風祭文庫・黒蛇堂の館






黒蛇堂奇譚

〜第12話〜
「国民的アイドル」



作・茶(加筆編集・風祭玲)


Vol.T-082





プロローグ

 つまらない番組の収録から解放され、高峰彩乃はマンションに帰り着いた。

十五歳で上京して以来四年間、
 
一人暮らしを続けてきた部屋は片付けが行き届かずゴミが乱雑に散らばっている。

忙しかった頃はこれこそアイドルとして充実している証拠と悦に入っていたが、

仕事が少なくなってきた今となっては今後の荒んだ人生を暗示しているように思われて、

部屋のドアを開けるたびに彩乃は憂鬱な気持ちになる。

小さい頃から光り輝くものを持ち、周囲にもてはやされてきた彩乃だったが、
 
今の彼女はその周囲に見捨てられることに怯え始めていた。

もっとも、そんなことを感じるのは一瞬のこと。

物事を真面目に考えるのが嫌いな彩乃はすぐに不愉快な事実から目を逸らし、

居間に入るとテレビを点ける。

その瞬間になって、彩乃は今の時間帯はそのチャンネルで歌番組をやっていることに気がついた。

急いでスイッチを切るより速く、画面に映し出される「REAL」の姿。

「……ほんと、売れっ子よね」

もはやテレビに「REAL」が出ない日はないと言っていいくらいである。

少し前まで彼女たちは、それなりに人気があるものの

数年で普通に消え去るはずのダンスアイドルユニットに過ぎなかった。

それが今では国民的なトップスターの座へと一直線に駆け上ろうとしている。

そのきっかけは、三ヶ月前。

生放送の番組中にメンバーの一人である理々香が人魚に姿を変えるという異常な事件によるものだった。

本来ならそのまま理々香は芸能界引退を余儀なくされただろうが、何が幸いするかわからない。

その一部始終が日本全国に流された結果、

異様な運命に見舞われた理々香には励ましのメッセージが次から次へと届けられ、

彼女は歌に専念する形で「REAL」への復帰を決心したのだ。

そして事件から二週間後。

活動再開後最初の公演での理々香の歌が、「REAL」の運命を変えた。

伝説にも語られる人魚の歌の持つ魔力によるものか、

その歌声はたちまち人々を魅了し、「REAL」の人気はうなぎのぼりになったのである。

今から一ヶ月ほど前にメンバーの一人が謎の失踪を遂げるという新たな事件はあったものの、

「REAL」の急成長にはさしたる影響も与えていない。

まあしばらく前から人気低落気味の彩乃と「REAL」とでは仕事がかぶることもなく、

大した利害関係もないのだが、

それでも理々香を中心とした「REAL」の輝きは、落ち目の彩乃にはあまりにまぶし過ぎて、

彩乃は画面に映る彼女たちの姿をなるべく見たくなかった。

買って三年で早くも古ぼけた印象を与えるソファに沈み込み、呟く。

「あたしだって、もうちょっと運が良ければ……」

その言葉は、すっかり彩乃の口癖になっていた。

実際、ほんのわずかな差で番組のレギュラーを逃していたことが何度かあったと、

彩乃はマネージャーから聞いていたし、

問い詰めてみた結果、色々な局の何人ものディレクターからも同じ話を聞けた。

歌唱力だってルックスだって、同時期にデビューした中ではトップクラス。

おまけにトークもこなせるし演技も悪くないから将来性も豊か。

上り調子だった頃は、時に番組を断らざるを得なかったことだってあるくらいだ。

それなのに最近いまいち冴えないのは、結局のところ運が悪いからなのだと、彩乃は自分を慰める。

だが、それは事実の一面に過ぎない。

彩乃が自分の才能に甘え怠惰に過ごしている間にも、

彼女の競争相手たちは己を磨く努力を欠かさなかった。

その意識の違いが「わずかな差」として評価に影響を及ぼしていたことも、

かなりの数に上るのだ。

彩乃自身も心の奥底ではそれを理解している。

しかし、それを認めるのが嫌で「運」にすべての責任を転嫁して

今はただずるずると日々を過ごしているのだった。



第一章

彩乃は黄昏どきの街を不機嫌に突き進んでいた。

その日のくだらない収録を終えて帰ろうとした時、いかにも業界然とした軽薄なADに呼び止められたのだ。

「彩乃ちゃーん、お疲れえ」

「お疲れ様です」

「あのさ、彩乃ちゃん、バイトやんない?

 俺の知り合いの監督から彩乃ちゃんみたいな子がいいなってご指名されてんだけど」

「え……?

 うれしいですけど、事務所に相談してみないと……」

「あー、ダメダメ。

 結構おいしい仕事なんだからさ、そんな固いこと言っちゃダメだよー」

「……?」

不審に思ってよく訊けば、アダルトビデオの撮影だった。

当然断る。

しかし、彩乃としてはやんわりと断ったつもりだったが、相手はそうも受け取らなかったようだった。

「大きな口叩いてられんのも今のうちだよお、

 彩乃ちゃんが売り物になるのはせいぜい来年までなんだから」

そんな捨て台詞を吐いて、ADは去っていった。

「なんで、あんな奴にあんなこと言われなきゃなんないのよ……」

相手への怒りと、何より、そんなことを言われるまでに落ちぶれた自分のみじめさ。

それらが耐えがたく、彩乃はふらふらと街をさまよう。

と、なぜか彩乃の足は、ひっそりと佇む一軒の店の前で止まっていた。

小ぢんまりした古めかしいレンガ造りの建物だ。

黒ずんだドアの上には「黒蛇堂」と墨で書かれた看板が架かっている。

しかし、何の店なのかはさっぱりわからない。

こんな店には興味がない。

それなのに、まるで何かに誘われるように、彩乃は店内に入っていった。

「黒蛇堂へようこそ」

引き返すよりも早く、店内にいた少女が声をかけてきた。

十四、五歳くらいだろうか。

長い黒髪をまっすぐ後ろに垂らし、まるで漫画に出てくる魔女のような黒ずくめの服に身を包んでいる。

「私がこの黒蛇堂の主です……。

 人は私のことを黒蛇堂、と屋号で呼びますが」

機先を制された彩乃は、とりあえず主人を名乗る少女に尋ねてみる。

「ここ、何のお店?」

陳列されているのは様々な種類の薄汚れたガラクタばかり。

古道具屋みたいなものだろうか。

「お客様の満たされない思いを満たすものを、商っております」

答えになっていない答えを返すと、黒蛇堂はつま先立ちして高い棚に手を伸ばした。

「よいしょ……っと」

棚から引きずり下ろしたものは、

黴でも生えているのか黒い斑模様が全体に生じている灰色の服のようなもの。

いや、小さく丸められているため形はいまいち判然としないのだが、

服というよりは全身タイツのようなものか。

皮のような光沢があり、意外と埃はかぶっていない。

「これを身にまとえば、貴女は国民的なアイドルになれるはずです」

黒蛇堂はさらりとそんなことを言った。

いきなり自分の願望を的確に言い当てられてうろたえそうになった彩乃だが、

曲がりなりにもアイドルの自分である。

顔を知られ、願いを悟られてもおかしくはない。

そしてその言葉に動揺したあまり、彩乃はその皮を差し出されるままに受け取っていた。

「お代は結構です」

持ち合わせがない、と断るつもりだった彩乃より早く、黒蛇堂が言う。

「え?」

「まずは試していただき、気に入りましたらご購入……という運びで」

その物腰は柔らかかったが、どこかに有無を言わせぬ迫力があり、

彩乃は皮を突っ返すこともできずに店を出る羽目になった。

「ご使用の際の注意としましては……

 海や川といった水辺に近い場所で着用すること。

 服や下着の上から着込んでもまったく問題はありません。

 また脱ぐ時は、脱ぎたいと心の中で強く念じれば脱ぎ捨てることができます。

 ただし……
 
 それを着込んだ状態で身体に何かが刺さったり植え付けられたりしましたら、
 
 それを取り除くまで脱ぐことはできなくなりますので、くれぐれもご用心ください」

店を出る寸前に受けたわけのわからないいくつもの忠告が頭の中でリフレインするうちに、

彩乃はいつしか自室の前に立っていた。

わけのわからない相手にわけのわからないものを渡されたことが気持ち悪くなり、

黒蛇堂に引き返そうと思った彩乃だが、いくら考えても店へ至る道筋を思い出すことはできなかった。



「レポーターの彩乃ちゃーん!」

イヤホンから、スタジオにいる司会者の声が彩乃を呼ぶ。

生活廃水の異臭が鼻腔に流れ込んでくる中、

彩乃は笑顔を作ってマイクを握りしめ、カメラに明るくしゃべりかけた。

「はい!

 私は今江戸川にいます!
 
 数日前からこの川ではアザラシが目撃されているとのことで、
 
 すでに住民の皆さんはエドちゃんという愛称で呼んでいるくらいなんですね!
 
 エドちゃんは神出鬼没なんですが、この生放送中にきっと姿を見せてくれると思います!
 
 その時にはすぐ映像を切り換えて、視聴者の皆さんにエドちゃんの愛らしい姿をお見せいたしまーす!」

しゃべり終えて中継が切れると、彩乃はため息を吐く。

「ほんとに時間内に出ると思います?」

「さあね」

若いディレクターは素っ気なく言って、川に視線を投げた。

「あそこら辺の土手に寝そべって日向ぼっこしてくれたら絵的に最高なんだけどな」

空は嫌になるほど晴れている。

昼下がりのひと時、白いコンクリートブロックにゆったりと横たわる呑気なアザラシの映像は、

全国のお茶の間に癒しとか安らぎとかをもたらすのだろう、きっと…

少し離れた橋の上には見物人が鈴なりになっている。

『エドちゃん饅頭』だの何だのの屋台がさっそく軒を並べている。

その人出と、ついこの前の自分のコンサートの客の入りとの落差を考え、彩乃の心は沈んでいく。

結局、三十分後に番組が終わるまで、エドちゃんは姿を見せなかった。

引き揚げようとした彩乃に、ディレクターが声をかける。

「あのさ、辛気臭い気持ち、顔に出しちゃ駄目だよ」

「…………」

後になって思い返せば、その言葉に強い悪意が篭もっていたわけではない。

むしろ言い方はともかく、彩乃を励まそうとしていたような気さえする。

しかし、その時の彩乃にとってその言葉は何かを決壊させるに充分だった。

荷物を手にし、彩乃はあてどなく走り出した。

涙がにじみそうになる。

自分がみじめでたまらなかった。

あるべき自分、夢見た自分にはなれそうもない今の自分を消し去りたかった。

ひたすらに走りながら、彩乃はぼんやりと思いを巡らせる。

こんな外回りの、マネージャーすら付かない、

ちょっと前なら断っていたようなけちな仕事をいくつもこなす、そんな敗残者になるはずじゃなかった。

常にスタジオの中で眩しいスポットライトを浴び、

ファンの大きな声援を全身で受け止め、

日本中の人に愛される、国民的アイドルになるはずだったのに。

……国民的アイドルに。

走って、走って、そしてそこまで考えた時、彩乃は足を止めた。

手にしたバッグの片隅には、黒蛇堂に手渡された皮が放り込まれたままになっていた。

横には江戸川が流れている。

そう、黒蛇堂の言っていた条件を満たしていた。

捨て鉢な気分になっていた彩乃は、土手を越えて川べりに向かうと人目につかない場所を探し始めた。



第二章

橋桁の下に、まるで彩乃の望みを叶えるためにあるような、絶好の場所があった。

よい天気であり、エドちゃん目当ての大勢の人が岸の両側に屯しているにも関わらず、

そこだけはなぜか誰の目からも死角になっているようだった。

バッグを置いた彩乃は上着を脱ごうと手を掛けたとき、

すと黒蛇堂の言葉を思い出すと、何も脱ぎ捨てず皮を手に取った。

こんな着ぐるみを着て何が起こるわけもない。

頭ではわかっていたが、

しかし今の追いつめられた気持ちを処理するために、彩乃は何でもやる気になっていた。

それにしても黒蛇堂より持ってきたその皮は、こうして広げてみても人が着られる形には見えなかった。

腕の部分は信じられないほど短いひれになっていて、脚も同様。

頭の先からつま先までの長さも彩乃の身長に届かないくらいだ。

もっとも最近の素材には驚くほど伸縮するものもあるけれど。

最初に見た時は黴かと思った黒い斑だが、こすっても落ちない。

どうやら最初から灰色の地に黒い斑点を染めていたようだが、何とも見映えのよくない色使いである。

くしゃくしゃに丸めてあった頭部を観察すれば、

アザラシだかアシカだか知らないがやけにリアルな海獣の顔。

刳り抜かれた目の部分が虚ろで不気味だ。

「……こんなので人気が出たら苦労しないわよ」

そうぼやきながら、それでも手を動かすのは止めない。



背中に大きく開いた裂け目より、まずは片脚を差し入れた。

思った通り、皮はよく広がると、

小さく膨らんでいたひれ状の部分が形の良い彩乃の脚を収めて長く伸びる。

そして、もう一方の脚も同じようにすることで、彩乃の下半身はすっぽりと皮の中に入り込んでしまった。

今度は両腕。

こちらの部位も気持ち悪いほどよく伸びて、

彩乃の白い腕を黒い斑の散った灰色の皮が覆い尽くす。

それはやはりひれと呼ぶ他なさそうで、

指先が分かれていないのが不便である。

こうして彩乃の首から下は完全に皮に包まれたが、

それは見れば見るほどぶざまな光景だった。

妙に身体の線が浮き出て扇情的ではあるが、

灰色と黒の色彩がすべてを台無しにしているし、

手が満足に使えないから何もできない。

最初の印象通り、この皮は出来の悪い全身タイツに過ぎなかった。



胸元には空っぽの海獣の頭が、ぶらぶらと揺れている。

「馬鹿みたい……」

何かに魅入られたように動いていた彩乃だが、自分のみっともなさに我に返る思いがした。

あんな子供の言葉を真に受けて、何をしていたのだろう。

単にたまたま店番をしていたあの家の中学生が口から出任せを言っただけじゃないか。

買い手のつかないこの皮を処分したくてしかたがなかったに違いない。

国民的アイドルになるために必要なのはこんな皮じゃない。

運だ。

運さえ良ければ今頃自分はスターになっていたはずだ。

運さえ良ければこんな皮なんか引き取らされずに済んだはずなのだ。

「もうちょっと運が良ければ……」

嘆きが彩乃の口からこぼれ出る。

そして、彩乃は皮を脱ぎ捨てようと、首筋に両手をかけた。

しかし。

「痛い!?」

爪の根元のささくれを下手に剥がそうとした時の、数十倍の痛みが走った。

首筋の皮は、彩乃の身体にぴったりとくっついていた。

まるで皮膚の一部になったようで、あまりの痛さにとても脱ぐことなどできそうになかった。

皮に妙なばい菌でも付いていたのかと最初思った彩乃だが、

それよりも異常な事態が起こっていることにすぐ思い至る。

服の上から着たにも関わらず。

シャツの襟首などはまだ皮の外に出ているにも関わらず。

まるで服など無視するように、皮が彩乃と同化している気がするのだ。

いつしか皮を触れば、まるで素肌を触られたようにさえ感じるようになっていた。

「ど、どういうこと……くっ!!」

不意に両脚を痛みが襲い、彩乃はその場に脚を投げ出して座り込んだ。

筋肉や骨がきしむようなその痛みは加速度的に増していく。

動くこともままならずぼんやり脚を見ていた彩乃は信じがたいものを見た。

「う、嘘?!」

彩乃の両脚が、どんどん短く縮んでいった。

脚が消え失せようとしているわけではない。

皮の中でもがいてみれば、

腿も膝も脛も踝も踵も五本の指も、ちゃんと感覚は存在している。

ただそれらがどんどん一塊の存在になり、

小さく衰えた存在になっていこうとしているのだ。

「嫌、嫌、嫌……」

しかし彩乃の乞い願う声をよそに、

彼女のすらりとしていた両脚は身体を支えて歩くことなどできそうにない、

矮小なひれにその姿を変えてしまった。

脚のないその状態では座っていることは却って困難で、

ついにバランスを崩してしまった彩乃は仰向けになってしまった。

「ああっ!!」

今度は両腕に同様の痛みが走る。

指が、掌が、手首が、肘が、どんどん一体化していく…

小さく短く縮んでいく。

マイクを握るための、

踊るための、

台本を持つための手が、

何もできないひれになっていく。

四肢を使えなくなった彩乃はひっくり返された亀のようにその場に横たわることしかできそうにない。

そして胸に軽いショックが走る。

首を持ち上げると形良く膨らんでいた乳房も平らに均されて、

彩乃の胴体はずん胴なものになっていた。

「こんな皮、脱ぎたい! 

 脱ぎたい!

 誰か脱がして!」

恥も外聞も忘れて叫ぶが、黒蛇堂の言に反して皮は一向に脱げようともせず、

なぜかその声を聞きつけて助けに来てくれる人もいなかった。



そのうちに、彩乃は不快感を覚えるようになっていた。

さっきまで快適だった気温が、やたらと暑く感じられてきたのだ。

すでに素肌化したこの皮はまるで上物のコートのように温かく彩乃を包んでいるが、

今はそんなものを着込む季節ではない。

額からは汗が滴り、顔全体が上気しているのを痛感する。

意識としては裸でいるのに暑くてたまらないというのもおかしな話だ、などと笑える余裕もない。

こうなったら何とかして救いを求めるしかない。

こんな手足でも這いずるくらいはできるだろう。

彩乃は必死で胴体をくねらせて、何とか寝返りを打つことに成功した。

が、

その顔に、皮の頭部が貼りついた。

「やだっ! やだやだやだっ!!」

激しく首を振るが、皮は一度皮膚に触れると決して離れようとしない。

次第に顔面全体と一つになっていく。

口の中で、歯の形が変わっていった。

口元から太いひげが何本も生え出した。

『嫌……嫌……』

喉から漏れる声も、もはや人間の少女のそれではなかった。

『あっ』

闇雲に動き回るうちに、ついに彩乃は川の中に転げ落ちてしまった。



水の中で最初はパニックに陥った彩乃だが、ひれを少し動かすだけで姿勢は安定した。

早く水面に上がらなければと焦ったが、意外なほどに息苦しくない。

そしてまた、水温の心地よさが素晴らしい。

ついさっき、レポーターをしていた時は冷たそうに見えた水なのに、

いま潜ってみると皮が体温の低下を防いでくれて、ちょうどよいくらいである。

水は淀んで生臭いが、それでもさっき川のほとりで体温の上昇に苦しんでいた時よりはよほど過ごしやすい。

今のこの身体が水の中で生きるのに向いていることを、彩乃は認めざるを得なかった。

しばらく泳ぎ、さすがに息苦しくなってきて、彩乃は水面に顔を出した。

すると、頭上から歓声が上がる。

「エドちゃん!」

「エドちゃーん!!」

「いやーっ、可愛いっ!」

橋の上からのそうした黄色い声を、彩乃はぼんやりと聞いた。

『……そっか。

 あたし、アザラシなんだ』

さっきまで出現して欲しかったアザラシに自分が変身したことを、彩乃は何となく皮肉に思った。

『人間だった時より、よほど騒いでもらえるわね』

意識は冷めているつもりだが、

久しぶりに浴びる熱い視線と好意に満ちた声援は、彩乃の心を満たしていくようであった。

「エドちゃんこれどうぞー」

誰かが彩乃の眼前に物を投げ入れる。

とても食欲をそそる匂いがした。

水が濁っていて目だけで追うことはできなかったが、

近くを何かが沈んでいくことを、彩乃はひげの振動で感じ取っていた。

その物体を捕捉して、くわえ込む。

生のホタテだった。

川の水に浸かった生の貝など、もちろん人間のままだったら食べたりはしなかっただろう。

しかしアザラシになっている今の彩乃は、自分でも驚くほど呆気なくそれを飲み込んでいた。

しかもそれは、人間だった時に食べたたいていのものよりも、おいしく感じられた。

おいしい食べ物をもらったことで、彩乃は何かをしなければならないような気になってきた。

と言ってもアザラシの身体でできることなどさしてない。

せめてファンの期待に応えるべく、彩乃は川岸に這い上がった。

水に濡れた身体を風が冷やし、今度は陸の上でも暑さに苦しむには至らなかった。

「上がった上がった!」

「こっち向いてー、エドちゃーん!」

あまり正確に反応するのも不審を招きそうで、

彩乃は少し見当違いの方向を向きながらコンクリートブロックの上に寝そべった。

彩乃は何もしていない。

しかし、いや、それゆえにだろうか、観衆はますます声を張り上げる。

ふと見上げれば、テレビカメラも何台と並んでいる。

今はちょうどワイドショーの時間。

各局こぞって彩乃の姿を全国に中継しているのだろう。

『あの子の言ってた通りね……確かにこれは国民的アイドルだわ』

もしかしたら「REAL」以上に今の自分は注目されているのかもしれない。

と、誰かの声が聞こえてきた。

「……あれ、エドちゃんじゃないんじゃないか? 背中の模様が違う」

「ほんとだ。

ほら、これ昨日の画像なんだけど……」

どうやら何日も通い詰めている熱心なファンがいたらしい。

その指摘は、しかし彩乃には何らマイナスに働かなかった。

「でもエドちゃんよりずっと可愛らしいわ」

「一回り小さいから、あれは雌なんじゃないかな?」

「身体に傷とかが全然付いてないな。

 どこかの家から逃げてきたのか?」

「大切に育てられたお姫様みたい」

「ヒメちゃーん!」

「ヒメちゃーん!!」

群集はたちまち彩乃をヒメちゃんと命名すると、それまでに倍する歓声を送る。

この声だ、と彩乃は思った。

自分を見つめ、褒め称え、愛してくれる声。

ここしばらくすっかり聞くことのできなくなっていた声。

自分が求めていたのはこれだったのだ。

『この声がずっと聞けるなら……

 あたし、アザラシのままでいいや』

うっとりと声援に聞き惚れながら、彩乃は思わず呟いた。

陸で寝そべり、暑くなってきたら水中に戻り、投げ込まれるおいしい餌を食べる。

何をしても観客は喜んでくれる。

それを繰り返しているうちに日が沈み、見物人は潮が引くようにいなくなった。

本物のアザラシなら水の中でも眠れるのかもしれないが、元人間の彩乃としては不安である。

バッグを置いていた橋桁の空間に戻り、野生動物にふさわしい浅い眠りを貪った。



第三章

次の日も野次馬は山のように押し寄せてきた。

「ヒメちゃーん!」

「こっち向いてーっ!」

「きゃーっ!!」

だが、川の流れを上ったり下ったりして昨日以上の賑わいに包まれながら、

彩乃の心の中では次第に疑問が膨らんでいった。

自分はまったく何もしていないのに騒がれる。

その状況は、物心がついてこの方彩乃が経験したことのないものだった。

彩乃はいつだって何かを披露することで褒めそやされた。

歌を歌ったり、ダンスを踊ったり、芝居を演じたりして、その芸を評価された。

芸能界に入ってからはグラビア撮影の仕事もあったが、

それとて被写体として美しく撮影してもらうという技量が要求された。

水の中を泳ぐのも、

陸に上がって休憩するのも、

餌を食べるのも、

すべてアザラシとしては当たり前のことである。

人間で言えば、ただ歩き、眠り、食べる姿にみなが嬌声を上げるようなものだ。

そんなの、赤ん坊と変わらない。

しかし客の認識としては同じようなものなのだ。

珍しい可愛い生き物が『運良く』自分たちの生活圏に現れた。

だからその存在自体が無条件に肯定されている。

でも、それは彩乃が求めていたものとは違う。

自分が聞きたいのは、ただそこにいるだけで与えられる声援ではない。

自分が望んでいたものは決して運の産物などではない、自分の力で手に入れる声援なのだ。

『……あたし、勘違いしていたんだ』

そもそも彩乃にとっての運不運とは、

自分を見てもらう場を持ちたいのになかなか持てない、

その悩みから生まれた発想だった。

なのにいつしかその大事なステップを忘れ去り、

一足飛びに客の声援を受ける幸運を求めてしまっていた。

それに気づくと、今の境遇が屈辱的なものに思われてきた。

この皮を脱ぎ捨てたい。

アザラシから人間に戻って、自分の歌や芝居をみんなに見てもらいたい。

彩乃は心底そう願った。

その瞬間。

『え?』

手足が伸び始めると背中から皮が裂け、

するとそこから冷たい川の水が入り込み、

彩乃は川の中に沈んでしまった。

元に戻れたことを喜ぶ暇もない。

『い、今はまだ駄目!』

彩乃は慌てて皮をかぶり直すと、アザラシの身体を取り戻した。

気を静めるように水底を泳ぎながら、彩乃は今の出来事を整理した。

どうやら自分が本当に人間に戻りたいと願ったから、この皮は脱げるようになったらしい。

ならば迷うことはない。

アザラシ生活はもうおさらばだ。

川をずいぶん下っていたため荷物の置いてある場所までかなり戻らなければならないが、

それくらいはしかたないことだろう。

最後のお披露目をせいぜい可愛らしく演じてやろうなどと考える余裕も出てきた。

そして水面に浮上した時、彩乃は観衆のざわめきに気づいた。

「エドちゃんだ!」

「エドちゃんも来た!」

その声に促されるように、アザラシの聴覚と嗅覚が、同類の接近を彩乃に告げた。

いつの間にそこまで来ていたのか、自分からさして離れていない下流を泳ぎ、こちらにどんどん近づいてくる。

『考えてみたらこれって代役公演みたいなものだったわね。

 本物まで来てくれるなんて、ずいぶん派手な最終日だわ』

だが、そんなことを思う余裕はすぐに雲散霧消した。

下流の雄アザラシから漂ってくる濃いほどの臭気、そして荒い息遣い。

エドちゃんが『ヒメちゃん』に発情していることを、彩乃は本能的に悟った。

――ただし……それを着込んだ状態で身体に何かが刺さったり植え付けられたりしましたら、

   それを取り除くまで脱ぐことはできなくなります。

黒蛇堂の忠告の意味を彩乃は真に理解し、それと同時に全速力で上流へ向かって泳ぎ出した。

『冗談じゃない!

 アザラシと交尾なんて真っ平よ!』

それどころかアザラシの赤ちゃんを産むことになるかもしれない。

そんなことになったら何ヶ月も人間に戻れない。

アザラシの身体の構造は知らないが、

子供を産んですぐに次の交尾をさせられて妊娠して、

などということになったら一生アザラシでいるしかないかもしれない。

彩乃は必死になってエドから逃げた。

しかし雄アザラシはわずかな距離の差をぐんぐん詰めて彩乃に迫る。

もはや人目も何も関係ない。

とにかく岸に辿り着いて皮を脱ごうと思ったが、

大きな方向転換をする余裕などなく、

彩乃は直線的に本来の目的地を目指す泳ぎしかできなかった。

心臓を激しく脈打たせ、全身の筋肉を酷使して、彩乃はひたすら泳ぐ。

その努力が報われ、紙一重の差で岸に辿り着けそうだと思った時。

目尻に鋭い痛みが走った。

『え?

 え?』

何とか岸に上がる。

皮を脱ぎたいと強く願う。

しかし手足が伸びて背中から皮が剥がれそうになっても目尻の部分が引き攣れて、

彩乃はどうしても皮から抜け出せなかった。

エドはそんな人とも獣ともつかぬ彩乃の様子を水の中から見守っている。

それは正体不明の彩乃を恐れているようにも、

彩乃が再びアザラシになって水中に没するのを待ち構えているようにも見えた。

皮のせいでまだひれ状になっている手で目尻を探り、

彩乃は捨てられた釣り針が自分の身体に引っかかったことを知った。

しかし事情がわかっただけではどうにもならない。

手で取り除く以外に方法はないが、五本の指が一体化したひれでは、

返しががっちり喰い込んだ釣り針を外すことは不可能にしか思えないのだ。

かなりの時間を費やしたが、どんなにあがいても釣り針は取れなかった。

『誰か助けて!』

思い余って彩乃は叫んだが、顔の皮が剥がれないためその声は人間のものではない。

それに昨日と同じように、そこはなぜか人の目も耳も届かないらしく、

誰も近寄ろうとはしないのだった。

もっと人のいる場所へ向かおうとしたが、

そうすると皮の力によるものか、

彩乃の身体はアザラシに戻されそうになる。

結局のところ、皮をきちんと脱げないうちは、

彩乃は人間として人間と接触することができないようであった。

そんな中、エドはじっと彩乃を見ている。

アザラシの姿で人前に出て釣り針を外してもらおうかとも一瞬思ったが、

その前にエドとの交尾を強いられるであろうことは間違いなかった。

このままでは人間には戻れないが、アザラシにはなれる。

その現実を目の前のエドが突きつけているように彩乃には思えた。

――アザラシの暮らしも悪くないぜ。

エドがそう囁きかけてくるような錯覚を覚えた。

――そんなに人間に未練があるのか?

もちろん、ときっぱり答える自信は、今では急速に薄れつつあった。

それは、元に戻れないという恐れと絶望に基づいた現状の正当化であり、

気分の高揚が失われた後の反動でもあった。

くら歌やダンスを評価して欲しいと願ったって、自分にはその評価を受けるだけの実力がない。

だから色々な番組の出演を逃してきたし、ささやかな仕事にしかありつけないのではないだろうか?

だいたい、そんな苦悩のせいで自分はアザラシの皮をかぶることになったのだ。

人間に戻って新たに傷つくよりは、このままアザラシとしてちやほやされる方がよほど幸せなのではないか?

『一生アザラシ、か……』

寿命は人間ほど長くなさそうだ。

それに日本の環境は、もっと北で暮らすはずのアザラシには不向きかもしれない。

だけどこの川に居座れば一生餌には不自由しないだろう。

病気になっても獣医に診てもらえるはずだ。

不安は消えないが、彩乃はアザラシの良さを見出そうと努力した。

『だってこのままじゃ人間には戻れないんだし……

 しょうがないわよ、ね』

彩乃はうつぶせになり、皮を脱ぐのを諦めた。

すると彩乃の手足は見る見る縮んで再び泳ぐのに最適なひれとなり、

その胴体はアザラシの流線型を取り戻す。

目線が近くなると、エドの顔はより親しみやすいものに思えてきた。

――さあ来な。

可愛がってやるぜ。

エドに呼ばれているようで、彩乃は芋虫のごとく身をくねらせて水際に近づく。

そして水の中に飛び込もうとした時。

「お待ち下さい、彩乃さん」

ひどく息を切らした声が、背後から彩乃を呼んだ。

驚いて振り返ると、肩で息をしながら黒蛇堂が立っていた。

「緊急の用事があってすぐに駆けつけることができませんでしたが……

 先ほど、彩乃さんは『助けて』とおっしゃっていましたね?」

呼吸を整えながら黒蛇堂はそう言うと、アザラシ姿の彩乃のそばにしゃがみ込む。

「私の望みは貴女の思いが満たされること……

 アザラシとして国民的アイドルになるにせよ、

 人間として本当の声援を獲得するにせよ、

 貴女の思いが満たされるのであれば、私にとってはどちらでも構いません。

 元々皮を渡したことが、貴女にその二つの選択肢を与えたことになるのですから」

黒蛇堂はひどく優しい声でそう言った。

「ただし、自業自得でないアクシデントで人間に戻れないからアザラシになる、

 などという消極的な選択はなるべくして欲しくないのです。

 貴女が望むなら、その目尻の釣り針は私が外します。

 もちろんアザラシとして暮らすことを望むならそのまま川にお入り下さい」

黒蛇堂は彩乃の目を見つめ、訊ねる。

「……どうなされますか?」

彩乃は黒蛇堂とエドを交互に見て、やがて心を決めた。



エピローグ

「今日もエドちゃんとヒメちゃんは江戸川をのんびりと泳いでいます。

 このカップルのため、東京都は流域沿いの自治体に呼びかけて江戸川クリーン作戦を――」

部屋の掃除をしながらワイドショーを観るともなく観ていた彩乃の目に、二匹のアザラシが映る。

彩乃が黒蛇堂に釣り針を外してもらい、脱いだ皮を返したその数日後。

エドの隣にあの時の自分とそっくり同じ容姿の雌アザラシが現れた。

そしてそれから一週間、二匹は仲睦まじく常に連れ立って川を泳いでいる。

さすがにテレビで映像は流れないが、ネットで得た情報によればすでに交尾も何度となく済ませているらしい。

「他人の空似、なのかな……」

口にしながらも彩乃はその言葉を信じていなかった。

誰か自分と同様の落ち目のアイドルがふらふらと黒蛇堂に迷い込んだように思えてならなかった。

それが誰かは知らないが、彼女は今、幸せなのだろうか?

ブラウン管に映る、日向ぼっこをしている雌アザラシの表情はまるで笑っているようだった。

「……でも、あたしは、嫌」

彩乃が呟いてテレビを消した時。

電話が鳴った。

電話をかけてきたのはマネージャー。

とある番組のレギュラーをしていた子が不意にいなくなり、その後任を探しているとのこと。

マネージャーの隣にいたらしく、

前に何度か仕事をしたことのある製作会社のディレクターが電話を替わり、

彩乃に詳しく番組や仕事の説明を始めた。

その番組名を聞き、彩乃は一瞬悩む。

レギュラーとは言え、不人気な子供番組のアシスタント。

おまけに自分の立場と放送局の格を考えれば、

これはもうアイドルとしては袋小路なのかもしれない。

それに子供は苦手だ。

ちゃんと仕事をこなせるか自信がない。

「とにかく急いでるんで今すぐ返事が欲しいんだが……どうかな?」

以前の彩乃なら、なんだかんだと口実を見つけて断っていたかもしれない。

だが。

「よろしくお願いします」

彩乃は言うと、電話の向こうの相手に頭を下げていた。

これからどんな自分になれるかはわからない。

黒蛇堂の言っていた『本当の声援』が得られるかどうかもわからない。

でも、できるだけがんばってみようと思った。



おわり