1:木曜日
神社の前を、3人の女子高生が話に花を咲かせながら歩いている。 「あっ、夏祭りの看板が出てる」 「そっか、今度の日曜か。気づかなかったね」 「絵梨、千晶、今年も3人いっしょに行こうよ!」 「うん。あたし、いっぱい食べるぞ!」 「玲香はいつもそれなんだから」 小島絵梨、植野千晶、長谷川玲香は、1年4組の同級生で親友同士。 もうすぐ、年に一度の神社の夏祭りが待っている。 「そうそう思い出した。今年は御牛様があるんだよ」 「うんうん。前はあたしたち幼稚園だったよね」 「10年前だもん」 「あのときもあたしたち3人いっしょに行ったよね。 背がちっちゃくてよく見えなかったけど」 「今回こそは、しっかり目に焼きつけておきたいよね」 「絵梨、大丈夫? あのとき泣き出しちゃったでしょ、牛さんが死んじゃったって」 「もう、千晶ったらよく覚えてるなあ。 でも、今は平気。 あの牛は神様のところに行ったんだって、ママから聞いたから」 「そっか。じゃ、3人でおもいっきり盛り上がろうね」 この神社では境内で雌牛を飼っている。 10年に一度行われる、神に雌牛を遣わせる御供えの儀式のためだ。 夏祭りもこの御供えの儀式から発展したものである。 “御牛様”と呼ばれる雌牛が灼熱した鉄板の上で絶命するとき、 祭りで高まった観衆たちの熱狂は頂点に達するのだ。 神社から少し離れたところで、絵梨は道端に光るものを見つけた。 「あれ、なんだろう…指輪かな?」 絵梨が拾ったものは、直径2センチ、幅2ミリほどの金属の輪。 しかし、輪の一部が欠けていた。 「指輪じゃないね。ピアスみたい」 「ほんとだ絵梨」 千晶と玲香が相づちを打つ。 「どうしようか、これ」 「どうせ落とし主なんてわからないでしょ。捨てちゃいなよ」 「でも、きれいだよ。あたし、これ身につけてたいな、ピアスにしてさ」 「やめなよ絵梨。いまどきピアスなんてはやらないよ」 「どうしてもピアスしたいなら、ちゃんとしたものを買えば?」 「いいじゃない。ただなんだから。 どこに付けようかな?ひとつしかないから耳はだめだし…鼻にしよ」 「鼻ピアス!?恥ずかしいな」 「いいでしょ、あたしの勝手なんだから」 絵梨が自分の鼻に輪を取りつけると、輪はピッタリとはまった。 「うん、なかなかいけてる!」 自分の手鏡を見てガッツポーズをとる絵梨。 「絵梨ってセンス悪いのが欠点だよね…」 千晶と玲香が顔を見合わせた。 「ただいまーっ」 絵梨が自宅のドアを開けると、母親の佳枝がしかめ面をした。 「…いやだ絵梨、どうしたのその鼻?」 「あたしね、鼻ピアスすることにしたの。 鼻に穴開けたわけじゃないから、安心だよ」 「でもね、みっともなくないの?」 「あたしの勝手でしょ!さあごはんにして!」 「ねえあなた、絵梨になんか言ってやってくださいよ」 「ん?なんのことだい?」 佳枝が夫の勇作に声をかけると、 勇作は面倒くさそうにテレビから視線を離した。 「絵梨の鼻ピアスのことですよ。みっともないったらありゃしない」 「そうか?俺はいいと思うぞ。 若いうちくらいいろんなファッションに挑戦しないとな」 「あなたまでのんきな…、絵梨が不良の道に走ったらどうするんですか」 「佳枝、ピアスくらいで不良だなんて時代が古いぞ。な、絵梨」 「そうだよママ!ありがとうパパ」 「もう…しかたないわね」 「ところで、佳枝も絵梨も知ってるか? 神社の雌牛が行方不明になったんだってな」 「まあ…もうすぐ夏祭りの御供えなのに?」 「ああ。牛はあの1頭しかいなかったから、 御供えができないって町内は大騒ぎだぞ」 「えーっ!じゃあ、儀式はどうなっちゃうの?中止?」 「そうなるな。でも、祭りは予定通りやるそうだぞ」 「絵梨は千晶ちゃんたちと行くの?」 「うん、千晶と玲香と3人で!」 「悪い男には注意しろよ」 「そんなピアスしてるんなら、なおさら気をつけたほうがいいわよ」 「はーい」 「俺は射的に燃えるぞ!佳枝、絵梨、今年も賞品楽しみにな」 「わーっパパ、人形いっぱいとってね」2:金曜日
「おっはよー!」 「おはよー絵梨、あれ、それは?」 クラスメイトが、絵梨の鼻を指さした。 「よくぞ尋ねてくれました。 ピアスだよぉ、鼻ピアス。かっこいいでしょ?」 絵梨は自慢気にピアスを見せびらかす。 「なにそれ〜?趣味悪〜い」 「あれ?そうかなあ」 「いまどき鼻ピアスなんて遅れてるよ」 ほかのクラスメイトの反応も同じだった。 「絵梨、ほらね。昨日あたしたちが言ったとおりでしょ」 千晶と玲香が諭すように声をかける。 (みんな…あたしの趣味わかってくれないんだなあ…) この日のホームルームは、抜き打ちの服装検査だった。 「小島、なんだそのピアスは」 絵梨のピアスは、真っ先に先生のやり玉に上がった。 「えーっ、ダメなんですか?」 「華美な装飾品は禁止って校則で決まってるだろ。今すぐ外せ」 「…はい。…あれ…痛、いたたた…」 皮膚に食い込んでしまったのか、絵梨がどうやってもピアスは外れなかった。 (あれ…痛、いたたた。食い込んじゃってるのかな…) 「すみません先生、ちょっと外せなくなっちゃって…」 「しかたない、そのままつけてろ。帰ったら医者に行くんだぞ」 (あーラッキー。 せっかくのピアスなのに、簡単に外しちゃたまらないわよ。 本当に外したくなったら医者に行くんだから) 絵梨は胸をなでおろしながら鼻のピアスに指をやる。 (あれ…心なしか、大きくなってるんじゃ?) 手鏡で確かめてみると、昨日と変わっているようないないような大きさだ。 (うーん…気のせいなのかな…) 「ねえねえ、御供えになる御牛様が行方不明って、知ってた?」 休み時間、千晶が絵梨と玲香に話しかけてきた。 「知ってたよ。ママから聞いた」 「あたしは初耳。どうなっちゃうんだろう、御供え」 「御供えが中止だったら夏祭りもつまらないよねえ!」 「なんとか御牛様が無事見つかるといいね」3:土曜日
「おっはよー!」 「おはよー絵梨、あれ、それは?」 クラスメイトが、今日も絵梨の鼻を指さした。 「昨日も言ったでしょ、ピアスだよ」 「ピアスはわかるよ。昨日と変えてない?」 「えーっ、変えてないよ」 「うそー!ずいぶん大きくなってるよ」 手鏡で見ると、ピアスの直径は5〜6センチほど。 昨日と比べても、明らかに大きくなっていた。 (なんだか気味悪くなってきちゃったな… 外しちゃおうか。 でも、昨日は外れなかったもんな…) 「ねえ千晶。このピアスの外し方知らない?」 「医者に行けば?」 「あっ、今日臨時休業って、貼り紙出てたよ」 横から玲香が補足を入れた。 「そうなの?明日は日曜で休みだし…月曜に外してもらうか」 「うん。そうしなよ、絵梨」 「そうそう。御牛様、まだ行方不明だよね」 千晶が話題を切り替えてきた。 「絵梨と玲香は、あの御牛様の名前って知ってる?」 「知らない」 ふたりは口をそろえて答えた。 「御牛様はね、“まほらま”って名前なんだってさ。ママから聞いた」 「そうなんだ。でさ、どういう意味なの?」 「古語で、“すぐれたよい所”って意味。まほろばとも同じ意味ね」 「わあすごい、千晶よく知ってるね」 「何言ってんの玲香、古文で習ったじゃないの」 「そういえば、あたしたち、こないだ御牛様に餌あげたことあったよね」 今度は絵梨が話をそらす。 「うんうん。高校に合格したお礼参りで、3人で行ったときだよね。 神主さんが特別に牛小屋を見せてくれてさ、楽しかった」 「思い出した!神主さん、まほらま号って呼んでた」 「まほらま、あたしたちが鼻輪を撫でたら喜んでくれてたね」 「ほんと、いい牛だったよ。御供えまでに見つかってほしいよね…」4:日曜日−1
(息苦しいな…あと一日の辛抱か…) 絵梨の鼻ピアスは、外れないまま昨日よりも大きく、そして太くなっていた。 直径7〜8センチ、太さ5ミリほど。鼻で息をするのも難しいほどだ。 昼過ぎ、浴衣を着せてもらった絵梨は、待ち合わせ場所の交差点へと向かった。 「千晶、玲香、待った?」 「ううん、今きたところ。それにしてもなによ絵梨、そのピアスまるで牛みたい」 「牛?それだけは言わないでよ」 「わかったわかった」 「でもさぁ、浴衣に鼻ピアスは似合わないでしょ」 「仕方ないでしょ、あと一日のガマンよ」 そんなこんなで3人は夏祭りを楽しみ、 あとは夕方のクライマックス、 御牛様の御供えを残すだけとなった。 すでに、本殿の前にはやぐらが据えつけられている。 5メートル四方はあるやぐらの床は鉄板でできており、 その下には薪が山のようにくべられていた。 御牛様はやぐらの脇の斜面を上ってやぐらの床に乗せられて、 薪の炎や煙と共に神のもとへ遣わされるのである。 「あれえ?御供えってやるんだ?」 「何言ってるの絵梨、あたりまえでしょ?」 「でもさ玲香、御牛様のまほらまって見つかったの?」 「さっきだれかが見つかったって言ってたよ」 「そっかー、よかったね」 「みなさま、まもなく当神社の神主の手によりまして、 御牛様の、まほらま号が登場されます!」 司会者がマイクで告げると、境内を埋め尽くした観衆の拍手が巻き起こる。 白装束に身を固めた神主が本殿からやぐらの前に現われ、 観衆の前で右手を挙げた。 すると、なんと観衆が絵梨の前でふたつに割れ、通路ができた。 神主はその通路を歩いて、絵梨の目の前へとやってくる。 呆然とする絵梨に神主は告げた。 「まほらま号、探しましたぞ」 (神主さん?なに?どういうこと!?……うっ、痛い!) 神主の言葉と共に、絵梨の鼻ピアスがさらに大きくなったのだ。 頭にズンと重みがのしかかり、鼻の穴は今にも裂けそうだ。 鼻ピアスは直径10センチ、太さは10ミリほどの黒光りする鉄に変わっており、 表面には難しい漢字や記号が刻まれていた。 (どうなってるの…?これじゃ鼻ピアスじゃない、牛の鼻輪だ……)5:日曜日−2
「この鼻輪こそ、神のもとへと遣わされる御牛様、 まほらま号のものに間違いありませぬ」 神主は、絵梨の鼻輪を手でつかみながら確信する。 「痛い!なんであたしが!人違い、ううん牛違いよ!」 「また逃げるおつもりですか、まほらま号」 神主は太さ3〜4センチはありそうな綱を取り出し、鼻輪に通そうとした。 「痛い、痛い!」 鼻に走る激痛に絵梨は激しく抵抗するが、 ふたりの若い神官が背後から絵梨の体を拘束した。 少女の体ではとてもはねのけられない。 「あたし人間よ! 小島絵梨よ! まほらま号じゃない! 千晶!玲香!ママ!パパ!だれか!助けて! 痛い!痛いよー!」 必死に泣き叫ぶ絵梨。 しかし、観衆はだれひとりとして反応しなかった。 隣の千晶と玲香も、 少し離れたところにいる勇作と佳枝も、 絵梨を助けようとはしなかった。 「まほらま号、準備ができました。さあ、参りましょう」 神主は、絵梨の鼻輪に結びつけられた太い綱をグイと引っ張った。 後ろの若い神官が絵梨の体を放す。 「うわっ!」 いきなり強い力で鼻輪を引っ張られたので、絵梨は前につんのめった。 そのとき、絵梨の肉体に異変が始まった。 つんのめった両足が一度目に着地する。 その瞬間、両足に履いていた草履が消え、裸足の爪先が地に着いた。 「痛っ!」 (草履が脱げちゃった!) だが、草履は脱げたのではなく姿を消したのだった。 両足が二度目に着地する。 その瞬間、両足の爪先が唐突に太く、黒く変化した。 ふたつに割れている。 「うっ!」 (あたしの爪先、なんだか変!) 爪先が固くなったためか、絵梨の悲鳴もいくぶん小さい。 両足が三度目に着地する。 その瞬間、両脚全体、そして下半身までもが肥大化した。 頑丈になった両足は黒い毛で覆われており、 浴衣の下からも黒毛が覗いている。 「あっ!」 (お腹が、お腹が痛い!) 浴衣の背中が幾分盛り上がっているのは、しっぽが形成されてきたからだ。 両足が四度目に着地する。 その瞬間、体の肥大化は上半身にまで及んだ。 両腕は浴衣が半袖に見えるくらいに伸び、 そして黒い毛が生えてきた。 「ひっ!」 (胸が苦しい!張り裂けそう!) 着地の衝撃がまた大きくなった。 増えた体重を脚が支えきれないのだ。 「まほらま号、ご観念くだされ」 神主がさらに強く綱を引くと、絵梨の体は上半身から前へと飛び出した。 (こ、転んじゃう!) ズゥゥンン…。土煙があがる。 とっさに両手をついたので、絵梨は胴体を打たずにすんだ。 (立ち上がらないと…) 絵梨は曲げたひざを起こそうとして、ひざに力を入れようとする。 だが、なんだかおかしい。 ひざはすでにピンと張っているのだ。 (…ひざ、曲がってない!?) 今度は、両手と背中に力を入れて立ち上がろうとする。 それも無理だった。 (ひざが曲がらないで両手ついてて…どうなってるの…?) そのとき絵梨は、自分の視界が変わっていることに気づいた。 首を動かしてもいないのに、斜め後ろにいるはずの若い神官たちまで見える。 (景色が変…魚眼レンズで見たように広いし、モノクロだ…) 絵梨は理科の授業で習ったことを思い出した。 馬や牛のような草食動物は 外敵をすばやく見つけられるように視野が広いということと、 色の区別がつかないということを。 (も…もしかしたら…) 絵梨が足下を見ると、 地についた両手は、ふたつに割れた固いひづめになっていた。 それも、両足と同じように黒い毛で覆われていた。 (ひっ!牛の脚!) 思わず首をそむけようとする絵梨。 しかし、首が思うように曲がらない。 絵梨は落ち着きながら自分の体の状況を整理していくうち、体が震えてきた。 (今のあたしは………まさか…牛!?) 絵梨は悲鳴をあげようとした。 しかし、息を吐き出しながら口を動かそうとしても言葉は出てこない。 代わりに、彼女の喉と口からは信じられないような音が飛び出した。 「……ンンンンモォォォォォォォーーーーーーーーッッッッ!」 自分の発したその音は、自分の姿を確信するに十分だった。 (やっぱり牛……いやあぁーっ!) そう、両手を地についた瞬間に、絵梨の体は完全に黒毛の雌牛になったのだ。 同時に、着ていた衣服も完全に消滅していた。 絵梨は、斜め後ろに千晶と玲香を見つけた。 ふたりはじっと絵梨を見つめていた。 しかしそれは、変わってしまった親友に驚いている目ではなく、 御供えの儀式への期待と興奮を御牛様に向けた視線だった。 ほかの観衆たちにも、人間が突然牛に変わったことに驚く者はいなかった。 (千晶…玲香…。だれも、あたしが牛になったのにどうして驚いてくれないの?)6:日曜日−3
「ムォ、グォ、グヴモォーーー!」 絵梨は自分の姿に動揺して、体を震わせていた。 「これまほらま号、落ち着きなされ」 神主は、今度は絵梨の鼻輪を綱で軽く2回引く。 すると、絵梨の鼻から全身へ新たな刺激が走った。 (はっ!!……あたし、なに興奮しちゃってたんだろう…) 鼻輪を2回引くのは“止まれ”の合図。 神社の飼い牛としてしつけられた、 まほらま号の体の記憶が条件反射を起こした。 それと同時に、絵梨の心もまほらま号の記憶と本能に同化されはじめているのだ。 「まほらま号、あなたの晴れ舞台が待っているのですよ」 絵梨に満面の笑顔を向けながら、神主は彼女の鼻輪を何度も撫でる。 絵梨は安らぎの息をもらしはじめた。 「ムォー……ムォー……」 人間だったときと違って、鼻輪を触られても痛くなく、 くすぐったいような心地よい刺激が体全体へと伝わっていくのだ。 (不思議… 鼻輪を撫でられると、気分が落ち着いてくる…。 あたし、まるで生まれたときから牛だったみたい…) 「さあまほらま号、参りましょう」 神主は絵梨の鼻輪を綱で強く1回引いた。 “行け”の合図が鼻に伝わると、絵梨の脚は自然と前へ動きはじめた。 「御牛様!」 「御牛様ーっ!」 絵梨が神主に引かれて本殿の前に姿を現すと、観衆の拍手は一際大きくなった。 大歓声は、絵梨の人間としての意識を再び強めさせた。 (あたし…もうすぐ御牛様として御供えに……死ぬんだ!!) そう思ったとき、絵梨の心が激しくぶちきれた。 (人間に戻りたい!牛のままで死ぬなんていやだ!!死にたくないよー!!) 「ムウゥゥゥゥオォォォォォォーーーッッ!!!」 牛の本能と綱を振り切り、絵梨は人のいないほうへ向けて駆け出した。 「これ、まほらま号!お待ちくだされ!」 観衆がざわつきはじめた。 (痛っ…しびれるっ!) 突如、左後脚の自由がきかなくなった。 若い神官が局部麻酔銃を撃ったのだ。 「困った牛ですね、ここで暴れられちゃ」 絵梨の活路はすべて断たれた。 「ははははは、怒りなさんな。 御牛様の活きがいいほど、神様もお喜びなさるものよ」 そう言いながら神主が鼻輪を撫でると、 絵梨の人間としての意識はまた薄れていった。 御供えの儀式は順調に進んだ。 絵梨の首にはしめ縄がつけられる。 神への贈り物を詰めたという箱が絵梨の背中にくくりつけられる。 神官が清めの水で絵梨の口をすすぐ。 神主が絵梨のためにいくつもの祝詞を詠む。 近所の小学生たちが絵梨に祝いの言葉をかける。 町内会長とか市会議員とか偉い人たちが次々と絵梨に祝辞を述べる。 御神酒が何本も絵梨の体にかけられる。 そして、いよいよ絵梨がやぐらへと上るときがやってきた。 神主が綱で鼻輪を強く引くと、絵梨の脚は反射的に運命の歩みを踏み出した。 一歩、また一歩、絵梨はゆっくりと斜面を上る。 神主たち、そして、 ギシッ、 ギシッ と鳴るベニヤ板の音と共に。 コツン。 ひづめの音が急に鋭くなる。 やぐらの鉄板の上に着いたのだ。 鼻に軽い刺激が2度走り、絵梨は歩みを止めた。 生きてここから下りることは、もうない。 鉄板の熱さで暴れないように、絵梨の脚にはそれぞれ重りが取り付けられる。 その作業の間、絵梨は牛の広い視野で下を眺めていた。 ここからならやぐらの建つ境内はもちろん、その下の街並みもよく見渡せる。 黒い夕陽が、空を灰色に染めていた。 (この街を、こんなに高いところから見たのははじめてだな…) 人間としての思い出が詰まったこの街の景色が、絵梨の人間の心をよみがえらせる。 だが、それも長くは続かなかった。 (あのあたりにあたしの家が…家が……家はどこ? 学校はどこ? 公園は? コンビニ? 本屋? ママ…パパ…千晶…玲香…? 思い出せない…? なにも思い出せない! あたし…あた……あああああ………) そう絵梨の脳裏から人間・小島絵梨としての記憶が急激に失われ、 代わりにまほらま号としての記憶が充たされていく …初めて口に含んだ母牛の乳。 鼻輪を通されたときの痛い思い。 母や兄弟牛と別れて、この神社に来たときのこと。 いたずらで神官から説教をされたことと、神主にかばってもらったこと。 町内会行事で人を乗せて商店街を歩いたこと。 千晶と玲香というふたりの少女に餌をもらったこと。 勇作と佳枝という夫婦に頭を撫でられたこと。 神官たちの隙を見て神社を逃げ出したこと。 そして、ズゥンという衝撃と共に、自らが牛であることを再確認したこと。 あの鼻輪は神の意思が込められた、神への遣いの証だ。 神社から逃げたまほらま号は、鼻輪が外れたことでただの牛になった。 しかし、神への遣いがいなくなることは神が許さない。 そこで、神の意思により鼻輪は鼻ピアスに形を変え、 人間に装着されるようになった。 装着した人間は神によってまほらま号の姿と心を与えられて新たな神への遣いとなり、 同時に鼻輪は本来の形を取り戻すという寸法だ。 そして、まほらま号となった者は人間としてはもとからいなかったことになり、 牛のまほらま号として生まれ育ったことになるのだ。 人間界の混乱を最小限にとどめるための、神の思し召しである。 だからこそ、千晶たち観衆はだれも絵梨を助けなかったし、 絵梨が牛になっても驚かなかったのだ。 そして、はじめから存在しなかった絵梨という者についての記憶の存在も 許されるはずがなかった。 人間として生まれ育ったはずのこの街。 そして、両親、親友、クラスメイト、近所の人など、 思い出深い人たちが並んだ観衆。それらに見守られながら、 絵梨は果てていく。 更にかわいそうなことに、 絵梨として偲ばれることもなく、御牛様として、 生まれつきのまほらま号として果てなければならない。 すでに今の絵梨の頭にはそこまでの考えはまわらなかったけれども、 痛烈なやりきれない想いだけは彼女の意識に残っていた。 だが、その想いも次第に牛としての本能に覆われていく……。 「グムウォーーーーーーーーッ!!」 絵梨が人間としての記憶に別れを告げるひと声が、街中に響きわたる。 もはやこの牛を“絵梨”と呼ぶことはできまい。 まほらま号の脚に、重りの取り付けが完了した。 育ての親である神主は、まほらま号の鼻輪から綱を外すと、 鼻輪を優しく撫でながら別れの言葉をかけた。 「まほらま号、あなたは死ぬのではありませぬ。 御牛様として神様のもとへと遣わされるのです。どうか心を安らかに」 「ムォー…ムォー…ムォォォーーー………」 「私もいずれ、神様のもとで再会いたしましょう。 いってらっしゃいませ…うっ…」 温かい雫がひとつぶ、まほらま号の背中にこぼれ落ちた。 神主たち人間が下りた後、 引火を避けるためにやぐらへの斜面の一部が取り外された。 観衆の歓声が大きくなる。ついに薪に炎がともされたのだ。 「ムォー…ムォー…ムォォォーーー………」 一際大きくまほらま号が鳴くと その巨体はゆっくりと炎と煙の中に消えていった。7:日曜日−4
御供えの儀式が終了して、観衆たちは三々五々と帰路につく。 勇作と佳枝、千晶と玲香もそれぞれ神社を後にした。 「あなた?どうしたの、その人形」 「射的でな、娘に取ってやりたくなったんだよ」 「何言ってるの?うちには子供いないでしょう」 「…そ、そうだな。俺どうしたんだろう」 「もしかしたら、娘って会社の女の子のことじゃないの?」 「ま、まさか!誤解だよ、佳枝」 「…そうね。あなたはそういう人じゃないものね」 「御供え、すっごく興奮したね」 「うん、10年前とは大違い!」 「牛さんが死んじゃったって泣いてた、あのときの玲香とは大違いね」 「もう、千晶のいじわる。 でもママからね、あの牛は神様のところに行ったって聞いて、安心しちゃった」 「今日の御牛様も神様のところに行けたのかなあ?」 「大丈夫、きっと行けたと思うよ」 「ところで、ねえ玲香。10年前もふたりいっしょで御供えを見たよね」 「な、何よいまさら」 「この次の御供えも、ふたりいっしょに行きたいね!」 「そうだね、千晶!」 おわり 終わりに… 風祭玲です。 実は”こうけい”さんより寄せられた段階で、 「日曜日−3」と「日曜日−4」の間に 絵梨ちゃんが変身した牛”まほろま”が 贄として絶命していくシーンがあったのですが、 ただ、そのあまりにも生々しい描写に そのままの形での掲載に躊躇してしまいました。 そこで”こうけい”さんの許可を得て、 絶命シーンのカットと前後の部分を改変させて貰いました。 なお、絵梨のピアスをベースに祭の趣旨を変えた、 ”特別編・闘牛祭奇譚”を書いてみましたので、 こちらもよろしく。