プロローグ
雨の心配をするべき時期が来たのかもしれない。窓から吹き込んでくる、微かに湿り気を帯びた風を感じながら
倉田佐祐理は思った。
季節の移ろうのは本当に早いもので、ある意味人生の転換期ともなった昨年の冬は、何時の間にか終わりを告げていた。ふと気付けば、春を飛び越えてもう6月。梅雨の時期だ。光陰矢のごとしとはこのことであろう。
「うーん。明日のお弁当は何がいいでしょうねぇ。舞?」
「……うさぎさん」
佐祐理の膝に頭を乗せて、ベッドに静かに横たわる少女は即答した。
川澄舞。佐祐理の高校時代からの無二の親友であり、現在のルームメイト。同居人である。2人は『高校を卒業したら一緒に暮らそう』という、聞き様によっては婚約にもとれそうな際どい約束を交わしていて、実際にそれを実現させたというわけだ。
おまけに、2人は学部こそ違うものの同じ大学に在籍しており、可能な限り常に行動を共にしている。まさに「
刎頚の友」というような徹底ぶりだった。
「もちろん、林檎のウサギさんはお決まりですよー。舞のお気に入りですから、必須です」
「リンゴのうさぎさんは、かなり嫌いじゃない」
食べ物と動物が関わってくると、普段はボーっとして何を考えているのか分からない舞の反応速度が各段に上がる。ギアをシフト・アップするように、全てにおいて加速の度合いが違ってくるのだ。佐祐理には、またそんな舞が可愛らしくて仕方がなかった。
こうしてクイーンサイズのベッドに腰掛け、舞に膝枕しながら、彼女の艶やかな黒髪を撫でて過ごす。そんな静かな夜の一時は、佐祐理にとって何にも代え難い至福の時間だ。
「でも、雨が降らないといいですね。もう、西のほうでは梅雨入りしているそうですから」
「雨が降ると、祐一とお弁当が食べられなくなる」
「それは困りますよね?」
舞はコクリと頷くと、「こまる」と一言呟いた。
佐祐理と舞がそんな平和な一時を満喫していると、レプラコーンが2人の幸せに嫉妬でもしたのか、無粋にも邪魔を入れてきた。つまり、電話のコール音がリビングに鳴り響いたのである。
壁掛け時計を見上げれば、時刻は間も無く23時になろうかという時分だった。多少、常識外れと言ってもいい無作法である。
「あらら、電話ですねー。どなたでしょうか?」
「……祐一かもしれない」
高校卒業後、2人が同居を始めたことを知るのは、先程から彼女たちの話に度々登場する『相沢祐一』を含めて、極少数だ。しかも住まいの電話番号を知っている者となると更に限定されて、殆ど家族以外にはいないとも言える。
なんにしても、渋々ではあるが受話器を取ったのは舞だった。そして「はい。倉澄」と、無愛想にも程がある調子で応じる。
ちなみに『倉澄』とは、舞本人の談によると、佐祐理の名字「倉田」と舞の名字「川澄」を融合させたそれは素晴らしいものらしい。だがもちろんのこと、誰にも分かってもらえない。それどろか、多くの場合相手に間違い電話をしたと認識される、迷惑極まりない似非ファミリーネームであった。
しかし、舞はすっかりこれを気に入ってしまったようで、誰がなんと言おうと頑なにこれを使い続けている。
「あ、夜分恐れ入ります。川澄様で御座いますか? 私、倉田家にお仕えしております――」
相手の声に、舞は心当たりがあった。高校時代、幾度となく佐祐理の実家に遊びに行った経験があるのだが、そこで良く顔を合わせる機会のあった女性だ。
脳裏に、前時代的なメイドの黒服を纏った、30代前半の若い女性の姿が浮かび上がる。
「……佐祐理の家政婦さん」
「はい。山下で御座います」
山下と名乗った女性は、落ち着いた口調でそう言った。礼儀深い彼女は、きっと電話口であるにも関わらず、舞に向かって頭を深々と下げているに違いない。
「あの、恐れ入りますが、佐祐理お嬢様はもうお休みでしょうか?」
「佐祐理なら、まだ起きてる」
チラと話題のお嬢様に視線を向けながら、舞はそう答えた。
「あははー。山下さんからということは、佐祐理へのお電話ですね?」
そう言ってベッドから流れるような動作で立ち上がると、佐祐理は舞に近付き、受話器を受け取った。
「もしもしー。お電話変わりました、佐祐理です」
「ああ、お嬢様。山下です。夜遅く申し訳ありません」
「山下さんですかー。お久しぶりですねぇ。お元気ですか?」
「はい、おかげさまで……」
夜だというのに、佐祐理はにこやかでテンションが高い。長年彼女の世話をしてきた山下女史も、さすがに戸惑っているようだった。
「それで、佐祐理に何かご用ですか?」
「はい。実は先程、お嬢様のご学友と申されます方からこちらにお電話をいただきまして」
「佐祐理のお友達でしょうか? どなたしょう」
「
武田玲子様と仰る女性です。高校時代のお知り合いとかで。……あの、お取り次ぎして構いませんでしょうか?」
「武田さんというと、生徒会の副事務書記をなさっていた方ですね。確かに知り合いです。
もちろん構いませんよ、こちらにご案内してください」
「はい、そのように。では、一端失礼致します」
そう言って、両方は受話器を1度フックに戻した。そして暫く待つ。1分としない内に、再び電話がけたたましく鳴った。
「はい、もしもしー。倉田佐祐理です。武田さんですかー?」
この時点で既に明らかだが、佐祐理と舞は対照的な性格をしている。電話の対応1つとってもそれは歴然としていて、舞は口数が少なく無愛想。周りの状況を一切無視して、自分のペースをあくまで貫きとおす、究極の鈍感マイペース人間である。それに対し、佐祐理は人見知りという言葉を知らない。明るく朗らかで、微笑みを絶やさないその性格は非常に社交性に富んでいる。他人との接点を徹底的に排除するような舞とは対照的とも言える女性だ。これで2人は親友で家族も同然の付き合いをしているというのだから、不思議なものである。
「ご無沙汰してます。武田さん、お元気ですかー?」
何がそんなに楽しいのかと聞きたくなるほど、佐祐理は満面の笑みを浮かべながら明るく言った。
だが、そんな彼女に返ってきた声は、酷く聞き取り難い、恐怖に怯えた子供のような声だった。
「――倉田さん。突然、ごめんなさい。もう、わたし、どうしていいのか分からなくて」
「武田さん?」
さすがの佐祐理も、只事でない雰囲気を察知し表情を変える。震える受話器越しの声は、どう考えても尋常ではない。
「どうしたんですか、武田さん。何かあったんですか? 佐祐理が力になれることなら、なんでもしますから、話して下さいませんか」
「あ、あの、はい。ごめんなさい」
何かに怯えているのか、武田玲子はすっかり混乱しているようだった。言葉も意味が通らず、支離滅裂である。
「落ち着いてください、武田さん。何があったんですか?」
「その……私、今年、生徒会の事務書記をやることになって、それで、生徒会会館で――」
佐祐理の記憶が確かなら、武田玲子は昨年学年が1つ下の2年生だった。佐祐理自身は生徒会に属していたわけではないが、何かとこれに関わるような特殊なポジションにあったため、何度か顔を合わせた記憶がある。その時既に事務書記の副長を務めていたから、今年は順当に1つ繰り上がって、『事務書記長』になったわけだろう。まぁ、出世といえば出世だ。
「それで、わたし、とんでもないことになって。だから、もう、それで……わたし、もう倉田さんくらいしか思いつかなくて。その、だから、電話じゃ言えないけど……明日、わたし、自宅で待ってます。ずっと待ってますから、だから、来てください。そしたら、全部お話ししますから。私、怖くて。お願いします。……助けて下さい。お願いです、倉田さん」
「分かりました。なんだか良く分からないですけど、明日お宅にうかがえばいいんですね?」
切羽詰まった様子の武田を落ち着かせるように、ゆっくりとした口調で佐祐理は確認した。
「はい。お願いします。助けて下さい。わたし、もう、家から出るのが怖くて。だから――」
「分かりました。必ずうかがいますから」
佐祐理はなるべく相手を安心させるように、優しく言った。
「でも、佐祐理は武田さんのお宅を知らないんですけど」
「――あ! それは、あの」
ちょっと慌てたように、武田は言った。どうやら、そこまで考えが至らなかったらしい。佐祐理が自分の家の住所を知らないという事実に今更ながら気付かされ、少し混乱でもしたのだろう。
「えっと、倉田さん、FAXはありますか?」
「FAXならありますよー。ナンバーは、電話番号と同じです」
「分かりました。それなら、これから住所と地図を書いて送りますから」
「あ、それならOKですよー。明日も学校があるので、それが終わってから――多分、16時以降ということになると思いますが、構いませんか?」
その言葉に、武田玲子は少し何かを考えているようだった。だが直ぐに「はい。お願いします」と早口に答えた。
「では、そういうことで。ちゃんと行きますから、安心してくださいねー。佐祐理がお役に立てるかは分かりませんけど、約束はきちんと守りますから」
「はい。お願いします。それじゃ、明日、必ず来てください。私、ずっと待ってますから……」
縋りつくような、そんな頼りない小声と共に武田との会話は終わった。
「うーん。なんだか、大変な様子でしたねえ」
佐祐理は電話の内容を改めて思い返しながら、小首を捻ってそう呟いた。
「佐祐理」そんな佐祐理の服の袖をクイクイと舞が引っ張る。「電話、なんて?」
「あははー。佐祐理のお友達からですよ。祐一さんと同じ学年で、今年3年生の女の子からです。明日、その子のお家に遊びに行くことになりました」
佐祐理はニッコリ笑うと、遠足の予定を語る小学生のような口調で言った。
「舞も一緒に行く?」
「いく。祐一も連れていく」
「そうですね……。じゃあ、祐一さんも誘って、皆でいきましょう」
佐祐理のその宣言に、舞はコクリと少しだけ嬉しそうに頷いた。
その15分後、綺麗に纏められた地図と、武田玲子の自宅住所が記された1枚のFAXが届いた。
そしてこれが、全ての始まりとなる。
to be continued...
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