風祭文庫・海女の館






「流れ着いた先は」



作・カギヤッコ


Vol.T-138





ザザーン…

ザザーン…。

人気のない浜辺を波が打ち寄せる。

横井忠志にとってその光景は今の自分の心そのものであった。

かねてから熱を上げていた女性にまんまとふられてしまい、

傷心旅行気取りで単身この浜辺に足を運んでいる。

「あーあ、

 本当はあの人と二人で浜辺のバカップル!!
 
 と行くはずだったのによ…
 
 本っ当〜に情無い…」

海水浴客目当ての観光ではなく

漁業で生計を立てるその村の浜辺には

カップルどころか人っ子一人としていない。

あたかも彼の心を表すかのような風景である。

トボトボと歩いていた足は

いつの間にか岩場へと向いていた。

ゴツゴツと歩きにくい岩肌をよたよたと歩きながら、

忠志は岩場の淵に立つ。

「…もう、こいつもいらないな…」

ズボンのポケットから小さな箱を取り出した。

名残惜しそうに開けると、

そこには小さな指輪が入っていた。

結婚指輪には早すぎるが、

彼女に送るはずだった指輪。

しかし、それも今となっては空しい。

忠志はしばし指輪を見つめていたが、

ふっと指輪を拳の中に握り締めると、

おもむろに放り投げた。

「ブワァッカヤローッ!」

指輪が海に沈むのを見届ける事なく、

忠志は喉の底から叫んだ。

「ちくしょぉ…」

見るからに悔しげに歯を食いしばると、

忠志はそのままくるりと背を向けその場を去ろうとする。

ザバッ!

その時、彼の背後で大きな水音がした。

「何だ?」

思わず振り向いた忠志の目に映ったもの。

それは、海面に浮かんだ白い塊だった。

塊は忠志が目を見開いたまま立ちすくむのにも構わず岩場に迫る。

そして、その両脇から一対の白いものが生えると、

塊は一気に浮き上がり、岩場にのしかかる。

ザバンッ!

「ふうっ…」

白い塊の正体、それは一人の海女だった。

海女は忠志を気にする事なく大きく息を吐くと、

静かに立ち上がり頭巾とゴーグルを外す。

短めにしている髪を振り払いしずくを落とすその素顔を見た忠志の顔が

これまで以上に大きく見開かれる。

「…蛍子!」

ふられたはずの彼女の面影を見た忠志は

なりふり構わずその海女に抱きつく。

「きゃっ、

 何するんですか、
 
 やめてください!」

突然の事に海女は驚き激しく抵抗する。

「蛍子、おれが悪かった!

 お前と一からやり直したい!
 
 いや、やり直させてくれ!」

忠志は海女にしがみついたまま離れようとはしない。

ボコン。

海女が手にした桶で忠志の頭を叩きつけた時、

忠志は力なくその場に倒れた。

「くっ…蛍子…」

うずくまりながら忠志はその腕から解放されると、

そのまま海に飛び込む海女の姿をただ見つめる事しかできなかった。



静寂の中、二人は静かに見つめ合う。

互いに白い塊となった二人の間に言葉はいらない。

「忠志…」

「蛍子…」

二人は静かに歩みより、そして…。

「さぁーっ、はっけよい!

 残った残った…」

夏の暑いさなか、

白いぜい肉着ぐるみを着た二人は「夏のガマン比べ相撲大会」で激しくぶつかり合う。

満天とは行かないが星の輝く夜。

二人は静かに夜空を見上げる。

「忠志、あれが北極星よ。

 あの光を辿ればどんなに迷っても正しい道を見失わないんだって」

そう言ってよりそう蛍子。

そんな蛍子の肩を抱きながら、

「ならおれはあの星になるよ。

あの大きな星座の脇にある小さな星に…」

と言う忠志。

彼が間違えて指していたのは北斗七星の傍らにある小さな星、

一部の人からは「死兆星」と呼ばれる星であった。



二人きりの旅行。

その際に指輪を渡そうとしていた駅の待合室。

呆然とたたずむ忠志の耳に救急車のサイレンが響く…。

「け、蛍子…」

その視線の先には物言わぬ屍と化した…

と言っても仕方のないような目で彼を見つめる蛍子の視線があった。

「…そう言う事だったの…

 もういいわ。

 さよなら忠志」

「ま、待ってくれ蛍子、

 誤解、
 
 誤解だーっ!」

過去を振り切るように走り去る蛍子。

彼女を追おうとした忠志はおもむろに倒れる。

その足には彼を痴漢と勘違いした駅員、

そして彼を痴漢と通報した見るからにゴツイニューハーフがしがみついていた…。

「はっ!」

そこで忠志は目を覚ます。

見知らぬ天井。

そう、彼が泊まっている釣り客用民宿の一室である。

「そっか…

 あれから宿に戻ってすぐ寝ちまったんだな…」

静かに身を起こしてため息をつく忠志。

その目の前にはいつの間にか並べられたであろう料理が並んでいる。

「うまそうだけど、今は食う気にはなれねえな…」

グウ〜。

そう言いながらも反射的になり出した腹の虫を押さえ、

忠志はささやかな海鮮料理にかぶりついた。



ザザーン…

ザザーン…。

その夜、妙に寝付けなかった忠志は夜の海岸に足を運んでいた。

何か特別な理由があった訳ではない。

ただ何となく足が向いただけ。

いつの間にか忠志は先ほど海女と出会った岩場に来ていた。

波の音以外何も聞こえず、

月明かり以外は灯りのない空間。

わびしい漁師町の夜の風景だが、

忠志の心にはむしろその方が心を休ませるものであった。

ふとその場にしゃがみ込み、

ただ波の音を耳にする。

ザザーン…

ザザーン…。

ザザーン…

ザザーン…。



ザバンッ!

突然波の音に異音が混じる。

驚いて目を向けた先には、

静かに海面から上がり、

月光を浴びながらすっと立つ海女の姿があった。

「あ、あんたは…」

あの海女だった。

蛍子と間違えて抱きついてしまったあの海女…。

忠志の顔にやり場のない不安が混じる。

しかし、海女はそんな忠志を少しの間見つめるとそっと微笑みを浮かべ、

「よかった…あなたに会えて…」

と腕を差し出す。

「これは…」

忠志の顔がさらに驚きに満ちる。

海女の手の中にあったもの。

それは昼間、海に投げた指輪だった。

「あれから海の中を探し回ってやっと見つけたんですよ。

 今度は失くさないで下さいね」

優しげな笑みを浮かべる海女。

その笑顔は今の忠志にはまぶしく、つらいものであった。

「…悪いけど、こいつは受け取れない。

 いや、君から渡されたくないんだ」

うずくまったまま顔を背ける。

「でも、この指輪はあなたの…」

そう言う海女に対し、

忠志は指輪の事、螢子の事を話し始める。



別に話してどうなるものでもない。

まして蛍子と生き写しとも取れる海女に話す話ではない。

ただ、話さずにもいられなかった。

もしかすると蛍子に生き写しの彼女に蛍子の代わりに

うっぷんをぶつけたかっただけかも知れない。

色々な思いを込めながら、忠志は蛍子の思い出話を語った。

海女は静かにその話に耳を傾けていたが、

話を終えガクリと肩を下ろす忠志を背中からそっと抱きしめる。

「な…?」

忠志の顔に驚きが走る。

「…わたしじゃ

 …ダメですか?
 
 その蛍子さんの代わりになれませんか?」

「そ、そんな事言われても…」

海水に湿っているとは言え

海女の衣装と柔らかい腕の感触に困惑する忠志をさらに海女は抱きしめる。

「わたしも…本当はここの人間じゃないんです。

 好きだった人にふられちゃって、
 
 ふとここに足を運んで…
 
 そこで海女さん達と知りあって仲良くなる内に
 
 わたしも海女になろうと思ったんです…
 
 おかしいですよね?
 
 ふられた勢いでこっちの海女さんになるなんて…」

いつの間にか少し自嘲の混じった海女の声を聞き、

忠志の手は無意識に海女の手に伸びる。

「そんな事ないよ。

 君は悪くない。
 
 むしろおれの方が…
 
 入れ上げていた相手にあっさりふられちまうおれの方がふがいないんだ」

ふぅと同じ位に自虐的なため息をつく忠志。

そんな彼の耳元で海女はそっと囁く。

「昼間はちょっと驚いちゃいましたけど、

 始めて見てからずっとあなたの事がステキだなって思うんですけど…」

ドキン。

忠志の胸が高鳴る。思わず手が震える。

「お、おれなんかで…いいのかい?」

同じ位声も震えている。

「…はい」

海女がそううなずいた時、

忠志は振り向き様海女を押し倒した。



ザザーン…

ザザーン…

ザザーン…

ザザーン…。

波が岩場を打つ音が響く中、

忠志は蛍子とも潜った事のない深い海溝へと、

母の懐の様に暖かい海の底へと潜って行った…。



ザザーン…

ザザーン…

ザザーン…

ザザーン…。

永遠とも思えた潜行から戻った余韻に浸りながら

忠志と海女は寄り添いながら岩場に腰を下ろしていた。

海女はほてったままの素肌に磯着を羽織っただけの姿、

忠志もズボンだけをはいた姿である。

「…いつまでも…こうしていたいな…」

海女はそっとつぶやく。

「ああ…」

忠志もそう言って改めて海女の肩を抱く。

「…約束…してくれますか?

 また、来てくれるって。
 
 わたしと会ってくれるって」

ためらいと恥じらい混じりの海女の言葉を否定する理由など

今の忠志にはなかった。

「約束なんかしなくても、

 おれはまたここに、
 
 君に会いに来る。
 
 いや、学校なんか辞めてここで暮らしたっていい」

「忠志さん…」

海女の瞳に涙が輝く。

そして、二人はそっと目を閉じ、そのまま顔を寄せようとした。

「ウッ!」

突然海女が苦しそうにうずくまる。

「どうしたんだ!」

手を差し伸べようとする忠志。

その途端、海女はものすごい勢いで忠志を突き飛ばす。

「イテテ…

 いったいどうなってんだ?」

痛みを押さえながら起き上がった忠志の目に映ったもの。

それは苦しそうに体を振るわせる海女の姿だった。

「うっ、

 あんっ、
 
 ああ…」

肩を抱きしめ、苦しそうに震える海女。

その体が一回り、二回り大きくなり始める。

ピクッ、

ムクッ、

ムクッ。

「あんっ、

 あうっ、
 
 ああっ!」

細かった手足が太く、たくましくなってゆく。

ムクッ、

ピキッ、

ムキッ。

「あっ、

 うあっ、
 
 おあっ!」

全身の皮膚や骨がきしむ音を立てる中、

柔らかかった素肌が筋肉に覆われ硬く、

大きくなってゆく。

ブクッ。

「うおぁ!」

突然、海女の声が野太くなる。

その声に思わず忠志は尻もちをつく。

ムクッ、

ムキッ、

ムキッ。

「うっ、

 あっ、
 
 うあっ…」

海女の体はどんどん大きくなってゆく。

そして、その勢いがピークに達した時、

「うおぉぉぉぉぉぉーっ!」

咆哮と共に海女は立ち上がる。

「ふんっ!」

ビシッ!

同士に全身の筋肉がたくましくしなる音が響いた。

「あ、あわわわわわ…」

「ふっ、

 ふふっ、
 
 ふふふ…

 ふわぁーはっはっは!
 
 大・復・活!」

唖然とする忠志を尻目に海女…

いや、海女だったものは己の肉体を高らかにかざす。

柔らかい肌の代わりに全身を被う筋肉の鎧。

太く、たくましい筋肉に覆われた両手足。

形のいい乳房の代わりに胸を飾る胸筋としっかり田の字を刻む腹筋。

深く、彫りのいい顔には己の肉体に対する深い自信が刻まれている。

そして、その股間には忠志のもの等比べ物にならない位に

たくましいイチモツが高らかにそびえ立っていた。

「いやぁーはっは、

 どうやら元に戻ってしまったようだね。
 
 驚かせてしまい申し訳ない…はっ!」

ムキッ!

男は高らかにそう言うとポージングを決める。

「い、

 い、
 
 い、
 
 いったいどうなってんだこりゃ!」

腰を抜かしながらも必死で尋ねる忠志。

それに対し男はポージングを繰り返しながら、

「いやぁ、

 実はわたしもかつて君の様に女性にふられた心の傷を癒しにこの地を訪れてねえ…
 
 ふんっ!
 
 …そして、岸壁で呆然としていた所をついバランスを崩して
 

 海に落ちてしまったのだよ…でやっ!」

ググッ!

男は遠い目をしながらポージングを繰り返す。

「そしたらねぇ、

 海の神様とやらがわたしを助けてくれてね…
 
 おりゃ!…
 
 代わりにあの海女の姿になり海で働く事になったのだよ…
 
 はっ!」

忠志はただ呆然と男の話を聞くだけだった。

「海はいいねぇ。

 海女として働く内にふられた心の傷などどこかに吹っ飛んでしまったよ…
 
 うりゃ!…
 
 それに、かつては君以上に貧弱だったわたしも潮風に鍛えられ…
 
 おりゃ!…
 
 見たまえ、この肉体美!
 
 惜しむらくはめったにこの姿を人に見せられない事だよ。
 
 まったく、惜しいとは思わないかい?」

胸筋をピクピクと振るわせながら男は己の肉体をアピールする。

忠志は呆然となる意識を必死でこらえながら、

「そ、それとこれと、

 どう言う関係があるんだ!
 
 そもそも海女になったのにそう簡単に元に戻れるかよ!」

と憤り混じりの問いをぶつけるが、

男はどこ吹く風とばかりに、

「いやあ、どう言うわけか時々こうして元の姿に戻ってしまう時があるのだよ。

 どうしてかはわからないけど、
 
 だからこそこうしてこのたくましい肉体を君に見せる事ができるのだから
 
 こんなに嬉しい事はない」

「ど、どこが“元の姿”だ…」

忠志は完全にあきれ返っていた。

「ところで忠志くん、

 さっきわたしが言っていた言葉、覚えているよねぇ。
 
 「始めて見てからずっと君の事がステキに見えた」
 
 「またわたしに会いに来てくれるか」と。
 
 この言葉に嘘はないよ。
 
 さあ、忠志くん、わたしと再び愛のダイビングに臨もうではないか!」

そう言いながら男は手を差し伸べる。

「♪〜♪〜♪…」

忠志はただ恐怖と錯乱の中にいた。

無理もない。

告白され、深く結ばれた相手、

しかもかつての恋人に似た相手がみるみる内に脳天気そのものの筋肉男になり、

自分に迫ってくる。

しかも、その姿こそ「元の姿」だと言うのだ。

混乱しない方がおかしい。

「う…う…う…」

男が静かに迫る中、頭を抱え続ける忠志。

そして、その恐怖と混乱が極限に達した時…。

「のっぴろぴょ〜んっ!」

と意味不明の言葉を叫びながら男に頭突きを叩きこむ。

「うっ…なかなか激しいアプローチだねっ」

それでもびくともしない男に近くにあった岩をつかんで脳点目がけて叩きつける。

ドカッ!

さすがにひるんだ男に対し、

「おれの青春と純情を返しやがれ、

 この(ピー×∞)野郎!」

全ての魂を込めたパンチを打ち込む。

男は声もなく海に落ちた。

ドッポーン…。

忠志はしばらく海面を見つめていたが、

意を決したかの様にきびすを返して走り出す。

そして忠志はその夜の内に民宿をチェックアウトし、

辛うじて終電に滑り込むと逃げるようにかの地を離れて行った。

忌まわしい記憶から逃げるかのように…。



「横井君、最近顔色が悪そうだけど、

 何か悩んでいたら力になりますよ?」

「なあに、こいつの事だ、

 ちょっとしたらまた新しい女の尻でも追いまわすだろうさ」

「横井ぃ〜、

 お前の気持ちはよくわかるぞ〜、
 
 よっし、今日は学校があけたら耐久カラオケやるぞ〜!」

悪友達がかわるがわる声をかける。

そんな声を無視するかのように忠志は一人その場を離れる。

街路樹に包まれた道を歩きながらふと胸に手を当てる。

ムニュ。

また少し大きくなっている。

あの“地獄の海辺”から帰ってから

彼の肉体は少しずつ女性化を始めている。

実際、彼の肩幅は少しずつ狭くなり、

胸が大きくなる代わりに股間の感触は小さくなって行く。

やはりあそこで“潜ってしまった”のが原因だろうか。

今の忠志にとって女に、

海女になる事自体は決して苦ではない。

彼女に振られ、

さらに地獄を見た今の自分ではむしろ女にでも何にでもなった方が気楽である。

しかし…。

「…あんな…あんなバケモノ、

 いや、バカモノになると言うのか…」

海女になるだけならまだしも、

元に戻ったらあんな知能指数ゼロ未満の脳みそ筋肉になってしまうのか。

それが忠志の心に影を落としていた。

忠志に選択を迫る刻限はそう遠くない。

彼の女性化はジワジワ進み、

彼の心の中にもあの町、

あの海への帰巣本能が芽生えつつある。

「うおーっ!

 青い海なんて、
 
 白い砂浜なんて、
 
 白い磯着の海女なんて、
 
 大っ嫌いだーっ!」

空に向けてやるせない怒りの咆哮を上げる忠志。

その空には北斗七星のそばに輝く“死兆星”、

そして歯を輝かせながらサムズアップをする男の笑顔が輝いていた…。

しかし、その時彼は知らない。

かつて彼を痴漢と間違えていたゴツイニューハーフが木陰から彼に熱い視線を送っていた事に…。



おわり



この作品はカギヤッコさんより寄せられた変身譚を元に
私・風祭玲が加筆・再編集いたしました。