ひゅーまんたっち
槙弘樹




「なあ、これ見てくれ」
「なに?」

 暫しの沈黙。

「――素敵ね」
「やっぱりそう思うかい?」
「ね、この映像をこれで……」
「ああ、そう。考えることは一緒みたいだね」

 ふたりは微笑みを交わした。











CHAPTER:00
「祝福と涙」

 大洋の真っ只中、荒れ狂う海に弄ばれる小船があった。
 見る者が見れば、それがある程度の設備を整えた海洋調査船であること、船籍が日本にあること等を知ることができただろう。だが、それも波の穏やかな平時にあればこそだ。勢力を増し続ける熱帯低気圧の中にあっては、それも不可能に近い。
 状況はそれだけ悪かった。荒ぶる大海に翻弄される船体は、まるで風に舞う木の葉だ。しかも駆動系から雨の中でもはっきりと分かるほどの黒煙が棚引いており、更には船底に穴でも空いたのか船内に海水が入りこみ、それがデッキにまで至っている。
 船体が最期の瞬間を迎えようとしていることは、最早だれの目にも明らかだった。
 それでも船員たちはオイル塗れになりながら煙を上げるエンジンと格闘し、或いは排水ポンプのシステム再起動を試み、また手にしたバケツで海水を外へ掻き出そうとしていた。
 しかし風速は小さく見積もっても三十メートル近くあり、女性乗組員などはデッキの手摺に掴まっていないと姿勢を維持することすらできない。その暴風に勢い付けられた豪雨はほとんど真横から襲いかかってくるありさまで、しかも石つぶてを投げつけられているように固く鋭かった。あらゆる作業は難航を極め、状況は改善はおろか刻一刻と悪化していっている。

「ボートは! 船長、救命ボートは」
 豪雨を身体に受け、散弾銃で撃たれたような痛みと衝撃を感じながら壮年の男が必死に叫んだ。喉が張り裂けるほどの怒号を発さねば、嵐の中、誰かに声を届かせることは難しい。
「駄目! 流されてるわ」
「漂流物にぶつかった時、留め金をやられたんだ」
「くそッ」
 黒雲渦巻く空を、稲妻が轟音と共に切り裂いた。エンジンルームで微動だにしなくなった駆動系と組み合っていた船長は、ついに自船のエンジンが完全に死んでしまったことを認めて部屋を出た。途端に霰のような勢いと硬度を持った雨粒が襲いかかってくる。暴風も相俟って、彼は目を明けていられなくなった。
 それでも船長はデッキで作業する二人の男女と合流し、体の芯までずぶ濡れになりながらも甲板に浸入し始めた海水を必死に掻き出す作業に入った。が、大きく亀裂の入った船底から入り込む海水に手作業はまったく追いつかない。
「船長、船長ッ! 無線はどうです」
「無理だ。まるで反応が無い」
 それに、仮に通じたとしても救難信号やSOSをキャッチした船舶が現場に到着するまで数時間はかかる。少なくともそれまでは自力で持ちこたえる必要があったし、嵐の中の救助が無理と判断された場合は他人の助けを期待することすらできない。
 指揮が下がるため誰も言葉にはしなかったが、心のどこかでは乗組員全員が勘付いていることだ。

 胸の奥から湧き出してくる危険な思考を必死に振り払い、荒波にさらわれかけるところを仲間同士で何とか支え合いながら作業を続ける。だが、この大自然の脅威と人間との闘いは既に結果は見えていた。
 頭からかぶった海水と豪速で襲い来る雨粒が目に入り込み、酷く痛む。冷たい水を吸った衣服はその本来の役目を忘れ、彼らの体温と体力を容赦無く奪い去っていく。
 ――死は、ひたひたと音をたて確実に迫り来ていた。
「もう駄目! このままじゃ沈むわ」
「諦めるな、麗奈」
「でも」
「俺達には、碇に預けてきたレイがいるんだぞ! あの娘を残して、こんなところで死ぬつもりか。まだあの子は言葉を覚え始めたばかりなんだぞ」
 夫と思わしき男性船員が妻を叱咤する。その激励を打消すかのように、白い閃光が空を切り裂き、轟音と共に船体に落雷した。耳を劈くような音と共に、落雷を受けたエンジンルームが爆発を起こす。
 爆発の引き起こす凄まじい振動に彼らは悲鳴を上げた。同時に襲った一際大きな荒波に、船体は終にひっくり返された。
 乗員達は残らず冬の冷たい海に、投げ出される。その大海原にとって人間などは藻屑にも等しい。 彼らは瞬く間に荒れ狂う波に飲み込まれ、海中深くに押し込まれた。

 ごめんなさい。ごめんなさい、レイ。
 私たちは帰れない。もう、逢えない。
 願わくば、どうか……

 身を切り裂くような冷たい海水に遠のく意識の中、娘を想う母の願いはその暴れ狂う波に飲み込まれて消えた。



CHAPTER:01
「残酷の天使のベーゼ」

 朝というものは嫌でも万人に――そして、平等に訪れる。だが、その朝というものをどのように受け入れるかは千差万別、人それぞれ。人の数だけ朝の形は存在するわけである。
 御多分に漏れず、ここ <コンフォート17> マンションの一室にも、地平線に日が顔を出すと共に朝が訪れた。当然である。
 主の性格の現われであろうか、きっちりと整頓された清潔感のあるその部屋に、窓の外から清々しい朝の訪れを知らせる小鳥のさえずりが聞こえてくる。
 午前七時。この部屋の主を快眠から呼び起こす残酷な天使は、毎朝この時間に決まって現われる。
 朝日に煌く蒼銀の髪に透き通るような白い肌、そして真紅の瞳を持ったこの天使は、名を綾波レイといった。彼女はなんの躊躇も見せずあたかも当然の如く室内に侵入すると、ベッドでスヤスヤと惰眠を貪っているこの部屋の主――碇シンジの傍らに立った。その神秘的な赤い瞳は、真っ直ぐに碇少年の寝顔に向けられている。

 時間にして約十五分。レイは飽きもせずにひたすらシンジの寝顔を見つめ続けていた。これもまた、彼女の日課である。その後、気が済んだのか、ようやく視線を寝顔から外すと彼女は恥じらいに目を伏せる。その身をくねらせながら決まってこう言うのだった。
「かわいぃ〜」
 続いて彼女はシンジのベッドの傍らに膝を立てると、再び彼の寝顔を覗き込んだ。
「シ・ン・ちゃ〜ん」
 彼女は囁くように彼の名を口にする。だがその音量から察するに、シンジを起こすのが目的ではなく、ただ単に呼んでみたかっただけのようだった。やはり、いつものことである。
 何が面白いのか、彼女はチェシャ猫のような口をして、一頻り笑った。その赤い瞳は、いたずらっ子のようにキラキラと輝いている。
 すると突然、何を思ったのか眠っているシンジの方に身を乗り出すと、彼女は人差し指をゆっくりとシンジの頬に近づけはじめた。
 柔かな感覚が、彼女の指先を包み込む。

「なんで、男の子なのにシンちゃんのほっぺって、こんなに柔らかいのかなぁ」
 満面の笑みをたたえて、レイはそう呟いた。因みに、この時点でさえシンジは何の反応も示さず、ただただ平和に眠りこけている。彼は良く鈍感だと級友達から指摘を受けるが、感性がそうだと神経まで鈍くなるものなのだろうか。謎である。
 一方、気をよくした朝の天使こと綾波レイのいたずらは、更にエスカレートしていった。
 前世紀に誕生して一世を風靡した <ファミコン名人> も真っ青の速度で、シンジの頬を連打するレイ。その表情は、やはりとっても楽しそうだ。
 だが飽きっぽい性格をしている彼女は、早々に連打にも退屈してきたらしい。そこで彼女は、右手の人差し指と親指で輪っかを作ると、シンジのぷにぷにホッペを軽く挟み込んだ。
「たこやきぃ〜」
 万国共通、 <おカネ> を示すサイン――その丸の内側に挟み込まれたシンジのほっぺは、確かにタコ焼きのように丸くて柔らかそうだ。しかし意味の無い遊びである。

「あ、そうだ!」
 何か妙案を思い付いたらしく、彼女はにんまりと微笑んだ。彼女は新たな遊びを次々に開発するのを得意としていた。何の役にも立ちはしないが、彼女の誇る才能の一端である。
 レイはちょっと躊躇う素振りを見せるが、やがて意を決したらしく目を薄く閉じながらゆっくりとその桜色の唇を、シンジのタコ焼きに近づけていった。そして、その距離はゼロに――
 ――なる瞬間、レイはついに臨界点に到達したらしく、いきなり立ち上がると、またもや体をくねくねさせ始めた。真っ赤に染まった頬を両手で覆い、小声で何か忙しく言葉を紡いでいる。よく耳を澄ますと、「いゃ〜ん」とか、「シンちゃんのエッチィ」とか、「でも、タコ焼き食べたい」とか、訳の分からないことを並べ立てていることが分かる。どうやら、自分のやってることが流石に恥ずかしくなったらしい。どこまでも分からない娘であった。
 さて、一頻り暴走した後ようやく我に返ったレイは、デジタル時計が七時三十分を指していることに気付いた。今から起きて支度をすれば学校に間に合う丁度いい時間だ。
 そう、レイは毎朝七時三十分にシンジを起こすためにこの部屋を訪れるのだ。三十分余裕を見て来るのは、シンジの寝顔を見て自らが暴走するのを計算に入れているからなのである。
「さぁて……」
 彼女はやがて意を決すると、シンジを起こしにかかることにした。
「シンちゃんっ、朝よ。起きて☆」

 ――そして、物語は幕を開ける。



CHAPTER:02
「絆の樹」

「――ようするにぃ、カぺー朝のシャルル4世に跡を継ぐ子供が産まれなかったんで、百年戦争は始まったわけよねん。まぁったく、男なら子供の一人や二人ぽぽっと産んでみせなさいってのよねえ」
 葛城先生の授業は相変わらず軽い。と言うより、わざと親しみを持たせるような語り口にすることで、生徒達に興味を持たせてるんだろうなぁ。
 申し遅れました、わたしは綾波レイ。第三新東京市ってところに住んでいる十二歳、中学一年生の美少女。あ、でも明日は私の誕生日。だから、もう十三歳って言っちゃってもいいかも。
 生まれつき染色体とかいうものに少し異常があるらしいので、髪の毛は一般的な日本人のように黒かったり茶色かったりはしません。天然の白髪って表現で正しいのかな――個人的にはシルバーブロンドという言い方が気に入ってるんだけど――、とにかくそういう髪の毛に、きめ細いって良く誉めてもらう白い肌、ちょっと怖い紅い色をした瞳が特徴。
 こういう風に容姿がとても変わってるせいで小さな頃は良く苛められたんだけど、シンちゃんがその度に助けてもらってきたので今では大分平気です。シンちゃんは身体が小さくて、人に乱暴するのって苦手な人だからいっつもやられてたけど、でもいつも私を励ましたり慰めてくれたりした。それに、シンちゃんはこの髪も肌も、瞳もキレイだって心からそう言ってくれた。だから、もうコンプレックスはない。
 シンちゃんが気に入ってくれるのなら私はそれを誇れるし、シンちゃんが誉めてくれるなら私はそれを自慢に思えるから。

 このシンちゃんというのは、私の斜め前に席に座っている男の子。名前は碇シンジ。だからシンジのシンちゃん。今年も運良くクラスメイトになれたので、いつも一緒に登下校しています。
 シンちゃんは、一言で言ってしまうと私のお兄ちゃん。名字は違うけど血の繋がらない、私のお兄ちゃん。ずっと一緒に育ったんだ。事情はちょっと複雑なんだけど、シンちゃんと私は同じ屋根の下に暮らしている。
 勿論、ふたりっきりって訳じゃないよ? シンちゃんとそのお父様、お母様、そして私の四人暮らし。
 私の両親は私が幼い頃、秋の海で乗っていた船が転覆して亡くなった。天涯孤独になった私は、シンちゃんの御両親に引き取られ――兄妹として育てられた。シンちゃんの方が誕生日が早いから、私は彼をお兄ちゃんって呼ぶようになったという次第。

「――じゃ、ちょっとテキストの系図を見てみて。ん〜と、一〇七ページね。初めて見る人もいるかな? なんか、トーナメント表みたいなのがあるでしょ。それが系図。一番上はフィリップ四世とシャルルになってるけど、別に彼らが決勝まで勝ち進んだって訳じゃないわよん」
 クラスから、小さな笑い声がわき起こる。
 葛城先生の言う通り、確かに系図ってトーナメント表に似てる。私は本当に戦ったら、誰が一番強いのかな? なんて、どうでもいいことを考えてしまった。
「この系図っていうのは、血筋を表にした――まぁ、家系図みたいなものね」
 家系図。一族の血の系譜。家族の繋がり。絆。
 私は……私には、既に両親はいない。血の繋がった親戚もいない。天涯孤独。
 物心つく前に両親と死に別れたから顔も覚えていないし、記憶も思い出も無い。
「じゃ、系図に親しむために、皆にも自分の家系図を作ってきて貰おうかな? 系図って、これから世界史でバンバン出てくるし。丁度明日は土曜日で休みでしょ、分かる範囲だけでいいから週明けまでの宿題ってことで、よろしくねん」
 突然の宿題宣言に私たち生徒は抗議の声を上げたけど、葛城先生は笑って取り合わなかった。その時、タイミング良く授業終了のチャイムがなったので、これ以上生徒がぶーたれる前に葛城先生は教室から退却ていった。



CHAPTER:04
「はいぱー・シンちゃん」

「家系図、か」
 私は、自室のベッドに仰向けになると、小さく呟いた。  血の繋がり。それはもう、私には残っていない。
 お母さん、お父さん。私は、誰かをそう呼んだことは一度も無いのだ。一緒に住んでいるシンちゃんの御両親のことも小父さま、小母さまと呼んでいる。
 一度呼んでみたかったな、おかあさんって。どんな感じがするんだろう。まだ一緒にいた頃は呼んでたのかな、おとうさんって。
 今までも何度かそういったことを考えたことはあったけど、なんだか今日はとても両親が恋しい。きっと、今日学校で家系図なんかが話題になったりしたからだ。
 葛城先生のいじわる。別に葛城先生が悪いわけでは無いけれど、なにも宿題にすることはないじゃない。今更お父さんやお母さんとの血の繋がりを辿ってみたところで、悲しくなるだけ。空しくなるだけ。私がこの世で、独りぼっちだってことを再確認させられるだけ。
 葛城先生のばか。
 私は、ベッドに仰向けになったまま <はいぱー・シンちゃん> をギュッと抱きしめた。
 はいぱー・シンちゃんっていうのは、でっかいクマのぬいぐるみ。他にもすーぱー・シンちゃん (ペンギン)、でらっくす・シンちゃん (ニャンコ)、きんぐ・おぶ・シンちゃん (らいおん)、ぱわー・とぅー・ざ・シンちゃん (ウサギ)、さいばー・ぱんく・シンちゃん(ワンコ)、たいがー・じぇっと・シンちゃん (トラさん)等々、私の部屋にはいっぱいシンちゃんがいる。シンちゃんやクラスの友達は私のネーミング・センスに呆れてたけど、私の宝物。動物園みたいに賑やかで、私はとても好き。

 ――お父さん
 ――お母さん
 逢いたい。逢って言いたいこと、訊きたいこと、抱え切れないほどいっぱいあるのに。学校であったことや友達のこと、シンちゃんのことを報告したい。二人の馴れ初めの話や、仕事の話、これからのことを聞いてみたかった。
 どうして死んじゃったの?
 もう簡単に泣いたりしないと決めたのに、やっぱり涙が出た。一度でいいから逢いたい。一目でもいいから……
 私はこんなに寂しいのに、はいぱー・シンちゃんたちは何も言ってはくれなかった。



CHAPTER:05
「さあ、裸足になって……」

「レイ……」

 ――誰?

「レイ……」

 ――誰?

 不意に、朧げなふたりの人影が私の視界に入った。世界が淡い光を放っているせいで、屈み込んで私を覗き込むように見下ろす彼らの姿は、逆光になってシルエットとしてしか認識できない。
 ――貴方達は、誰?
 声に出して問おうとしたけれど、上手く喋ることができなかった。私の口から出たのは、「だぁ、だぁ」という赤ちゃんのような声だった。いや、ようなではなく、私は赤ちゃんそのものと言っても良いくらい幼い姿をしていた。
 どういうこと?
 ひとり頭を悩ませているところで、突然私は柔かな温もりに包まれた。私に呼びかけていた人のひとりに、抱きかかえられたのだ。少し狼狽したけど、そのあまりの心地良さに、私はその温もりの中に身を委ねることにした。
 まるで、自分の居るべき場所はここにしかあり得ないという気さえしてくる、安心感。柔らかくて、限りなく優しい、お日様のあったかな光に包まれているような感じ。

 ……そうか。
 私は、直感的に理解した。この感じ、間違い無い。私を抱いてくれる、この人は――お母さん。
 そして、私を抱くお母さんの傍らで優しくその様を見守っているのは、お父さん。
 死んでしまったお母さんとお父さんが、今、ここに居る。ずっと逢いたかった両親が、私の側に居る。私を優しく抱いてくれている。

 ――お父さん! お母さん! やっと、逢えた。やっとお話できる!
 わたし、わたしはね……ずっと逢いたかった。だからどうか、もう何処にも行かないで。
 何時までも、側に居て……

 私は何とか想いを伝えようと四肢をばたばたと振り必死に口を開くけど、やはり赤ちゃんが出すような声にしかならない。
「よしよし」
 そう言って、じたばたと暴れる私を、お母さんは優しく揺すってくれた。なんて優しい声。呼びかけられるだけで、不思議と心が落ち着く。もう、私はそれだけで良かった。
 それが全て。この温もりがあれば、他に何も要らない。――そう思った。
 そして私は、その慈しみの抱擁の中、静かに瞳を閉じた。

 ……それから、どれ程の時が過ぎただろう。ふと、包み込まれるような温もりが失われたことに気付き、私は瞳を開いた。
 やっぱり、そう。そこは、母の腕の中ではなく、私は、地に寝かされていた。胸を押しつぶされそうな喪失感と、焦燥感に私は辺りを必死に見渡す。お母さんの――お父さんの姿を求めて。
 そして、彼らはいた。私から少し離れた場所に、ふたりして立っている。でも先ほどと違うのは、彼らがどんどんと私から遠ざかって行っているということだ。
 ふたりともこちらを向いたままなんだけど、足を動かしている風でもないのに、スゥッと滑るように後ろ向きに離れて行く。このままでは……

 ――待って、行かないで! もう独りにしないで。いい子にするから! だから、私も連れて行って!!
 私は、一生懸命叫んだ。キチンとした言葉にはならなかったけれど、一生懸命にお願いした。もう、ひとりぼっちは嫌だったから。ずっと、一緒にいたいと、ただそれだけを願っていたから。

 なのに……
 なのにどうして、どうして行ってしまうの?
 私は、いらないの? 私は、産まれてこない方が良かったの?
 私は、まだ立ち上がって走れるほどの身体はできていない。走るのは諦め、はいはいをして一生懸命両親を追いかけた。
 だけど、その進行速度は比べるまでも無い。泣いて懇願する私を残し、両親の姿はどんどんと小さくなって行く。やがてその二つのシルエットは、遥か彼方に――完全に消え去った。



CHAPTER:06
「大地蹴って……」

 ――今、私は列車に乗っている。
 前世紀は違ったようだけど、今では義務教育機関は完全週休二日制をとっている。長期休業の期間も延びて、生徒としては喜ばしい限りだけど。
 その土曜の休みを利用して、私はちょっとした旅行に出ることにしたのだ。
 昨夜は、帰宅した後 <はいぱー・シンちゃん> を抱いたまま眠り込んでしまったみたい。お母さんと、お父さんの夢を見たのは、きっと葛城先生の話や、家系図の話題があって孤独を再認識したからだと思う。
 夕食の準備ができたとユイおばさまが呼びに来て、漸く目の醒めた私は、その夕食の席でおじさま、おばさまに私の両親のことを訊ねた。本当は、こういった哀しい過去の話を団欒の席で持ち出すのは控えたかったんだけど……感傷的になっていた私には、その時自分を抑えることができなかった。
 私の記憶には両親の顔も、思い出も残ってない。血筋も絶えてしまって、家系の情報を得るには、シンちゃんの家族を巻き込まざるを得ないのだ。だから、多少気まずい雰囲気になるのは覚悟の上で、おじさまとおばさまにできる限りくわしい話を聞き出したのだ。
 彼らは多少躊躇したが、私があくまで宿題に関しての興味しか持っていないという姿勢を前面に出したことで、何とか重い口を開いてくれた。
 その話によると、生前両親と私が住んでいた一軒家が、芦ノ湖を見渡せる小高い丘の上に、未だ当事の姿のまま残っているらしい。
 当初、主を失った私の生家は売りに出される予定だったらしいが、おじさまとおばさまが、それではあんまりと、わざわざ地元の業者に定期的なメンテナンスを依頼して、残しておいてくださっているという。その配慮に、私は心から感謝した。
 その家は、家具や生活用品の類も以前のまま完全に保存されているとのことで、家の中を捜してみれば両親の写真もあるだろし、私の忘れてしまった記憶も蘇るかもしれない。少なくとも、宿題に関する情報の類は得ることができるだろう。
 おじさまは、そう言って私に位置を示した地図を手渡してくれた。
 かくして、生家へ向けて私は旅立ったのだ。



CHAPTER:07
「虹を超えて……」

 僕は、レイの後を着いていった。彼女に気付かれない様に。
 母さんや父さんにも頼まれたってこともあるけど、例えそうでなくても、僕はこうしたと思う。とにかく、レイを見守ることにしたのは自分の意志であることは間違い無い。
 普段から度々感じていたことだけど、レイは僕らの家族というスタンスから、一歩離れた場所にいると思う。それが遠慮なのか、血縁でないことからくる戸惑いなのかは分からないけれど……
 レイは頭で分かってはいながら、心の何処かでは自分は碇家の家族ではない。そう考えてしまっているのだと思う。
 僕は、いつもレイと一緒にいて、何時もレイを見ていたから……だから分かるんだ。彼女は今、孤独を感じてる。自分はひとりぼっちだと思い込んでいる。何とかしてあげたいけれど、これは彼女の主観と心の問題だ。彼女が、レイと僕たちは絆で結ばれた本当の意味での家族なんだと、その心で受け入れるまでただ見守るしかない。父さんは、そう言っていた。僕も、それはある意味正しいと思う。
 でも、静観というのは事が急転して、危機的状況に陥った時にも、落ち着いて有るべき姿に事態を収拾できる能力があって始めて許される姿勢である。だから、それなりの実力の無いものは <静観> や <見守る> などという言葉で自らを偽って逃げることは許されない。がむしゃらに努力するくらいで丁度良い――父さんは、そうも言っていた。

 僕にはさっぱり意味が分からなかったけど、 <逃げちゃだめだ> ってことが言いたかったんじゃないかと、勝手に思うことにした。
 確かに、人の心に触れるのは怖いし……不安だけど……でも、悩んでいるのは他人でも嫌いな人でもない、綾波レイその人なんだ。 レイは大切な人だし、家族だし、それに――
 とにかく、ここで逃げてレイを見捨てることになったら、絶対に後悔することになると思う。だから、レイの後に着いて行くことにしたんだ。
 レイが何を見て、何を考えるのか。それに、もしレイが誰かに側にいて欲しいって、そう思うようなことになったとき、側にいてあげたいから。
 ただ、今、レイに見つかるわけにはいかない。僕が一緒に行くと言えばレイは拒まないかもしれないけど、僕に気兼ねして本心を現すことも無いだろう。哀しくても、辛くても、精一杯我慢して微笑んでみせるだろう。
 それじゃ、意味が無いと思う。今は、レイが本当の意味で心を動かすのが大切なんだ。僕はそう思う。 だから、こんな風にこっそり後をつけているわけだ。

 レイは、自宅から真っ直ぐ駅に向かうと、芦ノ湖行のリニアに乗った。行き先は大体分かっていたから、僕も同様のパスを購入して、後を追った。念を入れて、レイの隣の車両に乗り込んだけれど、仮に同車両に乗ったとしても気付かれることは無かっただろう。何故なら、レイは何か考え込んでいるらしく、窓の外に流れる景色を見詰めたまま微動だにしないからだ。
 きっとその脳裏には様々な想いや悩みが渦巻いているんだろう。そんなレイの姿を見るのは辛い。すぐにでも、飛んで行って彼女が独りではないことを伝えてあげたくなる。
 レイ……
 きっと、レイもとても辛いんだろうな。僕には生まれた時から、優しい母さんと、怪しい父さんがいてくれた。家族といる時は、楽しかった。恵まれた環境だった。僕はそれが、当たり前のことだと思っていた。でも、それはとんでもない思いあがりだった。
 世の中には、決してそれが当然のことではないという現実があるんだ。僕が今手にしている幸せや富は、決して自分の力で手に入れたものでもないし、持っていて当然というものでもないんだ。僕は、レイからそのことを学んだ。

 ねぇ、神様……。
 レイは、とても良い娘です。世界で一番、優しい女の子なんです。その彼女が、何故こんな哀しい想いをしなくてはならないのですか。
 全てを最初から与えられ、それが当然の権利だと奢っていた僕。対して、辛い試練を与えられ、生まれながらに生きるための闘いを強いられてきた、いたいけなレイ。
 なにか、間違っているような気がする。
 どちらがおかしいのかは分からないけれど、このままじゃいけないような気がするんだ。
 多分、僕もそしてレイも、その答えを探しに芦ノ湖への小さな旅に出たんだと思う。



CHAPTER:08
「空を掴んで……」

 リニアを降りて、駅から出ると暫く歩いた。
 本来バスに乗って往復するような距離なんだけど、自分の足で歩いて、私が生まれ、わずかの間であれ両親と過ごした場所の景色を、肌で感じたかったから。
 芦ノ湖周辺は、開発の手も殆ど入っていない自然の奇麗なところだった。
 避暑地の散歩といった具合で、緑に彩られた道を景色を楽しみながら歩く。
 みんなでピクニックに来れば、さぞ気持ちがいいだろうな、と思った。
 やがて道は緩やかな上り坂となり、自分が丘にあることを感じさせてくれる。
 ちょっとした林を抜けると、小さな野原に出た。
 ……目的地はそこにあった。
 開けた丘の上にポツリと西洋風の洒落た、白く小さな家。
 親子3人が暮らすには、丁度良いくらいの大きさだろう。
 私は、本当に短い間ではあったけど、この家で過ごしたのだ。
 ――両親と一緒に。
 私は感慨で暫くの間、家の前に立ったまま動けなかった。
 この家の中に、両親の思い出の空間があると考えただけで……
 怖いような、哀しいような、嬉しいような、複雑な感情が溢れ返ってくる。
 その想いの奔流に弄ばれ、私は自分がどうしたいのか、急に分からなくなった。
 このまま、知ってしまっていいのだろうか?
 今なら、何も見ること無いまま引き返せる。
 今なら、両親との戻らない時間と空間のなかで、疎外感を味わうこと無く帰ることができる。
 レイ、本当にいいの?
 知ったところで、もう二度とは戻れない思い出なのよ?
 辛くなるだけなのよ?
 レイ、その覚悟があるの?
 私の中の臆病な部分が、唐突にそう問いかける。
 わたし……どうしたらいいの……

 揺れる想いに戸惑うことしかできない私が、それに気付いたのは、それから暫くしてからだった。
 遠くから、気の抜けるような軽い感じのする排気音が聞こえてきくるのだ。
 その音は、徐々に近付いてくる。
 随分昔からあるという、カブ――と言ったか、旧式のバイクだろうか?
 振り返って、音を待っていると、郵便屋さんが独特の赤いカラーリングの施されたバイクにのってやって来た。
 時の流れが止まり、セピア色を感じさせるこの場所に、人が訪れるとは何か違和感をおぼえる。
 ……手紙?
 でも、ここにはもう永く誰も住んでいない。
 両親は亡くなっているから、彼らに手紙が来ることもないだろし、私宛ての手紙はシンちゃんの家に来る。
 では一体、何だろうか?
 郵便屋さんは、バイクを降りて後ろの荷台をゴソゴソやると、文庫本くらいの大きさの小包をとりだして、家の前にぽつんと立ち竦んでいる私の方へ歩いてきた。
「すみません、綾波さんのお宅の方ですか?」
 優しそうな顔をした、碇のおじさまくらいの歳の郵便屋さんがにこにこと微笑んで私に声をかけてきた。
「え……あ、はい。綾波レイです」
 別にここに住んでいるわけでは無いが、綾波であることは確かだ。私は、とっさに彼の問いを肯定していた。
「いや、よかった。結構長いことこの辺りを担当してるんですけどね、こんな人里離れた丘の上に家があるなんて知りませんでしたから探しましたよ。なにしろ、ここ十年この住所に郵便を届けたことなんてなかったからね」
 郵便屋さんは、人当たりの良い笑みを浮かべてそう言った。
「はぁ」どう答えていいか分からず、中途半端な相槌を打つ。
「ご本人がいてくれて良かった。はい。綾波レイさん宛ての小包です」
「えっ」
 思いもしなかったその言葉に、私は狼狽した。私宛て?  あり得る筈の無いことだった。私がここに住んでいたことを知っている人など、碇のおじさま、おばさま以外にはちょっと思いつかない。仮に私に宛てたものだとしても、何故 <コンフォート17> では無く、ここに届いたのだろう。一体、誰が私に。
「じゃ、この液晶プレートにサインと、これに親指を」
 郵便屋さんはそう言うと、腰に釣り下げていた板チョコみたいな形の機械を私に差し出した。
 私は、言われた通りにその液晶画面にサインをして、端の方にあるボタンみたいなのに親指を押しつけた。親指を押し付けるのは指紋をデータベースと照会するため、つまり前世紀の印鑑代わり。印鑑よりも手軽だし、確実に本人を識別できるため今世紀に入って急速に普及したらしい。
「ありがとうございました」
 私に小包を手渡すと、明るい声でそう言い残し郵便屋さんは丘を下って帰って行った。
「お疲れさまでした」
 ぽつりとそう返事をすると、私は手にした小包に視線を落とした。確かにお届け先の欄には綾波レイ様とある。住所も、おじさまから貰った地図の端に書かれたこの家の住所と一致する。
 でも誰が……
 私はご依頼主の欄に目をやった。
 綾波麗奈様。
 ――そこには、母の名が記されていた。




CHAPTER:09
「陽だまりの天使」

 気付いた時には、体が勝手に動き、家の中に駆け込んでいた。玄関の鍵はおじさまから預かっていたけれど、それを使ってドアを開けた記憶は無い。ふと我に返ったら家の中を見回し、カッターかハサミの類を捜している自分があったのだ。
 死んだ筈のお母さんから届いた小包。お母さんは生きている?
 でも、そんなはずはない。もしそうなら、私を迎えに来てくれないわけはないから。
 とにかくどうしても、そして一刻も早くこの小包の中身を知りたかった。一風変わったその包装をリビングにあった棚の小物入れの中から見つけ出したカッターで解くと、丁寧なラッピングをもどかしく思いながらはがしていく。
 些か乱暴なくらいに開けられた包みの中に在ったのは、マニュアルのような小冊子と、DVDのソフトが一枚だった。それ以外には何も無い。何故だか、少しだけ落胆している自分に気付いたが、とりあえずこの小冊子に目を通すことにした。
 幾分落ち着きを取り戻して見渡した家の内部は、一般の家庭と然程変わることの無いスタンダードな造りだった。西洋風なだけあって、インテリアや出窓など細かいところにセンスを感じる以外、特徴らしきものは無い。何処にでもある、平凡だけど幸福に包まれた、あたたかい家庭がそこにはあったのだろう。
 私はリビングの三人掛けのソファーに腰を落とすと、冊子を開いた。内容は、この小包に関するサービスの解説だった。
 それによれば、これは <タイム・カプセル> という、郵政省が新世紀を記念して、二〇〇一年一月一日に開始した新サービスであり、個人から小包を預かり、それをランダムに決定した年数を経過したところで指定された場所に配達するというシステムらしい。
 ただ、預けられたその日から十年以上三十年以内のある日に届くのであり、年数の厳密な指定はできない。預け主は、何月何日に届けるかは指定できるものの、出した日から十年以降、何年目に配達するかは郵政省のコンピューターが完全なランダムにより設定するのだ。もちろん、月日を無設定で預けることも可能である。――だから、タイム・カプセルなのか。

 何年後かは分からないが、私の誕生日に向けた両親からのプレゼント。
 冊子下部に記されている登録要項によると、綾波 麗奈――つまりお母さんがこのDVDを預けたのは二〇〇三年、つまり私が二歳前後の頃になっている。
 指定日は、九月二十六日。
 即ち、私の誕生日だ。
 送られてきた今年が二〇一五年だから、郵便局のコンピュータは配達日を十二年後と設定したらしい。
 きっと届いた時、大きく育った私と一緒に見るつもりだったんだろうな。
 私はソファから立ち上がると、テレビを探し出し、セットになっているDVDプレイヤーに件のソフトをセットした。幸いにも、この家には太陽電池による自家発電システムが設置してあって、少しの間なら電気の心配は無かった。
 ドキドキと鼓動が早くなる。一体、このDVDには何が治められているのだろう。緊張で、体が小刻みに震えてきた。顔も知らなかった両親の姿がそこには記録されているかもしれない。
 何度も取り落としそうになりながら、リモコンの再生ボタンを押す。暫くノイズが走っていたが、やがてプログラムが開始される。
 そこには、恐らく私が先程まで立ち尽くしていた辺りで撮ったのであろう、この白い家をバックに、どこか懐かしい感じがするふたりの男女の姿が現われた。
 私は、直感した。
 ――お父さんと、お母さん。
 恐らく二十代の頃だろう。両親の姿はまだ若々しかった。少し背の高い、男性――お父さんはデジタル・カメラを前にして緊張しているのかカチコチになっている。
 少し前髪が長いのと、凛々しい感じのする顔つき。でも優しい光を湛えたその瞳が印象的だ。

「あ――、レイ。私がパパだ」
 照れたような素振りを見せて、お父さんが言った。
 ――ああ、お父さんが私を呼んでる。レイって、そう私を呼んでいる。
 たったそれだけのことなのに涙が出た。
 お父さんに寄り添うように立っているお母さんが小さく笑う。
 くるくるっと癖のある髪型。イタズラっぽい大きな瞳。滑らかで透き通るように白い肌。
 ――そう、私はお母さん似だったんだね。
 ぽろぽろと零れ落ちる涙をそのままに、私はお母さんに微笑んだ。
「麗奈、なんで笑うんだよ」
 お父さんは、頬を膨らませてお母さんを睨む。
「だって、ビデオを前にしただけで緊張するなんて」
「いや。だってだな、これは未来のレイと一緒に見る大切な……」
「だからって、気取らなくたっていいのよ。自然体でいいの」
 お父さんとお母さん、仲良かったんだ。微笑ましいまでに、温かい。
「あー、ともかくだ。現在二〇〇三年。つまりは、新世紀だ」
 まだ、照れがあるらしくカメラから視線を外して、お父さんが言う。
「なに言ってるの?」
 笑いながら茶々を入れるお母さん。本当に朗らかに笑ってる。それは、傍らの男性を心から信頼しているからこそ浮かべることのできる微笑だった。
「未来のレイ、そして未来の私たちよ。見ての通り、現在の我々はとってもラヴラヴな夫婦だ」
 お父さんは、にこにこと微笑んでいるお母さんの肩を抱きながら言った。
「この映像を見るのは少なくても十年経ってだから、まあ、レイも十代そこそこのクネクネプリン予備軍くらいにはなっている筈だ」
「もしかしたら、十八くらいで既に結婚してるかも」
「それは、許さん」拳を握り締めて、お父さんが叫んでる。
「まあ、まあ」
 ヒートアップしたお父さんをお母さんが諌める。
「……とにかく、私たちはとっても仲のいいハートフルな家族だ」
「そうね」
「この映像を見る将来は、もっと仲のいい、最強の夫婦になっていることだろう」
 お父さんの言葉に、お母さんも頷いてる。
「そこで、その誓いのチュウをば、未来のレイに見せびらかしてみたいと思う」
「なに言ってるの、あなた」
 朗らかに笑っているお母さんの肩をはっしと掴んで身体を引き寄せると、お父さんは突然お母さんに口付した。
「本当にするなんて信じられない」
 暫くしてようやく開放されたお母さんは、文句らしきことを言っているが、目は笑っている。
 お父さんは、ちょっと恥ずかしかったのか、頬を赤くしてもじもじしだした。
「それより――ねぇ、レイ。今、貴方がどうしているか気にならない?」
 ひとりで恥ずかしがってるお父さんを放っておいて、お母さんがひとりで勝手に仕切り出した。
 ――そう。気にはなってた。
 まだ、私の姿は一度も映っていない。どこで、何をしているのだろう。
「じゃじゃ〜ん!!」
 復活したお父さんが、怪しい効果音と共に、画面から身を外す。
 お母さんもそれにならって、画面の外に出た。
 すると、今までふたりの姿に隠れて映っていなかった私が、少し離れた庭……というか、野原にチョコンと座っているところが映し出された。カメラがズームして私の姿が鮮明になる。
cursor きっと両親のイタズラだろう。純白のローブのような服を着せられた私の背には、白い羽の飾り。頭の上には、ほそい針金で支えられた丸い輪っかが揺れている。
 天使を体現したらしい幼子の私は、野原の花をぺチぺチと叩いてキャッキャと遊んでいた。
「どうだ? かわいいだろう」
 姿は見えないが、画面の外からお父さんの声が聞こえてきた。
「これが何年前ってことになるのか知らんが、とにかく綾波レイ二歳。とっても可愛いお年頃だ。私たち夫婦の宝物だよ。な、零奈」
 その声を受けたお母さんが、画面の中に入ってきて、私の傍らに屈み込んだ。それに気付いた私は、お母さんに抱っこをせがんでいる。願い通り、私を優しく胸に抱くとお母さんは訊いた。
「可愛らしいお嬢さん、お名前は?」
「あじゃなみれいです!」
 私は無邪気な笑顔で元気に答える。
「お歳はおいくつ?」
 お母さんの問いに、私はまだ器用に動かすことのできないもみじのような小さな手で、ピースマークをぎこちなく作る。
「……二しゃい」
「よくできたわ。レイはお利口さんね」
 大好きなお母さんに誉められて、得意そうに笑っている私。
 ――そこで、映像は途切れた。
 画面には何も映らず、ただ、静寂の時が流れる。
 あまりにも唐突だった。
 ……もう、終わりなの!?
 これだけ……これだけなの?
 私の縋るような想いに答えるかのように、画面に変化が現われた。
 何も移さない黒から、バックは白く変化し、ぼんやりとにじみ出るように文字らしきものがフェード・インしてくる。
 私はまだ続きがあることを知り、ほっと胸を撫で下ろした。
 徐々に輪郭がはっきりとしだしたその文字は、こうあった。


 未来のレイへ
 どんなに時を経ても いつか遠く離れても 逢えなくなっても
 貴方は愛されて生まれてきたことを
 どうか、忘れないで


 ――言葉もなかった。
 私は独りだと思っていた。この世に血の繋がりを失った孤独な人間だと思っていた。
 でも、両親はその考えを否定する。愛されて生まれてきた者に孤独はないと。まして私には、両親なき今も静かに見守ってくれる家族がいる。
 愛されて生まれてきたことを忘れるな。その願いの裏には、私自身にも同じように人を愛して欲しいという両親のささやかな希望が見えた。それさえ分かっていれば、恐れるものはなにもないと。
 全てを受け入れ、自分を想ってくれる全ての存在に感謝する。そしてその力を借りて生きていく。
 愕然としながらも、熱い吐息が胸から漏れた。
「そうだ――」
 放っておいて施設にでも入れれば良かった私だ。血も繋がらない他人である私だ。でも、そんな私を家族として迎え入れてくれたおじさま。分け隔て無く、実の子と同じように自分の娘として私を励まし、見守り、時には叱ってくれさえするおばさま。
 友達だっている。私の異形を何の抵抗も無く受け入れ、何時も自然に接してくれる人たち。洞木さんに鈴原君。相田君、他にもいっぱい。
 そして、おにいちゃん。私のお兄ちゃん。彼は、小さな頃よく苛められていた私を一生懸命庇ってくれた人だ。そのために私と一緒になって仲間はずれにされて、同じように苛められることすらあったのに。あの人はいつも笑って私の側にいてくれた
 ずっと守ってくれていた……
「わたしは――」
 この容姿を疎ましく思う時もあった
 死にたいと思ったこともあった
 だけど……
 挫けそうなときは、生きるために戦う――その勇気を支えてくれた
 お兄ちゃんとして、男の子として……
 だれよりも、シンちゃん……
 あの人がいてくれたから――
「私は……私は……そんな大切なことにすら……」
 頬をあたたかな涙が伝う
「たくさんの愛情を受けて……こんなにも愛されていたことにも気付かずに……」
 鳴咽が漏れる
「わたしは……いったい何を見ていたのだろう……」
 ……わたしは……なんと愚かだったのだろう。
 何時でも、どんな時でも皆は私を見守ってくれていたのに。
 こんなにも多くの人に、慈しまれていたというのに。
 絆は――なによりも強い絆は、すぐそばにあったというのに
 大切な人たちの、そんな優しさを踏みにじるような……
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい……」
 私は、愛されて生まれてきたの。
 私は幸せだったの……
 ごめんなさい……わたし、気付けなかった……
「……シンちゃん……」
 涙が止まらなかった。
 わたしは、自分の両肩をかき抱くようにして泣いた。
 二度とは戻らない時間。
 でも、その時間ときを超えて、送られた両親の想いを
 ……今、わたしは受け取った。
 ――そう。確実に受け取ったのだ。




FINAL CHAPTER
「HUMAN TOUCH」

「――レイ」
 不意に後ろから声が聞こえた。あり得る筈の無い声に私は狼狽する。
 だけど振り返ったそこには、紛れも無く慣れ親しんだ彼の姿があった。
「どうし……どうして?」
 涙でぐしょぐしょになった顔のまま、私は呆然と呟く。
 どうしてシンちゃんがここにいるの? 確かに今、私はシンちゃんの名を呼んだけれど。
「ゴメン。実はレイが心配だったから、その、着いてきちゃったん――」
 照れたような、困ったような複雑な顔をするシンちゃんのその言葉が終わらないうちに、私は彼の胸に飛び込んでいた。頬を押しつけて、決して許されないことなのかもしれないけど、私は必死に謝った。たぶん、それは同時に懇願でもあった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、シンちゃん。ごめんなさい」
 ――ほら。こんなにも私を想ってくれている人がいる。
 私のことを心配して、見守って、こんなところまで来てくれた人がいる。
 なのに、自分は愛されていないと。独りぼっちだと孤独を気取っていた自分が酷く卑怯に思えて、私はどうしようもなく、ただ一生懸命に謝罪の言葉を唱え続けることしかできなかった。

「レイは、何も悪くないよ。だから謝ることなんて無いと思うよ?」
 シンちゃんは、私の髪を優しく撫でながらそう言ってくれたけど……ちがうよ。
 私は謝らなきゃいけないような悪い娘だった。でも嗚咽の漏れる口からはそれを言葉にすることができなくて、私は何度も首を左右に振ってシンちゃんの言葉を否定するしかなかった。
「謝らなきゃいけないのは僕だね。ゴメン。本当は最後まで出てくるつもりはなかったんだけど。レイ、DVDを見てから泣き出したし、それに僕を呼んでいたみたいだから、つい」
 シンちゃんの目にもまた涙があった。私のために泣いてくれている。私の痛みを一緒に感じてくれている。
 何が不満だったの、レイ。あなたにはこんなに素敵な人がずっと側にいてくれたのに。
「ううん。もう、いいの」
「え……?」
 怪訝そうな表情をしたシンちゃんの眼を覗き込んで、私は言った。
「――いいの、ちゃんと分かったから。教えてもらったの、お父さんとお母さんに。自分を哀れむことだけに必死だったから気付けずにいたけど、でも私はずっと慈しまれて生きてきたの。それも生まれた日からずっと。
 それで気付かせてもらったの。お父さん、お母さん、おじさま、おばさま、それにシンちゃん。みんなから大事にされてたって。だから私、もう、それだけでいい」
 私は微笑んだ。涙はまだ流れていたけれど、それは後悔でも悲哀のものでもない。幸せだから流れる涙だった。

「――そう。じゃあ、僕からはもう何も言うことはないね」
 シンちゃんは短くそう言った。多くを語らない簡潔なその言葉が今は有難かった。
「ね、シンちゃん」
「ん?」
「帰ろ。私たちの家」
「うん、そうだね」
 おとうさん、おかあさん。十二年前に送られたふたりの想い、受け取ったから。
 だから、もう心配しないで。それを糧に、私はきっとやっていけるから。シンちゃんたちと、もっともっと幸せになれるから。

「でもさ……僕、レイと血の繋がった兄妹じゃなくて良かったよ」
「えっ」
「兄妹だとさ、結婚とかできないでしょ」
「えっ!?」
「いや、何でもないんだ。もう少ししたら、もっとちゃんとした言葉で言う――かもしれないから。うん。だから今は帰ろう。そう。それがいいよ、ね。レイ」
 私はもうひとりだなんて思わない。
 私を取り巻く全ての絆を大切にして、私を産んでくれたふたりに感謝して。
「ね、シンちゃん、それってどういう意味なの――?」
 そしてもし幸運に恵まれ、天の神様にそれを授かることを許されたなら、今度はそのことをいつか生まれてくるであろう私たちの赤ちゃんに伝えたい。

ひとは、誰もが幸せになれる可能性を秘めているの。
それを信じさえすれば、全ての人が幸せになれるとは限らないけれど。
それでも信じましょう。

――ひとは、幸せになれるのよ。


もし あなたが 誰かと繋がるその絆を 信じることが できたなら
IF YOU BELIEVE IN HUMAN TOUCH




fin




■初出

「HUMAN TOUCH」うゆきゅう王国1999年05月08日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。

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and Based upon and incorporating the GAINAX animation "EVANGELION".
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