風祭文庫・異形変身の館






「樹怨」
(第弐話:樹の宣告)


作・徒然地蔵(加筆編集・風祭玲)

Vol.T-317





あれから半月近くが過ぎていた。

8月。

季節は夏真っ盛りであり、

学生達は夏休みの季節を迎えていた。

さて、その後も里枝と俺はこれまでと何も変わらない毎日を過ごしていた。

もちろん、山の中で見た里枝の秘密は彼女を含めて誰にも喋っていないし、

里枝が

「晴れの日に用事があるの」

と説明しても、

「そうか」

と頷いて一人で出て行くのを見送るだけだった。

彼女を不用意に刺激したくない。

その気持ちで俺は見てみぬ振りをしていたが、

けどそれは事実から目を背けているだけにしか過ぎず、

決して長続きするようなものではなかった。



「里枝は…今日も休みか」

世間では夏休みであるが、

その夏季バカンスシーズンに行われる集中講義と言うのは

単位と言う甘い果実を与えるのと引き換えに、

学生から稼ぎ時と言う時間を容赦なく奪い、

時間を奪われた学生達はただ黙々と講師の講義に耳を傾け、

レポートを書く日々を過ごしていくのである。

「はぁ、

 毎日毎日机に噛り付いてばかりだと、

 脚から根が生えそうだ」

そんな愚痴をこぼしながら俺はレポートを纏めると、

ここしばらく体調を崩して顔を見せていない

里枝のお見舞いに向かっていた。

「まったく、

 あんな変なことをしているから、

 病気になるんだよ」

彼女の奇行を思い出しながら、

”バチが当たったのだ。”と思いつつ歩いていくが、

しかしその脳裏には、

あの谷間で自分の耳に響いた声がリピートされていた。

『…何ヲ見テイル…

 …去レ…』

「やっぱり、

 あの声って空耳じゃないよなぁ…」

女性の声と思えしき声を思い出しただけでも

背筋が寒くなるが、

その声が放った言葉の意味を考えていた。

「アイツのあの行為って、

 自分からしたものじゃなくて、

 何者かに操られていた。

 ってことなのか?

 じゃぁ、誰が…」

里枝の身に起きている不思議なことを絡めながら、

俺は髪を掻き毟ると、

「!!

 ひょっとして…」

ふた月前のあのことが頭をよぎった。

「まさか、

 いや、

 でも、

 証拠はあるのか、

 それは…」

夏の日差しを背中に受けながら俺は一人問答をしながら歩いていくと、

いつの間にか里枝の部屋の前に立っていた。

外は相変わらず日差しがきつく、

そばの樹に止まっているアブラゼミがやかましく鳴きはじめた。

少しためらった後、

ピーンポーン。

思い切って呼び鈴を押してみるが、

しかし返事が返ってこない。

「居ないのかな?」

そう思いながら再度呼び鈴を押してみたが、

しかし、返事は返ってこなかった。

「やっぱり留守か」

そう考えたとき、

不意に隣の部屋のドアが開くと、

「あなた、この部屋の人の知り合い?」

と声が掛けられた。

「はぁ、そうですか…」

開いたドアに向かって俺は返事をすると、

いきなりドアが大きく開かれ、

中年の女性が飛び出してくるなり、

「だったら、

 注意して欲しいんだけどね」

と俺に向かってまくし立て始めた。



女性の話を簡潔に纏めると、

早い話が意味不明の声を上げることによる騒音と

し尿を思わせる悪臭についてだった。



文句を言うにも本人はいつで歩いていのか判らない上に、

肝心の大家は不在気味。

女性は持って行き場のない怒りを俺にぶつけるのが精一杯だった。

「はぁ、

 きつく注意いたします」

「お願いしますよ、

 改善しなければ、

 警察に来て貰うからね」

ひたすら低姿勢の俺の姿にバツが悪くなってきたのか、

女性はその言葉を残して自室へと戻って行くと、

「やれやれだな

 って何で俺が怒鳴られないとならないんだよ、

 この暑いのに」

と俺はいきなり降って降りた災難の矛先を、

里枝のドアにぶつけた。

すると、

カチャッ

てっきり鍵が掛かっていたと思っていたドアが開いた。

「え?

 鍵が開いていた?」

思いがけない展開に

俺は今の話を里枝が聞いていたのかと思いながら、

「おーぃ、

 里枝ぇ…

 そこに居るのか?」

と囁くようにしてドアに話しかけるが、

しかし、相変わらず返事は返ってこなかった。

「居ないのか?

 鍵が開いているぞ」

注意をするように俺はドアを開けると、

ムワッ

甘い香りとアンモニア臭が混ざったような

熱気を帯びた悪臭が俺を襲ってきた。

「くっ臭い!

 それになんだこの蒸し暑さは」

さっきの苦情のことを思い出した俺は、

鼻をつまみながら急いでドアを閉めると、

彼女の部屋の中へと踏み込むが

それと同時に、

体中の毛穴から一斉に汗が噴出した。

「ぶわっ、

 蒸し暑ぅぅ!

 なんだこれぇ!」

室内の気温は40℃はあるだろうか、

俺は体中から汗を流しながら

「里枝、

 居るのか?

 生きているなら、

 返事しろ!」

と里枝の名前を呼ぶ。

そして、汗をぬぐいながら

締められている窓を開けようとしたとき、

「窓を開けないで」

と里枝の声が響いた。

「え?」

その声に俺の手が止まると、

声がした方を見る。

すると、

「お願い…窓を開けないで…」

と夏蒲団に包まり弱弱しく訴える里枝の姿があった。

「生きていたのか…」

頭の中に浮かんでた

”一人暮らしの女子大生が孤独死”

と言う単語を消しながら、

俺は里枝に話しかけると、

どういうわけか里枝はガタガタと体を震わせながら、

「窓を開けないで…」

と繰り返した。

「お前、震えているじゃないか

 脱水症状か。

 早く病院に…」

そう言おうとした俺だったが、

彼女の周囲を取り囲む何十本もの水の入ったペットボトルや

数個のポリタンクが目に飛び込んでくると、

言葉に詰まった。

そして、閉められた窓の向こう側のベランダを見ると、

何も植わっていない土の乱れたプランターと

無造作に置かれた有機肥料がおかれているのが見えてくる。

「里枝…」

振り返りながら彼女を見ると、

里枝はこちらを虚ろな目で見あげながら、

「…智也

 …お見舞いに来てくれたのね。

 ありがとう」

と礼を言うと、

ニコリ

と笑ってみせる。

「なっ、なぁ、

 何があった。

 このペットボトルは何だよ、

 それにベランダの肥料はいったい」

暑さのことなど忘れて俺は里枝に問いかけると、

「うん…ごめんね。

 あのね、

 私、体がどんどんおかしくなっていってるの。

 どうしよう…

 実はさっきまでベランダの辺りでずっと日光浴してたの。

 肥料や土を脚に掛けて

 お日様にあたらないと息が詰まる思いがして仕方がないし、

 それに、体から水抜けていく感じが再発して、

 前より酷くなってるの。

 体の渇きも止まらなくて、

 水をガブガブ飲んじゃうし。

 それに…それにね、

 土に足を埋めたくなったり、

 体に虫を這わせたくなったり…

 こんな異常なこと言えるのって智也だけだよ。

 信頼してるし、

 それに智也には私の痴態、見られちゃってるし…」

と里枝は俺に言う。

そして、彼女のその言葉に俺はぎょっとした。

密かに覗き見していたことを里枝には気付かれていたのだ。

「…ご、ごめん!

 お、俺…」

里枝の前に俺は手を突いて謝ると、

「そう、

 やっぱり見ていたの智也だったんだね。

 あの日、

 誰かが谷間から離れて行く足音がして、

 智也っぽい後ろ姿が見えて。

 いいんだよ智也。

 その日は恥ずかしさと変な悔しさで一杯だったけど、

 でも、おかげで異常になっちゃった私の体のことを話せるし」

そう言って里枝は落ち込む俺の顔をそっと撫でてくれる。

しかし、彼女の手は恐ろしく冷たいものだった。

「お前…

 手が…」

そう言いながら俺は里枝の額に手を当てたが、

案の定、額にも人の温もりがない。

「ちょっと待ってろ、

 今すぐ湯を沸かして

 あったかい飲み物でも作ってやるから!」

立ち上がった俺は

焜炉にヤカンを乗せて最大火力で火をつける。

その途端、

「キャアアアア!

 やめて!

 火は、火はいやああああ!

 見たくない!

 消して!

 消して!」

里枝がパニックに陥ってのたうち回りだしたのだ。

「里枝っ」

それを見た俺は困惑しながらも、

急いで火を止めて里枝の元に駆け寄ると、

里枝はぐったりして肩で息をしていたが、

肌蹴た彼女の肩は若木を思わせる鮮やかな緑色が輝いていた。

「里枝、お前…

 その肌は…」

「見ての通りよ。

 私ね、

 体も頭もどんどん変になっていってる。

 私、どうなっちゃうんだろ…

 怖い…怖いよ。

 私怖い。

 自分が自分でなくなっていくのが怖い。

 ねえ、智也助けて!

 助けてよ!」

俺に抱きついて里枝は泣きじゃくり始めると、

俺は彼女の冷たい体を強く抱きしめていた。

そして、

「智也…

 最近変な夢を見るの。

 ほら、夏前に山にドライブへ行った時、

 樹の実を採ったあの人面樹みたいなのがね、

 時は近い、時は近いって私に囁く夢なんだけど…」

と訴える。

「人面樹…

 やはりそうか!」

里枝の訴えにを聞いて俺は確信した。

全ての怪事の元凶があの人面樹であることに、

それを確信した俺は里枝を部屋から引っ張り出すと、

あの人面樹がある樹林へと向かっていったのであった。



日が西に傾いたその日の夕方、

助手席に里枝を座らせた俺は、

県境の森を二つに別ける国道バイパスを走っていた。

「気分はどうだ?」

エアコンを切った車内で

俺は肌が緑色に染まっている里枝に向かって話しかけると、

「うん、

 日にあたりながら、

 森の臭いを嗅いだせいかな、

 だいぶ良くなったよ」

と里枝は返事をする。

「そうか、

 それは良かったな」

少し安堵しながら俺は返事をするが、

しかし、事態が改善したわけではない。

間違いなく里枝は人間ではない別のモノに

変身しようとしているのは明らかだった。

そして、何になろうとしていることも、

俺は判っていた。

何故なら俺は事の顛末を知っているからだ。



バイパス脇に姿を見せた駐車場に

乗ってきたクルマを止めると、

「歩けるか?」

「うっうん、

 大丈夫」

まだフラフラする里枝を下ろすと、

彼女の手を引いて駐車場から森の奥へと伸びる道に踏み込んでいく。

…むかし、むかし。

…この森はとある社の神域であった。

…その社は周囲の村から選ばれた生娘が巫女なり、

…1年間お努めをすることが習わしとなっていた。

…そんな、ある年のことだった。

…1人の村娘が巫女となり、1年の務めに付いたのだが、

…彼女を慕う村の男が彼女を追って社に忍び込んできたのだ。

…無論、二人は相思相愛。

…巫女となった娘は自分を訪ねてきた男を喜んで迎え入れたのだが、

…生憎、社の食料は巫女が暮らす分しかない。

…考え悩んだ彼女はご神木に成っていた木の実を男に差し出したが、

…しかし、男は木の実には手をつけず、

…巫女に食べるように差し戻した。

…木の実を食べた巫女と男は互いの気持ちを確かめ合い肌を重ねた。

…その時、巫女の体に異変が起きた。

…男に抱かれた巫女の体が見る見る硬くなっていくと、

…足から根が生え、

…腕は枝となって伸びていくではないか、

…やがて男の前で巫女は一本の樹となってしまうと、

…男への愛を伝えながら動かなくなってしまった。

…掟を破った罰が当たったのだ。

…巫女が樹となった社は森の中へと消え、

…愛する者を失った男も何処とも無く消えていった。

「まさか、

 本当にそんなことが…

 ありえない」

昔話と里枝の身に起きていることの類似性を

俺は否定しながらあの樹を探し歩き続ける。

けど、手から伝わってくる彼女の冷たい手の感触は

いくら頭で否定をしても否定できるものではなく、

それどころか里枝の奇行の理由全てを証明するには

昔話は十分すぎるものであった。

里枝があの巫女と同じ”樹”になってしまう。

俺はその考えが浮かんでくるのを必死で抑えながら歩いていた。



それくらい歩いたのだろうか、

肝心の樹はなかなか見つかってくれず、

無駄に時間が過ぎていく。

日はとうに落ち、

夕暮れのセミの物悲しい鳴き声もかすれ、

山は闇に包まれだしていた。

すると、

フワ…

辺りをモヤが漂い始めた。

「まずいな…」

”遭難”と言う別の言葉が俺の頭をよぎるが、

しかし、ここで引き返すわけには行かない。

そのとき、

「声がする…」

手を引かれ続けていた里枝がそう呟くと、

俺を手を離しモヤの中へと歩きはじめた。

「おっおいっ

 勝手に行くな」

モヤの中に消えていった里枝を追って俺もモヤの中に入っていく。

「里枝っ、

 どこだぁ」

一寸先は乳白色のモヤの中をもがく様に俺は進んでいくと、

ぼうっと青白く光るモノが行く手に姿を見せた。

「あれは…」

その光に向かって俺は歩いていくと、

フッ

立ち込めていたモヤがいきなり晴れると、

目の前に一本の樹が姿を見せたのだ。

すべすべとした白い木肌。

幹は人の身長ぐらいから左右に分かれており、

実が枝ではなく幹から直接にいくつも生えている。

「この樹だ!」

樹を見つめながら俺は叫び声を挙げると、

俺のスグそばで里枝も立っていた。

「里枝!」

彼女の姿を見た俺は急いで抱きしめ、

樹の二股になる部分に浮き出た女の顔のような隆起を見つめる。

眼孔のような二つの窪み、

その間の鼻のような盛り上がり、

口に見える小さな洞。

どうみても人の顔にしか見えない。

「昔話の巫女なのか、

 本当に…」

樹を見つめながら俺は昔話の事を思い出していると、

『ココマデ時間ハカカッタケレド、

 ヤット育ッテクレタミタイダネエ…』

どこからともなく女の声が響いた。

「里枝、お前今しゃべったか?」

それを聞いた俺は里枝に尋ねると、

「私、しゃ、しゃべってないよ。

 で、でも、

 わ、私にも、

 こ、声みたいなのが聞こえたわ…」

と彼女も真顔で答え

俺達は互いに手を強く握り合う。

そして、

「だ、誰だ!

 悪戯なんかしてるのは!」

と声を張り上げると、

『フフフ。

 ソウ怖ガリナサンナヨ。

 アタシサ。

 アンタラノ前ノ樹ナノダカラ』

と声がふたたび響く。

「ひっ」

震えながら樹を見ると樹の顔がこちらを見てにんまりと笑っている。

「まじかよ…」

笑う樹を見ながら俺と里枝は呆然自失、

全身の力が抜けてヘナヘナとその場にへたり込んでしまうと、

樹は話し続ける。

『アタシハネ、

 ココニアッタ社ノ巫女ダッタケド

 ゴ神木ノ木ノ実ヲ食ベタバッカリニ

 コノ姿ニサレタノヨ。

 デモ、ヤット開放サレル。

 樹ノ役目ヲ後ノ者ニ譲レバ

 アノ人ハ待ツ所ニ行ケルンダヨ』

樹から語られたその言葉に俺の背筋に悪寒が走った。

「お前…

 ひょっとして、

 木の実を食べて樹になった巫女なのか?」

樹に向かって俺は問いただすと、

『オ前

 私ノコト、

 知ッテイルノカイ?

 ソウダヨ。

 私ハコノ社ノ巫女ダッタ』

「やはり」

その返事を聞いた俺は樹の周囲を見渡した。

確かに樹の周囲には

かつて建物が存在して居たことを示す苔むした礎石があり、

割れた瓦もその周囲に散乱している。

樹の言葉と昔話の符合。

間違いない。

確かにこの場所に社があり、

巫女と男が肌を重ね合わせたのも事実。

そして、巫女の身に起きたことを考えれば、

次に何が起きるのかは明白だ。

けど、一縷の望みを掛けて

俺は再び問いかけた。

「後の者ってなんだよ、

 お前の後継ぐものが居るのか?

 それがお前の望みなのか?

 訳の分からないことを言うな!」

震える声で俺は怒鳴ってみせるが、

俺の横に立つ里枝は

それ以上に顔をこわばらせてぶるぶると震えている。

『フフフ。

 強ガリハヤメナ。

 アンタ、
 
 ココデ何ガアッタノカ、

 知ッテイルノダロウ。

 ナラ、答エハ決マッテイル。

 ゴ神木の木ノ実ヲ食ベタ者ハゴ神木ニナルノサ。

 カツテノ私ノヨウニネ』

「いっ!

 いっ!!

 いやああああああああ!!!!

 ああああああああああ!!!!」

樹の返事と同時に里枝の悲痛に満ちた絶叫が木霊する。

「た、助けて!

 お願い助けて!

 なんでもするから!

 私、樹になんてなりたくないよぉぉぉ!」

樹にすがりながら里枝は泣き崩れるが、

『ソレハ無理…

 オ前ハ私ノ木ノ実ヲ食ベタ。

 木ノ実ヲ食ベタオ前ハ私ト同ジ樹ニナル運命ヲ受ケ入レタ。

 オ日様ノ光、

 気持チイイト感ジタンダロウ?

 オ前ハ立派ナ樹ダ。

 ゴ神木ダ。

 後ハコノ地デ根ヲ生ヤシ、

 枝ヲ伸バシ、

 葉ヲ茂ラセ、

 オ日様ノ光ヲイッパイ浴ビレバイイ、

 ココハイイ所ダ』

「いやああ…言わないで。

 お日様なんて嫌い!

 樹になんてなりたくない!」

樹の根元で里枝は耳を塞ぎながら泣きじゃくっている。

『サア…

 オ嬢チャンノタメニ、

 最後ノ花粉ヲ飛バシテアゲヨウ。

 コレハ私カラノミヤゲ、

 花粉ヲ受ケ取レバ、

 オ前ハ樹ニナル』

泣き崩れたままの里枝に向かって樹は話しかけると、

ミシッ

ミシミシミシ…

葉が殆どない樹の枝一面に蕾が膨らみ始めた。 

「り、里枝、

 今すぐ逃げるんだ!

 早くしろ!」

それを見た俺は里枝の手を引くと、

急いでその場を離れたのであった。



つづく



この作品は徒然地蔵さんより寄せられた変身譚を元に
私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。