風祭文庫・獣の館






「仮面の独白」



原作・にこちんたーる(加筆編集・風祭玲)

Vol.T-023





プシュッ!!!

ローカル線の駅から乗り継いできたバスを降りたあたしがふと空を仰ぐと、

そこには高くて真っ青な青空が広がっていた。

「すぅぅぅぅ…」

コレまで吸ってきた汚れた空気を入れ換えるかのごとく大きく深呼吸をすると、

広大な牧草地を渡ってくる風が気持ち良く感じられた。

あたしは飯島素子。19歳の大学生だ。

そもそも、あたしがこんな田舎にまで足を運ぶことになったのには、

ちょっとしたわけがある。

そう、付き合っている男がちょっとたちの悪い借金を作ってしまったのだ。

最初の頃は水商売でも…と思ったが、

けど、そう言うワケか

その借金先からより金回りのいい仕事として紹介されたのがこの牧場だった。

別に腕力があるわけじゃないし…

動物はあんまり好きじゃないし…

あたしにとってココに来ることが苦痛だったけど、

でも仕方がなかった。

それは…隆が、好きだから…

無論、彼には心配をかけたくなくて、

ここに来ていること自体内緒にしてある。

あたしが一夏我慢するくらいで、隆の借金が消えるんならかまわない。

そんなことをぼんやり考えていると、馬に乗った若い男が颯爽と現れた。

「飯島さんですね。お待ちしていました。」

「…あ、はい。」

なんだか間の抜けた返事をしてしまった。

この牧場主であるらしいこの男とは電話で話しただけだったのだが、

想像していたような田舎臭さを微塵も感じさせず、

むしろ洗練された美しさをたたえていたのでつい見とれてしまったのだ。

特に、切れ長の目。不思議な光り方をしている。

悪くないじゃない。もちろん、隆にはかなわないけどさ。

意外と、一夏楽しく過ごせるかもしれない。



「田舎で、びっくりしたでしょう。」

ひとつひとつ家畜小屋を案内しながら、男は話した。

「わざわざ来ていただけるなんて、ほんと助かります。

 ちょうど若い女性が足りなかったんですよ。」

と彼が言うと、

「え、でもあたし、力仕事とかってあんまりしたことなくて……」

恐る恐るあたしが尋ねた。

「いえ、心配ありませんよ。」

そう言う彼の笑顔が爽やかだ。

牧場で仕事をしているのに、どうしてこんなに色が白いんだろう?

「で、ここが豚舎です。…臭いですか?」

「あ、いえ。」

たしかに臭いも相当きつかったのだが、

しかし、あたしは豚たちの態度に何か不自然な物を感じたのだ。

特に、小屋のすみで水桶の中をのぞきこんでいる、太った大きな雌豚。

目が、泣きはらしたように赤い。

男が入ってきた途端、大きな鳴き声をあげて駆け寄ったのだ。

そのとき、

いつの間にか彼の手に握られた木の棒が豚の肩を大きく叩いた。

バシッ!!

豚舎の中に大きな音が響き渡る。

フゴッ

叩かれた豚はヨロヨロと彼から離れるとその場に蹲ってしまった。

あたしには豚の目にいっぱいの涙をうるませているように見えた。

「こいつは新入りでしてね。ちょっとまだ落ち着いてないんです。」

と彼はこともなげに言う。

ヒヤッ…

あたしはその美しい目の奥にぞっとするほど冷たい物を感じると、

あわてて豚舎を出た。



「最後に、ここが馬小屋です。」

干し草の匂いが鼻についた。

「干し草、お嫌いですか?」

彼は干し草をつまみながらあたしにそう尋ねると、

「いや、別に嫌いじゃないですけど…」

あたしは彼が何でそのような質問をしたのかちょっと解せずに返事をした。

すると、彼は笑みを浮かべながら、

「それは良かった。

 いやぁ、あなたが嫌いだったらどうしようかと思っていましたよ」

と言うと、

「あっ」

あたしは、彼がここで働くとなれば毎日この臭いを嗅がなければならないことを

心配してくれていることに気づいた。

けど、肝心の馬が何処にも見当たらない。

「あの、馬は…」

馬小屋の中をグルリと見渡しながらあたしが尋ねると、

「うちに今いるのは、さっき僕が乗っていたあの雄馬だけなんですよ。

 発情期なんか気の毒でね。

 そろそろ嫁を探してやらなきゃなあって、思ってたところなんです。」

と彼が答えた。

でも、それはあたしの質問の答えにはなっていなかった。

「はあ…」

次の言葉を期待してあたしがそう言うと、

「いかがですか、彼?」

と彼はあたしに聞いてきた。

「え?」

彼の言っている意味が分からないでいると、

「お嫁さんに、なってやっていただけませんか?」

彼は真顔であたしにそう言った。

「やだ、冗談なんて言うヒトなんですね。なんか意外。」

一瞬、あたしは彼が冗談を言っているのだと思って、

そう言うと、彼はにっこりと微笑んだ。

「………」

なんだか気まずくなって小屋の中を見回していると、

奇妙な物が目に飛び込んできた。

何か灰色っぽいものが壁にかかっている。

「あれ、なんですか?」

それを指さしながらあたしが尋ねると、

「ああ、これですか。」

彼がそれを壁から外して持って来た。

傍で見ると意外と大きい。

「馬の…首ですか?」

首を傾げながらあたしが言うと、

「馬ではありません。ロバですよ。

 ロバの仮面です。ほら、耳が長いでしょう。

 馬はこんなに不細工じゃありませんよ。」

と彼は説明をした。

「あはは、そっか。」

たしかに間の抜けた顔だ。

中は空洞になっていて、

頭全体を覆えるようになっている。

「…でも、どうしてこんな物がここに?」

そう尋ねると、

「テストです。」

と彼は答えた。

「え?」

「うちで働けるかどうか、最終的にこれでテストするんです。」

「…どうやって?」

「簡単ですよ。ただかぶるだけです。」

「でも、なんで…?」

「牧場で働くということは、

 動物達と心を通じ合わせられなくてはいけません。

 それには、いかに動物の身になって物事を考えられるかが

 重要になってくるんです。

 たかだかロバの仮面を被るぐらいのことも出来ないような人間に、
 
 動物と接する資格はありません。」

と彼はきっぱりと言い切った。

「…はあ。」

正直、あまり気が進まなかった。

彼の言い分もなんだか無理があるような気がしたし、

なにより妙にリアルに出来ているロバの仮面、

その虚無をたたえた目が薄気味悪かったのだ。

けど、彼のいつになく厳しい口調が、

今さら嫌だとはいえない雰囲気をかもし出していた。

それに、ここまできて追い返されることになっても困る。

「さあ。」

男が仮面を差し出す。

仕方が無いのであたしはおそるおそる仮面を被った。

埃っぽさの入り混じった匂いが鼻につく。

仮面はすっぽりとあたしの顔をおおい、

どういう素材なのか少し皮膚に吸い付くような感じがした。

「どうですか?」

と彼が笑顔でたずねてきた。

いや、どうですかって言われても。

「はあ…変な感じです。」

とあたしは答えた。

そう、確かに変な感じだ。

答える声も、くぐもって自分の声ではないように聞こえる。

仮面を被るということは、それだけでもう自分ではない、

別の存在になることなのだと、何かで読んだ記憶がある。

何の本だったっけな…。

仮面の内側はひんやりと冷たくて、ほてった顔に心地よい。



…ほてった、顔?

あれ?

いつの間に、顔がこんなに熱くなっているのだろう?

頭がぼうっとして、なんだかフラフラする。

仮面の下で、どうも汗をかいているようだ。

無意識に汗をぬぐおうとして、仮面の表面をぬぐってしまう。

苦笑。

だが次の瞬間、背筋に鳥肌が立つのを認識する。

仮面をに触れた瞬間感じた、あの感覚はなんだろう。まるで素肌のような…



「あの、ちょっとこれ、外してもいいですか?」

あたしは彼に聞いてみた。

「どうしました?」

心配そうに彼はあたしを見る。

「ちょっと具合が悪くて…」

確かにそれは嘘ではなかった。少し動悸がする。

すると彼は、腕時計に目をやった。

そして、

「ちょっとだけ我慢していただけませんか?

 すぐ慣れるはずです。

 目を閉じて、ゆっくり息を吐いて…」

と彼が言ってきたのであたしは言うとおりに深呼吸してみる。

頭の後ろがぼんやりと暖かくなって行くような気がした。

少しずつ、心拍数が上がっていく。

閉じたまぶたの裏が赤い。血の色だ。

服が嫌な匂いの汗を吸って重い。

鳥肌。

濡れてへばりつく下着のなかで、乳首が硬くなっているのが分かる。



脳の中で、誰かが叫んでいる。

今スグニ、仮面ヲ外セ!

手遅レニナラナイウチニ・・・急ゲ、急ゲ・・・急ゲ!



あたしは無意識に仮面に手をかけ、外そうとしていた。

すると、あたしの手を、彼がつかんだ。

「?」

意外なその握力の強さに驚いて彼を見ると、そこには微笑をたたえた顔があり、

そして、

「いけませんよ。今はまだ外すべき時ではありません。」

と一言あたしに言った。

「でも…」

あたしはそう言いかけて、口をつぐんだ。

つぐまざるを得なかったのだ。

彼の唇が、仮面ごしにしっかりとあたしの口をとらえていた。

男の舌が口の中に滑り込んでくる。

甘い。

同時に、あたしの中で何かがはじけた。

顔が、熱い。

仮面の内側全体から熱くてぬるぬるした触手のような物が生えて、

顔全体が愛撫されているような快感がある。

触手の一本一本が粘液をしたたらせながら

顔中のあらゆる穴という穴にもぐりこみ、

くにゅくにゅと蠢いている。

それらが私の体の隅々にまで行き渡り、根を張るイメージ。

「いい。

 いや、やめて、

 やめないで、

 やめて、

 やだ、

 いい、いい、いい。

 死んじゃうよ。」

おぞましさと快感のなかであたしは叫び声を上げていた。

歓喜にあふれたパニックからの助けを求める叫び。

だがそれは言葉にはならなかったように思う。

あたしの声とは思えない、いや、人間とは思えないような咆哮であった。



どのくらい時間がたったのだろう。気が付くとあたしは馬小屋の床に倒れていた。

鼻先に敷かれた干し草の匂いがむせ返るようだ。

だが、嫌な匂いとは感じなかった。

彼も依然として、隣に立っていた。

一瞬、さっきまでのことが夢だったのかと思う。

だが、自分で流したよだれや汗、

愛液でぐしょぐしょになった服が、

現実の出来事であったことを証明していた。

何があったかよく分からないが、

さっきの痴態を全て彼に見られていたのか…

そう思うとあたしは思わず仮面の下で赤面した

え?仮面?

そうだ、仮面をとらなきゃ。

「もう、いいですよ。テストは合格です。」

まるであたしの心を読んだかのように彼は答えた。

「さぁ…はずしてさしあげましょう。」

男はゆっくりと仮面のふちに手をかけ、外していく。

ピンク色の触手がずるずると顔から引きずり出されていくのを

なんとなく想像したがもちろんそんなことは無く、

ごくあっさりと仮面は私の顔から離れた。

なんだかほっとした。

なんとなく、あの仮面が取れなくなるイメージが、頭の中にこびりついていたのだ。

永遠にロバの仮面をかぶって生きていくあたし…ばかばかしい。

やはり呼吸がだいぶ楽になる。気分も爽快だ。

深呼吸しようとして思わず鼻を鳴らしてしまい、苦笑する。

彼も笑っている。

「これであなたは、この牧場の住人です。」

彼にそう言われたとき

ふと、何かに違和感を覚える。

何かが間違っている。

彼の薄く緑がかった目。

その目が見つめているのは、さっきあたしの顔から外した仮面だ。

その仮面が、なんだかおかしい。

あたしが被せられた仮面は、あんな形はしていなかった。

彼は、あたしが仮面をじっと見ている事に気付き、

満面の笑みをたたえながらゆっくりとその仮面の正面を私のほうに向ける。

嘘。

ロバの仮面ではない。人の仮面だ。女の仮面だ。

まぎれもないあたしの顔をした仮面が、うつろな目をしてあたしを見つめている。

思わず、自分の顔に手をやる。

毛皮が、指先に触れる。

長い鼻面が、それ以上に長くとがった耳が、

異様に離れた目と目が、

なでまわすたびに確認できる。

あたしは、がたがたと震えだした。

嘘よ。これは嘘。そんな馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。

信じられない事実が、しだいに露骨なリアリティーを持ってあたしに迫ってくる。

あの仮面と同じ、巨大で鈍重なロバの頭部。

だが、今や仮面のふちはどこにも無いのだ。

とれない。とれない!

あたしはパニックに陥りながら長い耳をつかんで引っ張ると、激痛が走る。

思わずもらしたうめき声は、もはやロバのいななきにしか聞こえない。

どういうこと!?

「こういうことですよ。」

男はどこからか手鏡を取り出し、あたしに突きつける。

ロバの顔をした女、いや、女の体をした牝ロバが、

あっけに取られた表情でこっちを見つめていた。

化け物。

涙が、こぼれてきた。

「お願い!顔を元に戻して!」

そう叫んだつもりだが、口から漏れたのは

「ヒヒン!ヴィヒヒィイイイイン!」

という鳴き声でしかなかった。

彼は笑みを絶やさず、あたしの顔の仮面を眺めている。

「美しいですね。なかなか面白い玩具でしょう?

 この仮面は、かぶったものの姿と、

 仮面の姿をすりかえることが出来るんですよ。ですから例えば、」

自ら、手に持っていた仮面をかぶってしまった。

「こんな使い方も出来るんです。」

あまりのことに呆然としているあたしに、あたしの顔を被った彼が近付いてくる。

とん、とあたしの肩に手を置いくと、

あたしの目を見ながら小さな声で嬉しそうにつぶやく。

「醜い、ですね。」

男の手から、何かが注ぎ込まれたような気がした。

次の瞬間、体中が燃えるように熱くなる。

腰にひときわ鋭い痛みがを感じて目をやると、

背骨の先端からみるみる伸びていく肉の棒が目に飛び込んできた。

びくん、びくんと動きながら、やがてそれは体毛に包まれ、

長く太いロバの尻尾を形成する。

まさか…体まで?

「そう、言ったでしょう?

 仮面がすり返るのは『顔』だけじゃない。『姿』だって。」

脚がごきごきと形を変え、つま先が伸びて指が蹄と化していく。

いやだ。いやだ!

「ロバのいななき声って、聞き苦しいものですね。」

仮面の下から感情を込めずに言い放つ男。

何とかしてその仮面を奪い返そうとつかみかかったが、

体が思うように動いてくれない。

もはやほとんど後足と化してしまった両脚は、

すさまじい勢いで増加して行く体重を支えきれない。

手が、もはや手の役割を果していない。

腕の筋肉が、めりめりと音を立てて変形して行く。

行き着く先は・・・前脚だ。

「ヒヒヒヒィイイイン!ブルルッ!(待って、お願い、お願い!)」

どんなに叫んでも、人間の言葉は出てこない。

鳥肌が立つ。

と思うとその毛穴の全てから生えてきた獣毛がざわざわと体中を覆い尽くす。

骨がきしんで、苦しくてたまらない。

ウエストのくびれが無くなり、

首が伸び、

不恰好な牝ロバの体つきがしだいに私のものとなっていく。

自分の体から漂い始めた家畜の臭いが鼻につく。

ひときわ高くいなないたあたしの声に振り向いた彼、

いや、すでに男ではないその姿。

曲線のラインはもはや女の物だ。

あたしの体だ。

あたしの顔だ。

あたしから奪った、あたしの姿だ。

「醜い、ですねえ。」

にっこりと微笑む。

「それではさっそく明日から働いていただきましょうか。」

とあたしはあたしに向かってそう言った。

「ヒヒン・・・(そんな・・・)」

「おや、嫌ですか?嫌ならいつでも出て行って結構ですよ。」

「ヒン?(本当?)」

あたしは鏡を、こちらに向けた。

そこに映っていたのは

もはや人間の面影を全く残していない、頭の大きな四足獣の牝。

「その姿でいいならね。」

目の前が一瞬にして、真暗になった。

どこかでロバの鳴き声が聞こえる。

それが自分の絶叫だと気付くのと同時に、私は気を失っていた。



家畜の身に堕とされてから、丸三日が過ぎていた。

何度となく立ち上がってみようと努力を繰り返したが、全て徒労に終わった。

腰骨が、完全に変形してしまっているのだ。

そんな自分が、嫌でたまらなかった。

肥大化した尻から露骨に生えた尻尾の存在も屈辱的だった。

無くなってしまえばいいのにと思って思い切り振り回してみるが、

もちろんちぎれたりはしない。

むしろ意思の通りに尻尾が動かせたことで

それが自分の体の一部であるという事実を思い知らされてしまう。

思い切り泣きたいが、

少しでも声をあげるとそれがぞっとするようなロバのいななきになってしまい、

みじめさに打ちのめされることになる。



あたし、女の子なのに。

ついこの間まで、人間の女の子だったのに。

思い出とも呼べないほど最近の楽しかった日々が思い出される。

隆とのデート。

隆との旅行。

隆とのセックス。

両親や友達のことも浮かばないではないが、隆のことがしきりに頭をよぎる。

もう、会えないのかな…

静かに涙をこぼしていても、

自分がはたから見てどれほど滑稽なものか考えると、

情けなくてどうしようもなくなってしまう。

汚らしい牝ロバが、泣いているのだ。

いっそのこと、精神も完全にロバになれたら、どんなに楽だろう。

だが、あたしの心は依然としてはっきりと

飯島素子としての意識を残酷に保ちつづけており、

それがこの二日間草を食べるという行為から遠ざけていた。

それはつまり、ロバである自分を受け入れてしまうことだと思ったからだ。

だが、飢えは確実にあたしを追い込んできていた。

その上、食べる物は見渡す限り一面に生えているのだ。

誘惑は果てしない。

草を見て、美味しそうだと思っている自分を認識して愕然とする。

気を紛らわそうとして走ってみる。

当然のように四つ足で走ることになる。

ぱかっ。ぱかっ。ぱかっ。

その人間とは明らかに違う足音が自分の耳に響いて、

いたたまれなくなって立ち止まらざるをえない。

気付くと視線は自然と足元の草に向き、

だらしなく開いた口から白濁し泡だったよだれをたらしている。

耐えがたい空腹と耐えがたい自己嫌悪のはざまで地団太を踏んでいると、

隣にあいつが立っていた。

あたしの姿をしたあの男、いや、女だ。

男に対する憎悪と自分の体への執着で、なんとも言えない気分になる。

「無理はいけませんよ。」

目だけは元のままだ。緑がかった、美しく残忍な目。

「ちゃんと食べなきゃ、立派なロバにはなれませんよ。」

びっくりするような強い力であたしのたてがみをつかんで、顔を地面に押し付ける。

草の匂いが肺いっぱいに広がる。

駄目っ!

だがロバとしての、いや生物としての生存本能に勝つことは出来ない。

気づいた時にはすでに口いっぱいに草をほおばっていた。

美味しくて、美味しくて、たまらなかった。

もう押さえつけられていないのに、どうしても止めることが出来なかった。

人間としてのあたしが、頭の奥で泣き叫んでいた。

現にあたしは、涙を流しながら食べていたように思う。

「そんなにおいしい?いくらでも食べていいんですよ。」

緑の目をした女が笑う。

あたしの笑顔だ。

悔しい。悔しい。

だが、心とは裏腹に、飢えた牝ロバの胃袋は貪欲に草を求めつづける。



あたしには、もうひとつ我慢していることがあった。

排泄欲求である。

ロバとして屋外で排便をするのはあまりにみじめだと思い、

ずっと我慢しつづけてきたのだが、

胃袋に大量の食物が入ったことで消化器官は活発な運動を開始し、

その欲求は耐えがたくなってきていた。

歯を食いしばって耐えていると、

女は優しく微笑んで、ゆっくりとあたしの背中をなでた。

ぞくりと、何かが体を走り抜ける。

「無理はいけないって、言ってるでしょう?」

ぽん、と腰を叩かれた瞬間、糸が切れた。

「ヒヒィイン!(いやああ!)」

ぼたん、ぼたんと温かい塊があたしの肛門を通過していく。

ひどい臭いが、あたりに立ち込める。

「あらあら…」

女は嬉しそうだ。

「ヒン、ヒヒン…(お願い、見ないで…)」

あまりの恥辱に、頭の中が真っ白になる。

あたしの、人としての最後のプライドが打ち砕かれて行く…

我に返ると、あたしは自分でも驚くほど大量の糞をしていた。

ああ、そうか。あたし、本当にロバになっちゃったんだな…。

初めて、実感として自分がただの一頭の牝ロバであることを感じた。

よく晴れた青空の下、そよ風に包まれたあたしは、ただ、ひたすらに悲しかった。



「素子?…素子!」

隆の声が聞こえたような気がした。

ぴくんとあたしの長い耳が動く。

嬉しい。幻聴でも、嬉しい。幻でも、会いたかった。

顔を上げると、遠くからかけてくる人影があった。

隆だ。

あたしは、急速にはっきりしていく意識を感じながら走り出した。

幻でも、夢でもない。来てくれたんだ。あたしを助けに、来てくれたんだ!

隆の、匂いだ。

会いたかったよう。



「会いたかったよう。」

背後から、声がした。

あたしの声だ。

「俺もだよ。」

隆はあたしの横を素通りして、あいつの元へ走っていく。

あたしの顔と、あたしの体と、あたしの声を奪ったあいつの元へ。

あの様子じゃ、記憶まで分かるのだろうか。

あるいは、すでに調べてあったのかもしれない。

あたしの全てを。

「ありがとね、会いに来てくれて。すごい嬉しい。」

「いきなりいなくなるから、びっくりしたんだぜ。」

「…悪いな、俺のために。」

「ううん。」

抱擁。

視界が涙でかすんで、二人の姿がゆがんで見える。

思わず、駆け出していた。

悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。

隆なら、分かってくれると思ったのに。

あいつは、違うのに。あたしはここにいるのに。

あたしは、ここにいるのに。



その時、声が聞こえた。

「分かってる。」

隆が、こっちを向いて叫んでいる。

「分かってるよ。こっち、こいよ。」

…本当…に…?

笑顔。隆の、笑顔。

「分かってる。」

…分かってくれたんだ!

もう、正常な思考は出来なくなっていた。

ほとんど何も考えず、あたしは隆の名を呼びながら

(実際にはいなないていただけだが)

隆に向かって駆け寄っていった。

ほお擦りをし、耳をパタパタいわせて、

今のあたしにできる精一杯の親愛の情を表現する。

「…ね?言った通り、こっち来たでしょ?」

ひょい、と彼の横からあいつが顔を覗かせる。

「ああ。でも、『分かってる』ってどういう意味だ?」

隆があいつに尋ねると、

「別に意味はないわよ。

 この子、その言葉が好きなの。かわいいでしょ?」

「うーん…まあな、でもなんだか、ちょっと臭いな。」

隆はそう言いながら鼻をつまんだ。

「あはは、そんなこと言っちゃかわいそうじゃない。

 …発情してるのよ、この子。隆を見て、発情してるの。」

「それはちょっと遠慮しときたいな、俺は。あははははっ」

「あははははっ」

あはははは…

こっちまで、笑いたい気分だった。

ちょっと考えれば分かったことじゃない。

恋人がこんな醜い牝ロバになっているなんて、分かるはずがないんだ。

まして全く同じ姿の女が目の前にいるんだから。

ちょっとでも期待したあたしが馬鹿だったんだ。

あは、あはははは…

「おい、これ涙じゃねえの?このロバ、泣いてるぜ。」

「本当ね。かわいそうに…よし。」

女は慣れた手つきで私に手綱を結わえると、私を引いて歩き出した。

「どうするんだ?」

「この子、雄が欲しいのよ。」

「てことは…」

「種付け、ね。」

体中の血が凍りついた。

いや、でも、まさか。

はじめてきた日に案内された限りでは、この牧場には雄のロバはいなかったはずだ。

近くにも牧場はないし…

「お前、なんだかすごいバイトしてるんだな。」

隆が感心したようにあいつに言う、

「動物、好きだからね。」

「そうだったっけ?」



やがて、馬小屋に着いた。

中に引き入れられると、大きな黒い馬がつながれていた。

あいつが乗っていた、あの馬だ。

「この子も、発情期なの。」

…嘘でしょ?

「おい、だってこれ、馬じゃないか」

「あら、知らないの?馬とロバって、染色体一緒なんだよ。」

「…つまり?」

「交尾できるの。子供も出来るのよ。ラバって言うの。」

「ああ、聞いたことあるかもな。」

聞いたことなかった。

そんな馬鹿な。

嫌よ、絶対にいや!馬の子供なんか、孕みたくないよ!

「…すげえ声だな。嫌がってんじゃないのか?」

「誘ってるんだよ。

 ほら、この声聞いて、こっちも興奮してきたみたいよ。」

その発言の後半部は、事実だった。

馬はその巨体をゆっくりとあたしに近づけてきていた。

あわてて逃げようとしたが、

いつの間にかあたしの手綱が馬の手綱と結び付けられており、

逃れようがなくなっていた。

勢いづいた馬が私の剥き出しの陰部の匂いをかぎ、

おもむろに私の背後に覆い被さってくる。

「ウィヒヒィイイイーン!ヒヒン!ヒヒン!

 (やめてよ!ねえ、お願い、それだけはやめて!)」

巨大なペニスが、あたしの陰部に挿入される。

その段になって、初めて気付いた。私の性器が愛液を滴らせていたことに。

どういうこと?

あたしが発情しているって、本当だったの?

この馬を、受け入れたがっていたってこと!?

ちがう。違う!あたしは…そう、隆を受け入れたかったのだ。

ピストン運動がはじまっている。

私の割れ目もそれなりに大きくなっていたとはいえ、

そもそもロバと馬とでは体の大きさが違いすぎる。

性器もまたしかり。股間から下腹部にかけて、張り裂けそうに痛い。

だが、そんなことは問題ではなかった。

「ヒン、ブルルッ、ブヒヒヒーン!(ああ、見ないで、見ないでーっ!)」

そう、二人が、まじまじと眺めているのだ。

馬とロバの交尾を、よだれと愛液を滴らせながらつがう、

獣と化したあたしの痴態を、隆に見られているのだ。

耐えられなかった。

「…なあ、俺、なんか変な気分になってきたよ。」

「…ふふ、わたしも。」

馬に犯されているあたしの目の前で、二人が口付ける。

「こんなところで…いいのか?」

「かまわないわ。」

あいつの目が、こちらを向く。

「誰が見てるわけでもないし。」

やめて!あたしの目の前でやめてよそんなこと!

もはや、目をそらすことさえ出来ない。

嫉妬と憎悪と恥辱の中で、意識が朦朧としてくる。

二人は下半身の衣服のみを脱ぎ捨て、硬く抱き合う。

「待って。」

キスの合間にあいつが口を開く。

「どうせなら…ね?」

激しく動いている馬と、私を見る。

「バックで。お願い。」

そうあいつが懇願すると、

「…お前、変わったな。」

と隆は半ば呆れながらそう言う、

「嫌?」

「…いいよ。」

かくしてあいつはまるで生まれついての女のように乱れる。

あたしの顔と、あたしの体と、あたしの声と、あたしの隆。

全てを奪ったあいつが、腰を振り上げて快感の中であたしの髪を振り乱す。

返して。

お願い。

それを返して。

お願い。

お願い…

だがどんなに乱れても、薄く開いた目だけは、常にあたしを見つめている。

馬に貫かれ、しだいに牝ロバとしての快感を覚えはじめながら、

あたしは必死にそれを否定しようとしている。

小さく口が動く。

「無理はいけませんよ。」

とたん、電撃のようにヴァギナから快感がおしよせ、

ひどくみっともないよがり声があたしの口をついてあふれだした。

その声に反応するかのように馬も興奮の度合いを増し、

よりいっそう激しく動き始める。

「きもちいいよ。きもちいいよ、すごい、あっ、すごい、すごいよ、ああっ」

あいつから出たあたしの声が響く。

あたしから出たロバのよがり声が響く。

二人と二頭の荒い息遣いが、むせかえるような馬小屋の空気を満たす。

だが、熱い肉体の快感に比例して、あたしの中で嫌悪感が高まってくる。

嫌だ。馬の子を孕むなんて嫌だ。

家畜として妊娠するなんて嫌だ。

出産するなんて、嫌だ。

この先も、繰り返し繰り返し種付けされて、

繰り返し繰り返しロバやラバを産まされ続けるんだろうか。

いつまで?死ぬまで?

ロバの顔にされた時、死ぬほどの屈辱だと思った。

でも、それは終わりじゃなかった。

何段階も、波のように屈辱は襲ってきた。

そのたびにあたしは堕ちて行く。

どこまで続くんだろう。

死ぬまで?死んでも?

「あのロバ、また泣いてるぜ。」

「喜んでるのよ。」

たしかに、あたしは絶頂に達していた。

同時に、馬の巨大なペニスから発射された膨大な量の体液が、

あたしの胎内を満たした。

それが、あたしの子としてきっと生命を結ぶであろうことを、

あたしはなぜか確信していた。



おわり



この作品はにこちんたーるさんより寄せられた変身譚を元に
私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。