風祭文庫・醜女の館






「清美の薬」



作・風祭玲


Vol.435





「アン

 ドゥ
 
 トワァ…
 
 アン
 
 ドゥ」

フリーリング張りのレッスン室に掛け声が響き渡ると、

その声に合わせるようにして

スク

っと背筋を伸ばしたレオタード姿の女性達が一斉にバレエの基礎であるプリエを始めだす。

「アン

 ドゥ
 
 トワァ…
 
 アン
 
 ドゥ」
 
女性達は終始無言で掛け声に合わせて体の関節を大きく動かし、

それぞれの関節の柔軟性を養うのと同時に、

彼女たちの動きを見て回る一人の男性・菱山信に自分の存在をアピールをしていた。

そう、この菱山信は来月このバレエ団が公演を予定している舞台の総指揮を任され、

そのまなざしには厳しいものがあった。

「アン

 ドゥ
 
 トワァ…
 
 アン

 ドゥ
 
 トワァ…」

「おいっ、

 そこっ
 
 十分だ」

「はっはいっ」

プリエをし続ける女性たちの間を通りながら、

信は一人の女性にそう声をかけると、

声を掛けられた女性は一瞬、ビクッと身体をこわばらせると、

ダッ

眼から溢れる涙を拭きながらレッスン室から飛び出していく、

「いいか、

 基礎が出来てない者、
 
 おろそかにしている者は容赦なく切り捨てていくからな」

女性が消えた後、信がそう声を張り上げると、

緊張感がレッスン室を走り抜け

それに返事をするように女性達は身体を動かした。

信はこれまでにも数多くの舞台を手がけ、

そして、そのほとんどを成功裏に収めた経歴を持つ男である。

ゆえに誰もが彼も元で舞台に立つことを夢見、

そしてそれが彼の名声をさらに高めていたのであった。



緊張感が引き締めてくるレッスン室の中でただ一人、

このバレエ団のプリマバレリーナ・見沼涼子は余裕の表情でレッスンをしていた。

英国・ロイヤルバレエ団の留学から帰国し、

このバレエ団に招かれた涼子にとって、

国内の実績しかない信など取るに足らない男…

そう言う気持ちが涼子に余裕を持たせていたのであった。

すると、

「おいっ、

 見沼っ
 
 なんだそのプリエは」

涼子の気持ちを見抜いてか信が涼子のレッスンにクレームをつけると、

「なんでしょうか?」

涼子も負けじと返してくる。

「そんな気が抜けたようなプリエがあるか」

「何を言っているんです?

 今はレッスンですよ、
 
 レッスンでそんなに無理強いをしては筋を痛めてしまいます」

「なんだとぉ」

お互いのプライドが激しく激突をする。

とそのとき、

バタバタバタ!!

「遅れてすみません!!」

と言う声と共に華奢な身体の橋田清美がレッスン室に駆け込んできた。

「遅いぞ!!」

もって行き場の無い苛立ちをぶつけるかの様に信が怒鳴り声を上げると、

「申し訳ありません」

臆することなく元気よく清美は頭を下げた。

「……」

元気のいい返事に信は少し戸惑うと、

それ以上彼女を責めずにそのままレッスン室から出て行ってしまった。



信の姿が消えた途端、

「ふぅ…」

緊張感が張り詰めていたレッスン室に和やかな雰囲気が漂うと、

「あっあのぅ…

 あたし何か…」

信が出て行ってしまったことに責任を感じたのか清美はオドオドする。

しかし、

「いやぁ

 良いタイミングで入ってきたね」
 
「ホント

 もぅ少し遅かったら大変だったわよね」
 
「うん」

たちどころにそんな清美の周りに輪が出来ると

彼女が飛び込んできたタイミングの妙を褒め称え始めた。

すると、

「ふんっ

 あなたたち、
 
 そんなことで動揺しては舞台に立てませんことよ」

嫌味たっぷりに涼子はそう言いながら

彼女達の横を通りレッスン室から出て行くと隣の更衣室へと入っていった。

「なによっ

 留学帰りだか知らないけど、
 
 大きな顔をしちゃって」

「そうよ…

 それはロイヤルバレエ団に居ただけに技術はすごいけどね」
 
「性格が悪いわね」

「スタイルのよさを鼻にかけているのよ」

と女性達は口々に出て行った涼子の悪口を言い始めた。

「そんな…

 あまり人の悪口は言わない方が…」

彼女達の悪口を聞きながら清美はそう言うと、

「あはは、もぅ清美ちゃんって根が真面目なんだから」

「いいのいいの、

 居ないんだからさ」

という返事が響き渡った。



しかし、

「ふんっ

 案の定、
 
 私の悪口を言っているのね」

更衣室の壁に耳を当てながらレッスン室の様子を伺っていた涼子はそう呟くと、

「ふんっ」

カンッ!!

八つ当たりをするかのように履いていたトゥシューズの先で

近くにあったゴミ箱に蹴りを入れる。

とそのとき、

「ねぇ、橋田さん

 最近痩せた?」

と言う声が響き渡った。

「え?」

その声に惹かれるように涼子は再び壁に耳を近づけると、

「えぇ?

 判ります?」

「そうよ、

 すっかり細くなって…」
 
「いくらここでのレッスンがキツイと言っても、

 そんなにスリムになるなんて…
 
 ねぇ、
 
 なにかいいサプリメントでも飲んでいるの?」

「えへへへ

 それは秘密です」

「なによケチ」

「えへへへへ…」

「なに?

 劇的に痩せる薬を橋本さんが持っている?」

聞き耳を立てていた涼子にとって清美の言葉は衝撃的だった。

そしてそれは、

帰国して以降、

体重が増加気味だった涼子にとってその悩みを解決するものでもあった。



舞台を控え通し稽古には熱気を帯び、

レッスン場の隅でじっと見つめていた信が席を立ったときには

皆はヘトヘトに疲れきっていた。

「じゃぁ、明日っ
 
 今日注意したところを再点検するかな」

そういい残して信の姿がレッスン室から消えると、

ドタァ…

残っていた面々は一斉にその場に座りこんでしまった。

「はぁ

 キツイ
 
 キツイ」
 
「あたしもぅ死にそう…」

そんな声のなか、

涼子はレッスン室から出て行った清美の後を追いかけると、

洗面所で顔を洗う清美の背後から、

「頑張っているのですね」

と声をかけた。

「え?

 あっ見沼さん」

自分にとっては雲の上の存在である涼子に声を掛けられ清美は驚くと、

「そんなに驚かなくても

 同じレッスン室でレッスンをする者同士でしょう」

「でっでも…」

「ねぇ」

「はい?」

「あなた、急に痩せたそうだけど、

 なにか、薬か何か飲んでいるの?」

「え?」

それとなく探ってきた涼子の言葉に清美が身体を固くすると、

「そっそれは…」

「あら、言えないの?」

「はぁ」

「ねぇ、あたしにだけ教えてくれる?

 どこのなんていう薬なのか…ね。
 
 ほんと、プリマって辛いのよねぇ
 
 体形は維持しなければならないし、
 
 レッスンはきついし…
 
 ねぇ、あたしのためと思って、
 
 教えて欲しいんだけど…」

そう涼子は畳み掛けるようにして清美に迫ると、

「ごっごめんなさい」

ペコン

と清美は頭を下げると逃げ出すようにして洗面所から飛び出していってしまった。

「あっ

 ったくぅ
 
 憎ったらしいくらい口が堅いのね。
 
 でも、いいわ、
 
 どうせあの子はあたしのライバルにはならないだろうし、
 
 でも、痩せ薬のこと…気になるわね」

顎に手を当てながら涼子はそう呟いていた。



しかし、涼子の余裕も翌日には見事消し飛んでしまった。

「おいっ

 見沼っ何だこの体重は!!!」

翌日の通し稽古で彼女をリフトした男性が

その重さに耐えかねて転倒してしまったことから、

急遽、涼子の体重が調べられ、

そしてその値を知らされた信の怒鳴り声が鳴り響いた。

「しまった」

体形にさほど変化が無かったことである意味油断をしていた涼子にとって、

自分の秘密がバレてしまった瞬間でもあった。

「いいか、

 10kgだ10kg痩せてこないと、
 
 お前を役から下ろすからな」

「そんな…

 第一いまからあたしの役を出来る者が居るのですか」

信の言葉に半ば負け惜しみをするかのごとく涼子はそう尋ねると、

「お前が無理なら、

 橋田、お前が代役だ!」

信は清美を指差してそう告げた。

「え?

 えぇぇ!!!」

まさに青天の霹靂、

いきなりプリマの代役を指名された清美は

「そっそんな

 むっ無理です」

と訴えると、

「大丈夫だ、

 お前ならきっと出来る」

信は清美の肩を掴みながらそう言い聞かせ、

それを返すように

「いいなっ、

 見沼っ
 
 減量が出来なければお前が後ろに回れ!!」

と指示をした。



「なによ

 なによ
 
 なによっ!!!」

レッスン後、

涼子は思いっきり荒れていた。

「10kgの減量ですって?

 そんなことできるわけ無いじゃないの」

苛立ちをぶつけるようにして涼子は手にしたトゥシューズを投げつけると、

「そうだ」

彼女の頭の中に清美の薬のことがよぎった。

そして、清美たちがまだレッスン室に居ることを確認すると、

ガサゴソ

と清美のバッグを漁り、

そして中から出てきた一つの袋を取り出した。

「黒蛇堂?」

袋にかかれている文字を訝しげに見ながら涼子は袋を開けると、

中から錠剤が入った瓶が転がりだしてきた。

「ふふ

 これね…
 
 なに
 
 ただの錠剤じゃない」

瓶を眺めながら涼子はそう呟くと、

そそくさと紙袋と共に瓶を自分のバッグに入れ立ち去っていった。



翌日…

「なっ」

驚く信に

「ふふ、どう?」

体重計の涼子は笑みを浮かべながら見下ろしていた。

「どうしたんだ?

 一体…」

我が目が信じられないのか、

何度も眼をこすりながら信は体重計を見るが

しかし、体重計の値は昨日より-10kgの値を示していた。

「これなら問題はないでしょう?」

「まっまぁな」

勝ち誇ったような涼子の言葉に信は頷くと、

「ふふ…菱山さん、

 あなたの腕前、とくと見せてもらうわ」

そう言い残して涼子はレッスン室へと戻っていく、

「なんでだ?

 どうしてだ?
 
涼子が去った後も信はこのことが信じられなかった。

その一方で、

「あらどうしたの?」

ショボンとレッスン室に入ってきた清美に

皆が声をかけると

「薬が無くなっちゃった」

と清美は残念そうに呟いた。

「なぁに、

 薬なんて使わなくたって橋田さんはもぅ十分細いって」

「でも」

「さーさ

 気分を変えて

 レッスン
 
 レッスン」
 
うなだれる清美を励ますようにそう言う声が響くと、

その日のレッスンが始まった。



こうして向かえた公演の日…

「みんな、

 気合入っている?」
 
「はいっ!」

メイクを終え、チュチュに着替えたバレリーナ達が円陣を組み気合を入れる後ろで、

「ふふ…

 もぅすぐあたしの舞台…」

涼子はすっかり細くなった自分の腕を見ながらそう呟くと、

「この薬のおかげよ」

と誰にも見られないように薬の瓶を取り出し、

そして、

「そうだ、舞台の前に少し飲んでおきましょう、

 本番での失敗は許されませんから」
 
と呟きながら、

数錠の錠剤を飲み込むと、

「さて」

自分の衣装を点検した後、舞台へと向かっていった。



ところが…

ムリッ

ムシッ

細く引き締まっていた涼子の体が、

錠剤を呑んだ途端、膨張を始めだしていた。

ザァァァァァ!!!

まるで滝のような拍手の中

涼子は舞台に立つと、

流れる音楽の中、華麗に舞い始める。

そして、そんな彼女の背後でチュチュに身を包んだ清美は

真ん中で踊る涼子の姿を眺めながら、

「はぁ

 あたしもあぁして踊りたかったなぁ…」

と呟いていると、

ムクッ!!

踊っている涼子の体が一回り大きくなったのを目撃した。

「え?

 いま、大きくなったような…」

その様子を目の当たりにして清美は思わず手を動かそうとしたが、

しかし、ここは舞台の上

簡単には動かすことが出来ないことに清美は焦る。

しかし、

ムリッ

ムリッ

涼子の身体はさらに膨れ、

ギシッ!!

彼女が身に着けているチュチュが悲鳴を上げ始めた。

そして、その頃になって

「なんか…

 体が重い…」

涼子は自分の体が重くなってきていることにようやく気づいたが、

しかし、ここでやめるわけにはいかなかった。



「なぁ、

 あのバレリーナ
 
 膨れてきてないか?」

「そうか?」

その頃になって涼子の変化は観客にも、

また、信の眼にもハッキリと認識され始め、

「どうなてんだ?

 見沼の体が膨れているぞ?」

プックリと膨れていく涼子の姿に信は驚いていた。

けど、舞台は涼子の変化に構うことなく進み、

やがてハイライトの一つであるリフトのシーンへと進んだ。

「かっ体が…

 いやっ、
 
 体が膨れていく…
 
 とっ止めてぇぇぇぇぇぇ」

ムリムリムリ!!!

急速に膨らんでいく自分の体に涼子は悲鳴を上げるが、

鳴り響く音楽にその悲鳴はかき消され、

ソッ

涼子の両脇に男性の手が添えられると、

「せいっ」

男性のかみ殺した声と共に涼子の身体は高らかに舞い上がりはじめた。

しかし、

ズシン!!

ヨロ

増えていく涼子の体重が男性の手に掛かり、

「うわっなんだ?」

たちまち涼子を抱えた男性の足はふらつき始める。

そして、それと同時に、

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」

バリバリバリ!!!

涼子の悲鳴とともに彼女が着ていたチュチュが無残に引き裂けていくと、

ボムッ!!

舞台の上に華麗な肉の花が咲き誇り、

「うわっ」

グシャッ!!

その途端、

男性は爆発するかのごとく膨れ上がった肉の花に無残に押しつぶされてしまった。



後日談…

結局、この舞台は大失敗となり信にとって汚点となってしまったが、

しかし、信はそれに挫けることなく、

また新しい舞台を目指していた。

そして、涼子はというと、

「どせいっ」

バシーン!!

一気に120kgの巨体となってしまい途方にくれたが、

しかし持ち前の運動神経を生かして、

とある相撲部屋の門を叩くと、

力士として廻しを締めた。

無論、強さも半端ではなく、

瞬く間に十両にまで昇進してしまうと、

今度の場所では幕内を狙える位置につけていた。



一方、清美は…

「何をている」

「すみません」

復活をかける信の厳しいレッスンを受け、

バレリーナとしてメキメキと力を伸ばし、

今度の公演では彼女にとって夢であった真ん中を射止めたのであった。



おわり