風祭文庫・モラン変身の館






「第一歩」


作・風祭玲


Vol.693






「サバンナ…かぁ」

その時、あたしは初めて立つサバンナの景色をジッと眺めていた。

夢にまで見たサバンナ…

いつかは行ってみたいと思っていたサバンナ…

野生動物たちが闊歩するサバンナ…

サバンナはあたしにとって憧れの場所であった。

真上から容赦なく照りつける日差し、

草原を走り抜ける風、

赤土の匂い、

どれもが新鮮であり、

そして、魅力的だった。

でも…

いまこの憧れの地に立つあたしは

すでに以前のあたし・和代では無くなってしまっていた。

「マサイになって初めてのサバンナかぁ…」

やや自嘲気味に聞こえる台詞があたしの口から漏れる。

マサイ…

このサバンナを生活の場とする野生の部族。

手にした一本の槍でこの過酷なサバンナを生き抜く男達…

その男達の1人にあたしは変身させられてしまった。

身体を覆う漆黒の肌、

首から下がるアクセサリ、

朱色に染まる髪、

そして、お股で揺れるオチンチンがマサイであることあたしに強制する。

女の子がマサイになる。

そんな馬鹿げたこと、誰に話しても信じて貰えないだろう。

無論、マサイ達に離してもそうだと思う。

現にあたしが暮らしてきたマサイの村でも、

あたしはよそから来た者であることは知られていても、

でも、元はマサイとは全く無関係の女の子であることまでは知られていない。

そう、あたしは他の部族から来た男の子で、

その村のマサイの養子になった子…

皆はそう信じている。

「はぁ…」

あたしの口からため息が漏れ、

ふと、手にしている槍の刃をみた。

キラリ…

研ぎ澄まされた刃先にサバンナの景色と共に、

結い上げられた朱染めの髪がそこに映る。

あたしの髪…

もぅ、昔のような長くストレートな黒髪ではない。

日の光を受け朱色が映える髪をあたしがジッと見つめていると、

「どうした…

 臆したか…」

と直ぐ横から声が掛けられた。

「え?」

その声にあたしが驚くと、

ヌッ

あたしの直ぐ横に人影が立った。

「キアニ…」

あたしはその人影の名前を呼ぶ。

キアニ…

あたしがマサイとなった時から面倒を見てくれる戦士・モラン…

歳はあたしより一つ上ながらも、

いろんなコトを知っていて、いつも頼りにしている。

それもそのはず…

だって、キアニは生まれたときからのマサイだし、

あたしは、マサイになってまだ1年も経たない初心者。

そもそもの年期が違うのだ。

「いいか、

 おまえは割礼を受けたモランだ。

 どんなときでも臆してはならない。
 
 常に勇敢でなくてはならない。
 
 それがモランというものだ、

 そのこと…忘れるな」

ソンなことを考えていたあたしに向かって

キアニはモランとしての心構えを言う。

もぅ、何回…いや、何十回と聞かされたその心構えにあたしはヘキヘキしながらも、

「判ってます。

 キアニ」

と返事をした。

「うむっ」

あたしの返事にキアニは大きく頷くと、

「お前は我々の所に来てまだ日が浅い。

 故に、我々の掟も知らないことが多いだろうが、

 しかし、このサバンナに出たからには

 もはや知らなかっただけではすまされない。

 掟を破ること…
 
 それは死を意味する。
 
 いいか、お前に死を下すのは我々だけではないぞ、
 
 ここに暮らす全てのものから下されることを忘れるな」

とキアニはあたしに警告をした。

「はい」

その言葉に槍を握るあたしの手に力が入る。

あたしを守ってくれるものは何もない。

身体に巻いた薄布・シュカ1枚に守られた自分を守るもの…

それはこの槍と…

キアニ達から教えられた掟…

そして、何にも挫けない勇気…

「はぁ…」

またため息が漏れる。

”おっと”

次の瞬間、あたしはキアニに気づかれないように慌てて口を閉じると、

「ふふっ」

キアニの口から小さな笑い声が漏れた。

”え?”

その声にあたしは驚くと、

「憂鬱か?」

とキアニは聞いてきた。

「いっいえっ」

その言葉にあたしは首を横に振ると、

「誰もが通る道だ。

 わたしだって、
 
 モランとして初めてサバンナに出るときは憂鬱だった。
 
 もぅ、子供ではない。
 
 子供の時みたいに、誰かに守られている訳ではないし、
 
 またスグに助けに来てはくれない。
 
 うっかりシンバに出会ってしまったりしたら、
 
 それは自分で倒さなければならない。

 そう考えると、一歩を踏み出す勇気も無くなってしまったものだ」

”へぇぇ…キアニでもそうだったんだ”

彼の口から聞かされた言葉にあたしは驚いていると、

「大丈夫だ、

 自信を持て、
 
 お前は立派なモランだ」

白い歯を浮かばせながらキアニはあたしの肩を叩く。

「はいっ」

彼の励ましにあたしは威勢良く返事をするが、

でも、心の中からその返事は出ていなかった。

そんなこと言ったって…だって…あたし…

女の子だっただもん…

訴えるようなその声があたしの心に響き渡る。



「気を楽にしていけ」

「はい」

「シンバなんかには滅多に出会わない」

「はい」



…はぁ…

あたしにマサイとして

いろいろなことを教えてくれたキアニは

そんなことを言うけど…

でも、

いざサバンナに出るってなるとやっぱり緊張しちゃうよ

ねぇキアニ…

もしも…

もしもだよ、

あたしがシンバに出会ったときは助けに来て…

イザと言うときは絶対に来てよね。

お願いよ!

隣に立つキアニに向かってあたしは心の中で叫ぶと、

サクッ

一歩を踏み出した。

モランとしての第一歩を…



おわり