Dの微熱
Hiroki Maki
広木真紀




2



「えーっと、357。357……と」
 迷路を構成するように規則正しく並ぶコインロッカー郡の中、相沢祐一はキョロキョロと周囲を見回しながらうろついていた。
「お、これか」
 番号さえ分かっていれば、探し出すのは簡単である。祐一はお目当てのロッカーをすぐに見つけ出し、邪まな笑みを浮かべた。
 ――鍵を拾った日の翌日、祐一は外出のついでに、このコインロッカーにやってきていた。言うまでも無く、手に入れたキーの合うロッカーに何が入っているのかを確かめるためだ。鍵だけでどこのロッカーかを特定するのは難しいのだが、北川の話によれば、この町にあるコインロッカーと言えば、まず駅ビルのそれを想像するものらしい。祐一はその言葉を参考にして、この町唯一のステーション・ビルを訪れた。
 果たして、北川の言う通り駅ビルの片隅にあるコインロッカー群は、すぐに見つかった。祐一が予想していたよりも、随分と頑丈で金のかかったものだ。ロッカーも蓋も、重量感のある分厚い金属で固められていて、金属バットで思いきり殴りつけてみても凹みをつけることすら困難だろう。もしかすると、ちょっとした金庫がわりにも使えるかもしれない。そう思わせるほどガッシリとした造りになっていて、安心感がある。駅前の300円ロッカーとしては充分な代物だ。
「問題は鍵が合うかだが……」
 キー自体も、登録者しか合い鍵を造れない、複製の困難なイスラエル製の特殊なものを使っているらしかった。ピッキングも構造上、不可能に近いとされている種の鍵だ。スイス製とイスラエル製の鍵は、精度と防犯効果が高いことで近年注目を集めている。日本でも、安全を金で買う時代になったということだろう。これは、なくしたら凄い賠償金を請求されそうだ、と祐一は内心舌を出していた。何故なら、この鍵をなくした人物に心当たりがあるからだ。
「さーて、あのカンフー中国人め。何を入れてやがるんだ……っと」
 儚い望みに応えるように、キーはピタリと鍵穴に収まった。慎重に鍵を回すと、カチリという重めの音と共にロックが解除される。祐一はパチンと指を鳴らして喜んだ。
「待ちに待った、ご対面〜」
 どこからどう見ても犯罪者風の笑みを浮かべつつロッカーの中を覗き込むと、市販されているティシュ・ボックス程度の大きさの箱が入っていた。取り出してみると、重量はそれほどない。あっても精々1kg程度だろう。
「なんだ、こりゃ?」
 軽く振ってみるが、音は立たなかった。中身を確認しようと蓋に手をかけた時、ふと駅の構内に設置されている時計が目に入った。時刻は16時48分。
「ぬあっ、もうこんな時間か! いかーん。佐祐理さんのパーティに遅れてしまう」
 今日祐一は、高校の先輩であった女性に、とあるパーティへ招待されているのだ。珍しく正装に身を包んでいるのもそのためだった。
「こりゃ、走らないと間に合わないかも」
 祐一は中身の確認を諦めて、とりあえずそれを小脇に抱えて売店へ走った。そして小さ目の紙袋を購入すると、ロッカーから取り出したその箱を押し込み、約束されたパーティ会場へと足を急がせた。





3





 倉田佐祐理くらたさゆりが主催するパーティは、招待客の想像を遥かに凌駕する規模の、実に盛大なものだった。場所は、この町の唯一の繁華街である『セントラル・アベニュー』の一等地に最近建造された、5階建てのモダンなビル、その最上階。瀟洒なレストランに、かつてなかった規模と設備を誇るシネマ・シアター、若者の流行に合わせたカジュアル衣料店。間違いなく、この町の一大スポットとなるであろう事が想像に難くない大型の総合施設の開店記念式典が、今宵催されているのだ。
 そして相沢祐一は、場違いにもその場に招待され、慣れないスーツ姿で、立食パーティの会場に用意されたご馳走を片っ端から食い漁っていた。
「こら、舞。この伊勢エビのグラタンはオレが狙ってたんだぞ」
「私の方が、前から狙っていた」
 ガキン、と2つのフォークが火花を散らすような勢いで激突した。最後の1つとなった伊勢エビを巡り、相沢祐一と川澄舞かわすみまいは正面から睨み合う。
「オレなんかな、パーティが始まった時からこれを狙ってたんだ」
「私はパーティが始まる前から、ずっと狙っていた」
 川澄舞は、このパーティの主催者である倉田佐祐理の無二の親友であり、祐一と同じ学園に通っていた1年上の先輩である。女性でありながら175cmを超える長身と、一流モデルも泣いて悔しがる程のプロポーションは、祐一の知る女性たちの何でも群を抜いて際立っている。おまけに彼女はは、長く艶やかな黒髪と、やや切れ長の瞳が印象的な大変な美人でもあった。10人が10人、彼女を見れば必ず振り向き、時に同性すら羨望のため息を吐かせるであろう。しかも今日のように、イヴニング・ドレスで着飾っていれば、その事実は尚更強調される。先程から舞は、会場内の男たちの視線を一身に集めていた。
「ドレスでめかし込んだお嬢様が、ご馳走にがっつくなよ。今日くらい遠慮しろ」
「私はお嬢様じゃない。お嬢様は、佐祐理。それに、伊勢エビさんはかなり嫌いじゃない」
 そんな極上の美人が、ガツガツと信じられない勢いでご馳走を平らげいく様は、ある意味奇怪ですらある。周囲の視線になど、まるで頓着しない舞は、いつでも状況を考えずマイペースに行動するのだ。それが祟って、今宵もまた、彼女はその身に纏う「美」とは全く違う意味でも、周囲の注目を集めているらしかった。
「年上なんだから、ここは我慢してオレに譲れ」
「祐一は年下だから、私の言うことを聞く」
 祐一と舞、佐祐理は、今年の冬、高校ではじめて顔を合わせて以来の親友同士だ。北川と同様、付き合ってから日は浅いが、既に切っても切れない間柄になっている。学校の昼休みには、よく3人で仲良く昼食をとり、祐一と舞はこのようにオカズを巡って醜い争いを繰り広げたものである。
 だが、出会ったとき既に3年生であった舞と佐祐理は、既に祐一の通う高校を卒業し、地元の大学に仲良く進学を決めたらしい。しかも、卒業後、彼女たちは2人だけの同居生活を始めたという話だ。

「あははー。祐一さん。楽しんでいただけてますか?」
 祐一は、背後からの聞き慣れた声に振り向いた。栗色の長い髪に、白磁のように滑らかな肌。そしていつも口元に浮かぶ柔らかな微笑が印象的な、舞にも匹敵するほどの美人だ。歳の頃は、恐らく20歳前後。子供のような愛らしさと、女性としての美しさが奇妙に同居する、不思議な魅力のある少女だった。――倉田佐祐理その人である。
「佐祐理さん。今宵はお招き戴きありがとうございます」
「こちらこそ。祐一さんに来ていただけて、佐祐理は感激です」
 表裏の無い笑顔で、佐祐理は言った。心から祐一の出席を喜んでいるらしく、祐一はそれを素直に喜ぶことが出来た。だが、再び料理皿に視線を戻すと、伊勢エビのグラタンは忽然と消失していた。その代わり、舞がひたすら美味しそうに何かを咀嚼している。
「……やられた」
ガックリと項垂れる祐一に、無表情の舞。そんな2人を楽しそうに見詰める佐祐理。高校時代そのままの光景が、そこには広がっていた。
「しかし、凄いですよね。このパーティ、佐祐理さんが主催してるんだとか。……お父さんの代理か何かですか?」
 佐祐理の実家である『倉田家』は、地元でも有名な名士であるという。加えて、現当主である佐祐理の父親は、代議士をやっている町のビッグネームだ。引っ越してきたばかりの祐一はその辺りの事情にあまり精通してはいないのだが、佐祐理が大富豪の一人娘であることだけは知っていた。
「あははー。このピルは、佐祐理が建てたんですよー。事業の方が思いのほか上手くいってるので、業務拡張といったところです」
「ええっ、このビル――ビルそのものが、佐祐理さんの所有物なんですか? つまり、オーナー?」
 祐一は意外な話に、目を丸くして仰天した。
「そうですよー。高校生になった時から、佐祐理はこういうことをするのが好きなんですよ。今度も上手くいくといいんですけど。佐祐理はちょっと頭の悪いところがあるから、潰れないように気をつけないといけないんです」
 そうにこやかに告げ、やがて彼女が去って行っても、祐一は暫く呆然としていた。実家が金持ちなのは知っていたつもりだが、佐祐理自身が事業に手を出していた等という話は完全に初耳である。

「あの、すみません」
「は、なんですかな?」
 舞に聞いても適当な答えが返ってくるとも思えなかった祐一は、佐祐理に関する情報を集めるべく、近くにいた初老の紳士に声を掛けた。
「オレ、佐祐理さんの高校時代の後輩なんですが……佐祐理さんがこのビルのオーナーで、色々と事業を手がけているって言うのは本当なんですか?」
「ほう、ご存知ないのかね。倉田嬢は、1日に1000万円稼ぐ女子高生として、その筋では非常な有名人だったんですよ」
「い、1日で1千万! 1年じゃなくて、1日?」
「そう。1日で、です。まあ、これは彼女だけでなくグループ全体での収益だがね」
 1日で1千万なら、年商は36億5千万。祐一はざっと計算してみて、気を失いそうになった。10代そこそこのお嬢様が、36億稼ぎ出す。信じられない世界だ。一の人生が、10回は買えるお値段であろう。
「最初は、14歳の時と言っていたから、中学2年生の頃ですかな。お父上に資本金として5000万を借り受け、それを元手に色々なことをやり始めたと私は聞いているが。とにかく、彼女は商売の才能にズバ抜けたものを持っていたらしい。名義はお父上のものになっているがね、たちまち社交界のクイーンとして君臨したのだよ。勿論、元手として借りた5千万は、10倍にしてお父上に返済したとか。彼女は今も業務を拡大し続け、その地位を確固たるものとしている」
 この街の駅ビルに入っているテナントの殆どは倉田家のものであるし、他にも大型アミューズメント施設、金融、電工、運輸、不動産、通信事業、それに短期国債や株式に至るまで、聞けば倉田一族の仕切る事業は、非常に手広く大きいものだった。紳士が列挙する佐祐理所有の具体的な企業や店名の中には、祐一にも幾つか聞き覚えのあるものが混じっていた。
 もっとも、たとえ売上が何十億円あったとしても、諸経費や税金、人件費などを差し引けば、企業としての純利益はその半分以下になる。それにグループ全体の収益となると、佐祐理の取り分は売上の数十分の1という程度だろう。だがそれでも、年間で数億円にはなる。現役の高校生の年収と考えれば驚異的な数字だ。
「――田舎の小さな町ではあるが、倉田一門の影響力は既に絶大なものなのだよ。Too big to fair[潰すには大きすぎる]の理論だね。あまりに町に深く根を張りすぎたため、もはや彼女たち抜きではこの町の経済がなりたたないほどになっている。日収1千万と言ったが、それも2〜3年前までの話。今はもう、そんなものでは済まないだろう」
 老紳士は祐一と視線を合わせると、穏やかに言った。
「事実、私の経営している会社は倉田嬢の投資でここまでこれた。今でも、彼女から見放されればひとたまりも無い。もはや、私の命は事実上彼女に握られているのです」
 佐祐理自身、自分の特技や特性をペラペラと喋りたてるような性格はしていない。いや、むしろ「自分のことなんか話てもつまらない」とでも言うように、訊ねられても最低限のことを語るだけだ。それは祐一も承知している。
 だが、これはあまりに意外な話だった。佐祐理は隠し事をしているつもりなど毛頭ないのだろうが、彼女のことを何も知らなかったことに今更ながら気付き、祐一は半ば愕然としていた。
「――そう言えば、ここしばらく巷を騒がせている『宝石泥棒』の話。推定4億円相当の宝石が盗まれた、例の事件だが。あれは君も知っているのではないかな?」
「え? あ、ああ。まあ、大体のことは」
 思い出したように言う老紳士の言葉に、祐一は慌てて頷いた。
「たしか、『シリウスの瞳』でしたっけ。凄い大粒のダイヤが、この町の宝石店から盗まれたとかいう話は、ニュースなんかで知ってますけど」
「その被害にあった、この町最大の宝石店というのが倉田嬢の経営している、ジュエリー・ショップ『aries』なのだよ」
「ええっ!」
 今度こそ祐一は驚愕した。まさか、ここ最近で1番大きなニュースに佐祐理が絡んでいようとは、想像もしていなかったことである。彼が驚くのも無理はなかった。
「もっとも、あれ程の逸品だ。保険がかけてあるのも当然の話だから、実際に彼女自身に金銭的な打撃はなかったのだろうが……まあ災難だと言えば、災難だね」
 祐一の記憶によれば、その事件が起こったのは確か2日前。祐一が北川と一緒に乱闘騒ぎに巻き込まれた、その前日の出来事である。店が閉められた午前2時頃、駅前の広場にある宝石店『aries』の店舗が何者かに襲われた。小さなこの町では、ジュエリー・ショップといえばこの店という、一般にも非常に良く知られた感じの良い店だった。
 襲撃者たちは、防犯装置と厳重なロックを外して、無人の店内に侵入。71カラットのダイヤモンド『シリウスの瞳』をはじめとする、宝石や貴金属を盗み去っていったと言う話だ。非公式に発表された推定被害総額は4億円。近年最大の事件として、巷でも注目を集めている話題だ。
 犯人たちは最新式の警報装置をかわし、金庫を短時間で効率的に破った挙げ句、価値のあるものだけを手際良く選別して、警備会社のガードマンたちが駆けつける前に消え去っている。警察の現場検証でも、犯人の特定に繋がるような有力な情報は見出されることはなかった。間違いなく、プロの仕事である。
 佐祐理さん、ショックだったただろうな……。
 まずその思いが、祐一にはあった。いつも朗らかに笑っている女性だが、それでも自分の店に強盗が入ったのだ。そして実際に大きな被害が出ている。その精神的は衝撃相当なものであっただろう。
 留守中の自分の家に、強盗が入ったと考えてみればいい。恐怖も感じるであろうし、哀しみもあるだろう。混乱だって避けられないに違いない。少なくとも、盗まれた宝石の代わりに保険金が下りればそれでいいという、単純な問題ではなかった。
「まさか、佐祐理さんの店が被害にあっていたとは」
 ――こりゃ、なんとか舞とオレとで、佐祐理さんの支えになってやらないとな。





4





 相沢祐一の現在の住み処は、小川に沿って小奇麗な1戸建てが立ち並ぶ、閑静な住宅街の一角にある。 表札は『水瀬』。何の変哲も無い、親戚――叔母と従兄弟が住まう一軒家だ。
 祐一の両親は、この冬の頭から海外へ転勤となった。日本へ残ることを選択した彼は、親戚の家に預けられることになった。簡単に事情を説明すれば、つまりこういうことだ。
「ただいまー」
 倉田佐祐理が主催するパーティですっかり気力を使い果たした祐一は、玄関のドアを開くと覇気の無い声で帰宅を告げる。すると、ドタドタと慌ただしく廊下の向こう側から少女が駆け寄ってきた。青味がかった、クセのないサラサラとしたストレート・ヘアが印象的な、祐一と同年代の娘だ。名を水瀬名雪みなせなゆき。祐一の幼馴染みであり、厄介になっている水瀬家の一人娘である。
「ゆ、祐一、大変だよー!」
 どこかふわふわとした、甘ったるい声で名雪は言った。このどことなくボーっとした、スローテンポな雰囲気が名雪が名雪たる所以である。それ故、本人が「大変だよ」と告げたところで、全然大変そうには聞こえない。とにかく、彼女には緊迫感や緊張感というものが、死ぬほど似合わないのだ。
「なんだ、お前まだ起きてたのか。珍しいな。もう10時だぜ?」
 祐一は靴を脱ぎながら、出迎えにきたらしい幼馴染みに言った。彼女は1日の大半を寝て過ごすという、非常に迷惑な特技を持っている。夜は9時になると早々にベッドに潜り込み、朝は遅刻寸前まで惰眠を貪る。勿論、学校の授業時間も大半は睡眠に費やすという徹底ぶりだ。時間に換算すると、どうやらアベレージ16時間。実に1日の5分の3を寝て過ごす勘定になる。
「眠ってる場合じゃないよ。泥棒だよー。ウチに泥棒が入って、家中メチャクチャだよー」
「なにっ!」
 半分泣きそうな名雪の声に、靴紐を解いていた祐一は思わず顔を上げた。どうやら冗談ごとではないらしい。元々、名雪はこういうジョークはやらない人間だ。祐一は靴を放り出すように脱ぎ捨て、名雪と共にリビングへ向かった。
「ぐっは〜」
 その惨状たるや、目を覆うばかりのものだった。水瀬家のリビングに、局地的な竜巻でも襲いかかったかのような荒れ様である。或いは大震災の痕か。ともかく、人間業とは思えないくらいに何もかもがメチャクチャにされていた。これが今朝、外出する前に目にした同じ水瀬家の部屋とは思えない程である。
「こりゃまた、派手にやられたもんだな……」
「あら、祐一さん。おかえりなさい」
 キッチンから、顔を覗かせたのは名雪の母、水瀬秋子であった。この水瀬家の家主であり、祐一の叔母に当たる女性だが、とにかく若い。彼女が「1児の母」であることを聞けば、人は必ず驚く。彼女の買い物に付き合い、2人で商店街を歩いていると、恐らく彼女は祐一の恋人として周囲の人間に認識されるであろう。つまり、それに無理がない程なのだ。20代後半から、高く見積もっても30前半。どう見ても、10歳以上は歳を誤魔化せる人だ。名雪の母というよりは、4〜5歳年上のお姉さんとでも紹介した方が、余程シックリくる。
「秋子さん、無事でしたか」
 とりあえず、家は被害にあったがその住人に危害は及ばなかったらしい。祐一はホッと胸を撫で下ろしながら言った。
「名雪は泥棒が入ったなんて喚いてましたけど、本当ですか?」
「断定は出来ませんが、そう考えるのが自然だと思います」
 秋子は、頬に軽く手を添えながら、困ったように言った。
「これでも大分片付いたほうなんですけれど――」
 秋子と名雪の話によれば、侵入者は彼女たちの留守中に入り込んだらしい。俗に言う『空き巣』というやつだ。
 秋子は仕事、名雪は友人の家に遊びに行っていたし、祐一はパーティだ。今日、最後に外出した祐一が14時に家を出て、第一発見者の名雪が帰宅したのが18時前後だったというから、空き巣は14時から18時までの4時間の間に忍び込んだ計算になる。
「全部やられてるんですか? 2階も」
「ええ」祐一の問いに、秋子は小さく頷く。
「で、盗られた物は?」
「それが、金品には全然手がつけられていなくて。預金通帳や置いてあった現金も無事ですし。今のところ、これといって無くなった物はないんです」
「ふーむ。で、警察に連絡は?」
「それは、取り合えず状況を確認してからにしようと思ってます」
「――分かりました。じゃ、取り合えずオレは自分の部屋見てきます」
「はい。何かあったら、報告してください」
 祐一は秋子に断りを入れると、廊下に出て2階へと続く階段を登った。基本的に1階が家族団欒のためのスペース、2階が各人の個室兼寝室というのが、水瀬家の間取りだ。祐一に与えられた水瀬家での私室も、この2階にある。

「こりゃまた、なかなかやってくれるぜ」
 引っ越してきてまだ半年。そんなに物を持っていなかった祐一であるが、部屋は充分彼を困らせるほどに荒らされていた。布団までもが切り裂かれて、中の綿が周囲に散乱しているほどだ。タンスの中身や書棚は、ひっくり返されでもしたかのような始末である。
「これは、1人じゃないな」
 祐一はざっと被害の状況を確認すると、呟いた。
 犯行が可能であった時間は、最大限見積もって4時間。この時間内に、3人で暮らすには些か広すぎる水瀬家の全室を、こうまで徹底的に荒らしまわったとなると、どう考えても単独犯の仕業じゃないだろう。物理的な問題を考慮すると、やはり複数による犯行と見たほうが自然に思える。
 それにやり方が徹底していた。ただ物を盗みにきた連中なら、普通、ソファのクッションやベッドの布団まで切り裂いてはいかないだろう。
「なんで、この家なんだ? というより、目的はなんだ」
「祐一〜。祐一のところはどうだった?」
 1人で悩んでいると、後ろから名雪が心配そうにやってきた。
「ご覧の通りだよ」
 体をドアの前からずらして、中の惨状を見せてやる。
「うわ〜。祐一の部屋は特に酷いね。私の部屋は軽傷だったのに」
「そうなのか?」
「そうだよ。私の部屋は机と本棚とクローゼットが荒らされてただけだったよ。ベッドなんかは無事」

ゲロピーの腹は掻っ捌かれたりしてなかったか?」
ケロぴーだよ。ケロぴーも無事だったよ」
 ケロぴーとは、名雪が大事にしている緑色のカエルのヌイグルミだ。彼女はいつも、それを抱いて眠っている。カエルのクセに、モコモコした素敵な肌触りの偽物なのだが、本人はかなりお気に入りらしい。
「もしケロぴーがやられてたら、私、もう笑えなくなってたよ」
 想像してみたのか、微かに青ざめた表情で名雪は言った。
「何にしても酷い話だ。なにもここまでやることはないだろうに……。名雪。お前、なんか人に恨まれるようなことしたんじゃないのか? 影で凄く悪いことしたり。『だおー!』とか叫んで、人をプスッと刺したり」
「もしかして祐一、酷いこと言ってる?」
「だって、お前。この有り様を見れば、ことは2通りにしか考えられないだろう?」
「2通りって?」キョトンとした表情で、名雪は小首を捻った。
「要するに、『怨恨』か『物取り』だよ。金目の物が取られてないってことは、水瀬家の人間に恨みがある連中が、何かの復讐や報復のために嫌がらせをしたってことも考えられる。或いは、金以外の何かが目的で家捜ししたとも考えられるな。どう考えても、可能性が1番高いのはこの2パターンだ。それ以外に、ベッドやクッションまで切り裂いて中のものを抉り出すなんてことはしないだろう」
「わーっ、なんか祐一、探偵みたいだよ」
 手を叩いて感心する名雪だったが、祐一の反応は冷たいものだった。
「アホ。これくらい、ちょっと考えれば誰でも気付くことだ。お前はもう少し脳を使え。
イチゴ食って惰眠貪ってばっかだと、そのうち頭の中がイチゴ風味のヨーグルトみたくなっちまうぞ」
「イチゴ風味のヨーグルト? 美味しそうだね〜」
 トロンとした目付きで幸せそうに呟く名雪に、祐一は深深と溜め息を吐いた。
「とりあえず、秋子さんに警察に連絡してもらってくれ。それから、オレの部屋からは特に盗られた物はないってことも、ついでに伝えてくれ」
「うん。分かった」
 1階へ続く階段に向かう名雪の後ろ姿を暫く見送ると、祐一は自分の部屋には足を踏み入れず、戸口のところに立ったまま室内を観察した。

 とりあえず、自分の部屋はこのまま手をつけずにいた方が良いだろう。他の部屋は、1階を含めて名雪と秋子が片付けを進めてしまっている。現場保存が今から可能なのは、自分の部屋だけだ。あとで警察の捜査や鑑識が入ることを考えても、室内には入らず、出来る限りこのままにしておいたほうがいい。下手に触ると、侵入者に繋がる手がかりを消してしまうことにもなりかねない。
「しかし、なんでオレの部屋だけ荒らされ方が酷いんだ?」
 名雪の言葉からも分かる通り、相対的に見て祐一の部屋が1番甚大な被害を被っているように見えた。荒らし方の度合いが徹底しているとでも言おうか。ベッドや椅子のクッションまで引き裂かれ、中身が引き摺り出されているのは、明らかに異常だ。
「狙いは、オレか? で、探し物がオレの部屋から出なかったから、他の部屋も漁った。或いは、部屋は同時に襲われたが、オレに目星をつけていたから、この部屋を重点的に荒らしたか」
 確かにそう考えると、祐一の部屋の状況だけが一際酷いということにも説明がつく。それに、秋子や名雪はどう考えても人から恨みを買うような性格はしていない。もし原因があるとすれば、自分以外にあり得ないように思えた。
「昨日だって、北川と一緒に乱闘騒ぎに巻き込まれたしなぁ」
 声に出してみて、祐一はハッと目を見開いた。慌ててその手に持った紙の手提げ袋に目をやる。袋の中には、大きな箱が収められていた。今日、パーティに行く前、コインロッカーから取り出してきた物だ。
「まさかとは思うが、これと関係ありか?」
 祐一はそのまま廊下に腰を落とすと、改めて箱を袋から取り出してみた。深い紫色をした、冷たい感じが印象的な、なんの変哲もない立方体だ。大きさは、VHSのビデオテープを3つ重ねた程度。その大きさからすれば、重量は軽めだ。材質は不明だが、恐らく硬化プラスティックだろう。
 箱の上部には、分厚い蓋がついていて、それは銀色の小さな金属の留め金で固定されていた。だが鍵は付いておらず、留め金さえ外せば蓋は簡単に開けられるようだった。
 祐一は少し考えた後、躊躇わずにその蓋を開けた。中は、殆どが衝撃緩和剤とでも言おうか、クッションの役割を果たすスポンジのようなもので満たされていた。サイズの割りに、箱が軽かったのはこのせいだろう。そんな中、緩衝用のクッションに埋もれ込むようにして輝く、一際大きな宝石。大きさが尋常ではない。赤ん坊の拳くらいのサイズはあるのではなかろうか。
 その正体を悟った瞬間、鳥肌が立った。
「おいおい、これってまさか――」
 71カラット、フローレス、Dカラー・ダイヤモンド。通称『シリウスの瞳』。
 2日前、佐祐理が経営する宝石店から盗まれ、今地元警察と県警が血眼になって探している『億』の値がつく国宝級ダイヤだ。もちろん、このクラスのダイヤには保険の意味合いでもイミテーションの存在が付き纏う。これがそうでないという保証はないが、空き巣がこれを目当てで入り込んだと考えれば、本物と考えても問題はないだろう。
「ってことは、この前のカンフー2人組……あいつらが」
 こうなってくると、彼らが今度のダイヤ泥棒の実行犯か、或いはそれに近しいポジションにある『キーマン』であることは疑い様がない。そして昨日、祐一に鍵を拾われたことに気付いて、それを奪い返すために無人の水瀬家に忍び込み、家捜しをした。推論としては、そこそこ。及第点はいっているように思える。 「しかし、昨日の今日だぜ? オレと北川とのいざこざで、鍵を紛失した。当然、オレか北川、或いはあの場にいたチンピラたちが持ち去ったと考える。それからオレの身元を割り出して、この家に住んでいることを突き止める。それだけの仕事を1日足らずでやったってか?」
 ゾッと冷たいものが背筋を走り抜けていった。行動力がズバ抜けている。ダイヤを盗み出した時の手口といい、相沢祐一に辿りつくまでの時間といい、何もかもが手際良く、迅速だ。いくらあの時、学校の制服を着ていたといっても、ありふれた学生服だ。しかも祐一は最近引っ越してきたばかりのニューフェイス。調べるにしても足ががりが少ないだろう。
 だが、彼らはそれをやった。そのことだけでも、相手がプロ中のプロであることの証明だ。だとすれば――

 北川がやばい……!

 祐一は、そのことに気付いて戦慄した。連中が自分を嗅ぎつけたなら、当然あの時一緒にいた北川もマークされているはずだ。水瀬の家に入り込んだのだ、北川の家が安全だという保障などどこにもない。
「名雪っ、名雪!」
 祐一は血相を変えて隣室の幼馴染みの元へ駆け出した。




to be continued...
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