風祭文庫・獣の館






「貴金属店の男」



原作・にこちんたーる(加筆編集・風祭玲)

Vol.T-010





夏の日差しの中からその薄暗い貴金属店に入った瞬間、

ほのかに甘いような、不思議な匂いが鼻をついた。

アロマテラピーか何かだろうか。

けして嫌な匂いではない。

が、腕に目をやるとなぜか鳥肌が立っていた。

気を取り直して店内を見回すと、

ショーケースの中の数え切れないほどの宝石類が目をさす。

正直、驚いた。

こんな薄汚い小さな店に、これほどのランクの品がそろっているとは…

私が身に付けている装飾品類もけして安くはないはずだと自負しているが、

残念ながら店内にある宝石類のほとんどは、私のものより数段格が上のようだ。

いささか面白くない。

それにしても、店員はどこにいるのだろう。無用心にもほどがある。

「すいません」

奥に向かって呼びかけてみる。

「はい」

「ひ!」

突然、すぐ背後から声がしたので、私は驚きのあまり声をあげてしまった。

「申し訳ありません、少々取り込んでおりまして…」

まだ若い男だ。長い髪を後ろで束ねている。

夏だというのに不思議なほど白い肌と、赤い唇の対比が鮮やかだ。

男は、す、と切れ長の目を細めて美しい笑顔を作ると、

「いらっしゃいませ」

深々と頭を下げた。



「武藤…妙子さん、ですか。」

名刺を受け取った男は、私の目をまっすぐに見つめて言う。

「美しい名前だ。」

なんだか気恥ずかしくなり、視線をそらして眼鏡をかけなおす。

こんな、十も年のはなれたようなコドモ相手に、何やってるんだろう私…

「おや、ティファニーですね?」

眼鏡にやった左手の指輪に、男が気づいて言った。

「これはおととしの物かな。

 このデザインは本当にすばらしいですよね。
 
 よくお似合いだ。」

男は何の遠慮もなく私の手を取ってもてあそぶ。

「やめて」

思わず、手を引っ込める。なんだか、心臓の鼓動がおかしい。

あれ、と思う。

危ない。

これはまずい。

…いや、年下はパスだ。

「お世辞はうれしいけど、こんなブランドの指輪なんかより、

 ここにおいてある品のほうがずっとランクが高いじゃない。」

軽くかわすつもりで言うと、男は困ったように笑った。

「品物に、ランクの上下はありませんよ。

 女性に身につけられたとき、いかに輝くか。それだけが問題なんです。」

「でも、実質問題として、お高いんでしょ?例えばこのダイヤモンドとか。」

「それはまあ、お値段だけ見ればそれはたしかに…

 でも、あくまで大切なのはお似合いになるかどうかですから。」

そういうと、にっこりと笑う。

おかしな店員だ。売る気がないのだろうか。

「そう。

 じゃあ、私に似合うものを見繕ってもらえるかしら。
 
 あなたの判断でいいわ。」

「かしこまりました。」

男は立ち上がると、ほとんど何のためらいもなく奥へと引っ込んでいった。

おかしなことになったものだ。

本当は安めのダイヤモンドを買うつもりで来たというのに。

私は、男の目が気になっていた。

うすく緑がかったような、けして感情があらわれることのない、美しい目。

何を持ってくるのか、楽しみだ。



「お待たせしました。」

気づいたときには、目の前に男が座っていた。

手に、大ぶりのパールのネックレスを持っている。

パール?

この私が、ただの真珠?

だが、文句を言おうとして気づいた。

こんなに美しいパールを、

いや、こんなに美しいものがこの世に存在したことを、私は知らない。

「地中海産ピンクパールの、三連ネックレスです。

 作者は特定されていませんが、
 
 我々の世界ではなかば伝説になっている品ですよ。」

うすくピンク色に輝く、大きな三つの球体に、私は完全に心を奪われていた。

「この品は、今まであまたの女性のもとを転々としてきました。

 そして、美しい女性に身につけられるたびに、
 
 よりいっそうその輝きを増したと言われています。」

薄暗い店の中で、その周囲だけが明るく光っている。

男の顔がその光に照らされ、

微笑みの下から小さくのぞく白い歯が、ぞっとするほど美しい。

「今のあなたには、必ずお似合いになると思いますよ。」

なんだかネックレスから、磁力のようなものが出ているような気がする。

私はそれに抵抗するすべを持たない。

抵抗したくない。

「試着、なさいますか?」

「はい…」

そう答えたときにはもう、買うつもりでいた。



考えてみればおかしな話だった。

宝石を試着するのに、なぜ「試着室」に入る必要があるというのか。

なぜ服を脱ぐ必要があるのか。

「純粋に、あなたとパールだけの美しさを確認する必要があるでしょう?

 服は、邪魔でしかない。」

もちろん、こんな理屈に納得したわけではない。

男が、わたしの体を狙っているのかとも思った。

だが、物を考えるのがひどく億劫で、

ただただパールを身につけてみたいという欲求のみに支配され、

私は指示に従った。

大きな鏡に、私の裸体が写る。

悪くない、と思う。

明るい茶色にゆるくウェーブのかかった髪が、白い身体にかかっている。

男の、美しい黒髪と、白い顔の色を思い出した。

ぼんやりと、あれほど美しい男になら抱かれてもいいかなあと思っていた。

店内の、甘い香りが鼻についた。



大きく息をつき、ゆっくりとネックレスを胸元へと持ってゆく。

高揚感。

手が小刻みに震えて、なかなか留め具がかみ合わない。

…かちり、と小さく音がして、二つの金具は結びついた。

瞬間、頭の後ろで何かがはじけたような気がした。

体中の細胞が、歓喜している。

ぞくぞくと快感が波のように寄せてきて、体のあちこちで鳥肌が立つ。

毛穴が開いて、汗がふき出す。

鏡を見た。

三つのパールが、それぞれ妖しいピンクとも赤ともつかない光を放ち、

さっきまでとは比べ物にならない凄みのある美しさを誇示していた。

美しい…

だが、うっとりとその輝きを見つめているうちに、

ふと、心の隅に小さな陰がやどった。

はじめは自分でもそれが何だかわからなかったが、

その陰は次第に大きくなり、私の心を支配し始める。

劣等感。

そう、あまりに美しすぎるパールに対して、私は劣等感を抱いていたのだ。

私の、体。

ワタシノ、カラダ。



どくん。



心拍数が、急に下がる。

さっきまであれほど高まっていた気持ちが、冷めていく。

突然、右耳に猛烈なかゆみを感じた。

思わず掻く。

だが、掻くほどにかゆみは増してゆき、どうすることもできない。

そのうち、呼応するかのように左耳にもまた恐ろしいかゆみが襲ってくる。

夢中で、掻いた。

掻けば掻くほど両耳が大きく、とがってくるのに気づいてからも、

私はそれをやめることができなかった。

十分ほどもたっただろうか。

かゆみは、その発生と同じように、突然消えうせた。

鏡の中でこちらを見つめる私の顔には、

巨大でひらひらしたピンク色の耳がついていた。

「何!?なんなの…?」

眼鏡をなおそうとして顔にやった手を見てあっけにとられた。

小指が、ほとんどなくなっている。

残った四本の指は、それぞれゆっくりと太く、硬くなりつつある。

「いやぁああああああああああああああああああああああああっ!!!」

あ。

あ。

ああ。

鼻が、むずむずする。

そう認識した瞬間、さっきのかゆみが、今度は鼻に襲いかかってきた。

掻いてはいけない。

分かってはいるのに、耐えられない。

手を、止めることができない。

いやだ。やめて。おねがい。ああ。ああ。駄目だ。駄目だ。だめだ。

自分でもわけのわからないことを口走りながら、私は鼻を掻きつづけた。

手の中で、掻くたびに鼻が肥大化していくのが、はっきりと自覚できる。

 胸もとでパールが、妖しく輝きながらゆれている。

いつしか頭髪はあらかた抜け落ち、変わりに体中から短くて硬い毛が生え出す。

ちくちくとして、気が狂いそうにかゆい。

おびただしい発疹が腹部にずらっとでき、その全てが乳首と化す。

眼鏡が床に落ち、音を立てて割れたのにも気づかなかった。

いやだ。こんなのいやだ。

もうやめて…

……?

一瞬、変化が止まったかと思ったとたん、

ぶく。

ぶくぶくぶくと音を立てるかのように、

みるみる体中が厚い厚い脂肪で被われていく。

顔が。首が。腹が。尻が。

全てが肥大化し、肌も分厚いざらざらした皮と化す。

骨が、きしむ。

体中の骨格が、その構造を根本から変えようとしている。

あああああ!「ぶぎゃああああ!」

口をついて出た声は、とても人間のものとは思えなかった。

いや!「ふご、」

いや!!「ぶごっ!!」

しゃ、と音を立てて男が試着室のカーテンを開ける。

「お客様、いかがなさいましたか?」

笑顔だ。

いや、見ないでえ、お願い…「ふご、ひぎ、ぶひぃっ…」

!!

突如として背骨の末端、

腰骨の先に襲ってきた感覚が何をもたらすものなのか、

私はすでに知っている。

あまりに、屈辱的。

人外の者への、烙印。

一ミリずつ、ゆっくりとゆっくりと確実に尻尾が生えてくる。

男が、あくまで微笑を浮かべたままそれを見つめている。

みないで。そんなに美しい顔で見ないで。

おねがいだからもうやめて。

助けて。

涙を流しながら言葉にならない声でわめきつづける私に、

男がやさしい声をかける。

「お気に召しませんでしたか。お似合いだと思ったんですが…」

そう。パールだ。

ネックレスのせいなんだ。

はずさなくちゃ。

だが、今やほとんどひづめと化してしまった私の手は、

小さな留め金をはずすことなどできるはずもない。

半狂乱になって無駄な努力を続ける私に、

男が寂しそうに笑って手を差し伸べる。

「残念ですね。三十分前のあなたには、本当によく似合っていたのに…」

すっかり嗅覚が鋭敏になってしまった私の巨大な鼻に、甘い匂いがむせ返る。

そうか、この匂いは、ずっとこの男からただよっていたのか。

ぼんやりとそんなことを考えているうちに、

男はいとも簡単に私からネックレスをはずしてしまった。

思わず、安堵のため息を漏らす。

もう、これで大丈夫…

…え?

一瞬、ぐらりとバランスを崩した私は、思わず床に倒れこむ。

起き上がろうとして、戦慄する。

立てない。

二本の足で立つには、どうしたらいいんだっけ!?

両手はもはや完全に前脚と化し、床から離れない。

こんなはずない。

こんなはずない。

あたし、人間なのに。

今から、もとに…もど…る…はず…

どういうこと!?

男を見上げる。

男はパールを手に持って、実にうれしそうに眺めまわしている。

「ご覧になってください。ね?さっきよりもずっと美しくなったでしょう。

 あなたの持っていた妖艶な魅力あふれる美しさを全て吸収したから、
 
 ほら、こんなに妖しく輝いている。
 
 ねぇ見てくださいよ。
 
 本当にあなたのおかげです。
 
 厚くお礼申し上げます。」

深々と頭を下げた。

そんな。

そんなのいや、ねぇ、元に戻してよ。

お願いだから、助けて!!

ふと、鏡が視界に入った。

巨大な豚が一匹、なにもない空間にむかってあがいている。

どこからどう見ても、ただの豚。

醜い。

自分でも気づかないうちに、私は悲鳴をあげていた。

それはこの上もなく醜く滑稽な、正真正銘の、豚の鳴き声だった。



おわり



この作品はにこちんたーるさんより寄せられた変身譚を元に
私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。