「砕破――!」
 言葉を発する度、口内に広がる淡い血の味を無視して歯を食いしばる。
 負けられない。胸のうちで何度も呪文のように唱えながら、右の拳を硬く握り締めた。そして立ちはだかる最大の敵を見据えながら、その元へ駆ける。
 これはただの暴力の激突じゃない。単なる喧嘩じゃない。問われているのは、格闘の技術と肉体の純然たる強度であると同時に、俺たちの主張そのものでもある。この勝負で証明されるのは、両者の強弱だけではなく、生き様の是非。
 勝ったほうが生き残って、負けた方が死ぬ。デッド・オア・アライヴという方法と決着で、俺とやつのどっちの生き方がこの世に残るべきかを天に問う対決。俺は全てを出しきる。奴も全てをぶつけてくるだろう。判定を下すのは、結果という名の神だ。
 この世には何十、何百億という数の人間がいたし、いる。それぞれに考え方があって、生き方があった。当然、俺には俺の生き方が、あいつにはあいつの生き方がある。それは別の環境と人生と価値観によって育まれて来たもので、決して同一のものではない。だから、たとえ目指すべきものが同じだからといって簡単に分かり合えるものでもなく、逆に同じものを目指しながら生き方が違うせいで、激突を余儀なくされることもある。
 本当なら話し合って、相手を理解しあって、互いを尊重しながら両者が伸びていければそれが一番良いんだろう。だけどそれは理想であって、必ずしも現実とは重ならない。時に、どちらもそれを望んでいないのに、激突するしか道がないことだってある。
 ――そして多分、俺と砕破がその象徴的な例なんだ。

『神鳴モード(ELECTRIFICATION)』

「BUST YOU UP!」
 渾身の一撃を放つも、奴はそれを易々とさばいて見せた。お返しとばかりに、切り裂くように鋭い蹴りが、ガラ空きになった俺の右脇腹を狙って放たれる。身を屈めるようにしてポイントをズラし、俺はそれを肩で受け止めた。
 ミシッという骨の軋む音。衝撃でシェイクされる内臓。俺は痛みと吐き気を堪えながら後ろに飛んで、再び間合いを計った。
「ワイズロマンサー。お前は自分の思想と行動の正当性を主張するため、常に信念を振りかざす」
 砕破が右足を一歩踏み出した。それが軸足になるのだとしたら、次に来る攻撃は――
「オオッ!」
 爆砕の破壊力をもった左脚が、唸りを上げて襲いかかってきた。咄嗟に頭部を庇うようにして、ロマンサーで防御を図る。重たい金属同士が激突したような、鈍い衝撃音が周囲に響き渡った。
「だがそれは、決して俺には通用しない」
「生憎と、俺は自分のやりかたに正当性なんて求めちゃいないね」
 渾身の力で受けとめた左脚を押し返しながら、俺は叫んだ。
「正義も悪もない。正誤もない。俺はそう思ってる。だから、持論の正当性なんて興味もねえよ」
「ならば、お前は己の是非を如何にして問う」
「結果だ」
 再び、俺の右拳と奴の左脚が激突した。火花すら散りそうな、一撃一撃が致死性の威力を秘めたぶつかり合い。俺も砕破も、言葉で何かを交わす以上に、その激突から相手を理解していく。
「俺は、たとえそれが持論とは正反対のものでも、どんなに気に食わないものでも、他人の何かを『間違ってる』だなんて言わない。だから、他人に俺のやることを間違いだと断ずる資格も与えない。何かを正しかった、間違っていたと判断できるのは、自分だけだ。人は自分の過去を振りかえって、自分の行いにのみその判断を適用することができる。そう思うからだ。
 俺が自分の主張の正誤を認めるのは、生き方によってもたらされた結果でそれを判断する時だけ。他人は関係ない。興味もねえ! 今、一番手前らしいと思うものを信じていくだけだ」
「ならば、お前の様は誤りだ。俺がその結果をお前に与える」
「なに――?」

『拘束解除(RELEASE)』

 砕破の左脚から拘束具が解除された。途端に、炎にも似た青白い何かがたちのぼり奴を包み込む。まるで檻に閉じ込められていた猛獣が、ようやくにして得た自由に咆哮するように、迸る巨大な理力が迸っていた。
「お前の信ずる力など、所詮は一集落で通用する程度」
 砕破は真っ直ぐに俺を見据え、低く告げる。
「理解しろ。どこからがお前で、どこからが世界なのか。お前は世界に接続されていて、自分の身体を動かすのと同様に、世界をも動かせると思っている。信じてさえいれば、結果は常に自分の望む形で伴われるものだと期待している。――だが相沢祐一、それは誤りだ」
 そして、それは放たれた。
 青白く透き通った、狂気の津波。耳を劈く唸りを上げ、地震のように大地に爆音を轟かせながら、致死性の衝撃波と高熱を従えて、それは真っ直ぐに俺に襲いかかってくる。自分が大海の波であり、井の中から這い出たばかりの俺という蛙を流しさることこそが、己の使命であると心得ているかのように。
「こんな……」
 俺は愕然としながら、それを見上げていた。
 何かに抗うっていうのは、こんなに大きなものを敵に回すということなのか? 世界に出るというのは、この波に揉まれて生き残るということなのか?
 ――冗談だろ。
 こんなに荒いなんて聞いてない。こんなにデカイなんて、いくらなんでもそりゃない。
 格好つけて世界に挑むなんて口にしてきたけど。それって、こういうことなのか……? 世界からみた俺って、こんなに小さかったのか?
 これが……“世界”

「うわあぁぁ――ッ!」


Ingland U.K.
Thurs,3 August 2000 13:50 P.M.
2000年 8月3日 午後1時50分 ロンドン郊外 相沢家

 シーツを跳ね上げて起きあがった瞬間、胸に激痛が走った。身体の芯に電撃を流したような痛み。だけど、そのおかげで完全に目が醒めた。そして自分が馴染みのない部屋のベッドに横たわり、夢を見ていたことを悟る。だが、寝起きの頭でなんとか認識できたのはそこまでだった。
 俺が目覚めたのは、ベッドのすぐ横に採光性の優れた出窓のある、小さなベッドルームだった。ただ病院の個室にしてはデザインが洒落すぎているし、B&Bの部屋にしては家具が少な過ぎる。どこか見覚えのある部屋のような気もするが、自分が今どうしてこんなところにいるのかさえ分からないほど、俺の記憶は混乱しているようだ。思い出そうと思っても、なかなか答えが出てこない。
「これは……」
 右手は手首から先がなかった。KsXも見当たらない。俺は軽いめまいをおぼえながらも、使える左手を自分の胸に添えてみた。素肌の温もりが伝わってくる。それからも分かるように、俺は上半身に何も身につけていなかった。ただ、清潔感のある真っ白な包帯が幾重にも巻きつけられている。腹巻のように腹部にグルグルと巻き付けてあるものと、右肩から大胸筋を斜めに横断して、左の脇腹を通してあるもの。地肌が見えている部分の方が少ないくらいだ。まるでミイラ男のようだった。
「あ、祐一。起きたんだね」
 この部屋にある唯一の出入り口から、トレイを持った少女が入ってきた。ドアは最初から開け放たれていたので、声をかけられるまで俺は彼女の接近に気が付かなかった。
「びっくりしたよ。いきなり叫び声が聞こえたから」
 彼女は穏やかな微笑を湛え俺のすぐ傍まで来ると、サイドテーブルに手にしていたトレイを置いた。アップルジュースと思わしき金色の透き通った液体の入ったグラスと、プレタマンジェのサンドウィッチが添えられた皿が載せられている。
「お腹空いてるよね。祐一、このお店のサンドウィッチが好きだって聞いたから。食べて」
 そう言って、少女――名雪はにっこりと笑った。
「名雪……?」
 俺は何がなんだか分からず、彼女の顔をぼんやりと眺めていた。
「俺、どうしたんだ。ここは?」
「祐一はねえ、ストーンヘンジの近くで意識を失ってから、まる1日眠ってたんだよ。それでね、おじさんやおばさんにも連絡して、ロンドンに帰ってきたの。ここは、おじさんたちの家だよ」
 親父たちの――
「……そうか」
 それで、ようやく全てを思い出した。俺は五歌仙と戦って、それで砕破に負けたんだった。あの強大な津波の直撃を受けて。ここ久しく忘れていた、完膚なきまでの敗北だった。
「そうだったな」
 不思議と、大敗を喫するたびにいつも襲ってきた、あの喩えようもないほどの屈辱感はなかった。なぜだかは、自分でも分からない。自他共に認める負けず嫌いの俺だ。本来なら本気で戦って負けたこんなとき、怒り狂って、泣くほど悔しがって、周囲の物に当り散らしたりするはずだ。だけど、今回に限ってそれはなかった。ただ、何かを失ったような喪失感にも似た虚しさだけが、胸の内にすくっていた。
「病院で診てもらったんだけどね、祐一、肋骨に小さいヒビが入ってるんだって」
 沈んでいる俺を励まそうとでもするように、あまり明るいものではないはずの話さえ、名雪は努めて明るく報告しようとしているようだった。そんな彼女に、なんとなく申し訳なく思う。
「あと、打撲が全身に何十箇所もあって、左手には火傷してる個所があるってお医者さんが言ってた。だからまだ寝てたほうが良いよ。川澄先輩もまだ休んでるし」
 そういうと、名雪は俺を強引に横たわらせた。逆らっても面倒なことになりそうなだけなので、大人しく寝ていることにする。
「舞も?」
 そういえば、フォールディング・ソリッド・カノンっていったか。あのバケモノ津波に飲みこまれそうになった瞬間、舞が助けにきてくれたんだっけ。それで舞と魔に抱き締められて、きっと彼女たちに庇ってもらったんだろう。あの大出力の衝撃波を食らって、肋骨にヒビ程度のダメージで済んだのはそのせいに違いない。あの時――魔も含めた、6人の舞に抱かれているような感覚がしたのを今でも覚えている。
「舞は大丈夫なのか? 怪我とかしてなかったか」
「川澄先輩なら大丈夫だよ。怪我もないし。鷹山さんは、力を使い果たして眠ってるだけだって。そう言えば、あのね、鷹山さんも凄い超能力者だったんだよ。砕破って人の津波をバリヤーで防いじゃったんだから」
 名雪は両手をわたわたと動かして、鷹山女史と砕破の凄さを表現しようとしている。
「ああ、知ってる。サイリフレクターだろう」
「え、祐一知ってたの?」
「前に一度だけ見せてもらったことがある」
 ――でも、そうか。彼女の結界は弾丸だけじゃなくて、砕破のF.S.C.まで防げてしまうんだな。凄い話だ。俺なんか簡単に吹っ飛ばされて、舞に助けてもらわなかったら今ごろ死んでたくらいなのに。
「KsXを知らないか? 俺の義手。見当たらないんだ」
「祐一の右手なら、香里と天野さんがスイスに持っていったよ。砕破さんの攻撃で壊れたところがあるから、なんとか研究所で修理してもらうって。芳樹おじさんも一緒」
 名雪は俺を慰めるように、目を少し細めて微笑みかけてきた。
「電話があってね、明日中には帰れそうだって」
「そうか……」
 俺はベッドに寝そべったまま、天井を見上げて深く息を吐いた。
 結局、これが現実だ。いくら口先で格好良いこと言ってみても、舞や鷹山さんがいなければ俺は今ごろ死んでいた。それが結果だった。俺は色んな意味で叩き潰されたんだ。砕破に。
 どんな高説を唱えたとしても、どんなに崇高な理想を掲げていても、死んでしまえばそれまで。今回は運が良かったが、俺のやり方じゃ砕破の牙城を崩すことはできなかったってことだ。

「……名雪」
「ん、なに? サンドウィッチ食べる?」
 名雪はトレイを抱きしめるようにしたまま、少し前かがみになって俺の顔を覗き込んできた。
「俺、砕破に負けちまったよ」
「あのひと、凄かったからね。でも、祐一はよく頑張ったよ」
 そして、慰めるように彼女は言う。今回はダメだったけどこの次に勝てばいいよ、と。
「この次、か――」
 名雪は、俺のように直接戦ったわけじゃないから、多分まだ理解しきれていないんだろう。俺と砕破の戦いに『次は』なんて仮定は無意味だ。これは純然たる生命と意志の潰し合いなんだから、敗北は本来、死を意味する。俺たちの間に、次なんてものはない。
「みんながいたし、相手は凄すぎた。逃げて逃げ切れるものじゃない。だから護衛たちは戦う道を選んだし、今考えてみてもそれは正しい選択だったと思う。でも、結果はこれだ。6人もの人間が死んで、俺たちも殺されかけた」
 俺は少しだけ首を動かして、暖かい午後の日差しが差し込んでくる出窓に視線を向けた。窓からは瑞々しい緑の葉をつけた木々が見え、その枝には首をきょろきょろと動かす小鳥が止まっている。
「俺もなんとかできると思ってたよ。そう信じきっていた。舞がいるし、護衛たちもついてる。俺にだってロマンサーがあるし。相手がアジア最強だろうとなんだろうと、どうにかなって、みんな揃って生きて帰れるはずだって、そう確信してた」
 だけど、その確信に根拠なんてなかった。現実を知らない、バカな子供の思い込みだった。多分、砕破が圧倒的な実力差を見せ付けることで俺に刻んでいったのは、そういうことだ。
 世界は俺ではなく、砕破を選んだ――。
「自分は特別か? 自分だけは例外か? 自分は物語の主役か? その根拠はどこにある。お前の認識の甘さは無様を通り越して哀れだな、相沢祐一」
 やつのあの言葉は、正しかった。そして、俺は間違っていた。今、こうして包帯を身体中に巻かれてベッドに横たわっているという現実は、それを証明している。
 俺は特別じゃない。例外じゃない。物語の主役じゃない。俺の希望的観測に根拠はない。俺は憐れなほど認識力のない、無様な負け犬だった。
「情けないよな。名雪、俺はさ、現実ってやつを知らなかったらしい。井の中から這い出て大海に向かっても、そこで充分通用する逸材だと自分を勘違いしていたらしい」
 でも初めて見る大海の波は、俺のちんけな想像の産物なんかとは比較にならないほどデカくて、恐ろしくて。俺は何もできないまま、ただ押し潰されて藻屑にされかけた。
「今回のことで、それを思い知らされたよ」
「うーん……」名雪は少しだけ何か考える素振りをみせると、小さく唸った。
「なんだ?」
「もしかすると、私もそうだったのかもしれないよ。今の祐一みたいに」
 そう言って、彼女は照れたように笑う。
「あのね。私、中距離だけなんだけどね、学年で一番走るのが早かったんだよ。だから1年生からレギュラーに入れて、地区大会なんかでも優勝できたんだ。県大会に出場が決まった時も、1等賞になるんだって自信満々だった。だって私、あんまり誰かに負けたことってなかったから」
 その話なら、聞いたことがある。いつだったか、「なんで名雪はあきもせずに毎日走るんですかね?」なんて訊いたとき、確か、秋子さんが言ってた。名雪は、小さなころから走ることが好きな子だった、と。
「でもね、6番だったよ。同じ順番で走ったグループの、最後から2番目の順位だった。グループで見てそれだもん。全体では入賞すらできなかったの」
 そういうのって良くあることだよね、と彼女は悪戯っぽく舌を出す。
「県大会じゃ、私はダメだったよ。まして全国、世界を見たら私なんかじゃ相手にもならない人たちが沢山いるだろうって思い知らされた。結局、私がいつも1等賞でいられたのは、自分の通っている学校の小さなグラウンドの中だけ。――そのことが初めて分かったときね、なんだか怖くて悲しくて、ちょっとだけ、その夜お母さんに甘えちゃった」
 そこで、名雪は口をつぐんだ。俺は黙して続きを待ったが、結局彼女が再び口を開くことはなかった。ただ何かを期待するように、じっと俺を見詰めている。その目は、なんだか秋子さんが度々見せるそれととても良く似ているような気がした。
 そんな不可思議な沈黙がしばらく続いたあと、俺は唐突に気付いた。名雪は2年生の終わりに陸上部の部長になった。そして今も走り続けている。水瀬家の客間には、彼女が県大会で入賞し、全国への切符を掴んだ時の表彰状が飾られている。それが彼女の答えなのだ、と。名雪が続きを言わなかったのは、語る言葉を持たなかったからじゃない。体《たい》でそれを示してきたからだ。言葉よりも雄弁に、生き方でものを語ることができるからだ。
 同時に、俺はもうひとつ重要なことに気付いた。確かに砕破の主張は正しかった。俺は何も知らないくせ、根拠のない自信を振りかざすバカ野郎だった。でも、全てを誤っていたわけではない。こういう形で結果が出てなお、変わらない主張もある。
 あの時、俺はこう考えていた。大海に出た蛙の多くは世間の厳しさを認識して萎縮し、自己評価を矮小化させてしまう。そして現実に妥協して、折り合いつけて生きていくようになる、と。
 そしてこうも思っていた。だが、そんなことは放っておいても誰かがやる。誰でもやる。もしその上を行きたいのなら、世界を知ってビビったまま逃げ出すなんてことは他のやつにやらせておいて、自分は先に進むしかない。
 ――そうだ。砕破にコテンパンにやられて、そこで終わったんじゃ、世界レヴェルの力にビビって尻尾巻いて逃げる負け犬と同じだ。本当に、相沢祐一をその辺の蛙で終わらせてしまうことになる。そんな普通のこと、俺がやっていいのか? なんのために、今までスプーキィだの変人だのエロガッパだの言われ続けてきた?
 なにより、格好悪い。俺は、そういう俺が嫌いだ。好きになれない。これから自信を持って、あゆを抱き締めたり、舞にチューしたりもできなくなる。それは相当嫌だ。命に代えても嫌だ。
 それは、Y'sromancerのすることじゃない。

「よーし、俺は決めたぞ。名雪」
 俺は勢い良く上半身を起こすと、気合を込めてガッと左拳を握り締めた。本当は、肋骨が響いて痛かったけど、それを顔に出さないのが男の子だ。
「えっ、なに?」
「いいか、取り敢えず俺は今からトイレに行く!」
 実は、丸1日寝ていたせいか、その辺が既に限界寸前だったりする。
「そしてこの部屋にとってかえし、このプレタマンジェのサンドウィッチを貪り食う!」
 そのサンドウィッチを食いながら、次に砕破が襲ってきたとき、どうやって名雪たちを守りながらトンズラ決め込むか、作戦を練ろう。砕破に勝つのは、それからでいい。まず、特殊能力を持つ砕破に対し、なんの能力も持たない俺にどんなことができるのか、それを考えるべきだ。
 さっそく逃げる作戦を立てようというところが情けなくはあるけど、仕方がない。今の俺には、出来ることからやっていくしかないわけだから。そして出来ないことは、周りにいる人たちの力を借りてなんとかしてこうと思う。その過程の中で、力をつけていけば良い。
 強くなるために、今は認めよう。俺はガキだ。井の中から這い出たばかりのルーキィだ。何の力も取り柄もない。この先、使い物になるかも分からない、舞や鷹山さんたちの足手まといだ。
 それでも、ひとつだけ言えることがある。俺は弱くて、砕破には勝てないかもしれないけど――でも、俺たちは負けない。個人戦はむりでも、団体戦でなら勝つ。次は、それを砕破に俺が刻み込んでやる番だ。
「首尾良くプレタマンジェを食い終わったら、次は体力を回復させるために惰眠をむさぼる! そして、裸の舞とか香里とかが出てくるすごくエッチな夢を見て、謎のエネルギャーを体全身に漲らせるっ。どうだ、このプランは。完璧かっ! パーフェクトかっ?」
「うん。頑張ってね」
 名雪は満面の笑みを浮かべた。こいつは、ちゃんと分かって言っているのだろうか?
「……良く分からんが、お前、ずいぶんと嬉しそうだな」
「だって、祐一、復活したみたいだから。それも、私が考えたのよりず〜っと早く。前の祐一だったら、もっと凄く時間がかかってたはずだよ。だから、私、嬉しいんだよ〜」
 そんな謎の言葉とともに名雪は踵を返し、弾むような足取りで出口へと向かって行った。なにか喜んでいるらしいことはうかがえるが、それ以外はわけが分からない。
「トイレにいってサンドウィチ食うのが復活になるのか?」俺はその背に問いかけた。
「分からないならいいんだよ」何が楽しいのか、彼女はくすくすと笑う。「……私はただ、祐一はそういう風に、いかにも『何か企んでます』って顔で笑ってるのが一番だと思うだけ」
 そう言い残して部屋から出ると、名雪はひょいっと一瞬だけ顔を覗かせた。そして丸っこい握りこぶしを見せて、にまーっと無気味に笑う。
「祐一。ふぁいとっ、だよ」



Ingland U.K.
Fri,4 August 2000 07:42 A.M.
2000年 8月4日 午前7時42分 ロンドン郊外 相沢家

『結合(FIXUS)』

 ドクター・シルヴィの宣言と共に、KsX-Rは再び俺の右腕として機能するようになった。今、俺の体内ではシルヴィの分身とも言えるILISたちが、消滅と増殖を繰り返しながら絶え間なくエネルギィを生み出してくれているはずだ。その力を借りて、俺のKsXは稼動する。
 そう考えると――たぶん気のせいだろうが――体中に力が漲ってくるような、不思議な感覚に襲われた。義手自身の方も、試しに何度か拳を握ったり開いたりを繰り返してみたが、やはり快調だった。まあこの点に関しては、最初から心配なんてしてなかったけど。カストゥール研のスタッフの仕事は、いつだって完璧なのだ。
「どう、相沢君?」
 香里が少し心配そうに聞いてくる。
「おう、問題ないぞ。前より調子良いくらいだ」
 俺は右腕をブンブンと勢い良く振りまわしてみせた。
 ――聞くところによると、砕破のF.S.C.を食らったとき、KsXは俺の右手から外れて、あらぬ方向へ吹っ飛ばされてしまったそうだ。結局、少し離れた場所でKsXは発見・回収されたそうだが、関節部分を動かしているギアをはじめ、何ヶ所かが壊れてしまっていたらしい。そんなわけで、俺が意識を失っている間、その修理のために、香里、天野、それに親父の3人が遥々スイスはカストゥール研究所までいってくれたというわけ。そうしてリペア済みのKsXを持ち帰ってきてくれたのが、数時間前のことだ。
「マリアの話によるとな、また近々ヴァージョンアップできそうなんだと」
 リヴィングにある3人掛けのソファに座った親父が、コーラの入ったグラスを片手に言った。俺の右を修理するついでに、メンテでも受けてきたのだろうか。やつの左手はいつにも増して軽快に動いているように見える。
 今、俺たちがいるのはダイニングキッチンとつながった相沢家のリヴィングルームで、俺、母さん、親父、そして名雪と天野、香里の6人が各々の飲み物を手に好きなところに陣取っている。ほかの連中は、ロンドン市内にあるホテルで鷹山さんたちボディガードと一緒に留守番しているそうだ。基本的に、このイングランドでの相沢家は、親父と母さんが二人で生活することを前提としているため、大人数で押しかけられるような空間的余裕がないのだ。
「へえ……ヴァージョンアップねえ。それって、どんな?」
 俺は興味津々で訊いた。またとんでもない新機能が搭載されたりするんだろうか。ドキドキだ。
「確か、特殊効果をプラグイン式にするとか言ってたな」
 恐らく、半分は適当に聞き流していたのだろう。親父の言葉は要領を得ない。
「本体にスロットをつけて、そこにクレジット・カードみたいなカートリッジを挿入するんだそうだ。カードごとに、今までの『圧殺』とか『煉獄』とかの独立したプログラムがされていて、それを組み合わせることでヴァリエーションが増えるとかなんとか」
「なんだか面倒になりそうだな。つまり、そのカートリッジとやらをインサート(挿入)しないと、特殊モードが発動しなくなるわけだろう? WINDOWSじゃあるまいし、ヴァージョンアップで余計な機能つけて退化させてちゃ世話ないぜ」
「あなたが滅茶苦茶に扱ったりするからよ」
 香里が紅茶をひとくち含むと、呆れ混じりの口調で言った。ちなみに、彼女のティカップの中身はオーガニック・アールグレイというスリランカ産の紅茶だ。俺も同じものを母さんに用意してもらったのだが、なかなか美味しい。
「カストゥール研の人たちも困り果ててたわよ。渡して間もないのに、もう特殊モードを連発させて故障させちゃうなんてね」
「そんなの、砕破やキイスに言ってやってくれよ」
 俺は被害者だぜ、と肩を竦めながら主張してみた。だが勿論のこと、そんなものが通用する香里ではない。即座に冷たいお言葉が返ってきた。
「ともかく、相沢君があまりに荒い使い方をするから、そういうプラグイン方式にして簡単には使えないようなシステムにしたくなるわけよ。もうちょっと慎重かつ丁寧に使ってくれっていう、カストゥール研のスタッフたちの無言のアピールね、これは」
「なんで俺ばっかり非難されるんだ」
 死にかけて、肋骨にヒビも入ってるのに酷い仕打ちだ。もっと労わってくれても罰はあたらないだろうに。
「なあ、天野ぉ。みんなが俺を苛めるんだ。助けてくれよう」
 ひとり静かに緑茶をすすっている天野に助けを求める。
「相沢さんは他人を心配させるのが得意ですからね。首に鈴なり縄なりを付けておきたくもなるんですよ」
 抱き着こうとした俺を阻止しながら、天野は人のことをまるで犬や猫のように言ってくれる。
「少しは自覚してください。あなたは多くの人に慕われているんです。なにかあったら、その人たちをとても悲しませることになるんですよ」
「天野も、その多くの人ってのに含まれてるのか?」
「――当然です。この場にいる全ての人々は、そういった関係によって結ばれているのだと私は認識しています。相沢さんは違うんですか?」
 そういう言い方をされると、言葉に困る。否定したら、間違いなく俺は悪者決定だ。仕方なく、俺は話題を変えて逃げることにした。ターゲットには、今キッチンからスコーンの入った器を運んできた母さんを定める。
「ねえ、母さん。ちょっと頼みがあるんだけど」
「なに、祐一」
 彼女はスコーンをダイニングのテーブルに置くと、柔らかく微笑んで俺に目を向けた。
「もし使ってないギターあったら、1本くれないかな。いや、貸してくれるだけでもいいんだけど」
「ギターを?」
 母さんは一瞬だけ驚いたような顔をしたように見えたが、俺の気のせいだったのかもしれない。
「そう、いいわ。種類は?」
「なんでも良いよ。あまってるのがあれば、それで。出来ればエレキよりアコギ系の方がいいけど」
 アコースティック・ギターの方が、なにかと融通が利く。まさか舞を寝かしつけるのにエレキギターをかき鳴らすわけにもいかないだろう。それに、俺の知り合いにはロックよりもバラードやフォーク、童謡なんかを好む人が多い。――あいつも、きっとそうだろうから。
「分かったわ、少し待っていて」
 そう言い残すと、母さんはさっさとダイニングルームから出ていった。彼女や親父は、プロとして音にこだわる。当然、木材を使った弦楽器の保管にも凄く気を使っていて、ここロンドンでも住居の一室を丸ごと楽器保管庫に割り当て、温度と湿度を調整しながら大切に使っているのだ。母さんは、多分その部屋にギターを取りに行ったのだろう。別に今すぐに渡してくれなくても良かったのだが、考えてみれば午後の便で俺たちは日本に戻ることになっている。さっさと荷造りしないといけないんだった。

「祐一、これでいいかしら」
 5分ほどして戻ってきた母さんは、クラシックな黒いケースごと、1本のギターを俺に手渡してくれた。俺は礼を言ってそれを受け取ると、さっそくケースを開けて中身を確認してみることにした。場の全員が、その様子を興味深く観察しているのが分かる。親父もニヤニヤと笑いながら、コーラ片手にことの成り行きを見守っているようだ。
 ケースの中から出てきたのは、年季の入ったアコースティック・ギターだった。良く使いこんであるのが一目で分かるが、同時に欠かすことなく丁寧に手入れされてきたことも分かる。
 楽器は生き物だ。育て方で、奏でる音色が違ってくる。長く大切に育めば、きっと相棒は最高の音をもって俺たちに返してくれるものだ。――まあ、これは母さんの受け売りなんだけどね。とにかく、俺は楽器を野球グローブみたいなものだと思っている。新品はいくら上等のものでも、硬いし違和感はあるしで使いにくい。だけど時間をかけて使い込んでいくことで、本来の性能が発揮されていく。楽器との共通点だ。
「気に入ってくれたなら、今日からそれはあなたのものよ」
 そう言って母さんは嫣然と微笑んだ。でも、俺はそれどころじゃない。
「ちょっ、母さん! これって、母さんが凄く大事にしてた……」
 長い年月を人と共に過ごしてきたギターだけが持ち得る、その独特の色艶と存在感、そして鳥と蝶が彫刻された特徴的なピックガードには覚えがあった。彼女が独身時代から使ってきた、アコースティック・ギター。GIBSONが誇るHummingbirdシリーズ、そのモデル'61だ。
 相沢家においては、3大アコギという概念が存在する。いずれも相沢夏夜子が古くから用途に応じて愛用してきたもので、ひとつは専らインストルメントに使用しているMartinのD-45モデル。これは、彼女のテクニックが最も活かされる、音の正確さと精密さにおいては、右に出るものがないものだ。ふたつめは、GIBSONのモデルJ-45。ソロでの語り弾きに最適なギターで、繊細さ、深み、枯れた独特の低音などが特徴的な、玄人仕様の一品だ。
 そしてみっつめがこのギター、同じくGIBSONのHummingbirdだ。あたたかみに溢れたやさしい音色が特徴的なこのギターは、雰囲気的にも母さんにとても良く似合っていると俺は思う。このギターを奏でながら、その調べにのせて優しく歌う母さんは、いつだって幸せそうに柔らかく微笑む。ガキの頃の俺は、そんな母さんを眺めているのがとても好きだった。凄く穏やかになれて――そう、ああいうのを癒されるというのかもしれない。
 親父がチェロを持って単身世界に乗り込んだように、彼女はこのギターを背負って海を渡り、ひとりでこのロンドンにやってきた。そしてミーンフィドラーでも著名な語り弾きの名手となり、歌姫の誉れで称えられるようになったという。その頃からの熱狂的なファンは、ロックをやるようになったY'sromancerのカヨコ・アイザワを未だに追いかけてきてくれているとも聞く。
 俺が、まだその胎内で眠っているときも、彼女はこれを愛用していたという話だ。このギターの音色を聞く度に、何故か望郷のそれにもにた懐かしさを感じるのはそのせいかもしれない。ギタリスト以前に、これまでの母さんの半生を省みれば、その傍らには常にこのHummingbirdがあったはずだ。付き合いの長さだけで言えば、親父を超えるほどに古いのだろう。
 ――このギターは、間違いなく相沢夏夜子の歴史そのものなんだ。

「駄目だよ、母さん。こんな……ハミングバードなんて貰えない。これは母さんが持ってなきゃいけないものだって」
「いいのよ。それは受け継がれていくものなんだから。私も、母から貰ったものだし」
 母さんはその当時のことを思い起こしているのか、少し遠い目をした。
「いい機会だと思ったの。ここで久しぶりに祐一と会って、そのときが来たんだって分かったわ」
「でも――」
 彼女の想いは嬉しいが、それでも抵抗があった。畏怖の念といっても良い。それは、スイスのカストゥール研でKsXを授かるときに胸に抱いた感情とよく似ていた。それを所有するという意味。その重み。そういったものを正しく認識したとき、受け継ぐ者は双肩に大きな荷を背負うことになる。そして問わねばならない。俺は、これを手にするに相応しい人間だろうか、と。
「大事にしてあげて。そしていつか聴かせてね。そのギターで、祐一がどんな音を作るのか楽しみにしているわ。あなたの大切な人たちと、これからゆっくり育みなさい」
 そして彼女は言いそえた。少し遅れたけれど、18歳の誕生日おめでとう、と。
 その笑顔に、俺はこれを受け取らなければならないことを悟った。
「分かった。これは俺が預かっておくよ。そして大事にする。俺に渡したのは間違いだったなんて、母さんに後悔させたりしないように」
 その言葉を耳にした母さんは誇らしげに頷くと、ギターごと俺を抱きしめ、イングランドの母が旅立っていく子供を送り出すときにあげるキスを、左頬にくれた。
 幸運の弾丸、歯型に歪んだ弾丸、黒い右腕、それに伴う新しい世界。そして、この囀《さえず》る鳥。

 ――俺はこの北の国で、偉大なる人々から最高の贈り物を得た。



London (Heathrow) Airport
Fri,4 August 2000 12:18 P.M.
同日 午後12時18分 ロンドン ヒースロー空港

 近代的な高層ターミナル・ビルの隙間から覗く蒼穹は、爽快に晴れ渡っていた。絶好のフライト日和とでも言うべきか、こう天気が良いと予定になくても空を飛んでみたくもなるものだ。8月に入ったばかりということを考えれば風が幾分冷たいような気もするが、それもご愛嬌。半日後に辿り着くであろう母国でも、同じような快晴が広がっていることを祈りたい。
「はー、しかし」
 人気の全くない展望台で、俺は思いきり伸びをしながら言った。ここしばらく、怪我のせいで室内に篭りきりだったこともあって、燦燦と降り注ぐ真夏の太陽がとても心地よい。
「本当に色んなことがあったよなあ、今回の旅行ではさ」
 改めて回想してみて、しみじみとそう思う。こんな旅になるだなんて、当初は想像さえしていなかった。まあ、当たり前の話なんだけど。
 最初に、みんなとY'sのギグに行って――ここまでは予定通りだったんだけど、それからサイバーなんとかにいきなり襲われて。そうかと思えばキイスと再会して、あゆと一緒に爆弾満載の倉庫に閉じ込められた、なんてこともあったし。そのおかげで俺は右手を切断して、新しい腕として義手をつけるようになった。
 それだけハプニングが連続すればもう充分、むしろ、もう好い加減にしておけという感じだが、生憎とそれからもまだ結構な事件が続いたよな。キイスと高層ビルの屋上で戦うなんていう、ハリウッド映画みたいなこともしたし。挙句、砕破たちに殺されかけもした。おかげで、もう散々だ。こっちに来たのが7月の21日だろう? そして8月4日の今日に帰国するわけだから、滞在期間は約2週間。たったそれだけの間で、俺は一体何回病院送りになったことか。なんか、イングランドにくるたびに骨折して入院しているような気がするのは俺だけだろうか。
「冗談じゃねえよ、まったく。思い出したら、腹が立ってきた」
「まあ、お前にしてはなかなかハードだったかもな」
 横に並んで空港の景色を見下ろしながら、親父が得意の憎まれ口をたたいた。
「だけどまあ、そういう旅に限って一生もんの思い出になるもんさ。10年もすりゃ、あの嬢ちゃんたちと笑って話せるようになる。良いネタさ」
「それはそうなのかも知れないけどさ、物には限度ってもんがあるんだぜ?」
 世界中を旅して回った経験を持つ親父が言うと、なんとなく説得力がある。しかし、だ。いくら思い出ばなしのネタになるからといって、喜んで自分の利き腕を切断するやつもいないだろう。
「ばーか。俺の辞書に、限度と妥協の文字はないんだよ。ちゃんと塗りつぶしてある。油性マジックでな」
「ああ、そうだろうよ」
 思わず苦笑を禁じえなかった。ちなみに、俺の場合は「早起き」の文字を塗りつぶしていたりする。ただしマジックペンは黒の水性で、辞書は名雪所有のものだ。

 今、俺たちはヒースロー空港に来ている。もちろん、これから国際線を利用して日本に帰国するためだ。ただ、少し早く到着しすぎたため、チェックインを済ませるまで自由時間を取っている次第だ。空港内は広くて、土産物屋や各種免税店などをはじめとして色々なテナントがある。個性豊かな人材が揃っている俺たちは、一旦解散して集合時刻と場所を決めると、各々の好きな場所を回ることになった。考え方や価値観が違えば、興味を持つものや面白いと思うものも変わってくる。みんなでゾロゾロと歩いて回る必要はないってことだ。
 ちなみに、舞と佐祐理さんはリフレッシュ・コーナーとかいう、寝椅子のような柔らかいソファのある場所に行って、時間まで休んでいるそうだ。まだ体調が戻らない舞を気遣って、佐祐理さんが付き合うという形なんだろう。
 対してアクティヴな選択肢を取ったのは、デコボコ・コンビの美坂姉妹だ。彼女たちは、ふたりで仲良く空港内を探検しに行った。出発するときに見た、姉の手をグイグイと元気に引っ張っていく栞の姿が実に印象的だったよな。このパターンでいくと、香里は随分と振りまわされることになりそうだ。帰ってきたとき、きっと彼女は疲労困憊だろう。
 あゆのやつは、天野と一緒に、やはりどこかに遊びに行ってしまった。この組み合わせは意外と新鮮に見えなくもないが、天野は面倒見の良い娘だ。母性というか、なんとなく包容力がありそうな感じがするんだよな。あゆが懐くのも、なんとなく分かるような気がする。日本でも、大検を目指すあゆに、天野がたびたび勉強を教えているという光景を見かけたから、それを切っ掛けに結構仲良くなったのだろう。
 ミッシーは撃たれた時の傷が心配ではあるが、本人は掠っただけだと言っているし、その言葉通り平気そうにしているから、それを信じることにした。彼女に任せておけば、あゆが迷子になる心配もないだろう。あまり本人には言わないが、こういう時の天野は凄く頼れる存在だ。
 ――とまあ、こんな具合でバラバラに散っていったAMSのメンバーなんだが、当然のことながら、彼女たちにはそれぞれに護衛がついた。国際空港は、テロ対策のために色々とチェックが厳しいため少しは安心できるが、万一ということもある。念には念を入れて、万全を期していきたいものだ。またいつ砕破たちが態勢を整えて襲撃してくるか分からないからな。

「名雪ちゃんはどうだったかしら。楽しかった?」
 母さんが、並んで手すりに凭れている名雪に訊いた。ふたりが並んでいると、一見、親子に見える。それくらい、母さんと秋子さんは似てるんだよな。母さんがこっちに引っ越すまでは、良く一卵性の双子に間違えられたって聞くけど、それも無理はないと思う。
「うん。とっても楽しかったよ。小母さん、また来てもいい?」
 名雪は満面の笑みを湛えて、元気に言った。それだけ見るに、色々あったけど彼女も今回の旅に何かしら得るものを感じ取ったらしい。喜ぶべきことだ。
「ええ。是非そうしてね。私たちはいつでも歓迎よ」
 俺たち相沢家は、水瀬家と一緒に小さく迫り出した展望台に来ている。あまり知られていない場所で、かつ時期と時間が微妙なせいか周囲に人の姿はない。というより、遠く離れたところにポツポツと人影が見られる以外は、俺たち5人がこの場を占領しているといった感じだ。
 ここに人が寄り付かないのは、展望台とはいっても、周囲に立ち塞がるほかのターミナルビルに視界が遮られていて、全くと言っていいほど景色が宜しくないからだろう。好き好んで日陰の寂しい場所に来たがるやつはそうそういないだろうしな。
「でも、帰ったら受験勉強だね。うー、大変そうだよ」
 名雪は眉をハの字にして、悲しそうに言った。
「そう言えばそうか。スポーンと忘れてたけど、俺たちって一応受験生だもんな」
 名雪に言われて、俺はようやくそのことを思い出した。まあ、片腕を永遠に失って、いきなり身体障害者になっちまったり、好きな女が目の前で撃たれて死にかけたり、はっきり言ってそれどころじゃなかったからな、最近の俺たちは。
「きっと、あれだな。残りの夏休みは香里のスパルタ教育が待ちうけてるんだろうな」
「うう〜、香里は先生に向いてないよ。最近、寝たらスタンガンとか使ってくるし」
 今にも泣き出しそうな顔で情けない声をあげる名雪に、思わず頬が緩んでしまう。
 なんだか、受験のことが話題になると、途端に雰囲気が和んだような気がした。気分も落ち着いて、凄くリラックスできる。それだけ、日常に近しい話題だってことなんだろうな。非日常に片足突っ込んでいると、それが酷く懐かしいものに思えてくるのも仕方が無いことだ。
 ――しかし、なんだ。こうなってみて分かったんだが、受験ってやつは、どうやら俺たちが思っていたほど、人生にとっての大きなイヴェントというわけでもないらしい。生きるか死ぬかって体験を経た今となっては、受験で悩めるのは、むしろ幸せなことなんじゃないかとさえ思える。所詮、幸せ者のガキの悩みなんだなって。
 よくよく考えてみれば、まず受験できるってことだけでも恵まれてるんだよな。北川なんかは、帰国した途端に両親の失踪が明らかになって、予定していた受験すら危ぶまれる状況に陥ったと聞く。親がいなくなって経済的に困ったあいつは、受験しても大学生活を送っていけるかが非常に微妙なんだそうだ。本人は、奨学金を当たってみるとか言っていたが、大丈夫だろうか。
 受験受験と、まるで「今の自分が世界で一番困難な試練に挑んでいる人間だ」……ってな気分の時は気付かなかったが、合格すれば大学に入学できて、きっちりと学生生活を維持できるって保証があるだけで、そいつは充分過ぎるほど恵まれているんじゃないだろうか。北川のように、行きたくてもいけない奴だっているし、俺たちのように、合格したところで大学行く前に殺されそうな人間だっている。
 そう言えばこの前、「大学行くなら学費は自分で工面しろ」とか親父が言ってたからなあ。食っていく分の金は出すが、大学なんて生きていくのに必要な分を超えて、さらに勉強したいっていう酔狂で行く場所なんだから、それに金を出す気なんてないってことだろう。これは、大問題だ。なんの根拠もなく、大学に行くと言えば親が金を出してくれると思っていた俺としては、いきなり窮地に陥ったことになる。――佐祐理さんが助けてくれるって言ってくれなかったら、恐らく俺は、受験をする意味を失ってたんじゃないだろうか。
 そして多分、俺や北川の例は別に特別なものなんかじゃないんだ。親がいない、金がない、そんな環境にいて、明日をどうやって生きようかって悩んでるやつは、俺たちが思っているよりも意外と大勢いて、そいつらは受験やらなにやら以前のことで、本当に苦労しながら生きている。辛くて大変なのは、俺だけじゃない。
 そういったことを実感として理解できるようになったのは、要するに俺自身が、その受験どころの騒ぎではない苦労を背負う側に回ったからなんだろう。そんなことを、少しだけ真面目に考えたりもする今日この頃だ。

「はぁ……世の中って、本当に広いよなあ。色んな奴がいてさ」
「なんだ、やぶから棒に」
 親父は苦笑しながら、俺の顔を見やった。似合わないこと言ってやがる、とでも思ってるんだろう。実際、確かに俺にはサッパリそぐわない言葉だ。でも、そう実感させられる経験が、この地にはあった。
「あって当たり前とか、できて当然とかさ、そんな風に思ってることって、実は全然当たり前でも当然でもないんじゃないか、なんて思ってさ」
 ターミナルの隙間を駆け抜ける突風が俺たちを煽り、髪をクシャクシャに乱していった。俺は自分の右手をぼんやりと見つめながら、なぜここに人が寄り付かないかの、更なる一因を知る。
「生まれた頃から当たり前に持ってたからな。右腕なんて、あって当然だと思ってた。五体満足で当たり前なんだって。でも、俺は無くした。永遠に、もうこの腕は元には戻らない。死ぬまで身体障害者だ。……そうなってはじめて、自分と同じように何かを無くしてしまった人間って、思っていたよりずっと多いんじゃないだろうかって、実感として掴めてきた」
 ま、俺の場合は、失うことを自分で選んだんだけどな。
「そういう勘違いとか思い上がりって、きっと誰にでも小なりあるんだろうな。事故にあうのなんて他人事だ、とかさ。うちの会社は潰れないだろう、自分の恋人に限って浮気なんかはしないだろう、俺だけはきっと幸せになれるだろう、……まあ、パターンは色々だろうけど。
 頭のなかじゃ、自分も事故にあう可能性はある、不測の事態が降りかかることもありえるって理解はしていても、心のどこかじゃ思ってるもんさ。自分だけは例外、自分に限ってあり得ないってな。だけど、それには何の根拠も無い。単なる勘違いだっていうんだから、笑えない話だ」
 ――砕破。イヤってほど、そのことをアイツに思い知らされた。
「人間って馬鹿だからさ、痛い目みて自分でその痛みを実感してみないと分からなかったり、気付けなかったりするもんなのかもな」
「なるほど……」親父はニヤリと、根性のねじねじ曲がった邪悪な笑みを浮かべた。
「砕破ってガキにコテンパンに伸されたのが、相当きいたと見える」
 そうして肩を竦めると、親父は更に続けた。
「まあ、お前はそういうタイプだろう。調子に乗って、粋がって。で、それが手前のひとり相撲だったって気付くところから本番ってな」
「じゃあ、祐一はこれからが本番ってことかな?」
 名雪が俺の顔を不思議そうに見上げながら、自信なさそうに言う。彼女だけではなく、母さんも秋子さんも、俺たちの会話に興味を持ったようだった。こちらに視線を向けて、話の行く先を見守っている。
「こいつはな、名雪ちゃん。救いようのない馬鹿だから、いっぺん死ぬ目にあわないと物事を理解できねえのさ。そのことを18にもなってようやく自覚したってんだから、もう馬鹿は証明されたようなもんだ。確定的だね」
 親父はポンポンと気安く俺の頭を叩く。頭に来たので、それを振り払ってやった。
「なあ、ガキども。お前らは、虎がなんで強いか知ってるか?」
 今朝、手入れをしなかったらしい。親父は無精ひげを撫でながら、俺と名雪に問いかけてきた。
「うー」名雪は唸りながらしばらく考えていたが、意外とあっさり根を上げた。「分からないよ」
「簡単だ。虎は生まれたときから強いからだ。元から強い存在として、生まれてきたからだ」
「そんなこと言ったら、身も蓋もないじゃんか」すかさず文句を言ってやる。
「世の中には、そういう身も蓋もない話ばっか転がってるんだよ。たとえば、その素晴らしく具体的な例が、俺だ。俺はまさしく虎タイプ。生まれたときから、風格があって、カッチョ良くて、あまつさえ強い。強いことにに根拠はなんざいらねえ。俺が相沢芳樹ってだけで、強い理由は充分なんだ」
「ケッ、言ってろよ」
 悪態をつくと、母さんと秋子さんが同時に笑った。
「そこへいくと、祐一。お前は、ハイエナとか狼とかその辺だ。ひとりじゃ満足に狩りもできない。いつも誰かとつるんで、その中で何とか自分に出来そうな役割を演じていくしかないわけだ。だから無論のこと、お前たちが強くなるには理由が要る。生き残るためには、経験、努力、作戦、協力、仲間、まあそういった因子が必要になってくるわけだ。俺とは全然違う」
「でも――ひとくちに強いって言っても、それだと虎と狼とじゃ、強さの質が全然違うような気もするけど」
 名雪はあごに人差し指を添えながら、実に女の子チックに言った。だが、なんとなく彼女にはそんなポーズが自然と似合う。そういうキャラクターなのだろう。
「そうさ。強さには色々種類がある。祐一狼が、俺のような王の資質を持った強さを狙おうとしても無駄な話だ。人には向き不向きってもんがあるしな」
「はいはい。言ってろ」
 結局、この男は自分の偉大さを、俺を諧謔の槍玉にあげながらアピールしたかっただけなのではないだろうか。そんな疑惑の念が俺の胸中を支配しつつあった。

「俺はな、弱い奴のことを全く理解できねえ。いや、理解はできるが、実感として掴めないっていうのが正解かな。なんで世間の連中は、自分の言いたいことも満足に言えないのか、どうして自分の意思を貫けないのか、なんだって言い訳ばっかあれこれ並べて、やらなくちゃならないことから逃げようとしたがるのか、もうサッパリだ。全然分からねー。
 それは多分、やつらにできないことを、俺は生まれながらに出来る人間だからなんだろう。連中がどうにかして手に入れるべきものを、俺は生まれながらに備えているから。勝ち取る以前に、既に持っているからだ」
 そこまで言うと、親父は俺を睨み付けるように険しく見下ろした。
「だけどな、祐一。お前は、そんな連中の気持ちが痛いほど良く分かるんじゃないか? 実感として掴めるし、そいつらがどうしていけば良いかを知ってる。そいつらと一緒に生きて、そいつらの中から何か吸収できたりもする。違うか?」
 ――そうなのかもしれない。そう思ったが、口に出して答えるより先に親父は話の先を続けた。
「そりゃ何でかって言えば、お前が群れで生きるタイプの存在だからだろう。弱いからこそ、そうなんじゃないか? 強くなるために必要なものがあるからこそ、理解できる世界がある。……だろう? 虎には虎にしかできないこと、狼には狼になら出来ることがある。多分、それが大事なんだよ」
 親父の話を聞いて思った。ならば、狼のような生き方はとても人間らしいのではないか、と。確かに、虎みたいにデカイことはできないかもしれない。結局、虎の王座には辿り着けないかもしれない。でも、俺には似合いの生き方のように思える。
 狼、結構。俺は、それが気に入った。
「狼はな、動物の中で家族を一番大切にする生き物だ。……だから時々、ほんの時々だが、一瞬だけ狼の生まれを羨ましいと思うこともあるよ」
 そう締めくくった親父の顔は、どこか寂しげにも見えた。
「じゃあ、さ。親父、ひとつ聞かせてくれよ」
 俺はなんとなく、親父の言いたいことを理解しつつあった。
「その弱っちい狼が自分なりの最強のパーティを組んで、集団としての強さを追求したとき、王たる虎と張り合えるまでになるもんか?」
 俺のその問いに、親父は予想していた通りの答えをそのまま返してきた。
 それは、これからお前が自分で確かめろ、と。

「――名雪、祐一さん」
 俺たちの話を黙って聞いていた秋子さんが、自分の左手首を示しながら静かに言った。
「そろそろ時間よ。いかなくちゃ」
 言われて自分の腕時計に目をやると、確かにもう約束の時間が迫っていた。知らないうちに、随分と長話になっていたらしい。一旦、話し込むと時間を忘れてしまうのが相沢家ディベートの欠点だ。
「もうそんな時間なのね。……それじゃあ名残惜しいけど、秋子、気をつけて。もうしばらく、祐一をよろしくお願いするわね」
「姉さん、本当にありがとう。会えて嬉しかった」
 そう囁きあうと、双子のように似通った夫須美《ふすみ》姉妹は控えめに抱き合った。
「小母さんたちはこれからどうするんですか?」
「またお仕事よ。夜からだけど」
 名雪の質問に、妹との抱擁を解くと、母さんは柔らかく微笑みながら答えた。
「コンピュータのソフトウェア関連のベンチャービジネス企業が、新規立ち上げのパーティをやるそうなんだけど、Y'sはそのゲストに招かれているの。彼らの門出を祝って、一曲プレゼントしてくるわ」
「わ、そんなお仕事もあるんだ。私、ライヴだけだと思ってた」
 名雪は両手を組んで、白馬の王子でも夢見るような顔で目をキラキラさせた。Y'sが住むのは、名雪にとっての完全な別世界だ。きっと、色々な憧れや幻想があったりするんだろう。
「ま、GIGってのも毎日できるもんでもないからな。俺たちの曲が聞きたいって言うんなら、聞かせてやるのも一興さ」
 親父が頭の後ろで両手を組み、後ろ向きに手すりに寄りかかりながら言った。
「どういうタイミングになるか分からないけれど、私たちも年末年始は一度日本に戻るつもりだから」
「じゃあ、また半年もすれば会えるのね」
 母さんたち姉妹は、嬉しそうに微笑を交換し合う。
「おし。じゃあ、嬢ちゃんたちにちょっと挨拶してから、俺たちも帰るとするか」
 親父は手すりから身を離すと、ぶらぶらと歩きはじめた。母さんと秋子さんがその後を追う。
「親父たちと別れるとなったら、あゆのやつ、絶対泣くな」
「うんうん。あゆちゃんなら、泣いちゃいそうだよね」
 名雪と一緒にそんなことを話しながら歩み出そうとしたとき、ふとある考えが脳裏を過っていった。それはたちまち、俺の中でとっておきの企みへと膨らんでいく。
 そうだよな。肋骨の怪我とかもあるけど、だからってそんなのを言い訳にしてちゃいけない。どうなるか分からないし、期待通りの結果が出る保証なんてない。本気でぶつかりえば、多分、ただじゃ済まないだろう。だから正直、恐怖もあるけど――

「よォ、親父」
 踵を返し、出口に向かいかけた親父の背に呼びかける。
「ん――?」
 面倒そうに振り返ったヤツに、俺は右腕を突き出した。そして、その目の前で小指から順に全ての指を1本ずつ折り、拳を固めていく。最後の親指を折り曲げてそれを完成させた時、俺の黒腕に宿った女神が囁いた。

『超臨界モード(LIMIT BREAK)』

 一瞬、不思議そうにしていた親父が、笑う。そして身体ごと反転し、俺と正面から対峙する。
 同時にその漆黒の左腕が、同じように突き出された。まるで写し鏡を見るように俺と変わらぬ手順で拳が握り固められていく。その動作が完了したとき、左のKsXは宣言した。

『超臨界モード(OVER DRIVE)』

 俺たちは、まったく同じ理由で唇の端を吊り上げた。
 次が本当に半年後なのかは分からないけど、ここで一度試しておくのも悪くない。普段は世界に散ってるY'sromancerが、せっかく顔を合わせてるんだ。このまま「ハイ、サヨウナラ」じゃつまらないよな。同じ腕で、同じ物を掴むために走ってるんだ。だったら、アンタも見てみたいと思ってるはず。そうだろう?
「……えっ、あ、祐一?」
 突然のなりゆきに、名雪の戸惑ったような声が聞こえてくる。
「名雪、危ないからちょっと下がってな」
 親父から目を背けず、俺は言った。しばらく逡巡していたようだが、制止の選択肢を諦めたらしく、彼女の気配が離れていく。それを見計らってから、俺たちは再び笑い合った。ここまで来たら、もう後戻りはできない。する気もないけどな。
「いくぜ、Y'sromancer」
「こいよ、Y'sromancer」
 ふたつのKsXが激突したとき、果たしてどうなるだろう。想像もつかない。何が起こるか全く予測できない。完全なる未知。限りない自由。それが眼前に広がっている。
 身体中の血が騒いで、煮え立ちそうな高揚感が全身を貫くように駆け抜けていった。開けたら何が見えるか分からない扉を殴り飛ばす寸前の、この緊張感。先に待ってるのは、信じられないほど新しい世界だ。
 分かる。分かった。あんたが、いつも楽しそうに笑っていたワケが、今になって――分かった。
 こいつもシルヴィアも、いつだってこんな瞬間を求め続けてたんだ。もっと上に。もっと先に。もっと新しく。予想もつかない、想像もできない世界を求めて。
 俺にとっては覚えたての世界に、相沢芳樹は遥かな昔から住みついていた。
 だから、思う。
 ――いつかアンタに追いつくんだ。
「Come on, Y'sromancer. Get serious!」
「OK. The live round!」
 踏みこむ。同じタイミングで、向こうも動いた。そんなの当たり前だ。
 関係無い。何も考えずに。残された最後の弾丸を放つ覚悟で、渾身の一撃を。今の自分の全てを。全部ぶつけるんだ。そしたら、きっと……。


風の辿り着く場所


Heathrow Airport parking
10 minutes later
――10分後 ヒースロー空港 有料駐車場

 あの人はご機嫌だった。右手の人差し指に、車のキィホルダーの輪を通してくるくると回しながら、でたらめに口笛を吹いている。心なしか、足取りも弾んでいるように見えた。
 多分、それもこれも祐一のおかげ。あの子が素敵なパーティを引きつれてやって来たものだから、きっと嬉しかったのでしょう。勿論、母親として私も同じように喜んでいる。
 祐一は変わっていた。随分と大きくなっていたし、強くなっていた。そして僅か2週間、この街に滞在している間にさえ大きな変貌を見せてくれた。男子三日会わざれば活目して見よ、という言葉があるけれど本当。子供はあっという間に大人になっていく。祐一と出会ってから、新しい世代の成長を見守る喜びを私たちは発見していた。

「よう、夏夜子」
 私たちのステーションワゴンが見えてくると、前を行くあの人は突然足を止めて、私と向かい合った。瞬間、今まで彼の右手にあった車のキィが飛んできた。咄嗟に、それを両手で包み込むようにして受け止める。
「悪いけど、帰りはお前が運転してくれ」
「いいけれど……どうして?」
 あの人は自分の左腕をかざして見せると、悪戯っぽく微笑んだ。
「いい感じに痺れてるんだ。未だに引かねえ。――こんなのは初めてだ」
 彼は改めて左手を硬く握り固めると、子供のように目を煌かせた。
「あいつも、なかなかやるようになったぜ。そう思わないか、夏夜子」
「だからって、あまり乱暴なことはしないでね。もともと肋骨にヒビが入っていたのよ?」
 私は運転席側に回り、鍵穴にキィを差し込んでロックを解除しながら言った。
「あの子、気絶していたわ」
「当たり前だ」あの人は笑う。「手加減しなかったからな。死ななかっただけ上等だよ」

 私たちの頭上を、轟音が通り過ぎていった。離陸したばかりの旅客機は、見る間に舞い上がり蒼穹高く昇っていく。
 夏の陽気な風に包まれながら、私たちはふたりして、それを見上げていた。
「夏夜子、俺たちもうかうかしてられねえぜ。下から突き上げくる奴らがいる。次の世代が騒ぎ出した。俺たちはそれを迎え撃ちながら、自分の面倒も見なくちゃならない」
「ええ、本当に――」
 私たちにも目指すものがある。辿り着くべき場所がある。だけど、同じ道を往くのは私たちだけじゃない。きっと近いうちにやってくる。
「あいつは来るぜ、俺たちのところまでさ。その時が楽しみだよな」
「ほんの少し前に生まれた、まだ小さな可能性だと思っていたのに」
 8年前、あの雪の街で起こった出来事をきっかけに、祐一は私たちの望む方向とは違う道を歩みはじめた。それはある意味で停滞であり、過去への逆行だったと言えるかもしれない。目を閉じ、耳を塞ぎ、心を閉ざし、あの子は迷走を続けていた。悔恨と悲哀に縛られ、それから逃れる術を必死に模索していた。
「だけど、追い掛けていた過去を捕まえて、あの子はそれを越えた」
「ああ。さんざん待たされたけどな」
 私たちは微笑を交わした。
「なんにしても、こっからだ。あいつは、これからだよ」

 そう。あの子は、もう私たちの手を離れた。これからは自分の意思で進むべき道を見出し、己の選んだ人々と共に生き、そしていずれは私たちの場所までやってくるだろう。その時が来るまで、私たちもまた更なる高みに挑み、その場所にて待とう。
 きっと大丈夫。永遠に続くかとさえ思われた過去を追うだけの追走曲に、あの子は自分の力で幕を下ろして見せてくれたから。だから、私はあの鳥を託した。そしてその意味を、あの子はきっと分かってくれたはず。
 今度は、過去じゃない。未来を追う。誰も知らない、自身さえ知らない、だけどあの子だけの旋律を追走するでしょう。

 ――私にはその新しい追走曲 <KANON> が、もう聞こえはじめている。






■初出(神鳴の章)

30話「風の辿り着く場所」2002年03月08日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。