風祭文庫・獣変身の館






「風呂場の海」



作・風祭玲


Vol.799





ヒュゥゥゥゥゥ…

大陸より寒気団が来襲し、

冷たく乾いた風が吹き抜ける冬の夕方。

「うぅ…

 寒い」

コートの襟を立てて日向建夫は改札口を抜けると、

冬木立の街へと踏み出していった。

「はぁ…

 今夜も冷えそうだなぁ」

早々と早春の日は落ち、

星が瞬く夜空を見上げながら建夫は呟くと、

ヒュォォォッ

一際強く風が舞い踊る。

「ったくぅ…

 明日からやっと連休が取れたというのに、

 美香の奴、

 俺をほったらかして旅行に行くんだもんなぁ…」

舞い踊る風の中を建夫は文句を言いながら歩き、

国道にそって伸びる歩道へと足を進めていく。

建夫のこの正月三が日はほぼ出勤であり、

そうなってしまった原因はクリスマスに浮かれた彼の同僚がしでかした大チョンボであった。

そのため正月返上で後始末に追われ、

やっと落ち着いてきたのを見計らって、

建夫は遅ればせながら休みを取ったのである。

とは言っても仕事始めまでの3日間であるが…

「はぁ…

 美香は今頃、南の島で泳いでいるところかな、

 それとも帰り支度をしている頃かな」

ため息混じりに建夫は呟くと、

仕事納めでの美香とのやり取りを思い出し始めた。



「えぇっ

 行けないってどういうことよ」

年末、

建夫の恋人である美翔美香がワナワナと震えながら怒鳴ると、

「ゴメンっ

 同僚がバカやってその後始末をしないといけないんだよ」

と建夫は美香に手を合わせながら許しを請うた。

だが、

「そんなこと言われても、

 旅行の予定はどうするのよっ

 明日出発なのよ。

 もぅ飛行機やホテルの手配も終わっているのよ」

身体をワナワナと震わせながら

美香は目前に迫っていている旅行のことを指摘するが、

「だからゴメンって」

建夫はただ頭を下げるだけだった。

すると、

「ふぅ」

美香は大きく溜息をつき、

そして、キッと建夫を見据えると、

「いいわっ

 あたし一人で行くから、

 建ちゃんは一人でこっちに居なさいよ」

と告げると、

彼女は一人で成田を飛び立っていってしまったのであった。



ヒュォォォッ

さらに一段と風が強くなり、

「おっと」

その風が建夫の足元をすくい始めた。

「なんか今日は一段と風が強いなぁ」

鬱陶しく空を見上げながら建夫は文句を言うと、

その視界ににぎやかな明かりが飛び込んできた。

”ディスカウントストア・業屋”

ニューリアルしてからそろそろ1年が経とうとしているディスカウントストアの明かりを見て、

「そうだな…

 ちょっと寄っていくか」

と建夫は吸い寄せられるようにして向かっていくと、

「いらっしゃいませぇ」

女子店員の明るい声が建夫を迎えた。

その声に背中を押されるようにして、

建夫は店内へと入っていくと、

意味も無く店内を歩き始めた。



”改装前の閉店セール”

銘打つだけあってと言うだけあって、

店内はいつもよりもさらに堆く積み上げられた商品で溢れかえり、

ちょっとした探検気分になっていく、

そんな店の中を建夫は歩いていくと、

「ん?」

棚に吊るされた入浴剤に気がついた。

「ん?

 入浴剤?」

南の島を思わせる陳腐な絵と、

その絵にはめ込まれた漫画チックなイルカの絵を見て

建夫は思わず眉を寄せるが、

だが、

絵の上に書かれている

”イルカになって南国気分”

という売り文句に思わず惹かれてしまうと、

それを手に取ってみた。

すると、

『ほぉぉ

 その商品をお手に取られましたか』

いきなり男性の声が響くと、

「え?」

建夫は慌てて声がしたほうを見る。

『おぉ、

 驚かせてしまいましたか、

 わたくし、この店の店長の業屋です。

 その商品はとてもユニークな商品でして、

 お風呂にその入浴剤を一袋お入れになって、

 お入りなさいますと、

 なんと、イルカの姿になってしまうのです。

 しかも、ただイルカの姿になるだけではありません。

 あなた様が頭に描いた海を体験できる。

 と言うスグレ物でして、

 いかがですかぁ?

 お値打ちものかと思いますがぁ…』

店長を名乗り、

和服にもみ手の初老の男はそう話しかけてきた。

「イルカになれるだってぇ?」

店長の言葉を聞いた建夫は怪訝そうな目で言い返し、

手にした袋を返そうとしたが、

だが、

心のどこかで引っかかるものを感じると、

「まぁいいか…」

そう言い残してレジへと向かっていった。



「えーと、

 これを一袋全て入れるのか」

湯気が立つ浴槽を見下ろしながら建夫は呟くと、

サラサラサラサラ…

入浴剤の袋を切り、

その中身をお湯の中へと落としていく、

すると、

透明だったお湯が見る見るマリンブルーへと色を変えると、

フワッ

建夫の鼻を海の香りがくすぐり始めた。

「へぇ…

 そんなに悪くはなさそうだな」

ささやかながら海の気分に浸れたとこに、

建夫は満足げに鼻の頭を掻くと、

「どれ、

 本当にイルカになれるか見てやろうじゃないか」

そう言いながら脱衣所で服を脱ぎ、

湯船にその疲れた身体を沈める。



カポーン…

海の香りが満ち溢れる浴室の中で、

建夫は鼻歌を歌いながら、

体の心から暖まり、

冷え切っていた頬が赤らみ始めた。

「ふぅ…

 のぼせてきたな…

 それにしても何時になったらイルカになれるんだい?」

店長の謳い文句にあったイルカへの変身を心待ちにしていた建夫だが、

中々始まらない変身にすこしガッカリした表情を見せると、

「まぁいいか…」

と期待が裏切られたことを追求しない台詞を言う。

そして身体を洗おうと湯船から起き上がったとき、

クラッ

建夫の視界が揺れ動き始めると、

「あれ?

 ちょっとノボせたかな…」

湯船の端に手を着き身体を支える。

だが…

ドロッ

突然、建夫の股間にある男のシンボルから

無く精液とは明らかに違う透明な液体が止め処も無く垂れてくると、

「あっ

 あれ?

 どうしちゃったのかな?

 なんで?」

とそれに気付いた建夫は慌ててシンボルを握り締めるが、

さらに、

「ウップッ」

口からも液体が流れ始めると、

建夫の身体にある穴という穴から透明な液体が噴出し始めた。

そして、

「うがぁぁぁ

 誰か…

 助けて…」

粘性を持ち、

白く固まり始めた液体を身体にまとわらせながら建夫は助けを呼ぶが、

だが、

その声を聞きつけて駆けつける者の姿はなく、

瞬く間に建夫は白い繭状の物の中へと取り込まれてしまった。



カポーン…

マリンブルーのお湯からは相変わらず湯気が上がり、

その湯気に蒸されるように繭は静かに浮いている。

やがて、

建夫が繭に取り込まれて1時間が経とうとした時、

ピシッ!

繭の背面に亀裂が入ると、

ズブズブズブ…

繭はゆっくりと沈み始め、

程なくして湯の中へと没してしまった。



『うっ、

 どこだここは?

 せっせまい…

 それに暗い…』

繭の中で意識を取り戻した建夫は身をくねらせて暴れ始めた。

そして妙にくるくる回る身体を大きく捻って、

ビンッ!

と身体を伸ばした途端。

ビシッ!

視界を覆っていた障害物が引きちぎれ、

建夫の視界が大きく開けた。

『あれ?

 ここは?
 
 え?』

正面だけではなく後ろまで届く広い視界に建夫は戸惑うが、

それよりも驚かされたのは、

サンサンと陽光が差し込む海底に自分が居ることだった。

『ここって、

 海?

 なんで?』

風呂場で湯船に浸かっていたはずが、

いきなり海底に居ることに建夫は混乱し、

そして、意味も無く手を上げてみた。

だが、

『あれ?

 あれ?

 あれ?』

手の感覚はあるものの、

しかし、その手は思うように動かなく、

前後にしか動かせないことに建夫は驚き、

自分の手を見ようした。

すると、

『あっあれ?』

自分の視界に入ってきたのは肌色の身体ではなく、

暗青灰色と白のツートンカラーの体と、

足があるところから伸びている肉質の尾びれ。

『あれ?

 ちょっと、

 これって、

 ひょっとして

 いっイルカかぁ?』

それらを見たときに頭に浮かんだ動物のことを思い出すと、

『てことは…

 あの店長が言っていた事は本当?

 じゃぁ、俺はいま…

 どこの海に居るんだ?』

建夫は業屋の店長の言葉が本当であることと、

いま自分が居る海について考えをめぐらせ始めた。

しかし、

海の中をいくら見回してもここがどこの海であるのか判るはずもなく、

だんだん息も苦しくなってきたので、

クンッ!

尾びれで海底を叩くと建夫は海面へと上り始めた。



プッ!

小さく鼻息を立てて建夫は背中に移動した鼻から溜まっている水を抜き、

大きく空気を吸い込むと、

サァッ!

勢いよく泳ぎ始める。

『へぇぇ…

 イルカってこうやって泳ぐのか』

流れる潮の音を聞きながら建夫は感心していると、

自分の回りに他のイルカ達が集まり、

一緒になって泳ぎ始めた。

『へぇ…

 俺を仲間だと思ってやがる』

思わず笑いたくなってしまいそうなシチュエーションの中を泳いでいると、

ザザザ…

そんな自分達の横に一艘のプレジャーボートが近づき、

「あっ

 イルカぁ!」

と聞きなれた声が建夫の耳に飛び込んできた。

『ん?

 この声は…

 美香ぁ…』

泳ぐスピードを落として船上を見ると、

ウェットスーツを着込んだ観光客の中に美香の姿があり、

自分に向かって手を振っている様子が見えた。

『そっか、

 美香のことを考えていたから、

 この海に来たのか…

 なんか、すげーな

 あの入浴剤は…』

業屋で買ったイルカになっただけではなく、

自分が思っていた場所に来てしまったことに、

建夫はただ感心をしていると、

インストラクターに連れられて、

ボンベを背負った観光客が次々と海に入ってくる。

それを見た建夫は同じように飛び込んできた美香に向かって泳ぐと、

『おらおら、

 のんびりバカンスしやがって

 俺だぞ俺、

 判るかぁ?』

と言いながら美香の身体にその身体を摺り寄せ始めた。

すると、何を思ったのか

美香は嬉しそうな顔をすると、

盛んに建夫に向けて

水中ハウジングに入れたデジカメのシャッターを切り始めた。

そんな彼女の姿を見ていた建夫はある悪戯を思いつくと、

サッ!

一瞬の隙をついて美香の手にあるデジカメを咥え、

そのまま泳ぎ始めてしまった。

チラッ

途中で泳ぐ速度を落として後ろを見ると、

デジカメを奪われた美香は慌てながら建夫を追いかけてくる様子が見える。

『はは…

 鬼さんこちら…』

そんな美香をからかう様に建夫は美香の周りをぐるぐると回り、

さらにもぅ1周回ろうとしたとき、

フッ!

いきなり海も美香の姿も掻き消え、

バシャッ!

見慣れた浴室の光景へと変わってしまった。

「あ?

 あれ?」

すっかり冷め切った水風呂の中で建夫はキョトンとして自分の体を見ると、

眼下に映ったのはごく普通の男の体と、

チャポン…

美香から奪ったデジカメが1台、

湯船の底に沈んでいたのであった。



「建ちゃんいるぅ」

美香が建夫の部屋を訪れたのはそれから2日後のことだった。

「よう美香か」

訪れた美香に鼻声の建夫が出迎えると、

「なに、風邪でも引いたの?」

と美香は呆れ返った。

「あぁ、

 ちょっとな…」

まさか水風呂に浸かって風邪を引いたと言えずに、

建夫はごまかすと、

「で、どうだった?」

と旅行について尋ねた。

すると、

「うん、大方良かったんだけどね、

 ただイルカにデジカメ持って行かれちゃって、

 最悪っ、

 向こうで撮った写真全部パーよ」

と美香は残念そうに言う。

すると、

「デジカメってこれのことか?」

スッ惚けながら建夫はあのデジカメを美香に渡すと、

「え?

 これって

 え?

 え?

 なんで、建ちゃんが持っているのよぉ!」

目をまん丸にむきながら美香は声を上げた。

「いやぁ、

 今朝なっ、

 イルカが”落し物”ですって届けてくれたぞ」

そんな美香に向かって建夫は小ばかにして言うと、

「あのねっ

 どこの世界にイルカが届け物をするのよ?」

と食って掛かるが、

「じゃぁ

 なんで、俺の手元にお前のデジカメがあるんだよ?」

建夫のその一言で美香は黙ってしまい、

デジカメを再生し始める。

すると、そこには美香が向こうに島で撮影をした画像と、

一番最後に奪われたカメラを取りに追いかける自分の姿が映っていた。



「ねぇ…

 本当にイルカがこれを届けてくれたの?」

「さぁ?」



おわり