月は陰ることなく夜を照らし、 薄白い里枝の樹の骨格が闇に浮き出ている。 里枝の皮膚は地際と枝先から体の中心へ向けて、 だんだん固くザラザラしたものに変わっていっているように見える。 皮膚が樹皮に置き換わりつつあることは、 俺にも里枝にも容易に察しがついた。 「智也、私はこのまま体が固くなって樹になるのね…」 里枝がそう言った次の瞬間だった。 ツツツツツツ… 里枝の体の中心に、メスで切ったような50センチほどの縦線が現れた。 「な、なにこれ…それに、体の中が気持ち悪い! く、苦しいよ…!」 メリ、メリメリメリ… 縦線は切れ目として口を開き、 そして里枝の内蔵が外気に曝された。 「ひいいいいいい! い、いやあああああああ!」 腸、胃、肝臓… 里枝の人としての命を支えてきたいくつもの臓器。 それらが、まるでゴミでも捨てるように体外に排出されてダラリと垂れる。 「やめろぉぉぉ!」 俺は必死で内蔵を体の中に押し込め直そうとするが、 中からの圧力は強く無駄な抵抗だった。 里枝は顔をひきつらせて涙を流しながら絶叫し続けている。 ここへきて、里枝の人間への未練が沸き上がった。 「いやあ! 私は樹になんてなりたくない! 人間に戻りたいよ! 美味しいもの食べて、 お洒落して、 友だちとお話して、 楽しく笑いたいよ! 結婚して、 子供産んで、 家庭を築きくの! お仕事もしたいし、 まだまだやり足らないこと一杯あるよ!」 知らない間に俺の目からも涙があふれていた。 しかし臓器の露出は無慈悲に続いた。 皮膚の切れ目から垣間見える肺は呼吸の度にその膨らみを変化させている。 胸の骨は溶解してしまったのだろうか、 心臓までもが外気に曝されていて、 トクントクンと収縮運動を繰り返しているのが見て取れた。 「や、やめて…私の、私の…」 自分の臓器を見つめる里枝の顔は恐怖と悲痛に満ちていた。 ボタ、ボタボタボタ… 里枝を人として生かし続けてきた臓器が、体に見放されて次々に地面に落ちていく。 「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁ…」 里枝は叫び声を上げる。しかしその声はだんだんと細っていった。 肺は下腹部から抜かれるように排出され、 最後に心臓が動きながらボトリと土の上に落ちた。 臓器を追い出した皮膚の裂け目には樹の皮層が見えている。 里枝は無言で口をパクパクさせ、 見開かれた目からは涙がとめどなくあふれていた。 人間としての多くを失ってしまった里枝。 表情は凍てついて目は悲しみを訴えていたが、 その目がスウッと生気を失い曇り始めた。 俺は人の顔を持ったあの樹の目が空っぽの眼孔だったことを思い出した。 ま、まさか…! 悪い予感どおり、里枝の目も内臓と同じ運命をたどりだす。 グググ… 里枝が涙に濡れた目を大きく見開き、 眼球が少しずつせり出してきていた。 「や、やめてくれ…もうやめてやってくれよ…!」 里枝に世界を見せていた目。 俺を見て微笑んでくれた愛くるしい目。 その目が、顔から捨てられようとしていた。 「り、里枝!」 俺は叫ぶも、 ついに里枝の眼球は顔からポトリと落ち、顔に二つの穴ぼこが残された。 里枝は口をパクパクしているが、 すでに歯を失っているらしく、口元が皺くちゃになっている。 ピシピシピシ… 皮膚の硬化が速度を増し、全身がザラザラした表面の樹皮となってしまった。 里枝のやわらかだった肌はもう見る影もない。 グググググググ… 里枝は、いや、里枝だった樹は全体にもうひと回り成長した。 樹が大きくなる過程で、 皮膚だった樹皮はところどころヒビ割れて剥がれ落ちた。 美しかった髪は抜けて地面に落ち、 ぽっかり空いたままの目と口は乾いて洞になっている。 いつの間にか枝々には葉が繁り、 そして美しい花が枝と幹とを問わずに咲き誇っていた。 こうして里枝は完全に樹になってしまった。 「お前はもう人間ではなくて樹なんだな…」 俺はふと、幹にとりわけ大きな花を見つけた。 それはかつて里枝の秘部だったと思われる部分に、 甘い香りをさせながら咲いている。 「里枝、もう一度エッチしっよか…」 俺は気がつくと、 その大きな花びらで自身のものを包み、手淫をしていた。 今の自分の姿といつかの大学裏の山中で見た里枝の姿がなぜか頭の中で重なる。 俺は花芯に射精して樹を見上げた。 里枝だった樹はときどき風に枝を揺らして葉音を立てるのみで、 ただ黙ってそこに立っていた。 俺は里枝の内蔵に土をかけた。 こんもりとできた土山に自然と手が合わせられる。 しゃがみこんで樹をしばらくぼうっと見つめていたが、 俺はゆっくり腰をあげた。 「里枝、こんな山の中で寂しいかも知れないけど、 俺行くよ。また必ず会いに来るからな」 そういい残して俺は山の中をとぼとぼと元来た方向へ歩きだした。 しばらく歩いて、顔を持つあの樹のところへ戻ってきた。 『アノ子ハアタシト同ジ樹二ナッタミタイダネエ。 アノ子カラノ花粉ヲ感ジルヨ。 コレデアタシハ開放サレル。 枯レテ死ヌコトガデキル。 一応、礼ヲ言ッテオクヨ。 オイオイ、ソンナ顔デ睨ミナンサンナ。 樹トシテ生キルノモ悪イモンジャアナイヨ。 アタシハモウ飽キチマッタケドネ。 セッカクダ、アンタニ教エテオイテヤルヨ。 アノ子ノ魂ハ樹ノ中デ気マグレニ起キタリ眠ッタリスル。 時々ハ会イニ来テ話シカケテヤンナ。 アノ子ガアンタノ魂ト直接話セルマデニハ、 カナリノ時間ガ必要ダロウケドネ。 アア…少シオ喋リガスギタ。 アタシハモウ逝クヨ…』 バキバキバキ! そう言い残すと樹は崩れ去っっていく。 崩れた樹の木片の間には、人骨のようなものが見える。 もう俺に話しかける者は誰もいない。 山は何事もなかったかのように静まり返り、 月は山々を煌々と明るく照らしていた。 冬が過ぎて風が温かくなる季節。 とある山の中で、樹に向かって話しかける男の姿があった。 「今日はお日様が良く照って気持ちがいいな。 昨日までの雨が上がってよかったよ。 …え? 雨にもきちんと降ってもらわないと土が干上がるから困るって? 確かにそうだな。 でもとりあえず元気そうで何よりだよ。 山では最近変わったことってあった? …うんうん、 へー、 ここら辺では珍しかった蜂が増えてきてるんだね。 そっかー。 …え、人間の世界はどうかって? 相変わらずうんざりするニュースばかりだよ。 俺もお前の実を食べさせてもらおうかな。 …あはは、冗談だってば!」 樹とその樹に寄り添う一人の男。 辺りに生える土筆が春の訪れを告げていた。 おわり この作品は徒然地蔵さんより寄せられた変身譚を元に 私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。