風祭文庫・蟲の館






「女王蜂」



作・風祭玲


Vol.331





ブブブブブブブ!!

「いやだぁ、何これ?」

良く晴れた秋の午後…

大学の研究室に2年の杉山里香が声を上げると、

「どうした?」

研究室のテーブルの横で明日提出予定のレポートに目を通していた千葉翔が顔を上げた。

すると、

「ちょっとぉ!!

 千葉君っ

 アレ退治してよ!!」

と里香は手で翔に傍に来るように指示をしながら

ある物の退治をするように叫んだ。

「はぁ?」

里香の言葉の意味を翔が分からないで居ると、

「何をボンヤリとしているのっ

 サッサとしてよ」

と里香はヒステリックな叫び声を上げる。

「あんだって言うんだよっ

 こっちは明日までにレポートを出さなければ行けないんだからなぁ」

里香の態度に翔は腹を立てながらそう叫ぶと、

バンッ

っとレポート用紙の束を机の上に叩きつけて、

里香の横に立った。

すると、

「あっアレよアレ!」

と里香は恐る恐る研究室の窓から身を乗り出して上の方を指さした。

「はぁ?」

里香と入れ替わるようにして翔が身を乗り出して彼女が指さしていた方を仰ぎ見ると、

ブブブブブブブブ!!

窓の上辺部分にオレンジと黒の斑模様を見せつけながら、

数十匹はいると思われるスズメバチの塊が彼の目に飛び込んできた。

「なんだ、ただのハチじゃないか、

 そうか、巣別れしたスズメバチがここに来たんだ…」

ハチの塊を見上げなから翔はそう呟くと、

ウワァァァン

塊の中の周囲で飛んでいた一匹のスズメバチが翔のそばに寄ってくるなり、

カチカチ!

と音を立てる。

「おーっと、

 寄るな。ってか、

 はいはい退散しますよ」

その音がスズメバチの警告であることを知っている翔はそう返事をすると、

大人しく引き下がると研究室内に戻った。

「ちょちょちょっと、

 なんで戻ってくるのよ」

何もせずに研究室に戻った翔に里香が食ってかかると、

「ほっとけほっとけ、

 連中そのうちどこかに消えていなくなるから」

と翔は手を振りながらそう言うと、

「なによっ、

 怖いの?

 それでも、男なの?」

と里香はまくし立てる、

すると、

「あのなぁ…

 向こうは巣別れをしたばかりで神経質になって居るんだよ、

 そんな状態で退治なんて出来るか」

と翔が言い返すと、

「判ったわよっ

 千葉君って役に立たないのねっ

 いいわっ、もぅ何も頼まない。

 あのハチはあたしが退治するから!」

と里香は翔に向かって怒鳴ると、

そのまま研究室から飛び出してしまった。

「なんだよ…たかがハチごときで…」

その様子を見ながら翔はそう呟く。

そして、

ガサッ!!

程なくしてビニールの手提げ袋いっぱいに殺虫剤を入れて里香が戻ってくるなり、

「見てらっしゃい!!」

と言いながら、

ガチャッ

と窓を開け放つと窓枠に立ち、

シュウワァァァァァ!!!

っとハチの塊に向けて殺虫剤を撒布し始めた。

「おっおいっ!!

 それをやるなら窓を閉めて外側からやれ!!」

里香の行為に翔はそう言って怒鳴るが、

しかし、里香の耳に翔の声は届いていない様子だった。

その一方で、里香に殺虫剤を掛けられたスズメバチの塊は

たちまち塊を構成しているハチがボトボトと落ちていくと見る見る小さくなっていく、

しかし、

シュウワァァァァァ!!

里香は殺虫剤を掛けられて瀕死のハチが向かってきても怯むことなく、

殺虫剤の一本を使い切ると、

すぐに次の殺虫剤を用意してスズメバチを攻撃し続けた。

そして、ついに塊の奥から大柄のハチが出てくると、

「コイツが女王蜂ね!!」

と言いながら女王蜂めがけて殺虫剤を噴射した。

すると、

ポトッ

殺虫剤を掛けられた女王ハチは壁から剥がれ落ちると、

ペンッ!!

っと里香の顔に一度当たった後に研究室内へと転がり込んだ。

しかし、翔は研究室に飛び込んできたのが女王ハチとは気づかずに、

「おいっ、もぅいいだろう」

と言うと、立ち上がって里香の方へと歩きはじめた。

その一方で、ハチをすべて退治した里香は、

「ふんっ」

鼻息荒く窓枠から降りると、

「えっと…何処に落ちたのかな?」

と研究室内に落ちた女王蜂を探し始めた。

ちょうどその時、

ブチュッ!!

里香の方に向かっていた翔の足が、

研究室の床に落ちていた女王蜂を思いっきり踏み潰すと、

その女王蜂の内容物が里香の首筋に掛かってしまった。

ピチャッ!!

「ん?」

首筋に何かが付着した違和感に、

反射的に里香が自分の手を当てて確かめると、

ベチョッ

彼女の手に踏みつぶされた女王蜂の内容物の一部が付着した。

その途端、

「いやっ、なにこれぇ!!」

里香が悲鳴を上げると、

「もぅ、千葉君のばかぁ!!」

と怒鳴るなり研究室から飛び出して行ってしまった。

「なんだ?」

里香のその様子に翔は呆気にとられた後、

ふと足を上げてみると、

ベチャァァァ…

翔の足の下から無惨に潰された女王蜂の無惨な姿が目に飛び込んできた。



「もぅ、千葉君のばかぁ!!」

研究室から飛び出した里香は一直線にトイレに駆け込むと、

鏡を見ながら濡れテッシュで自分の首筋を拭くが、

しかし、

「あっあれ?」

幾ら拭いても首筋に付着したはずの女王蜂の内容物がティッシュに付くことはなかった。

「へっへんねぇ…」

なんの手応えもないことに不審に思いながら、

里香は鏡に自分の首筋を映し出してみても、

彼女の首筋の何処にもそれらしき物体は確認できなかった。

「…まぁいいわ…」

幾ら確認しても見つからなかったので、

里香は濡れテッシュで首の周りを一通り拭くとトイレを後にした。



しかし…

「うぅ…気分が悪い…」

その日、最後の講義を聴いていた里香は

ムカムカとこみ上げてくる気持ちの悪さにグッタリとしていた。

「どうしたの?」

里香の横で講義を聴いていた友人の大川久美子がそっと尋ねると、

「うん…なんか気持ちが悪いのよ…

 う〜っ…吐きそう…」

と答えながら里香が口を押さえた。

すると、

「ねぇ里香…

 ハチ退治に大量に殺虫剤を振りまいたって聞いたけど、

 ひょっとしてその影響じゃないの?」

と心配そうに問いただすと、

「あっ、そうか…

 まずいことをしちゃったかな…」

顎をテーブルに乗せながら里香はそう返事をする。

そしてようやく講義が終わると、

「あっあたし…このまま帰るね…」

とひとこと言い残して

フラフラしながら教室を後にした。



「かはっ…はぁはぁ…

 何よこれぇ…」

こみ上げてくる嘔吐感に里香がアパートの自転車置き場で蹲っていると、

カサカサカサ…

里香のスグ脇を藪から出てきた虫が歩いていく、

すると、

サッ

里香の手が素早く伸びるとその虫を捕まえると、

そのまま口の中に放り込んでしまった。

「あぁ…美味しい…」

里香は虫を味わいながら飲み込むと、

「もっと…」

と呟きながら、藪の中へと分け入っていった。

そして、

服が泥だらけになるのも構わずに里香は次々と虫を捕まえては、

それを飲み込んでいく。

「はぁはぁ…

 あれっあたし…こんなのところで何をやっているの?」

里香が正気に戻ったときはすっかり日が暮れ、

あたりには夜の帳が降りていた。

「うわぁぁ、なによ…泥だらけじゃない」

藪から這いだした里香は街路灯の下で自分の服を見るなりそう嘆く、

そして、すぐに自分の部屋に駆け込むと浴室へと飛び込んでいった。

ところが、

「熱い!!」

服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びた途端、

里香の悲鳴が浴室内に響き渡った。

「えぇなんでぇ…」

シャワーを手放して台所に駆け込んだ里香は恐る恐る浴室内を覗き込むと、

シャァァァー…

シャワーノズルから勢いよくお湯が噴き出しているものの、

しかし、それから立ち上る湯気の様子からとても熱湯には見えなかった。

「そんな…」

里香はそう思いながら温度設定を見ると、

やはり、温度は40℃そこそこに設定してある。

そして再び手を伸ばしてお湯に手が触れさせてみると、

「つぅぅぅ!!」

里香の手に熱湯に手を入れた感覚が走った。

「どうなっているの?」

なんとかお湯を止めて手を引っ込めた里香はそう呟いたとき、

「え?」

鏡に映った自分の身体に思わず目を疑った。

「なっなにこれぇ…」

信じられないモノを見るかのようにして里香は鏡に近づいていくと、

シゲシゲと自分の首筋を見た。

そう、その時の里香の首筋は皮膚が焼けただれたかのように垂れ下がり、

同心円状の皺が幾つも寄っていた。

そして、抓んでみると、

ブニュッ

っとした感覚で皮膚が持ち上がった。

「いやだぁ…」

その光景に里香の心の中に恐怖の二文字が覆い尽くしていく、

そして、

急いで病院へ行こうと泥だらけの服に手を伸ばそうとしたとき、

「え?」

里香の身体の至るところが首筋のように皮膚がたるみ始めだした。

「やだ
 
 やだ
 
 やだ
 
 誰が…助けてぇ…」

ズルッ

ズルズル…

さっきまで張りがあった里香の皮膚が見る見る弛み出すと、

幾重もの筋を作りながら垂れ下がっていく、

そして、見る見る里香の身体はその皮膚に覆われていくと、

手足がその中に飲み込まれ、

また、顔も埋もれていった。

『だっだれかぁ…

 いやぁぁぁ…』

その声を残して里香はモゾモゾと蠢く

1mほどの巨大な幼虫のような姿へと変化していった。

ウネウネ

ウネウネ

ほんの10分前までは里香だった幼虫はゆっくりと蠢きながら、

台所から居間の方へと移動していくと動かなくなってしまった。

それから程なくすると、

ピシッ

ピシピシッ

動かなくなった幼虫の身体が次第に硬化していくと、

幼虫は赤茶色をした蛹へと変化していった。

チッチッチッ

時計の音が無言の蛹に向かって時の流れを教える。

やがて、

夜が明け始めたとき、

ムクッ!!

蛹が動き始めた。

ムクッ

ムクッ

3・4度蛹が動くと、

ピチッ

蛹の背が左右に割れるように引き裂け、

ムリッ

ムリッ

っと蛹の中から固い殻に覆われた昆虫の一部が姿を見せた。

サァァァ…

ちゅんちゅん

部屋の外では雀の鳴き声と共に朝の日差しが差し込み始めると、

ムリムリ

ムリムリ

蛹の中で蠢く昆虫の動きが大きくなると、

ムリッ!!

身体を大きく振るわせながら黒とオレンジの斑模様が盛り上がると、

スルリ

ビンッ!!

っと滑り出すように全体の半分を占めるほどの腹部が表に飛び出た。

そして、それを合図に、

カサッ!

黒光りする細い後ろ足が出てくると、

それに続いて、

中足が蛹の殻の中から出てきた。

カサカサ

カサカサ

昆虫は後ろ足と中足を巧みに使いながら前の部分を引っ張り出し始める。

そして、程なくして、

メリメリメリ!!

蛹の前の部分が引き裂けると、

左右の大きな複眼と鋭く強靱な顎、

そして、長い触角を持った昆虫…

そうスズメバチの顔が蛹の中から飛び出した。

クワサクワサ

蛹を脱ぎ捨てたスズメバチは部屋の中を歩きながら、

萎れている羽根をゆっくりと伸ばしていく。

ところが…

『こっここは何処…』

ようやく目覚めた里香の意識は、

複眼に無数の映り込む部屋の景色と

その見える視野の広さに困惑をしていた。

『何処ここ…

 え?あたしの部屋?

 なんで…

 横や後ろが見えるの?

 いやぁ…めっ目が変…』

里香はそう思いながら前足でしきりに複眼を拭くが、

しかし、スズメバチの目となった彼女の目は、

幾ら拭いてもその視界が戻ることはなかった。

そして、

友達の久美子の所に電話をしようと、

受話器の位置を試行錯誤の末に把握をすると、

そこへを前足を伸ばしてみた途端、

『いやぁ…

 指が…指が動かない…

 それに変な所に足があるぅ』

その時になって里香はようやく自分の身体が人ではなくなっていることに気がついた。

クワサクワサ

『そんな…

 あたし…
 
 ハチになっているなんて…』

身体の関節を鳴らしながら里香が呆然としていると、

『まさか…

 昨日殺したハチの祟りなの?』

と昨日里香が殺虫剤で殺したスズメバチの集団のことを思い出した。

『あぁ…

 どうしよう…

 こんな身体では表に出られないし…
 
 それに…
 
 あぁ…

 ダメッ

 早く巣を作って

 卵を産まなくては…』

里香の心の中にいつの間にかスズメバチの本能が目映え始めていた。



『はぁはぁ』

キュォ

キュォ

キュォ

ふと気づくと里香は部屋の部材を鋭い顎でかみ砕き、

唾液を混ぜて部屋の中にスズメバチの巣を作り始めていた。

『あぁ…だめよそんなことをしては…』

里香の意識はその行為を止めさせようとするが、

しかし、スズメバチとしての本能がそれを止めさせることはなかった。

そして、めぼしい材料が無くなると日が落ちるの見計らって表に出て、

そこから泥と餌を調達するようになった。

こうして、1週間が過ぎた。



「ここかぁ?」

「うん」

1週間後…

里香の部屋の前に久美子と翔の姿があった。

「1週間も学校にこないだなんて…」

「マジで死んで居るんじゃないかのか?(殺虫剤中毒で)」

「悪い冗談は言わないでよ」

二人はそんなやり取りをした後、

コンコン

っと久美子が里香の部屋をノックしたが、

しかし、なんの応答もなかった。

「居ないのかなぁ…

 ねぇ…千葉君が先に入ってよ」

「何で俺が…」

「だって、千葉君って男じゃない?」

「なのなぁ、

 じゃぁやっぱり、

 大川はこの中で杉山が腐乱死体になっていると思って居るんだな」

「そっそう言う訳じゃないけど…」

「判ったよっ」

翔のその声が挙がると、

ガチャッ!!

っとドアを開けた。

「おいっ、鍵が開いて居るぞ…」

そう言いながら翔が里香の部屋に入ってくると、

「うっなんだこの匂いは!!」

と部屋に漂う悪臭に鼻を抓んだ。

「なに、じゃぁやっぱり…」

翔の後ろに続く久美子はおっかなびっくり後に付いてくる。

「一体何があったんだ?」

まるで廃墟のような部屋の様子に驚きながら、

台所を抜けようとしたとき、

「何これ?」

目の前に立ちはだかる壁に驚いた。

「どっどうしたの?」

「いっいやっ、

 これは、なんだろう?」

そう言いながら翔が壁を指さすと、

「なんかハチの巣みたいね」

と久美子が呟いた。

「ハチの巣?

 ハチの巣って木にぶら下がっている六角形の…」
 
「それはミツバチの巣よ

 あたしが言っているのはスズメバチの巣よ、

 ほらっ、この貝殻のような模様は間違いなくスズメバチの巣に間違いないわ」

と久美子は壁に貝殻のような模様にそう言うと、

「じゃなにか?

 杉山の部屋はスズメバチに乗っ取られ…あっ…」

そう言ったところで翔の口が止まった。

「どうしたの?」

翔のただならない様子に久美子が見上げると、

「あっあっ…」

翔はしきりに何かを指さしていた。

「え?」

その指を指した方を久美子が振り返ると、

クワサクワサ

人の背丈ほどもある巨大なスズメバチが

身体の関節を鳴らしながらゆっくりと近づいていた。

「いやぁぁぁぁぁ」

「うわぁぁぁぁぁ」

同時に二人の悲鳴が響き渡った後、

その部屋から出てくる者は誰もいなかった。



ジュクジュクジュク

『あぁいぃ…

 もっと突いてぇ…』

ブッブブブ

悶えながら里香が毒々しい黒とオレンジ色の腹を突き立てると、

その上で、オスのスズメバチに変身した翔が

盛んに自分の腹部をそれに摺り合わせていた。

『そうよ…

 いいわ…

 翔…凄くいいわ

 あぁぁぁん、

 たっ卵が産まれるぅ…』

里香はそう叫ぶと、

腹にたかっている翔を振り下ろすと、

輸卵管を巣の壁に作られた部屋に差し込み、

プリュッ

プリュッ

っと黒くて細長い卵を押しつけるようにして産卵を始めた。

『里香っお前まだ生むのか?』

振り落とされた翔がその光景を眺めながらそう言うと、

『ねぇん、こんどはあ・た・しよ』

と言いながら女王蜂に姿を変えられた久美子が、

産卵間近の卵が詰まっている腹を翔の前に突き出した。



おわり