風祭文庫・獣の館






「ガマの油」



原作・にこちんたーる(加筆編集・風祭玲)

Vol.T-009





いつもと同じ帰り道、夕暮れの街角に、小さな人だかりができていた。

「ねえ沙希、あれってストリートミュージシャンか何かじゃない?」

美代子がうれしそうに人だかりを指さして言う。

音楽にあまり興味のないあたしはさしたる熱意もないまま、

彼女に引きずられるようにしてその輪の中に加わった。

美代子の予想が外れたことはすぐに分かった。

「ここに取り出しましたる蝦蟇の油・・・」。

いささか時代錯誤な扮装をした男が、小さな壷を持ってしゃべっている。

隣で美代子があからさまにがっかりしているのがおかしかった。

「何?あぶら?」

美代子がつまらなそうに聞く。

蝦蟇の油売りについては、話に聞いたことがあった。

「塗り薬だよ。ガマガエルの油を薬として売ってるの。」

「うっわあ気色悪い、そんなもん効くわけないじゃん。

 やだちょっと鳥肌立ってきた。」

「あたしも本物見るのは初めてだよ。」

たしかに、あたしだってガマガエルの姿を思い出しただけでぞっとするし、

冷静に考えてみれば、

あんないぼだらけの醜い生物の油を身体に塗る神経というのはちょっと分からない。

だが、純粋にストリ−トパフォーマンスとして見ればたいしたものだと思う。

よく通る声。鮮やかな口上。こういうのを名人芸というのだろう。

意外だったのは男がまだ少年と言えるほどに若かったことだ。

今年で十八になるあたしと同じか、それよりも若いくらいに思える。

長い髪を後ろで束ねたその白い横顔は、美形といってもいいだろう。

美代子がぶつぶつ文句を言いながらも帰らないのは、そのせいかもしれない。

やがて男はすらりと日本刀を抜き、

「さてこれなる快刀こそかの有名なる名刀正宗、抜けば玉散る氷の刃…」

きょろきょろと人だかりを見回すと、

「はい、そこなる美貌のお嬢さん。

 はい、あなた。お手数ですがここまでちいっとご足労願ってもよろしいかな?」

と彼はあたしの方を向いてそう言い放った。

少し迷った。

日本刀で何をするのかがまったく分からなかったし、

何より形にならない不安がわたしの胸を支配しはじめていた。

男の、目。

美しくはあっても感情の読み取れないその切れ長の目を見たときから、

自分が何か取り返しのつかないことに巻き込まれつつあるような予感がしていたのだ。

「ほら、沙希のこと言ってんじゃないの?」

美代子が肘でつつく。

「う、うん…」

どうしたものか決めかねていると、

男は自分のほうからすたすた歩み寄って来るなりあたしの手をとると、

強引に輪の中心に連れ出した。

「え、あの、ちょっと待っ…」

「ではお集まりの皆様、とくとご覧あれ」

そう言って男は日本刀を高く高く掲げると、薄く笑って、

「美しい手だ」

と小さくつぶやき、

おもむろにその鋭利な刃をわたしの左腕の上で置くとスーと引いた。

あまりのことにその場に居合わせた者全員が言葉を失う。

次の瞬間、あたしの左腕に赤い筋が走り、暖かい血がゆっくりと溢れ出した。

あたしは何が起こったのか理解できず、ただ呆然と傷口を眺めているしかなかった。

「きゃあああああ!」

最初に悲鳴をあげたのは美代子だった。

周りの人々も騒ぎ出し、路上は騒然となる。

「さてお立会い!」

自信に満ちた声で男が叫ぶ。その言葉の鋭さに、瞬間、一同が息を飲んだ。

男は滑らかな口調でたたみかける。

「さあ私めが傷害でお縄をいただくかどうか、

それはこの妙薬、蝦蟇の油の効用をば皆様の御目にかけてからのお立会い。」

言うが早いか男はすばやく壷の中から

にぶく光る白いペースト状の油をすくいとると、

あたしの傷口に塗りつけた。

そのときのあたしには、

それがあの、おぞましいガマガエルの分泌物であることまで考える余裕などなかった。

ただ、それが塗りつけられた瞬間、

ぞくりと背筋に何かが走るのを頭のすみで感じていた。

それはさっきの言いようのない不安と入り混じって、

奇妙で危険な快感をあたしにもたらしていた。

男の口上は続く。

「さてさて霊験あらたかなるこの妙薬、

 一塗りすれば血が止まり、
 
 二塗りすれば痛みがぴたり。
 
 三たび塗りましたらこれぞ神秘、神秘というにもあまりに不思議、
 
 傷口がはいこの通り…」

「あ…!」

信じられなかった。

男の言う通り、みるみるうちにあたしの傷は治っていき、

最後に腕をぬぐうと、まるで嘘のように傷が消えてしまっていたのである。

あっけにとられて左腕を見つめていると、

いつのまにか相当な人数になっていたギャラリーから拍手がまきおこった。

美代子も興奮した様子で手をたたいている。

蝦蟇の油の効用に感動したというより、

よくできた手品を見せられたと思いこんでいるのだろう。

それに乗じて男は急に商売人の顔になり、蝦蟇の油を売りさばいていく。

パフォーマンスへの謝礼のつもりで買っていく客は少なくないようだ。



数十分後、あれほどいたギャラリーはきれいにいなくなり、

路上にはあたしと美代子、そして蝦蟇の油売りの三人だけが残されていた。

「ご迷惑おかけしましたね、ちょっとびっくりしたでしょう?」

帰りじたくをしながら男が話し掛けてきた。口調がさっきまでとまるで違う。

「びっくりしましたよお!すごい手品でしたね。

 あれってどうやってるんですか?」

いまだ興奮覚めやらぬ様子の美代子が尋ねる。

「…手品じゃないんですよ。薬の力です。」

男は苦笑しながらあたしを見ると、

「その証拠に、ちゃんと切られた感覚があったでしょう?」

と言った。

たしかに切れ味があまりに良かったせいか

痛みはほとんど感じなかったものの、

皮膚が裂けた感覚ははっきり覚えている。

いつかテスト用紙で指を切ってしまったときの感じに似ていた。

「どうしました?左腕…」

「え?」

男に言われて気づいた。

無意識のうちに、さっき薬を塗られたあたりを掻いていたのだ。

そういえば、ちょっとむずがゆいような気がする。

「まいったな…いや、ごくたまにアレルギー症状を起こす人がいるんですよ。

 本当に申し訳ない。」

「いや、別にそんなたいしたこと…」

「いや、これは僕の責任ですから。

 うちのほうで処置させていただきます。
 
 すぐですから。」

「でも…」

遠慮しているのではない。

虫の知らせというか、なんとなく気が進まないのだ。

押し問答していると、美代子が口をはさんできた。

「いいじゃんやってもらえば。アレルギーって意外と怖いんだよ。」

そして男のほうを向くと、

「ちゃんと治してあげてよね」

と、念を押す。

男は笑顔でそれに応えた。

あたしの意見はまったく無視されたまま、勝手に話がまとまっていく。

「じゃあ、また明日ね!」

無責任な友情を貫いた美代子は、元気に手を振ると帰っていく。

あたしは苦笑いを浮かべながら、

この得体の知れない男と二人きりになることに言い知れない不安を抱いていた。

「また明日…」

だが、明日、本当にまた会えるのだろうか…

「じゃあ、行きましょうか。ああ、ひどいな…」

男に言われて左腕を見ると、そこは気持ちむくんだようになっていた。

少し熱を帯びて、かゆみが増したような気もする。

「これ、どうぞ。」

男が白い錠剤を取り出した。

「それは?」

「そんなに不安そうな顔しないでください。抗ヒスタミン剤ですよ。」

「あ、はい。」

聞き覚えのある名前に少し安心して飲み込む。

「少し眠くなりますよ…」

男の声を最後まで聞かないうちに、あたしは深い眠りに引き込まれていた。



いつのまにか、あたしは白い油の海の中でもがいていた。

なまあたたかい油はペーストというよりもとろりとした液体状となって、

あたしの体にからみつく。

呼吸もままならず、苦しくてたまらない。

あたしは大量の油を飲み込んで涙を流す。

だがいつしかあたしはその状況に、奇妙な快感を覚え始めている。

身体の芯が熱い。

爆発しそうな心臓の中で血液が泡立つ。

口の中の油が、蜜のように甘い。

そしてまた、この快感が恐ろしい。

どうしていいのか分からない。

ふと、生まれてくる時はこんな感覚だったのかな、と思う。

遠くに、制服に身を包んだ美代子が立っている。

美代子の唇が動く。

「気色悪い」

「鳥肌立ってきた」

「アレルギーって意外と」

「また明日」

「沙希」

「沙希」

「沙希」

応えようとしても、口の中が蜜でいっぱいになって言葉が出ない。

いや、油だっけ?

何をそんなに呼んでいるの?

ごめんあたし今ちょっと無理かもしれないな。

また明日って言ってたじゃん。

明日会えるんでしょ?

そうだよね。

そうだよね?

…なんでそんなに、悲しそうな顔してるの?

「気色悪い」

突然、美代子の姿が制服はそのままに油売りの男に変わる。

微笑が顔にはりついている。

「こういうのって好き?」

こういうのってどういうの?ごめんあたし他に好きな人が。

「それは素晴らしい。」

そうなの。すばらしいの。かっこいいんだから。

「怖い?」

うん。ちょっと怖い。ちょっとすごく怖いの。

でもすごくいいの。気持ちいいの。あまい。すごくいい。蜜。蜂蜜?

男はすぐ目の前だ。

背を向けて立っている。

「いいや、蜜じゃない」

ゆっくりとふりかえった、その顔には目しかない。

美しくて恐ろしい、あの、目。

「蝦蟇の油です」



汗でびっしょりになって目を覚ますと、そこは板張りの小さな部屋だった。

四方の壁には窓がなく、

部屋の四隅に置かれたろうそくの明かりが蒸し暑さをいっそう際立てる。

それにしても生々しい悪夢だったと思う。まだ身体がほてっている。

身体…?

服!

「ひ!」

いつの間にかあたしは全裸にされており、

着ていたはずの制服はどこかに消えていた。

「起きましたか?」

油売りの男の声が、部屋に響く。

「どこ?どこにいるの?

 これいったいどういうことですか!?
 
 なんなの?ねえ!?」

あたしは軽いパニックを起こし始めているのを自覚しながら、

続けざまに質問をした。

「答えてよ!」

「ここですよ」

背後から落ち着いた声がした。

驚いて振り向くといつの間にか男が立っていた。

ろうそくの炎に照らされて揺らめくようなその姿は奇妙に美しい。

思いあたって戦慄した。

この状況はついさっきの…夢に酷似している!

「夢だと、思いますか?」

男が、笑う。

「!!…どうして考えたことが分かるの?」

「夢じゃないと、思いますか?」

男が、笑っている。

ぞっとした。

今までもやもやとあたしのまわりを漂っていた不安が、

この瞬間、はっきりとした恐怖の形をとって心の芯をとらえていた。

男の笑顔が、怖い。

笑うな。わらうなあ!

「ねぇ、蝦蟇の油って、どうやってつくるか、ご存知ですか?」

男は、まるでひとり言のように話し続ける。

「ガマガエルをとってきてね、鏡張りの箱の中に入れておくんですよ。

 そうするとね、ガマガエルなりに自分の醜い姿が分かるんでしょうね。
 
 脂汗を流すんですよ…。その脂汗が、」

この上もなく美しい、笑顔。

「今さっきあなたがたっぷりと飲み込んだ、蝦蟇の油なんですよ。」

「いやあああああああああああああああああああああああ!!」

「さてお立会い!」

男が叫ぶと、四方の木の壁が一瞬にして鏡と化した。

ほの暗いろうそくの光に照らし出されたあたしの裸体が、

前後左右どこまでも無限にならんでいる。

あたし…だけ?

「…嘘」

あたしの隣に立っている、男の姿が鏡にうつっていない。

「あなたは…一体…?」

「僕が誰かなんて、どうだっていいじゃないですか。

 そんなことより、あなたは誰なんです?」

「え?藤堂…」

「藤堂沙希だと、言い切れますか?」

「あたしは…」

「人間だと、言い切れますか?」

いや…やめて。

「それだけの蝦蟇の油を身体に染み込ませて、」

言わないで!

「ガマガエルではないと、言い切れますか?」

やめてえっ!「がぁっげぇええ!」

!!

今のが、あたしの声…?

違う。違う!

あたしは、人間です。「あたしは、人間です。」

男は、あくまで笑顔だ。

「良かったですね、まだしゃべれますか。

 でもほら御覧なさい。身体は正直だ。」

身体が熱い。

かゆい。

痛い。

さっきの夢の快感がそっくり裏返しの不快感となって身体中を覆い尽くす。

見たくない。

指が、両手の小指が溶けるように短くなって消えていくところなんて見たくない。

足の指が一本ずつ増えていく様子なんて見たくない。

体中の骨がみしみし音を立ててその構造を変えていくところなんて見たくない。

でも。

部屋のどこに目をやっても、そこにはあたしがいる。

人間でないものへと少しずつ変えられていくあたしが、無数にうつし出されている。

待って!

…あたしは、人間です。「あたしは、」

「ガマガエルです。」

男があたしの言葉に割って入る。

いやだ!「ぃがぁ!」

ああ、うそ、駄目えええええっ!「あげぇ、ひかっ、うぐぇぇぇぇっこ!」

いつしかあたしは涙を流していた。

「ガマガエルじゃないですか。

 ほら、もう体中が大きないぼだらけだ。
 
 口もずいぶんと大きく裂けてきましたね。
 
 そんなに大きな声で叫ぶからですよ。」

口が裂けていくにともなって、

首はつまり、目が飛び出し、腰骨が横に広がっていく。

ぼってりと腹がふくらみ、重くて立っていられない。

今まで、どうやって立っていたのか分からない。

いやだ。

立っていたいのに。

二本の足で、立っていたいのに。

気づいたときにはわたしの両手は前脚となって床をとらえている。

鏡に映っている生物を見て、

ついさっきまでそれが人間の少女であったことがわかる者はいないだろう。

しかもそれは、ガマガエルですらなかった。

奇妙に白い肌。

わずかに残った毛髪。

そして、目。

まぎれもないあたしの目が、ねばついた涙を流しつづけている。

その自分の姿から逃れようとして必死で四肢を動かすと、

鏡の中の何百という不気味な怪物が一斉にのそのそと這いずり回る。

泣き叫ぼうとすればぱっくりと巨大な口が開いて、

毒々しいピンク色の舌が膨れあがり、

つぶれたような醜い鳴き声しか出せない。

今のあたしには、隣に立っている男の美しさが憎かった。

きっと今の二人の姿は、ギリシャ神話の英雄と、

彼が退治したおぞましい魔物のような取り合わせに見えるのだろう。

「こういうの、好き?」

男が微笑む。

夢とおんなじだ。

そう、これも、夢なんだ。

きっと…

「夢かもしれません。目を覚ませばあなたは元通り。でも、」

男の声が、ぼわんと響いて聞こえる。

あたしの耳たぶ、なくなっちゃったもんなぁ…

「覚めることのない永遠の悪夢ってのも、あるかもしれませんね。」

これが、永遠だとしたら。

「怖い?」

体中から、脂汗がふき出した。



ねぇ、美代子…また明日ね。

いつになるかわかんないけど、いつか、また、明日。



おわり




この作品はにこちんたーるさんより寄せられた変身譚を元に
私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。