都市は広がっている。

 行って確かめてみるのも悪くはない。
 不意に恭はそう思った。
 可能なら、誰かに望まれているなら。
 何かどこまで届くものなのか、あの街でもう一度だけ試してみるのも悪くない。
 彼女がくれた声に応えてみたい。
 そう思った。


Fin.
もどる
というわけで、完結です。
今回は削りまくってテンポ重視(最近、容量制限を自分に課してるのも半分はこのため)でやってみました。
交流戦はちゃんとルールとか、プラグインの種類とか細かく設定して、もっと色んなシーンを書けたんですが割愛。
続編を書く気になった時、そっちメインの話をやるのも良いかなと思っています。
例によって、目立つ誤字脱字とかあったら教えて下さい。
――さて、ココノオと連続してラノベっぽいのを書いてきたので、次は「オッカムの剃刀」だったか、あれの続きを書こうかなと計画中。
でも、ああいう大作は、この作品みたいな軽いのと違って疲れ方が凄い……

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