「東雲美子と言います。皆さん宜しくお願いします」 中学校の教室に鈴の音を思わせる少女の声が響き渡ると、 セーラー服姿の東雲美子は肩まで掛かる髪を揺らせながら軽くお辞儀をした。 「はいっ、 東雲さんはお父さんの仕事の都合で横浜からこの街に引っ越してこられました。 環境が違うところでの勉強は大変かもしれませんが、 東雲さん、判らないことがあったら気軽にみんなに聞いてな。 それと、みんなも東雲さんが早くこのクラスに溶け込めるように手を貸してあげるんだぞ じゃぁ、あの窓際の空いている席について」 美子の挨拶が終わると同時に彼女の横に立つ担任の男性教師はそう声を張り上げると、 窓際の席を指差す。 「ねぇねぇ 横浜てどの辺に住んでいたの?」 「えっと、新横浜の近く」 「その制服可愛くて良いわねぇ」 「そっそうかなぁ…」 ホームルームが終わるのと同時に美子の周りにクラスの女子がつめかけて 輪を作ると一斉に質問攻めが始まった。 「うっうん…そうなの」 「えぇっえぇ…」 集中砲火のごとく浴びせられる質問に一つ一つ、美子は答える中、 「なぁ、東雲さんって結構可愛いじゃないか?」 「だなぁ… 遠巻きにその様子を見ていた男子生徒たちからそんな声が響いた。 「はぁ…なんかあっという間に終わっちゃったなぁ」 長いようで、短かった転校初日が終わり、 やや疲れ気味の美子が校舎から出てくると、 「あっ、東雲さんっ 一緒に帰ろう」 と美子の後を追いかけて初芝啓子と高畠志津子が飛び出してきた。 「あっ、 えっと、初芝さんと 高畠さん」 クラス全員の名前を覚えきっていない美子は名前と顔を一致させながら返事をすると、 「東雲さんが住んでいるところって○△町でしょう? あたし達近くなんだ、一緒に帰ろう」 と二人は誘う。 「うっ うん、ありがとう」 思いがけない申し出に美子は笑顔で返事をすると、 「でも、東雲さんって、 人の顔覚えるのが早いのね」 「あたし、それ苦手なんだよねぇ」 「そっそうかなぁ…」 「そうよ」 と話しながら学校を後にして行った。 「えぇ!! 東雲さん、バレエをしているの?」 「うん、 幼稚園の頃から…」 「すっごーぃ」 「じゃっ、 もぅなんでも踊れるんだ」 「うん、まぁ」 美子から彼女がバレエを習っていることを知り、 しきりに感心する二人の様子に何か”こそばゆい”そんな感覚を感じると 美子は顔を赤くし、鼻をかきながら返事をする。 「でも、 こっちに来て教室も変わって大変じゃない?」 「うん、それなら 横浜で通っていたバレエ教室がこっちにも教室を開いていて、 そこに通うことにしたんだ」 「へぇそうなんだ」 「じゃぁ 発表会なんてするの?」 「もっもぅすぐ… と言っても来月だけどね」 「うわぁぁぁ ねぇねぇ あたし達も呼んでくれる?」 「東雲さんのバレエって見たい」 「うん、いいよ 先生に頼んでみる」 「うわぁぁぁ!!」 「やったぁ」 美子の口から彼女が出演するバレエの発表会の見学に関しての言質を得た途端、 啓子たち二人は飛び上がって喜んだ。 「言っておくけど あっあたし…そんなに上手じゃないよ」 喜ぶ二人の姿に美子はそう言った途端、 ドンッ 丁度交差点に出た彼女の体に何かに当たった。 「あっすみません」 美子は反射的に謝りながら当たった相手を見ると、 キュィ!? そこには一頭の鹿が居て ものの見事に鹿と美子は眼が合ってしまった。 「へ?」 鹿のつぶらな瞳を眺めながら美子の思考が一瞬停止する。 そして、次の瞬間、 「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」 美子が悲鳴を上げると、 「どっどうしたの?」 その悲鳴に啓子たちが驚いて駆け寄った。 すると、 「なんだ、鹿か…」 美子が指差している鹿を見るなりため息をついた。 「なっ しっ鹿よ、鹿。鹿。鹿!」 ため息をつく二人に驚きながら美子は声を上げると、 「そっか、 東雲さんってまだ慣れてないから仕方が無いか」 「そうねぇ」 「ねぇ、東雲さん、 落ち着いて」 まだパニック状態の美子を宥めながら二人はこの街と鹿との係わり合いを説明した。 「そうなの…神様の使いなんだ」 「判った…」 「まぁ、ここってあの神社に近いから、 鹿だらけだけど、 でも、引っ越してきてから鹿、見なかったの?」 「うん… だって、あたしが横浜出たの昨日だったし、 それにお父さんのクルマに乗ってきたから」 「ふぅぅん…」 「なるほどねぇ… それじゃぁちょっとショッキングな対面だったかな」 「だね」 美子の説明に啓子たちは大きく頷くと、 「あっそうそう 公園の方に行くと鹿煎餅売っているから あげてみると良いよ、 きっと鹿も喜ぶから」 「そっそう?」 「あっそれと、 鹿煎餅、美味しそうだからって食べちゃ駄目だよ」 「え?なんで?」 「たまに”当たる”人がいるからね」 「へ? (それってどういう…)」 美子は啓子が告げた言葉の意味を聞き返そうとすると、 「じゃぁあたし達はここで」 「ばいばいーぃ」 二人は美子に手を振って分かれてしまった。 「あっ」 (なんのことなんだろう…) 聞きそびれてしまった美子だったが、 しかし、 「いけないっこんな時間!!」 バレエ教室のレッスン時間が迫っていることを知ると大慌てで帰っていった。 「ふぅ…余裕で間に合いそうね…」 自宅で着替えた後、 レッスン着であるレオタードをTシャツの下に着込んだ美子は 短パンから覗く白のバレエタイツに覆われた脚をさらしながら 自転車で街を軽快に走り抜けていく、 そして、広い公園の横に差し掛かったとき、 「あっあれか…」 公園に屯している鹿達と 啓子たちが言ってた鹿煎餅を売る露天が出ていることに気が付いた。 「ふぅぅぅん」 信号待ちをしながら美子は公園の方を眺めていると、 「そうだ…」 何を思ったのか自転車から降り、 「すみませーん、鹿煎餅もらえます?」 と露天に声をかけた。 パリパリ 「あっ本当だ、 よく食べるわねぇ」 屯している鹿に美子は恐る恐る鹿煎餅を与えてみると、 鹿は物怖じせずに差し出された煎餅を食べていく、 「ねぇ、そんなに美味しいの?」 食欲旺盛に煎餅を食べる鹿に美子はそう話しかけるが、 しかし、鹿はそれに答えることなく食べ続けた。 「?」 その様子に美子はふと自分があげている煎餅を見ると、 「どれ?」 バリッ!! 啓子たちの忠告を忘れ、好奇心からひと齧りた。 その瞬間、 ピリッ 美子の体が痺れる感覚が走ったが、 しかし、口の中に広がる味の無い感覚に 「うぇっ」 美子は鹿煎餅を吐き出そうとしたが、 そのとき、 ドン 傍によってきた鹿に体を押されると、 「きゃっ(ごくん)」 と齧った鹿煎餅を飲み込んでしまった。 「あぁ もぅ! 飲んじゃったじゃないの!!」 自分を押した鹿に向かって美子は怒鳴ったが、 しかし、鹿は悪びれず美子に白いお尻を見せてさっさと逃げていってしまった。 「あっいけない!!」 鹿を半分追いかけたところで、美子は時間のことを思い出すと、 慌てて自転車のところに駆け寄り大急ぎで公園から去っていった。 「アン・ドゥ…」 何とかレッスン時間に間に合った美子は自己紹介後、レッスンを始めていた。 そして、来月に迫った発表会に向けてのレッスンが始まったとき、 トンココココ… 「あれ?」 パを踏む自分の足が軽やかにステップを踏んでいることに気が付いた。 美子はどちらかというとパは苦手だったのだが、 しかし、今日の彼女の足はまるで羽が生えたかのように動き、 また、履いているトゥシューズの感覚もほとんど無かった。 「あれぇぇぇ… 教室を代えたせいなのかなぁ なんか体が軽い…」 そう思いながら美子はレッスン場を所狭しと踊り続けた。 「はいっ、 じゃぁ今日はここまで、 東雲さん、 とっても良かったですよ、 本番もその調子でね」 「はいっ」 動きを見ていた先生より褒められ、 美子は嬉しそうに返事をする。 そして迎えた翌日、 「あら…どうしたの野菜ばっかり食べて」 朝食でドレッシングもかけないサラダのみを食べ続ける美子に 母親はそれとなく尋ねると、 「うん… なんか、他の食べたくないの」 サラダを箸で突付きながら美子はそう返事をした。 「そう… でも、他のもちゃんと食べないと、駄目よ」 「はーぃ」 美子の返事を受けての母親の言葉に 美子はそう返事をするが、 しかし、彼女はサラダを食べきってしまうと 「行って来ます」 と言い残して中学校へと登校していった。 「…… なんか変なのよね お腹が張っているというか、 膨らんでいるというか、 何かなぁ」 学校に向かって歩きながら夕べから膨らんだままのお腹に手を置く、 すると、 グルグルグル… ウネウネ… 美子の腹部から何かが鳴るような音と共に彼女の腸がうねっているようなそんな動きを見せた。 「やだ…」 それらの動きを美子は手で感じると、 まるで、見えない何かから逃げ出すように走り出してしまった。 すると、 タン!! 一頭の鹿が彼女の目の前に姿を見せると、 タッ 走る美子と共に走り始め、 そしてしきりに美子のお尻をにおい始めた。 「あっちょっと… シッシッ あっちに行って!!」 寄ってくる鹿を手で払いながら美子は走ると、 「あっ点滅している」 間近に迫った点滅している歩行者信号が点滅していることに気づき、 渡ってきた人ごみを掻き分けるように強引に渡り切ると、 後に付いてきた鹿を振り切った。 キューン!! 引き離され鳴き声をあげる鹿に 「ごめんね」 となにか別れの感情を感じながら美子は走って行く、 「おはよー」 教室に到着した美子に啓子たちが声がかけてくると 「おはよー」 美子は疲れを見せずに元気よく返事をした。 すると、 「あれ?」 「なに?」 「東雲さんの髪の毛って、 栗色してたっけ?」 と啓子は首を傾げながら尋ねた。 「え?」 彼女のその言葉に美子は驚きながら慌てて肩に掛かる髪の毛を見てみると たしかに、彼女の髪の毛は栗色というより、赤茶色に染まっていた。 「えぇ!! なんでぇ」 髪の色に驚きながら美子は声を上げると、 「うわぁぁぁ、 なに、染めていたのが取れたんだ、 さすがは横浜ね」 とからかう様に志津子が言う、 「ちっ違うよ」 彼女達の言葉を美子は必死で否定していると、 「おーぃ、 ホームルームはじめるぞ」 と言う声と共に担任が教室に入ってきた。 そしてホームルーム後始まった1時間目、 数学教師が黒板に書いていく公式を美子がせっせとノートを取っていると、 グググググ… いきなり胃のあたりが萎み始めたと思った途端、 ゴボッ!! 美子の口の中に胃の内容物が一気に戻ってきた。 「うぐっ なっなに?」 戻ってきた朝食に慌てて美子は口を塞ぎ、 そして口いっぱいに溢れかえる朝食を次々と飲み込んでいく。 「どうしたの? 顔が青いけど…」 その様子に気づいた志津子が声をかけるが、 「うっ(ごくん) 大丈夫… なっなんともないよ」 美子は大したことがないように振舞いながら返事をした。 「そっそう?」 美子の返事に志津子は視線を元に戻そうとすると、 「あれ?」 そのとき、志津子は美子の首筋を這う様にして湧き出す赤毛に気づいた。 そして、 「ちょちょっと美子、 あなた、首筋に毛が生えているわよ」 と注意をした。 「え?」 志津子の言葉に美子が慌てて自分の首筋に手を当てると、 モシャモシャ と首筋、 いや、その下からも毛が湧き出すように伸びて来ていることに気づいた。 「毛が? なんで? いっいやっ!!」 湧き出てくる毛に美子が悲鳴を上げながら立ち上がってしまうと、 「どうした? えっと、東雲」 突然立ち上がった美子に数学教師が訳を尋ねる。 「あっ えっ」 教師のその声に美子は教室中の注目を一身に浴びていることに気づくと 顔を赤くしながら座ろうとした。 しかし、 ムリっ!! その途端、美子の両耳が一瞬動くと、 ムリムリ!! っと尖りながら左右に張り出し、 さらに首も伸び始めだした。 「きゃっ」 グィグィと伸びる首と その感覚に美子は両手で耳を押さえるが、 しかし、その手も手の甲が内部から盛り上がっていくと、 バリッ!! 手の皮を突き破るようにして黒い蹄が飛び出してしまった。 「いやぁぁぁぁっ」 教室内に一段と高く響きながら美子の悲鳴が上がる。 「なんだ?」 「どうしたんだ?」 「東雲さん?」 悲鳴を上げる美子の姿にクラスメイトたちの腰が浮くと、 「いやっ 助けふげぇぇぇ」 ググググ… 鼻先が黒く染まり、 そして前に突き出すように伸びはじめた口を 蹄が飛び出した手で押さえながら美子はよろめくと、 ベロン!! その美子の口から長く伸びた舌が飛び出した。 「あっ!!」 その様子を見ていた啓子が、 「東雲さん、 あなた 鹿煎餅、食べたでしょう!」 と美子を指差しながら声を張り上げた。 「ふぇ?、ひかへんへい?(え?鹿煎餅?)」 啓子の声に美子は昨日のことを思い出し 「ひゃべたけど(食べたけど)」 そう返事をすると 唖然としながら美子を変身を見ていたクラス中から 「なんだぁ〜っ」 という安堵に近い声が響き渡った。 「へ?」 その声に体中から赤毛を噴出し 鹿へと変身途中の美子が驚くと、 「もぅ 注意したのに」 腰の両側に手を置いた啓子が 「先生!!! 東雲さんが鹿煎餅に当たってしまったので 保健室に連れて行きます」 と声を上げた。 「あぁ 仕方が無いなぁ… 連れて行ってあげて」 その声に数学教師は指示を出すと、 「さっ東雲さん、 保健室に行こう」 鹿化が進行し、体のバランスが変わったために 前足となってしまった手を床に付けて4つ足となってしまった美子に声をかけると、 「キューン」 カカッ!! 鹿の鳴き声を上げる美子を教室から連れ出して行く。 「あのね、東雲さん、 人間が迂闊に鹿煎餅を食べると、 人によっては鹿になってしまうのよ、 もぅ、あれほど注意したのに」 「キューン(元に戻れるの?)」 「さぁね 人によりけりかな? まぁ最低でも一月は鹿のままよ」 「キューン(そんなぁ!!)」 「泣きたいのはこっちよ、 あーぁ、 東雲さんのバレエ見たかったのにぃ」 校舎の中に美子と啓子の嘆きの声が響き渡っていった。 おわり