風祭文庫・バレリーナ変身の館






「僕はバレリーナ」
(前編)



作・風祭玲

Vol.945





「ねぇ、修二さん。

 運動してみない?」

とある春の休日。

不意に妻の菜美江が僕に話しかけてくると、

「運動?

 面倒くさいなぁ」

連日の残業で疲れきっている僕は素っ気無く返事をしつつ、

そのままごろんとソファの上に寝転がってみせる。

「もぅ!

 そんな風に休日となるとゴロゴロしていたら、

 メタボリックシンドロームになってしまうわよ」

それを聞いた菜美江は呆れた表情をしながら僕を見つめる。

次第に彼女が投げかけてくる視線に僕はいたたまれなくなると、

「んなこといっても…

 じゃぁ、何の運動をすればいいんだよ」

やや投げやりになって言い返してみせる。

すると、

「ねぇ、バレエやってみる気ない?」

と菜美江は提案をしてきたのであった。

「は?

 バレエ?」

妻の口から出たその言葉に僕は一瞬、呆気に取られ、

「あはは、何を言い出すんだよ。

 バレエって女の子の習い事じゃないか、

 ほら、ちょうど芽衣くらいの子がするような…

 僕は男だよ。

 男がバレエなんてできるわけ無いだろう」

と4歳になる娘を引き合いに出して軽く笑って見せると、

その途端、

「修二さんっ!」

菜美江は怒ったような顔で僕の名前を呼び、

寝転がる僕の前に正座するなり、

「あのね、

 そう言うの偏見っていうのよっ」

と説教をし始めたのであった。

「偏見って…

 んな大げさな」

菜美江の剣幕に押されながら僕は言い返すと、

「バレエは子供の習い事じゃないのよ、

 大人の人だって、

 男性の方だって、

 いまはいろんな人が習っている習い事なんです」

僕の意見など聞かず、菜美江は説教を続ける。

「判ったよぉ、

 でも、だからってなんでいきなりバレエなんだよ、

 他にもあるんじゃないか?」

これ以上話をこじらせると菜美江を本気で怒らしかねないので、

話の方向を変えようとして僕は質問をすると、

菜美江の表情が急に和らぎ、

「あのね、

 今度、近所にバレエ教室ができるのよ。

 最初は芽衣を通わせようと思っていたんだけど、

 ねぇ、思い切ってみんなで習ってみない?」

と持ちかけてきたのであった。

「おっおいっ」

菜美江のその提案に僕は驚くと、

「あたしね、

 バレエを習うのが子供のころの夢だったのよぉ」

と菜美江は目を輝かせながら夢を語り始める。

「…だったら、お前と芽衣とで通えばいいだろうに」

延々と夢を話す菜美江に僕はそう突っ込みを入れたくなったが、

とっくにスイッチが入っている菜美江に向かっては

そのようなことは口にすることはできなかった。



それから1週間が過ぎた土曜日の午後。

「御山菜美江です、よろしくお願いしますぅ」

どこで買ってきたのか、

真新しい紺のレオタードにベージュのタイツ、

紺の撒きスカートを腰に巻き

そしてバレエシューズで決めて見せる菜美江が

真新しいレッスン室で受講生に向かって挨拶をすると、

「あっどうも…御山修二です。

 よっよろしくお願いします」

彼女の隣で野暮なトレーナー・ズホン姿の僕も同じように挨拶をして見せる。

「おいっ菜美江っ

 みんな女性ばかりじゃないかよぉ」

レッスン室でずらりと並ぶ

色とりどりのレオタード姿の受講生を見渡して僕は菜美江に話しかけると、

「あら、そうねぇ…

 あと一人か二人、男性がいるかと思ったけど、

 別にいいんじゃないの?」

とまるで他人事のような返事をして見せる。

すると、

「こんにちわ」

の明るい声と共にレオタード姿の若い女性がレッスン室に入ってくるなり、

皆に向かって笑顔を見せながら挨拶をしたのであった。

「私は今日からこのクラスで講師を務めます舞原香津美です。

 よろしくお願いします」

そう自己紹介をしながら片手を大きく回しつつ、

スッ

っとひざを曲げ腰を落とす動作をさせてみせる。

そして、

「いま見せたのはバレエで使う挨拶の仕方です。

 覚えておくといいですよ」

とさっきの仕草がバレエの挨拶の仕方であることを説明したのであった。

「ほぉ…」

それを聞いた僕は思わず感心する声を出してしまうと、

「修二さんっ!」

僕の抗議には耳を貸さなかった菜美江が怒ったような口調で僕の名前を呼ぶ。

「なんなんだよぉ」

菜美江に向かって僕は聞き返すと、

「ふんっ」

彼女はプイッと横を向いてしまいレッスンバーに掴まると、

「ほらっ、

 せっかくレッスン料を払っているんだから、

 レッスンレッスン」

僕に向かって言ったのであった。

「まったく…

 ここでヤキモチか?

 自分から強引に連れてきたのに」

そんな妻の姿に僕は呆れながらもかと言ってここで帰るわけには行かず、

「では皆さん、

 横のレッスンバーにお掴まりください」

と言う舞原さんの声が響くと、

彼女に言われるまま僕はバーに掴まりレッスンを始めだす。



学生時代、

演劇系のサークルに属していた僕は一時期、ダンス同好会の練習に参加したことがあった。

あの時のダンス同好会はバレエのレッスンを取り入れた練習方法を行っていたので、

こうしてバーに掴まって練習は初めての体験ではなかった。

でも、こうして専門の講師によって、

きちんとした形のバレエのレッスンを受けたのは無論初めてのことだった。

ところが、程なくしてそのときのダンス同好会との練習が威力を発揮したのであった。

「あれ?

 修二さん…ってバレエのレッスンを受けたことがあるの?」

センターレッスンからパの練習が始まったとき、

なかなか動きを飲み込めなかった周りに対して、

僕はあのときの事を思い出しつつ難なく講師が見せた模範をこなしていたのであった。

そんな僕の姿を見て菜美江は驚きながら尋ねると、

「え?

 あぁ、簡単じゃないかこれって」

と笑って答えると、

「へぇ…

 凄いですね」

遠巻きに見ていた他の女性受講生達が話しかけてくる。

「え?

 いや、そんなほどでも」

これまであまり僕とは触れたがらなかった受講生との会話のきっかけとなり、

僕はバレエ教室に溶け込んでいくが、

一方、それと反して菜美江は逆にバレエ教室から遠ざかるようになり、

奮発して買ったレオタードもタイツも埃を被るようになっていったのであった。

「なんだよぉ、

 バレエ行かないのか?」

バレエ教室に出かける準備をした僕は忙しそうに家事をする菜美江に向かって話しかけると、

「ごめんなさい、修二さん。

 あたしちょっと手を離せないので今日は休むわ、

 芽衣と一緒に出かけてくれない?」

と菜美江は僕に言う。

「やれやれ、

 もぅ飽きたのか…」

その声に僕は呆れ半分につぶやき、

「芽衣っ

 行くぞ」

既にシニョンのお団子頭にタイツ・レオタード姿になっている芽衣に声をかけると、

「はーぃ」

芽衣は元気よく返事をして俺の元に飛び込んでくるなり、

「パパぁ、

 あたしってきれい?」

とくるりと回って見せた。

「あぁ、芽衣はとってもきれいだよ、

 本物のバレリーナみたいだ」

娘をほめて見せ、

「んじゃぁ、

 行って来るから」

菜美江に声をかけると、

「修二さん。

 今日もあのみっともない格好でレッスンを受けるの?」

と尋ねてきた。

「そりゃぁまぁ…

 そうだけど」

あまりにも当たり前すぎることを聞いてきた菜美江の真意を図りかねながら僕は聞き返すと、

「じゃぁ、今日からこれを着て行ってよ」

と言いながら菜美江が差し出したのはこの間まで自分が着ていたレオタードであった。

「おっおいっ、

 僕にこれを着ろ。というのか」

レオタードを広げながら僕は驚いて見せると、

「あたしは当分着そうもないし、

 修二さんとあたしってそんなに身長差無いでしょう。

 それにせっかく買ったものだから修二さんに着て行って貰いたいのよ」

と菜美江は僕に言う。

「…要するに

 僕に女装をさせることで受講生達が言い寄ってくるのを妨害しようって魂胆か…」

レオタードを見ながら僕は咄嗟にそう考えるが、

しかし、そのことを口に出して尋ねるわけにも行かず、

「わかったよ」

そう返事をしてレオタードを受け取ると、

「さっ芽衣っ

 行くぞ」

と言い残して自宅を出たのであった。



「まぁ、レオタードですかぁ」

レッスン前、僕は舞原さんに今日のレッスンからレオタードを着て受けたい旨を話すと、

「うーん」

彼女は少し考えた後、

「いいでしょう、

 その方が体の線も見ますし」

と頷いてみせる。

「…なんだよぉ、

 おっけーかよぉ!

 この場で即座に舞原さんが否定してくれれば、

 それを口実にして僕はレオタードを着ることにはならなかったのに…」

僅かな望みをつないでの駆け引きはあっさりと舞原さん側が折れてしまい、

自ら申し出た手前、僕はレオタードを着なくてならなくなってしまうと、

「…まいったなぁ」

心の中で僕は泣き始めていた。

すると、

「えぇと、よろしいでしょうか、

 時間が押してますので、

 早くレオタードに着替えてきてくださいね」

と時計を気にしながら舞原さんは僕を急かし、

彼女の口から出た言葉が僕の心にトドメを刺したのであった。



「はいはい、

 着替えればいいんでしょう」

半ばやけになりながら僕は更衣室に入り、

締め切られたカーテン一枚で仕切られている男子用更衣室の中で着てきた服を脱ぐと、

下着も取り、

ベージュのファンデーションに足を通すと、

同じベージュのバレエタイツ、

そして紺のレオタードの順に身につけ、

モッコリと盛り上がる股間を隠すかのように

紺色の撒きスカートを腰に撒いてみせる。

最後にいつもレッスンで履いているバレエシューズをはき終えると、

スーッ

ハッ!

僕は大きく深呼吸をして見せた後、

チャッ!

覚悟を決めて更衣室を出たのであった。

レッスン室にはレオタードに着替えた受講生たちが既に待機していて、

おしゃべりをしながら講師である舞原さんが来るのを待っていた。

その中にレオタード姿の僕が入っていくと、

「え?」

皆は一斉に驚き、

瞬く間に僕の周囲に空間が開いた。

「くっそぉ…菜美江めぇ…」

顔から火が出るほどの恥ずかしさを感じながら僕は定位置のレッスンバーのところに立つと、

「どうしたんです?」

と心配顔をしながら顔なじみの女子大生が話しかけてきた。

「いやぁ、

 まぁなんと言いますか、

 その…妻が…これを着ていけと…」

僕は顔を真っ赤にしてうつむき加減でそう事情を説明すると、

「そうなんですかぁ…

 あんまり気にすることは無いですよ、

 みんなと同じ格好をしてますから」

と彼女は笑い飛ばし、

僕の背中をやさしく叩いてみせる。

「そっそうですか?」

彼女の意外な反応に僕は少しホッとしながら返事をすると、

「御山さんっ、

 可愛いですよ」

と女子高生の3人組が話しかけ、

「若い女の子とやたらと話しているからだよ、

 奥さんにしてやられたね」

菜美江とさほど年が変わらない主婦が僕をねぎらってくれた。

「まぁ、その…

 よっよろしくお願いします」

と何をとちったのか僕は皆に向かって頭を下げ、

「はいはい…」

そんな僕を見ながらみんなはうなづいて見せると、

「はいっ、

 今日のレッスンを始めます」

と言う声と共に舞原さんがレッスン室に入ってきたのであった。



その日から僕はレオタード・タイツ姿でレッスンを受けるようになったのだが、

そんな僕を周囲は異端視せず、

それどころか返って仲間として認めてくれたようであった。

けど…

「じゃぁ、これ要らないね」

「あぁ、それがあると狭かったからね」

更衣室の男子と女子を分け隔てていたカーテンが開けられてしまうと、

僕は女性達に囲まれて着替えをさせられることとなり、

少なからずも女性達の着替えを咎められずに見られるようになったのであるが、

しかし、男性としての立場上いかがな物かと僕は思いながら、

隅で小さくなりつつレオタードに足を通す。



バレエ教室でのレッスンは火曜・木曜の夜と土曜or日曜の午後という制約であるが、

しかし、日を追うごとに受講生達が見せるバレエは様になるようになり、

コトッ

コトコトコト…

いつしか女性達の足をトゥシューズが飾るようになったのあった。

「痛くないんですか?」

淡いピンク色のサテンの輝きを放つトゥシューズを眺めながら思わず僕は尋ねると、

「それは痛いですよ、

 でも、これを履くのが夢でしたから」

と女子大生の受講生はうれしそうに話してみせる。

「はぁ…

 菜美江もがんばれば良かったのに」

うれしそうにしながら爪先立ちでレッスン室を舞う受講生達を見ながら

僕は妻のことを思っていると、

「ただ見てないで御山さんも履いて見ます?

 トゥシューズ」

とレッスン室に入ってきた舞原さんが僕に声をかけてきた。

「え?」

思わぬ彼女の言葉に僕は驚くと、

「そうよっ、

 せっかくレオタード着ているんだから、

 トゥシューズは居てみなさいよっ、

 世界変わるよぉ」

と主婦が僕に話しかけ、

「なんならあたしのを貸してあげようか?」

と僕にトゥシューズを差し出したのであった。

「いや、無理ですって、

 僕の足は25cmもあるんですよ、

 男の足には無理ですって」

彼女の申し出を僕は断ろうとすると、

「あぁ、御山さんの足は25cmなんですか、

 それだったら…」

今度は舞原さんが倉庫代わりに使っている隣の部屋に入り、

「あぁ、あったあった。

 注文を間違えて25cmの大きなトゥシューズを買ってしまっていたんです。

 良かったら使ってください」

と言いながら僕に差し出したのであった。



「で、トゥシューズをもらってきたわけね」

家に帰った僕から真新しいトゥシューズを受け取った菜美江は呆れ半分に言うと、

「でも、いいなぁ…

 トゥシューズって女の子憧れよぉ、

 それを履けるだなんて…

 うらやましいわ」

淡いピンク色のトゥシューズに頬摺りしてみせると、

「ほうら、芽衣ちゃん。

 これがトゥシューズってものよ」

と手にしたトゥシューズを娘に渡してみせる。

「おっおいっ、

 菜美江!」

それを見た僕は思わず声を上げると、

「これってうんとレッスンをしないと履けないんでしょう。

 バレエの先生が言っていたもん」

大事そうにトゥシューズを持って芽衣は力いっぱい言うと、

「パパって凄いんだぁ」

と目を輝かせて僕を見た。

「いや、それほどでも…」

娘の喜ぶ表情に僕は何もいえなくなってしまうと、

「がんばってこのトゥシューズを履きこなせるようになってね」

と菜美江は笑顔で僕を見つめると、

「はっはい」

僕はそう答えるしかなかった。

「いたたた…

 トゥシューズってこんなに痛いの?」

レッスン室で足をサテン色に染めた僕は脂汗を流しながら尋ねると、

「つま先に体重を乗っけては駄目、

 爪の先を床に当てるようにするのよ」

とかつて女性達が言い合っていた言葉が今度は僕に投げかけられる、

そして、

「そんなこといっても」

僕は文句を言いながらも一歩一歩トゥシューズを履きこなしていくと、

コトッ!

僕はトゥシューズの先をピンと立たせ、

ベージュのタイツに覆われた足を高く上げてみせていたのであった。



僕がトゥシューズを履きこなすようになった頃、

バレエ教室で発表会を行うことになった。

市営ホールを借り切っての大掛かりな発表会。

僕達の大人のクラスが演じる演目は多数決の結果”眠れる森の美女”のバリエーションと決まり、

僕は自動的に王子様役であった。

そして、トゥシューズからバレエシューズへと戻ったものの、

僕は相変わらずにレオタード姿で同じレオタード姿の女性を持ち上げてみせると、

さらに男性パートを踊りこなすために汗を流す。

レッスン量が足りなく、

職場を定時退社してそのままバレエ教室に直行、

そこまでして僕は初めての王子様役に挑んだ。

そして当日。

借り物だけど装飾が施された上着、

どうしても股間のモッコリが目立ってしまう光沢処理がされた厚手のタイツ。

それらを身につけ舞台に立った僕は

初めてバレエの世界で男であることを再認識することができたのであった。

「そうだよ、

 僕は男なんだよ。

 決して女なんかじゃない」

チュチュを身に着けて舞い踊る王女をエスコートしながら僕の心は満たされ、

そして、その甲斐あって発表会は満足の行くものとなり、

発表会後の打ち上げは皆思いっきり羽目をはずして大いに騒いだのであった。

「あーぁ、

 こんなことならあたしも続けてればよかったなぁ」

発表会のビデオを見ながら菜美江はぼやくと、

「いまからでも遅くは無いから、

 再開したら?」

と僕は言う。

すると、

「駄目よぉ、

 あたしのレオタードは修二さんの体にすっかり馴染んじゃっているから、

 もぅ着れないわよ」

菜美江はあてつけるようにして僕に言うと腰を上げ、

「レオタードなんて新しいのを買えばいいじゃないか…」

菜美江の後姿を見ながら僕はそうつぶやくと、

「パパぁ、

 芽衣も頑張ったんだよ」

と芽衣が僕の前に回りこむとわざとバレエの動きをして見せる。

「うん、

 芽衣も頑張った。

 みんな頑張ったんだよね」

そんな芽衣の頭を僕は撫でながら発表会のことを思い返すが、

しかし、発表会が終わった途端、僕は女に戻されてしまった。

紺のレオタードにベージュのバレエタイツ、

そして、足で輝くサテンのトゥシューズ。

どこから見ても女性モードになってしまった僕は

さらにランクアップしたレッスンを受けていた。

「はーぃ、

 みんなぁ、発表会を経験した以上、

 全員初心者じゃないわよぉ」

やや脅しとも取れる声を上げて舞原さんのレッスンはボリュームアップし、

そのレッスンによって皆が着ているレオタードが急速にくたびれてくると、

クラスで統一した柄のレオタードを買うことになったのであった。

「ちゃーんすっ!」

このチャンスを生かすため、

僕はすかさず男性用のを申し込んだのだが…

しかし、渡されたのは紛れも無い女性用だった。

「これって女の人用のでは?」

レオタードの包みを手にして僕は声を上げるが、

「御山さんはそれでいいんですよ」

とみんなの声が上がる。

「えぇぇぇ…」

その声に抗するように僕は声を上げてみせるが、

しかし、その声は無視され、

ここでは僕は完全に女性扱いとなっていたのであった。



つづく