夏。 国内某森林地帯にて木の枝や岩肌、虫などから肌を守るための厚地の服を身に纏い、 食料と地図、その他諸々の品を山ほど詰め込んだバッグを背負った二人組が山を登っていた。 「…笹田教授、 こんな山奥で何をするというのですか?」 額に汗を滲ませて必死になって山を登る一人の女性と、 「青原君、君は昔こう言ったね、 ”実学だけが自分のためになる”と、 それを実行するまでだ」 スポーツドリンク片手に周囲を注意深く観察しながら歩く一人の男性。 彼女らは「ある実験」のためにここへやって来たのだが、 実は青原は目的のことについては知らされていない。 「まあ、目的地に着けば、 そのことはわかるさ。 …よっこらしょ」 「えぇ、そうでしょうけども…」 立ちはだかっている大きな岩を乗り越えて 二人は更に奥へと進んで行くが、 木々はさらに鬱蒼と生い茂り、 湿度の高い暑さがジワジワと二人の体力を奪うと、 クッションのように厚く積もった腐葉土が 一瞬の気の緩みを突いて足元を奪う。 まさに難行苦行の行軍である。 彼女が所属する研究所には大沢という研究者が居た。 彼女は彼に好意を抱いていたのだが、 その大沢という男が最近研究所から姿を消したのだ。 長期休暇とか、 休養とか、 辞職とか様々な憶測が飛び交っているがどれも確かではない。 「教授、ところで…」 「ん? 何だね?」 「あの、大沢さんってどこ行ったのか知りませんか?」 大沢は笹田の助手を勤めていて、 よく行動を共にしているのを見ていたので もしかしたら何か思い当たりがあるのでは無いか、 ということで聞いてみたのである。 「…あー、 彼なら元気だよ」 「え、どこに居るか知っているんですか?」 予想外の答えに声が弾んでいる。 「どこも何も、 これから行く目的地で待ってるよ。 研究の手伝いをしてもらってるんだ」 「本当ですか!?」 「本当だとも。 もしかして恋人だったのかい?」 「…! い、いえ別にそういう間柄では無いです無いです」 反応でモロにバレているが、 笹田はあえて黙っていることにした。 が、こっちはこっちで微妙ににやついているのがモロバレである。 そんなこんなで歩き続けて4時間ほど経ったあたり。 「教…授、 まだっ…ですか?」 道らしい道は無く、 山の斜面は更に急になり体力の消耗も大幅に激しくなる。 普段は研究所での作業に没頭している彼女にとって これは非常にキツいものだった。 「んー、 あと2、3時間ってとこかな、 でも斜面はもっと急になるよ」 「えええ!? そろそろ休ませて下さい…」 笹田は今年で30になるというのに、 やたらピンピンしている。 それに対して、 青原は今にも倒れそうなほどグロッキーな状態だ。 しかし山は更に険しくなり、 足場は次第に劣悪な環境へと変わっていく。 「しょうがない、 じゃあ10分だ。 10分経ったらまた歩き出そう」 「20分、 せめて20分にして下さい」 「だめ。せいぜい15分だな、 あまり遅くなると日が暮れる」 「じゃあそれでいいですよ…」 その場に座り込み、 地面に大の字になって横になる。 彼女の顔からは汗が滝のように流れ落ち、 半ば脱水症状を起こす一歩手前である。 「君はもうちょい水分を取りなさい」 「もう無いです。 飲み干しちゃって」 バッグにぶら下げられたボトルのキャップを外して、 逆さまにして見せるが水の一滴すら落ちてこない。 「じゃあ訂正しよう、 もうちょい計画的に水分を取りなさい」 「はい…」 「まあいい、 こっちはまだあと2本ボトルが残っているからこれを飲みなさい」 そう言うとバッグから何やら薄い赤色をした液体が入ったボトルを手渡す。 「何ですかコレ? 赤いんですけど…」 「何って、私特製のスポーツドリンクだ。 疲れなんぞすぐに吹っ飛ぶ」 「…じゃあ頂きます」 「安心しろ、 毒じゃないさ。 さっきから私も飲んでるからな」 相当喉が渇いていたのか、 彼女はキャップを開けるや否や、 500mlのボトルをほんの10秒ほどで飲み干してしまった。 「ふぅ、 はぁ、 はー…あ、いや、美味しかったです」 「それはそれは」 飲み干すと同時に、 筋肉の緊張は一気に解け、 文字通り疲れなど吹き飛んでしまったようだった。 「これならあと3時間くらいなら歩き続けられそうです」 「ならばもう出るか、 まだ5分しか経っていないが」 「あっ、ならあと10分だけ休みます」 「そうか、それもいいだろう」 わずかな時間だが、 静かな森の中で腰を下ろし自然を満喫するというのは 歩き詰めだった彼女にとって 何事にも代えがたい物だったのだろう。 僅かな木漏れ日の下、 木々の隙間から垣間見える空を眺めつつ身体を伸ばす。 「…時間だ、 もう日も大分傾いている」 しかしその時間もすぐに終わってしまう。 「ええ、暗くなったらどうしようもありませんからね」 そう言うと、 彼女達は再び歩き始めた。 日は地平線の寸前まで傾き、 その光も木々に遮られ視界は次第に悪くなっていく。 もうちょい早く歩けば良かったと後悔せども、 後悔先に立たず。 足元はムカデやらヤスデやらイモリやら、 わらわらと小動物たちが這いずり回っている。 時たま踏んでしまうこともある。 昼間とは打って変わって、 まるで別世界とも思われた。 「教授、まだですか」 「何度聞けば気が済むんだ。 もうすぐだと言っているだろう」 「もうすぐと言ってもう1時間は経ちました…」 「じゃああと10分耐えろ」 「さっきは5分って言いませんでしたっけ…」 「すまん、本当にあと少しだ」 そう言った直後である。 『ァォオオオォーン……』 犬か、狼の遠吠えのような鳴き声が耳に入った。 「…教授! まさか野犬か何かじゃあ…」 「安心しろ、 こんな事もあろうかと麻酔銃は用意してある。 それよりここは熊が出るかもしれないな」 彼女にとっては全然安心できないが、 引き返すのも難しいのでひたすら歩き続ける。 いつ野犬や熊が出てくるか ビクビクしながら笹田の後を付いて行くが… 「いや、熊が出た記録は一切無いが。 さっきのはデタラメだ」 との一言でその緊迫感は一気に解ける。 「ははは…ですよね…っ!!」 苦笑いを浮かべる青原の身体に、 一瞬電撃が走ったかのような感覚が襲う。 「うぐっ…かっ…はァ」 体中が火照り、 今まで一度も感じた事の無い”違和感”を全身に感じた。 「一体…何です…教…」 グッ、 グッ、 グッ、 と少しずつ、 だが確実に身体に変化が生じ始めた。 背骨は前方へ倒れるように湾曲し、 腕は細く、 しかしがっちりとした筋肉を形成し、 指は短くなり 先端には「肉球」を生じる。 脚は踵から先が伸長し、 爪先立ちのような形で固定される。 その青原を眺めながら、 いや、笑いながら、 笹田は口を開いた。 「ニホンオオカミって知っているかい?」 無論青原にそんな話を聞いてる余裕があるハズも無いが、 話を止めようとはしない。 むしろ、その様子を楽しんでいるかのようにも見える。 「私はね、 その生きた姿を一度見てみたいとずっと思い続けててね。 100年ほど前だったかな、 彼らが絶滅したのは。」 などと話している間にも青原の姿は刻々と変化を続ける。 ややグレーの混じった薄茶色の毛が全身から生え始め、 臀部に収まっていた尾骨はどんどん長くなっていき、 更にそれを毛が覆う。 「それで、ちょっと前に損傷の無いDNAを入手することができたんだ。 入手したDNAベースに、 ちょっとばかし細工を加えて… それがさきほど君が飲んだあの「スポーツドリンク」だったわけだよ。 まあ詳しいことを言ってもわからないだろうね、 実は私もよくわからないんだ」 『う、ぁ、あぁ、ぐゥ…』 彼女の変化は更に加速する。 (何よ、コレ…毛? 私の…熱い、熱い、熱い!) 「ちなみに大沢君はそこだ。」 (大…サワ…大沢君?) 笹田が指差した先には一匹のオオカミが ―絶滅したとされるニホンオオカミが青原の方を心配そうに見ている。 (まさか…あのオオカミが、まさか…) 顎が前へと突き出し、 鼻は湿り気を帯びる。 耳は尖り、 頭頂へと移動していく。 骨格はもうヒトとしての原型をとどめておらず、 もはや既に犬科のソレとほぼ同じ形状となっていた。 着ていた服は細くなった骨格からするりと抜け落ち、 彼女がヒトだった頃の名残は全て消え去った。 『うゥ、ウァ、ウォォオオーン!』 (嫌ぁああああー!!) もはやヒトとしての声は出せずに、 彼女の口から出たのはオオカミの鳴き声。 「まだ、こっちの言うことは理解できるだろう 私が最後に頼みたいのは、 まぁ、簡潔に言うと… 彼とつがいになってもらいたい つがいになって、 この山で…」 意味を理解することはできたが、 混乱状態において真意を把握することは無理だった。 けれども、 少しずつこれから自分がすべきことを次第に理解していく。 (ツガイ?…どういう…) 「それと一つ誤解をしないで貰いたいのは、 大沢君は自らこの道を選んだということだ。 ニホンオオカミというとんでもなく希少な生物が居るとなれば、 この一帯の自然は間違いなく保護される。 ここらへんは彼の故郷で、 自然を守りたいと言ったのは彼からなんだよ」 青原を見つめるオオカミは若干申し訳無さそうな表情をしている。 そこからようやくこの「実験」の意図を掴んだらしく (…そういう、こと、ね) 青原はゆっくりと立ち上がると、 大沢”だった”オオカミの方へと歩いていく。 「それじゃあ、頑張ってくれ。 山の管理については私がなんとかしておこう」 そう言うと、 笹田は暗い森の中へと消えていった。 翌年、 「ニホンオオカミの親子が確認された」 という記事が地元紙に掲載され、 一躍、世間の注目を浴びることになった。 おわり この作品は名無しさんより寄せられた変身譚を元に 私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。