風祭文庫・黒蛇堂の館






黒蛇堂奇譚

〜第6話〜
「偏食解消剤」



作・茶(加筆編集・風祭玲)


Vol.T-065





「隆幸! またご飯残してるわね!!」

自分の食事を終えた後、

外出のための支度と着替えをしてからダイニングキッチンに戻ってきた後藤桐子は、

食事の終わっていない三歳の息子を激しく怒鳴りつけた。

高校を中退して子供を産んだ桐子はまだ十九歳。

身なりを整えメイクに気合を入れれば同年代のたいていの女が羨むほどの美人である。

しかし望まぬ結婚生活への倦怠がその顔に漂い、

息子を叱責するたびに深く刻まれる顔の皺と相俟って、

いま現在の彼女は五歳以上老けて見えた。

「ママがせっかく作った料理をあんたは何で食べられないの!!」

テーブルの上の小鉢にはニンジンとジャガイモが残っている。

肉じゃがを出したのに好き嫌いの激しい隆幸は肉だけを食べて野菜を残したのだ。

「だって……」

「だってじゃありません!

 食べなかったら許さないわよ!」

一見したところ理は桐子にありそうだが、

その肉じゃがは冷凍食品を電子レンジで温めただけで、

「作った」という言葉には説得力も何もない。

しかも、レンジの時間設定をいいかげんにしたせいで、

野菜の芯はまだ凍っていたのだ。

こんなもの、野菜が好きな大人でも箸を伸ばしたくない。

しかし、そうした自分の不手際には考えも及ばず、桐子は息子を責めたてる。

「神経質なくせに強情で……ほんとにあんたは父親そっくりよね。

 いい?

 ママはこれから出かけるけど、
 
帰ってくるまでにちゃんと食べておくのよ。

この前みたいに庭に穴掘って捨てたりしたら、

あの時よりもっとひどいお仕置きするからね」

「……うん」

脅しつけると隆幸は沈んだ顔で肯いた。

「何泣きそうな顔してんのよ!

 悪いのは好き嫌いしてるあんたなのに!!」

最後にもう一度叱り飛ばすと、桐子は家を出た。



「明日はババアが来るのよね。

 ……昼ご飯の時にまた叱られちゃうわ」

デパートでウィンドウショッピングをしていても、桐子の心は晴れなかった。

といっても偏食ばかりの息子の健康を気遣ったわけではない。

単に、週に一度様子を見に来る自分の母親が

そのことを咎め立てするのが煩わしかったのだ。

元はといえば高一のある晩、小遣い稼ぎに売春した時に避妊具を忘れていたのが、

桐子にとっては悪夢の始まりだった。

桐子と敬虔なクリスチャンである両親とは、

血が繋がってるのが不思議なくらい反りが合わなかった。

中学の頃から男を作り自堕落な生活に溺れていた桐子だが、

それは両親が思い込んでいたような思春期による一時的な荒れとは話が違った。

桐子は性分としてそんな生活が好きだったのだ。

それなのに、

中絶の資金を工面するより早く、母親に妊娠がばれてしまった。

両親は桐子が呆れるほどの執念で子供の父親を特定すると、その男との直談判に挑んだ。

冴えない風貌の三十男は独身で、

何と二十歳近く年下の桐子と結婚することにしてしまった。

桐子には四六時中監視にも似た親の視線が浴びせられ、結局中絶は不可能になってしまった。

流産もせず子供は生まれてしまい、こうなっては結婚しない方が損になる。

桐子は高校を辞めさせられ、

夫の家に引っ越して、

つまらない育児に取り組む羽目になった。

幸いにも夫の両親はすでに死んでいたので義父母に悩まされることはなかったが、

最近になって、

姑に責任転嫁して無理矢理離婚してしまうという手が使えないことがとても残念に思えてきた。

夫となった男はこの上なく退屈な人間だし、

息子は偏食が激しくてちっとも母である自分の思い通りにならない。

その上実家の母親がいまだに保護者面して桐子の生活を縛ろうとする。

宝石や洋服を眺めていてもちっとも気分転換にはならず、

桐子はデパートを出ることにした。

とそのとき大学生と思しき若い女性のグループとすれ違い、

桐子は自分と彼女たちの格差に嫉妬と怒りを募らせた。



デパートを出て、しかし家に帰る気にもなれず、

桐子はにぎやかな街並みをあてもなく歩いていた。

と、周囲の喧騒とは無縁にひっそりと佇む一軒の店の前でその足が止まった。

小ぢんまりした古めかしいレンガ造りの建物だ。

黒ずんだドアの上には「黒蛇堂」と墨で書かれた看板が架かっている。

しかし、何の店なのかはさっぱりわからない。

こんな店、いつもなら間違いなく無視したはずだ。

なのに、なぜか桐子の手はそのドアノブにかかり、扉はまるで重さを感じさせずに開いた。

流されるままに、桐子は店内に足を踏み入れる。


「……汚い店ね」


陳列されているのは錆びついた機械や埃まみれの薬壜。

その他列挙するのも面倒くさくなるほどの雑多で薄汚れたガラクタ。

桐子の趣味にはまったく合致しない。

引き返そうと心に決めて踵を返そうとした瞬間、背後から声をかけられた。

「黒蛇堂へようこそ」

「ひっ……!」

驚きに顔を引きつらせて振り返ると、

どこに隠れていたものか、桐子と入口との間に少女が立っていた。

十四、五歳くらいだろうか。

長い黒髪をまっすぐ後ろに垂らし、

まるで漫画に出てくる魔女のような黒ずくめの服に身を包んでいる。

「私がこの黒蛇堂の主です……。

 人は私のことを黒蛇堂、と屋号で呼びますが」

桐子の機先を制するように少女――黒蛇堂はそう言うと、

傍らの棚に手を伸ばして何かを摘み上げ、桐子に差し出した。

それは錠剤だった。

この古臭い店には似合わぬ、市販薬同様きちんと個別にパックされている三個の錠剤。

「この薬には、ある生き物の本能を封じ込めてあります。

 これを一錠飲ませれば、息子さんの偏食はなくなります」

予想もしなかった黒蛇堂の言葉に、桐子の表情は強張った。

(どうしてこいつあたしのことを知ってんのよ!?)

しかし、すぐに思い直す。

昨今はハッカーだの何だの気持ち悪い連中がうじゃうじゃしている。

この女もそんな奴らから桐子の情報を入手したのかもしれない。

黒蛇堂は誘うように、錠剤を桐子に差し出したままである。

不気味な相手ではあるが、黒蛇堂の言葉が事実であるのなら、

その錠剤は当面の桐子の悩みを解消してくれるものであった。

それでも受け取るのをためらっていると、この正体不明の店主は桐子の背中を押した。

「お代はいただきません」

「え?」

「この店を訪れるのは満たされない思いを抱いている方ばかり……。

 まずは貴女の願いが満たされれば、それが何よりでございます」

何を言っているのやらよくわからないが、

試供品みたいなものなのだろうと桐子は判断した。

「なら、もらうわ」

前言撤回されないうちにと桐子はひったくるように薬を奪う。

「ただし」

黒蛇堂は視線を強めると、桐子をしかと見据えた。

「一度に二錠以上を飲ませてはなりません。

 その時は恐ろしいことが起こりますので
 
 ……くれぐれも気をつけて下さい」

「わ、わかったわよ」

鋭い眼光に気圧された桐子は、逃げるように店を出た。

背中から黒蛇堂の視線が追うようで、しばらくは無我夢中に歩き続ける。

気がつくと桐子は、普段なら足を伸ばさないほど遠くの駅前を歩いていた。

どんな道を辿ってそこに行き着いたのか、さっぱりわからない。

時刻を見れば、デパートを出てからさほど経っていない。

乗り物でも使わなければ、こんな短い時間でこんな遠くまで来れるわけはないのに。

もしかしたら自分はいつのまにか電車かタクシーを使っていて、

その中で黒蛇堂の夢でも見ていたのかもしれない。

そう思いそうになった桐子だが、掌の中の感触に気がついた。

そこには三粒の錠剤が握りしめられ、アルミのパックが汗にぐっしょり濡れていた。



一週間後の朝、桐子は夫が出勤するのを待って、キッチンに向かった。

残っていた二個の錠剤の封を破り、

小皿の上にあけ、

スプーンを使ってそれを丹念に潰した。

隆幸がいつ目を覚ますかわからない。

不安ではあるが、この作業を疎かにするわけにはいかなかった。

しばらくすると、錠剤は完全な粉末になった。

桐子は安堵の吐息をつき、久しぶりに満面の笑みを浮かべた。

これでいい。後は隆幸が目を覚ますのを待つばかりだ。

黒蛇堂の言う通り、錠剤は確かに効いた。

家に帰ってすぐ、桐子は子供に錠剤を飲ませてみた。

すると隆幸はとたんに目の前の食べ残しにむしゃぶりついたのだ。

その後も薬の効き目が切れた様子はなく、

今では隆幸は好き嫌いの何一つない子供になっていた。

しかし、桐子にとってはそれだけのことだった。

食事に関して以外は、相変わらず隆幸は自分の言うことに従わない不愉快な存在であった。

偏食さえ直ればうまくいくと思いたかった

桐子にとってその状態は不快極まりなく、彼女は前よりも頻繁に息子に厳しい折檻を加えた。

特に、昨夜はやり過ぎた。

蹴り飛ばした隆幸は壁に顔面を直撃し、はっきりわかる切り傷と痣をこしらえたのだ。

いつもはちゃんと腹や尻といった人目につかない場所を狙う桐子であったが、

今回は失敗した。

明日になれば桐子の母親がチェックに来る。

そうしたら今回は言い逃れも何もきかないだろう。

また手ひどく叱られることは請け合いだ。

トラブルを回避する術はないかと知恵を絞った桐子は、黒蛇堂の言葉を思い出した。

『一度に二錠以上を飲ませてはなりません。

 その時は恐ろしいことが起こりますので……』

その「恐ろしいこと」が起こってしまえば、自分の虐待など霞んでしまうではないか。

考えてみれば、あんな男と結婚させられたのも、気楽な学生でいられなくなったのも、

母親に生活指導を受けているのも、元を糾せばすべてこのガキが原因なのだ。

これまでその発想が浮かばなかったのは、事故に見せかけるのが難しいからだった。

しかし、この薬を使えば。

責任はすべて黒蛇堂に被せられる。

二錠を一度に飲ませてはいけないなどとは聞かなかった、と言い張ればいいのだ。

水掛け論ではあるが、あの場にいたのは二人だけ。桐子の言葉を否定する証拠はない。

子供部屋から物音がする。

どうやら隆幸が起きたようだ。

桐子は作業の最終段階に取り掛かった。

粉末をマグカップに入れ、隆幸の好きな牛乳で溶く。

さらに、粉末の味をごまかすために蜂蜜をたっぷりと入れてかき混ぜた。

「ママー」

 寝ぼけたような声で、隆幸が廊下をぺたぺた歩いてくる。

 後はこの牛乳を飲ませるだけ、と思っていた桐子だが、
 
 その時になって自分の飲み物を準備していないことに気がついた。

 いつも桐子は息子よりも自分のことを最優先させてきた。
 
 今朝に限って急に優しい母親になったりしたら、
 
 あるいは隆幸の不審を招くかもしれない。

 戸棚から慌ててもう一つマグカップを取り出す。
 
 牛乳を注ぎ、口をつけた。

 間一髪のタイミングで隆幸がキッチンに入ってきた。
 
 予想通り、顔の傷は消えていない。

「起きたのね。飲み物ならそこにあるわよ」

 自分のカップを置くと、なるべくいつも通りに言ってその場を一旦離れた。

 愛情はないに等しいが、
 
 さすがに目の前で悶え苦しむのを見物するほど桐子も悪趣味ではない。

 洗濯機に衣類を放り込んだりして時間を潰していると、隆幸が呼ぶ声。

「ママー」

毒を飲んだとは思えない元気な声だ。

もしかしたら、毒性は時間をかけて効果を発揮するのかもしれない。

ならばそれまでは普段通りに行動するしかないだろう。

そう思った桐子はキッチンに戻る。

「おかわりちょうだい」

求めに応じて紙パックから空のマグカップに注ぐ。

やはり桐子も緊張していたのか、ひどく喉が渇いていた。

自分の分のマグカップに満たされていた牛乳を、一息で飲み干した。

「……!!」

飲み干した後から、蜂蜜の甘さが口を満たした。

ガキがカップをすり替えていたのだとその時になって気づいた。

「隆幸、あんたどうして……」

震える声で問い質す。

隆幸は傷のついた顔ながら柔らかく微笑んで、言った。

「ママ、あまいのすきでしょ?

 ママにおいしいほうをのんでもらいたかったから」

子供らしい、無邪気な優しさ。

こいつは時折そんな真似をすることがあったわね、

と桐子は頭の片隅で思い出していた。

とにかく、今飲んだものを吐き出さなければならない。

桐子は全速力でキッチンを飛び出すと、トイレに駆け込んでドアを閉めた。

便器に顔を突っ込もうとして、

桐子はトイレに入ったはずの自分がなぜかトイレにいないことに気づいた。

「……どこよ、ここ?!」

そこは屋外だった。

得体の知れない腐りかけたゴミが桐子の周囲を取り巻いている。

異常なまでの臭気が鼻を衝く。

スリッパを履いた足が地面に沈み込みそうになり、

焦って引き抜くと血まみれの包帯が足首にまとわりついた。

「嫌っ!」

うろたえてバランスを崩し、後ろに倒れ込む。

立ち上がろうと突いた手がぐちゃりとしたものの中に埋没する。

恐る恐る目を向けると、牛の死骸に手がめり込んでいた。

腐りかけた顔が虚ろに桐子を見つめている。

おまけにその額には第三の眼窩が空いていた。

「ひ、ひいっ!!」

這いずってそこからなるべく離れ、

横倒しになった自動車の陰に隠れて死骸を視野から追い払う。

それでようやく、ここはどこなのだろうと考える余裕が出てきた。

地面に転がる種々雑多なものは見ないようにしつつ周りを見渡すが、

四方はぐるりと断崖絶壁に囲まれている。

どうやらここは、巨大なクレーターのような場所らしい。

空には雲が漂っている。太陽の高さからしてまだ朝のようである。

足元に転がる紙屑を見てみれば、日本語でかかれた領収書。

ここは日本であるようだ。

そしてゴミ捨て場のような場所であると考えられる。

しかしそれ以上は何一つわからない。

ふと桐子は、自分が薬を吐き出していないことを思い出した。

だが、

この不可解な現状においては、そんなことなどどうでもよいとすら思い始めていた。

それとも、ひょっとしたら自分は薬のせいですでに死んでいるのではないだろうか?

ここは死後の世界ではないだろうか?

そんな想像を働かせた時。

「いいえ、ここは現世です。

 貴女の生は終わっていないのですよ、

 後藤桐子さん」

聞き覚えのある声がした。

「貴女の願いは満たされなかったようですね」

 声のする方へ振り向くと、黒蛇堂が立っていた。

「ここは、とある研究施設の敷地です。

 その施設は遺伝子操作や生物兵器といった、
 
 表沙汰になると問題のある様々な研究をしていて、
 
 ここは
 
 それらの研究で生じた焼却処分にするまでもない廃棄物を捨てるゴミ捨て場なのです」

そこで言葉を切ると、黒蛇堂は薄く笑った。

「これからの貴女が暮らすには、うってつけの場所です」

「じょ、冗談じゃないわ!! 誰がこんな場所に……うっ!!!」

激昂して黒蛇堂に掴みかかろうとした桐子は、

不意に身体の中から立ち昇った熱に襲われた。

マグマのような熱が体内を荒れ狂い、服を着ているのが耐えられない。

桐子は黒蛇堂の目も忘れ、すべてを脱ぎ捨て一糸纏わぬ裸体となった。

「まずは、三対目の肢」

ムリッ!!!

黒蛇堂が言うと、桐子は脇腹に強い違和感を覚えた。

「や、やだ……何、これ……」

見下ろせば両側の脇腹が膨れ上がり、その中で何かが蠢いている。

「痛い、痛い痛い痛い

 ……ぎゃあっ!!」

白い滑らかな皮膚が内側から突き破られ、桐子は苦痛に美しい顔を歪める。

その痛みが去った後、目を開けた桐子は信じられないものを見た。

「嘘……」

自分の脇腹から黒光りする毛だらけの節足が生え、気持ち悪く動いているのだ。

それが腕に触れた時、桐子は腕に触られる感覚と腕に触る感触を同時に感じ取った。

その肢は、紛れもなく桐子の身体の一部であった。

「次は、羽」

黒蛇堂の言葉に誘われるように、桐子は肩甲骨が盛り上がり出すのを感じた。

「ああっ!」

今度はもがく暇もなく、背中を何かが突き破る。

頭を巡らせた桐子は、肢と同様テカテカと光る、黒い巨大な羽を見た。

「あたし……あたし……どうなっちゃうの……」

自分の身体が不気味に変わっていくショックと恐怖に打ちのめされて

座り込みそうになった桐子を、黒蛇堂の言葉が鞭打つ。

「貴女の身体は激しく作り変えられています。

 栄養を補給しなければいけません」

言われた瞬間、桐子の嗅覚に変化が生じた。

最前まで不快感を催すだけだった臭気が、不思議と食欲をそそるようになったのだ。

桐子は二本の腕と二本の肢を振り回し、さっきの牛の死骸の元に引き返した。

腐れ、爛れ、蝿がたかった肉。

手を突っ込むと汚れた汁が飛び散り、桐子の顔面に跳ねかかる。

「おいしい……」

唇に付着した腐汁を舐め取った桐子はその味を魅力的に感じた。

ちぎり取った腐肉を夢中になって貪り食う。

途中からは手を使うのも面倒になり、

桐子は顔を死体に突っ込んで死肉を満喫した。

気がつくと、牛は骨だけになっていた。

「そんな……あたし……まるで……」

正気を取り戻して自分の行為に愕然とした桐子は、

立ち上がると闇雲に逃げ出そうとした。

「新しい胴体」

しかし、黒蛇堂の新たな告知が下腹部を刺激すると、

桐子は動きを止めざるを得なかった。

乳房がかさぶたのように身体から剥がれ落ちた。

出産後も魅惑的な形を維持するのに苦労していた桐子の乳房は、

乳首を立てたまま大地に転がった。

そして肛門と女陰の辺りが、体内からこみ上げるものに押し出される。

「えぐうっ!!」

それまでとは比べ物にならない激しい変化。

桐子は詰め物の取れた虫歯のうろに舌先を伸ばす時のような不安交じりの好奇心に駆られ、

下半身の変化を覗き込む。

そこに生まれていたのは、節が均一に並ぶ巨大な胴体。

色々な内臓がその中に収められているのを桐子は感じ取っていた。

「あたし……む、虫になってく……」

生物の授業を思い出す。

六本の肢を持ち、頭と胸と胴の三部分に分かれる昆虫の肉体。

無脊椎動物。

骨格の代わりに有する外骨格。

自分が、人間でなくなっていく。

哺乳類ですらない、

脊椎動物ですらない、

下等な昆虫になっていく。

「昆虫は昆虫で独自の進化を遂げています。

 下等と決めつけるのは問題ですよ」

桐子の心の声に、黒蛇堂が答えを返す。

「後肢」

細くすらりと伸びた美しい脚。

同級生や大人の欲情をそそった、桐子の自慢の脚。

その脚に裂け目が入る。

そして、中から現れるのは剛毛に覆われた、虫の肢。

二本の肢で身体を支えることが不可能になり、

桐子は地面にうつぶせに倒れた。

もはや桐子の身体は、頭部と両腕以外は黒く扁平な昆虫の身体に変わりきっていた。

サイズこそ人間大ではあるが、その姿には虫に疎い桐子にも見覚えがあった。

見つけるたびに悲鳴を上げて逃げ惑った虫。

「やだ……やだ……やだ!

 ゴキブリになんかなりたくない!!」

「前肢」

耐えがたいかゆみが桐子の両腕を蝕む。

我慢などできず、両手で掻き毟ると、

白魚のような手はぼろぼろと崩れ落ち、虫の鉤爪が姿を覗かせた。

「ああ……ああ……」

その時、不意に光が桐子の目を射る。

光の出所を見ると、巨大な一枚鏡が地面に突き刺さっていた。

太陽が雲間から姿を見せ、その陽光を鏡が反射したのだ。

同時に鏡は、視線を向けた桐子の全身も映し出して見せた。

人間の女の首を据えつけた、巨大なゴキブリ。

もはや桐子の身体はゴキブリの比率の方が圧倒的であった。

「頭部」

そんな桐子を背後から見下ろし、黒蛇堂が厳かに告げる。

桐子の、かろうじて残された人間の部位が激しい熱を帯びる。

新たなかゆみが湧き上がる。

「嫌……嫌……」

力ない呟きを繰り返しながらそれでもじっと耐える桐子を嘲笑うように。

老朽化した建物が自然と崩れ落ちるように。

変化は食い止めようもなく桐子を襲う。

鏡によって、桐子はその一部始終を眺めることとなった。

明るい茶色に染めた長い髪の毛が、頭皮ごと束になって次々と抜け落ちる。

高い鼻が重みに耐えかねたように垂れ下がり、こぼれ落ちる。

「あたし……

 人間なのに……
 
 ゴキブリなんかじゃないのに……
 
 あたし……」

言葉を呟けたのは、そこまでだった。

口蓋が変化し、何もしゃべれなくなる。

顎の形が醜く変わる。

唯一残っていた人間の眼球が周囲の皮膚ごととろけるように顔から垂れる。

その後に昆虫の複眼が新しく作られ、桐子は新たなものの見え方に戸惑った。

最後に、額から二本の長い触覚が飛び出し、周囲を探るように揺れ動く。

「お腹が空いていませんか」

黒蛇堂に問いかけられて、

ゴキブリへの変身を完了した桐子は自分が強烈に飢えていることを自覚させられた。

目の前には、人間だった時の眼球や鼻梁が転がっている。

ゴキブリになった桐子はそれらを新しい口でくわえ、咀嚼する。

かつての自分の身体は、今まで食べたどんな食べ物よりも桐子にはおいしく感じられた。

「もうおわかりかと思いますが、

 あの錠剤には油蟲……
 
 わかりやすく言えばゴキブリの本能が封じられていたのです」

巨大なゴキブリに完全に変わり果て、

もはや六本の肢で地べたに這いつくばることしかできなくなった桐子を見下ろしながら、

黒蛇堂は解説した。

黒蛇堂の声を聞き、複眼の一部でその姿を捉えながら、

桐子は顎で地面に埋まっていた包帯を掘り出し、かじっていた。

「それは病原体の実験台にされた方の身体に巻かれていた包帯ですね。

 もっとも、今のあなたなら人間の病気にかかる心配は要らないのですが」

黒蛇堂の吐き気を催すような説明も、桐子の激しい空腹感を打ち消すには至らなかった。

何より包帯の血と膿にまみれた部分は、ゴキブリの桐子には堪らなく美味であった。

「一錠だけならその食欲と生命力が身につくのみです。

 また、複数の錠剤を飲むにしても、時間を置いてならば悪影響はありません。
 
 この錠剤が有害な副作用をもたらすのは、
 
 私が厳重に注意したように、一度に二錠以上飲んだ時だけなのです」

確かにその忠告は正しかった。

桐子の予想を越えて、それは「恐ろしいこと」だった。

「それでも貴女は、三錠一度に飲まずに済んだだけ、まだましなのですよ」

そう言うと黒蛇堂は、酷薄な笑顔を桐子に向けた。

「三錠を一度に飲んだ者は、油蟲そのものに成り果てます。

 体長わずか数センチにして、
 
 視覚が著しく衰え、
 
 思考能力にも乏しく、
 
 寿命も短い正真正銘の油蟲に。
 
 しかし、あなたは二錠しか飲まなかったので、
 
 外敵を怖れずに済む大きな身体や、
 
 複眼による広い視野や、
 
 人間の時と変わらぬ思考力と寿命を得られたのです」

その言葉が皮肉であることは、桐子にも察しがついた。

人間並みに巨大であるのだから、

もし人間に見つかったら珍しいゴキブリとして標本にでもされるだろう。

それが嫌なら、桐子はこの人里離れたゴミの山で完全に人目を避けて生きる他ない。

視覚が残るということは、日々己の醜い姿をその視野に収めることになる。

遺伝子操作された生き物の死骸だの、

病原菌だらけの血が染み込んだガーゼだの、

自分がこれから食べていかなければならない物も、その目に映り続けるのだ。

また、ものを考える力が保たれるのならば、

美しい人間の少女だったかつての自分と

巨大ゴキブリに変わってしまった今の自分とを常に比較して、

煩悶することになるだろう。

さらに人間と同じ寿命を有する以上、

そんな拷問のような桐子の生涯は今後数十年も続くのだ。

「それでは、さようなら」

そう言うと、黒蛇堂は蜃気楼か何かのようにどこへともなく消え去った。

後に残されたゴキブリの桐子は、途方に暮れてしばらくその場にじっとしていたが、

飢餓感に衝き動かされ、

次なる餌を求めて自分の新たな縄張りをガサゴソと這い回り始めた。

生まれついての昆虫のごとく、

何も考えず本能だけで生きられるようになることを、桐子は願った。

しかし心のどこかで、

自分は一生人間とゴキブリのギャップに苦しみ続けるのだろうとも確信していた。



…もし、貴方の心が満たされていないなら。

 黒蛇堂はきっと貴方の前に現れるでしょう。
 
 しかし、この品物が幸運を呼ぶか、不幸に落とすかは、貴方しだいで御座います…



おわり