風祭文庫・異形変身の館






「ランニング」



原作・カギヤッコ(加筆編集・風祭玲)

Vol.T-110





ジリジリジリ…

ハァ、ハァ、ハァ…

早すぎる位の夏の日差しの中、ワタシは走っている。

Tシャツにトレパン、ジョギングシューズと言う定番のジョギングスタイル。

今日はその前にジムで一通りのトレーニングをこなしてきた所だ。

それで今は自分のマンションまでこうして走っている。

ワタシの全身からは汗が吹き出し流れ落ちている。

鼻をつく匂いが全身からたぎる。

「ハァ、ハァ、ヒィ…

 一休みするか…」

ふと目を止めたスポーツショップのガラス越しに手を当て大きく息をつく。

そのウィンドウ越しには今年はやりの水着が並んでいた。

マネキンとは言えその水着をまとった姿はワタシの目を釘付けにする。

ふと、腰のポーチに入れていた写真を取り出す。

写っているのは水着姿の女性。

フェロモン全開のセクシー美女と言う訳ではないが、

簡素な中にも味のある水着をまとい微笑む彼女の穏やかな風貌はワタシの心に力を与える。

「もうすぐだ…

 もう少しであの水着が…」

ガラス越しに見える数々の水着を身に付け

海辺やプールサイドを駆ける彼女の姿を思うと、

ゲヒた笑みを浮かべてしまう。

実際この一週間、ワタシは夜な夜なその妄想に囚われている。

そんなワタシを現実に戻したのはガラスに映った自分の姿だった。

脂肪の襦袢をまといぶくぶくに太った体。

同じ様に脂肪で膨れ、いかにもと言わんばかりのおじさん顔。

こんなオヤジ姿では彼女と釣りあう事などできはしない。

「なんだよ、あのオヤジ、

 いやらしそうに水着なんて見てるぜ」

「オヤジの欲求不満か?」

「おれ達もああなりたかねえよな…」

通りすがりだろう。

若い男の人達がバカにしたような笑い声を上げて歩き去る。

かまうものか。

絶対見返してやる。

そう心に誓うとワタシは再び走り出した。



ジリジリジリ…。

ハァ…ハァ…ハァ…。

やはり暑い。

この暑さの中走るのはこの体には大きくこたえる。

でも走らないといけない。

走り続けて少しでもやせなければ…。

そうこうしているうちにこのコースの難所でもある急な階段に差し掛かる。

ここを登るのは普段でも厳しいが今の状況ではなおきつい。

だからこそワタシの試練にはふさわしい道でもあるのだ。

「ヒイ、ハァ…

 やっぱり…
 
 厳しいな…」

案の定、脂肪まみれのワタシの体にこの坂はきつい。

ましてこの暑さ。

まともに応える。

しかも全身からみなぎる汗の臭いがワタシの鼻をまともに捕らえる。

さすがにワタシもガマンの限界に近付いていた。

「ハァ、ヒィ、フゥ…

 もう…
 
 限界…」

坂を登り終えたワタシは近くの公園まで来ると

木陰までふらふらと歩みより、そのまま座り込んんでしまった。

…そもそもこの一週間、

 必死でこんなオヤジ体形を揺り動かして暑い中走って何になるんだ?
 
 たかが一夏の水着なんかの為にこんなに暑い思いをしないといけないなんて…。

もういい。

トレーニングはやめだ。

さっさと帰ってドカ食いでもなんでもやってやる。

そう思ったワタシは脳裏に浮かぶあの女性の姿さえ地獄の使者に思いながら倒れ込んだ…

「…ちゃん、

 おじちゃん、しっかりして…」

誰かがワタシを呼び起こす。

その声とヒンヤリした感触に目を覚ますと

そこには白いワンピースを着た一人の女の子の姿があった。

ヒンヤリした感触を辿るとそこにはおそらく彼女がやったのだろう、

額に冷たい水で浸したハンカチが乗っていた。

「これ…きみが…?」

問いかけに対して彼女はウンとうなずいた。

「おじちゃん暑そうにしていたから…

 これお水、飲んで」

ふと彼女が手渡したのはスポーツドリンクだ。

この年頃のお小遣いではちょっとした買い物かも知れない。

見ず知らずの自分にここまでしてくれた少女に

不思議なものを感じてワタシはスポーツドリンクを空けた。

ゴクン、ゴクン…

プファーッ…。

適度にぬるまったのど越しがわたしの中を流れる。

その流れは自然とわたしの中の何かを呼びさましていく。

ワタシはフゥと大きく息を吐く。

「おじちゃん、おじちゃんどうしてこんな暑い中走っていたの?

 お母さんが言ってたよ。
 
 この暑い中外にいると暑くて倒れちゃうんだって」

女の子の問いにワタシは密かに苦笑いする。

ワタシがそうならこの子はなおの事危ないじゃないか。

でも、そんな考えを飲み込んでワタシは答えた。

「おじちゃん―

 まぁ、おじちゃんでいいか…
 
 おじちゃんはね、ある約束をしたんだ」

「約束って?」

「約束って言っても…

 それはともかく、
 
 おじちゃんはそれを守る為に頑張って暑い中でも頑張って走っていたんだ。

「ふーん」

「でも、やっぱり色々あってくじけそうになってたんだよ。

 情ないな。
 
 そこをきみに助けてもらったんだよ。
 
 本当にありがとう」

そう言いながらワタシは笑った。

女の子もうれしそうに笑う。

「じゃ、おじちゃんがもっと元気になれるように

 おまじないをかけてあげる。エイッ!」

彼女がそう言って呪文をかける仕草をすると偶然だろう。

心地よい風が体を吹き抜ける。

不思議と体の中に気力が湧いてくる感じがする。

「元気出た?」

女の子は笑顔を向ける。

「うん。

 おじちゃん元気になった」

ワタシはそう言うとすっくと立ち上がる。

そこに、

「…華奈ちゃーん、どこ行ったのーっ…」

この子の母親だろう。

必死で呼ぶ声がする。

「あっ、お母さんが呼んでる。

 じゃあね、おじちゃんバイバイ」

そう言い残して女の子はどこかへと走り去って行った。

そして、それを見送るとワタシもまた再び走り出す。

ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…。

とは言えやはり暑い。

汗臭い。

そして体は重い。

でも負けられない。

あの水着を、彼女の水着を…目にしなければ…

その思いに支えられワタシは遂にマンションまで走り抜いた。

自分の部屋の鍵を開け、全身で転がり込む。

「おめでとう!

 一週間よく頑張ったわね!」

ふらふらなワタシの耳に甲高い声が響く。

見上げるとそこには一人の女性がいた。

それこそ例の彼女…ではないが、ワタシに協力してくれた人物である。

「しっかし、アンタもよく頑張ったわね。

 一週間見事にやり抜いたんだもの、きっといい結果出てるわよ」

「ハァ、ハァ、あり…がと…」

彼女の言葉にワタシは息も絶え絶えに答える。

「さっ、早く全部脱いでシャワーでも浴びなさいな。

 話はそれからそれから」

彼女がそう言うが早いか、

ワタシはドッとその巨体を更衣場に飛び込ませる。

勢い任せでTシャツを引き抜き、

トランクスごとトレパンを脱ぎ捨てると、

ワタシはその勢いで首筋から背中に両手の指を立て、

一気に引っ張る。

ビリビリビリ…。

ムワァッ…。

ワタシの背中が音を立てて引き裂かれ、中から余計に汗をまとった湯気が立つ。

「…ふぅっ、ふうっ…!」

入りこんで来た外気に思わずむせ返る。

チュポンッ…。

「あっ、あんっ…」

体中に張り付いた吸盤が外れるような音と感覚のあと、

全身をヒンヤリした感覚が駆け抜ける。

ワタシは思わず声を上げる。

ズルッ…ズルリ、ズルズル…。

ワタシは外に出ようともがくが、

汗と体臭の中でもどかしく体を動かす感触が余計気持ち良く伝わってしまう。

ズポンッ!

「ふわっ!」

瞬間、ワタシの顔が、そしてその勢いで上半身が外に出る。

冷房の効いたヒンヤリとした空気が逆に寒気さえ感じてしまう。

ハァッ、ハァッ…。

ズルッ、バタン…。

大きく息を吐きながら

ワタシはそのまま汗まみれの体を崩れ落ちるように抜き落とすと、

そのままバスルームに入って行った。

ゴシゴシ、ブクブク…。

ワタシはこの一週間分の垢を落とすかのようにタオルを手に全身を泡立てる。

既に全身がボディソープの泡で覆われている。

もちろん目を閉じているが、それにも構わず全身を泡立てる。

「えっと、コックは…」

泡まみれで目を閉じた視界の中手探りでシャワーの取っ手をつかみ一気に開く。

ジャワァ…。

「はぁ…」

暖かいシャワーのお湯がワタシの全身の泡を洗い流す。

一週間ぶりに素肌に受けるお湯の感触に思わず声が出る。

一通り泡を洗い流したあと、タオルでふき取った顔を鏡に向ける。

セクシーとは程遠いが穏やかな風貌。

すらりとした手足。

細身ながらそこそこの体形のプロポーション。

鏡の中でそっと微笑む姿はまさにあの写真の彼女の姿そのものだった。

一週間振りの元の自分。

一週間振りの女性の姿。

一週間振りの"わたし"…。

それに興奮したのか思わずわたしは自分の全身をヒシッと抱きしめる。

心地よい素肌の感覚がわたしを包み込む…。

「もしもーし、何自分に欲情してんのかな〜?

 もしかして中身もオヤジ化したとか?」

ビクッ!

突然の友人の声にわたしは思わず我に返る。

「そ、そんなんじゃないよ…」

わたしはそう言うと照れ隠しに思わずシャワーの取っ手を開き、

激しい勢いで冷水を頭からかぶる羽目になった…。

「でも、なかなかいいデータが取れたわね。

一週間でここまでのダイエット&エクササイズ効果が出るなんて」

「…でも、あの姿はないんじゃない?

 いくらシェイプアップの為とは言えあんな…
 
 あんな姿にならないといけないなんて…」

シャワーを浴びたあと、

わたしの体形や体重、体脂肪のデータを取り

パソコンに入力する友人ののんきな声にわたしは思わず反論する。

「カマトトぶらなくてもいいって」

「ぶってません!」

「そもそもそれも効果の一つじゃない。

 本当の美しさを得る為にあえて醜い姿になり試練に挑む。
 
 そしてそれを成した時、醜い衣を脱ぎ捨て美しく生まれ変わった姿を見せる…
 
 なかなかはまるシチェーションじゃない?」

「そうかなぁ…」

陽気に微笑む友人にため息をつく。

「でも、いいじゃない。

 わたしとしては新発明のオヤジ型バイオエクササイズスーツの
 
 テストデータが取れて、なおかつ悩める親友の手助けが出来たんだから。
 
 あんたも最近プロポーションで悩んでたんでしょ?
 
 ”今年の水着が着られるか心配だ”って言ってたじゃない。
 
 一石二鳥どころか三鳥よっ」

「う、うん…」

彼女に心の中で礼を言う。

こんな性格だけどわたしの大の親友なのだ…

と言っているそばから彼女は…。

「そう言えば連続着脱のテストをしてなかったっけ…」

と言っていきなり服を脱ぐとまだ手入れもしていないスーツに体を突っ込ませる。

「わ、汗の匂いと女の子の体臭がきつい!

 でもなかなかいい感じじゃない」

とマスク越しに顔を擦り付けている。

ズブズブズブ…。

そう言ってスーツに全身を入れると同時に背中の合わせ目が閉じて行く。

「ああっ、美女の柔肌が醜い衣と融合してゆくわっ!

 でもこれも真の美しさを得る為の試練なのよ!
 
 ああっ、ああっ、たまらないわ!」

スーツと中身の癒着が完了したのだろう。

全身をさすりながら嬌声を上げる友人にわたしはただ呆れるばかりだった。



ジリジリジリ…。

ハッ、ハッ、ハッ…。

今日も照りつける日差しの中、わたしは走っている。

Tシャツとトレパン、ジョギングシューズ。

もちろんTシャツの下にはスポーツブラをつけている。

今わたしが走っているのはあの水着を買う為だ。

あの店に並んでいた水着。

あれを身に付ける為、わたしは一週間、

あの姿になってシェイプアップに励んでいたのだ。

とは言えやっぱり暑い。

あの時とは比べものにならない限り体が軽い。

その勢いで一気に駆け抜けられそうな気持ちがする。

「ヒユーヒュー!」

「そこ走ってるキミ、おれ達と泳ぎに行かない?」

「暑い夏の一時でも過ごそうじゃないか」

以前"ワタシ"をバカにした面々が今度はモーションをかけている。

"わたし"は思い切りアッカンベーをするとそのまま走り去っていった。

「あっ、まだあった…」

あの時、一番わたしの目を虜にしていたあの水着がまだウィンドウに飾られていた。

それを身につけて泳ぐ自分の姿を想像してわたしはつい笑みを浮かべてしまう。

悪くない笑顔だ。

ふとそこへいつかの女の子が母親と連れ添って歩いているのが見えた。

わたしはあの時のお礼を込めて「ありがとう」とこっそり頭を下げるが、

女の子には「ただ通りすがりのお姉さんがあいさつしている」と言う感じしかなかったらしく、

ただあいさつを返すだけだった。

そんな二人を見送ると、わたしは気持ちを新たにしてスポーツショップに入る。

より魅力的な"わたし"に"変身"する為のアイテムを手に入れる為に…。



おわり



この作品はカギヤッコさんより寄せられた変身譚を元に
私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。