風祭文庫・アスリート変身の館






「杏と美緒と…」



原作・@wolks(加筆編集・風祭玲)

Vol.T-342





9月

長くも短かった夏休みが終わった日、

いつものように部活で遅くまで残っていた杏は

プールの入口の鍵を返却しに職員室へと向かっていた。



渡り廊下を抜け、

職員室のある校舎へと足を踏み入れたとき、

ヌッ!

いきなり杏の視界が白一色に染まった。

と同時に、

バフッ

獣と思われる毛の感触が全身を包み込む。

「!っ

 なっなんだ?」

突然の事に杏は慌てて後ろに引き下がると、

『……』

彼の目の前に2本足で立つ

巨大なミケネコが立ちはだかっていたのであった。

「ネコ?」

身の丈は2mもあろうかと思われるネコを見上げながら、

杏は呆気にとられていると、

『……』

ミケネコはキセルを咥えながら杏を一瞥し、

ノソッ

っと歩き始める。



「あれが…

 噂の校内を徘徊するネコか…」

ネコを見送りながら杏はこの学園に伝わる七不思議の一つ、

”コタツを愛し、校内を徘徊するミケネコ”の話を思い出していた。

そして、

「ってことは…

 月の秘密基地とつながっていると言う

 伝説のロッカーもどこかに…」

別の七不思議を思い出しながら立ち上がったとき、

「あれ?」

杏は手にしていたプールの鍵をネコとぶつかった弾みで

落とてしまっていたことに気づいた。

「しまった」

慌てて探し始めるものの、

しかし、9月の夕暮れは早く

校舎内の廊下はすで薄暗くなっていた。

「参ったなぁ…」

額に浮き出た汗を拭う仕草をしながら杏は困惑していると、

「あなたのお探し物はこれですか」

とか細い少女の声が響く。

「わっ…」

その声に杏は驚くと、

「…こんにちわ」

その挨拶と共に、

闇から浮き出るようにしてに一人の女子生徒が姿を見せる。

「君は…」

少女に杏は尋ねると、

「木之下杏…

 1年C組

 出席番号14番

 住所…

 電話番号…」

と少女は杏の個人情報を話し始め、

最後に

「付き合っている女性は現時点で3名」

そう付け加えた。

「ちょっと待って、

 君は誰だ。

 それにボクは3人の女性となんて付き合っていない」

彼女に向かって杏はそう断言すると、

「ふふっ、

 あなたはそのことに気づいていないだけ、

 でも、個々の女性はそう思っているわ。

 女性の敵になりたくなかったら、

 自重することね。

 その自慢のマラを切り取られたくなければ」

と忠告じみたことを言う。

「いい加減なことを言わないでくれる?

 誰が女性の敵ですってぇ」

彼女の言葉にカチンと来たのか、

杏は女言葉で言い返すと、

『まぁ』

と言う表情を女子生徒は見せ、

「木之下君って、

 私の予知を裏切る行動をとるのね」

と言う。

「予知?

 何を言っているの」

「面白い…

 入学式で会ったときから普通の男子とは違った面があるな、

 って思っていたけど、

 今のあなたからは女の子の気配が強く出ているわ。

 簡単に女の子の気配を出せるなんて、

 ひょっとして自分は女の子だって思っていない?」

杏に向かって少女はそう尋ねると、

ズイッ

杏の顔を下から舐めるようにして見上げてみせる。

「君は…」

まるで自分の正体を見抜こうとしている彼女の瞳から

逃れようと杏は視線をはずしてしまうと、

「ちゃんと私を見て、

 それとも見れないような

 やましいことでもあるの?」

と少女は杏の頬に手を添えて言う。

「うっうわぁぁ!」

迫ってくる彼女の気配に恐怖を感じた杏は、

悲鳴をあげて突き飛ばしてしまうと、

「いっ一体、

 あなたは誰?」

再度少女に問いただす。



「さすがね、木之下君。

 普通の男ならとっくに私の手中に堕ちているのに、

 それから逃れて見せるだなんて、

 きっとあなたの中に居る女が妨害しているのね」

杏の問いに答えずに少女はそういうと、 
 
「いいわ、

 その方がやりがいがあると言うものよ。

 私決めたわ、

 木之下杏っ。

 あなたを私の男にして見せるわ」

と杏を指差して宣言をする。

「ちょっとぉ、

 いい加減、人の話も聞いてよ!

 あなたは一体誰なのっ?」

一方的に話す少女に向かって、

杏はキレかった声を張り上げると、

「え?」

少女は一瞬驚いた顔をして見せ、

「…あのぅ、

 …本当に私の名前、知らないの?」

と聞き返す。

「知っていたら、

 こんなに怒鳴りませんっ」

彼女の言葉に杏はそう言い切ると、

「…長田美貴」

と少女は自分の名前を小声で言う。

「え?

 いまなんて」

それが聞き取れなかったのか杏は聞き返すと、

「長田美貴っ、

 木之下君と同じクラスで、

 オカルト研究会の長田美貴よ」

涙を流しながら少女・美貴は言う。

「はい…?」

美貴の剣幕に押されるように杏は返事をすると、

「ひっどーぃ、

 同じクラスなのに…

 何ヶ月も一緒に居るのに…
 
 全然私のことを覚えてくれないなんて

 そんなのひどい、

 ひどいよぉ」

と美貴は杏を非難したあと泣き出してしまった。

「…え?

 えぇ?

 長田さんって、

 そんな子、

 クラスに居たっけ…

 え?

 えっと…」

女の子を泣かせてしまった。

そんな経験がほとんどない杏にとって、

どうしていいのか判らず

ただオロオロするばかりだった。

すると、

「…占いをしていたら(ひっく)、

 これから先、

 色々と木之下君の身に災難が起こるみたいだって(ひっく)、

 気をつけたほうがいいと思って(ひっく)、

 忠告をしに来てあげたのにぃ(ひっく)、

 もぅ前言撤回っ

 木之下君なんて消えちゃえ!!!!」

そう声を上げて美貴はポケットから何かを取り出すと、

杏に向かってそれを構えて振りかぶった。

「うわぁぁぁぁ!」

それを見た杏はとっさに美貴の腕を押さえると、

「このぉ!」

「止めろって」

「うるさぁーぃ!」

美貴と杏は廊下でもみ合いとなる。

そして、

キラリ!

美貴の手にあったものが一瞬光ると、

杏に迫ってくる。

そのとき、

『……のぃいちぃ・シュートぉ!!!』

廊下の奥で聞き覚えのある声が響くと、

ボンッ

風の塊が二人を直撃した。

と同時に、

「きゃぁぁ」

「うわぁぁ」

風に飛ばされた二人は宙を飛び、

ボフッ!

たまたま通りかかったあのミケネコに衝突してしまったのである。

『?』

ミケネコは体にめり込んだ二人を引き剥がすと、

仲良く廊下に座らせ立ち去っていく。

「助かった…」

呆然としながら杏は呟くと、

「あぁ!!!」

悲鳴に近い美貴の声が響き渡る。

そして、

「そんな…

 男性失格の烙印が…」

手にしている焼印を思わせるモノを見下ろしながら、

美貴はがっくりとうなだれると、

キセルをふかしながら立ち去っていくミケネコの腹で

怪しく輝いていた印章の表示が

【ERR】

と変り、

その直後、

シュワァァァ…

蒸発するように消えてしまった。

「なに、あれ?」

その様子を杏は眺めていると、

「グズッ

 お小遣いをためて買ったのに、

 もぅ知らない!」

その声を残して

美貴は廊下の闇の中へと消えていった。



長田美貴、

オカルト研究会に所属する彼女は

確かに杏のクラスメイトではあるが、

しかし、杏の記憶には彼女に関する情報は

スッポリと抜け落ちていたのである。

なぜなら、

彼女が座ってる席は廊下側最前列であり、

教室後側のドアからの出入りが多い杏からは目が届きにくく、

また、日ごろから目立ちにくい存在であったため、

杏の記憶では

名前はよく知らないけど何を考えているのかわからない。

やや無表情な口とショートヘアーが特徴の女の子。

と言う程度である。

なお、これは仮定の話ではあるが、

もし彼女が使った烙印が目論見どおりに杏に発動したらば、

杏が抱えていた諸問題が一気に解決したのかもしれない。



「(なによ、あの子…)」

ピンチを脱したものの

美貴のなんとも表現し難い態度に

杏は不機嫌になっていると、

「お主っ

 女難の相が出ておるぞ」

杏の背後から警告めいた声がかかった。

「ひっ!」

突然の声に杏は飛び上がると、

入学したときに出会った老僧が背後に立っていて、

「宜しかったら拙僧が厄除けを進ぜるが」

と話しかけてくる。

すると、

「叔父上っ」

廊下の奥から柵良の声が響くや、

「こんなところで何をしておるっ」

ツカツカツカ

靴の音を響かせながら柵良が姿を現し、

老僧の襟首を掴みあげる。

「いや、ワシは…」

「木之下、邪魔をしたのっ」

「え?、あのぅ」

まさに通り過ぎ様に不用品を拾い上げていく。

そんな言葉がピタリと合う柵良の動きを

杏はただ見ていたのであった。

「あーあ、汗かいちゃった。

 また気分ばらしに泳いじゃおっかな」

柵良たちを見送った杏はそう呟いて、

足を動かすと、

コロッ

2つの焼印が杏の足に当たる、

「あれ?

 あっ彼女、

 落としていったんだ。

 これはさっきのだけど、

 このもぅ一つのはなに?」

長さは10cmほど、

禍々しさを漂わせる焼印2本を手に取ると、

「同じのが2個ある…

 まぁいいか」

そう呟くと杏は来た道を引き返し、

プールへと戻って行った。



「あっ、そうだ鍵」

屋内プールの入り口で杏は鍵を落としたことを思い出すが、

締めたはずの鍵は空いていて、

何者かがプールに入っている気配がしていた。

「だれ?

 まさか」

さっきの美貴が仕返しに来たのかと警戒しながら

杏はプールに行くと中で美緒が泳いでいた。

「え?

 なんで、美緒が…」

美緒がプールで泳いでることに驚くと、

「美緒なら大丈夫か」

杏は一安心すると美貴の落し物である焼印をカバンに入れて

再び着替えはじめた。



ザバッ

泳ぎきった美緒が壁に手をつけると、

プールサイドにゴーグルとキャップをつけた杏が立っていた。

「…美緒、練習に付き合ってあげるよ」

「あら、なによ?」

「それともボクと勝負する?」

「いいじゃないの、受けて立つわよ!」

杏の誘いに乗った美緒はそういうとスタート地点に立ち、

そして始まった二人の勝負。

しかし、

自由形、

バタフライ、

平泳ぎetc

あらゆる種目の勝負をおこなったが、

どれも杏の方が早くゴールしてしまう。

そして、最後の勝負でほぼ同時にふたりがゴールした。

「…ふう、これで追いついたわ」

美緒は息巻くが、

「おお、やるじゃない。

 でも、もう遅いから上がらないか?」

と時計に視線を向けながら杏は美緒に言うと、

「…そうね。

 今日はおしまいにしましょう」

美緒と杏はプールサイドに上がると、

二人はそれぞれの更衣室で制服に着替える。



帰り道、

二人並んで歩いていた。

水泳部のライバル同士が並び歩くのは、

ある意味緊張する場面であるが、

先日の救助劇と、

周囲に人があまりいないこともあってか、

杏はどこかリラックスしていた。

「ねえ、美緒。

 気になっていたことがあるんだけど…」

話しかけたのは杏の方だった。

「何よ?」

「春に君と会ったときに、

 男とか女とかこだわらないって言っていたじゃない。

 それからも、何かと勝負してきたけど、

 なんで、そんなに男とか女とかにこだわらないの?」

「…そのこと、

 他人には絶対言ってないでしょうね。

 ただじゃおかないから」

美緒はやや顔を赤くしながら、

口調を荒らげる。

「誰にも言っていないけど…」

「そう、

 …あたしに兄がいるのは知ってるでしょう?」

「うん、そうだったよね」

「あたしの兄はすごく優秀なスイマーで、

 中学校でもすごい記録打ち立てたの」

「そうだね、

 ボクが立てるまでのコースレコード保持者だったよね」

「だから、あたしにとって兄は憧れであって、

 目標でもあったわ。

 いつかは兄みたいになるのが夢で水泳に打ち込んできたの。

 でも、ある日を境にして兄は水泳選手として登録を抹消されたのよ」

美緒は半分涙目になって、

彼女にとって心に封印している出来事を話し始めた。

「え?」

思いがけない美緒の表情に杏は驚くと、

「実は、

 兄には性同一性障害があったの。

 それであたしにも黙って女装していたのよ」

「もしかして、

 そういうお兄さんが許せなかったの?」

「そうじゃない。

 たとえ性同一性障害だろうとなんだろうと、

 そんなの関係ないじゃない。

 でも、兄が所属していた高校のチームは兄をそういう理由から切り捨てた。

 そして、男が女になって部活するとかいう噂のある学校に転校させられ、

 そこでで変な女キャプテンの性奴隷にされたのよ。

 だから、勝負の記録に男も女もニューハーフも関係ないってそう思ったの」

そう話したところで美緒は泣き出してしまった。

彼女の話から美緒の兄の選手生命は閉ざされたことを杏は悟ると

「ボクの話ししてもいいかな?」

と切り出すと、

「…ボクの知り合いから聞いた話なんだけど…」

やや悲しそうな目をしながら杏は話し始めた。

「あるところに、

 とてもかわいい女の子がいたんだ。

 その子はクラスのアイドルっていわれるぐらい人気者になった。

 その子はボクたちと同じように水泳をやっていたんだ…

 でも、あるとき、

 その子は何も落ち度がなかったのに

 急に男の子になっちゃったんだ…

 そうなったら今までの生活が一変、

 男として胸をさらしてプールに出たし、

 ほかの女の子、とくにその子を妬んでいた子なんかは

 これをいいことにその子をいじめ始めたんだ。

 それどころかいままでその子にあやかっていた男子生徒もみんな」

 それに、周りの大人たちもひどかったんだ。

 急に男の子の役目を押し付けたり、

 長かった髪をばっさりときられたり、

 おまけに戸籍まで男のものにされたし、

 服装や言葉遣いも男のものを強制されていたんだ。

 でも、その子はまわりがどうあろうとも、

 自分が女の子であるようにふるまい続けて、

 誰にも知られないように女装したり、

 男臭さを消したり…

 その子の唯一の楽しみが

 女の子だった頃に好意を寄せていた男の子の近くで泳ぐことだったんだ…」

ポケットの中に入れた烙印を握り締めて

杏はやや泣き出しそうになりながら話す。

「ふーん、

 で、その子はどうなったの?」

その後について美緒は尋ねると、

「…わからないよ。

 多分どこかの高校に行って、

 普通に男の子やっているのかもね…」

と言う杏は半分涙目になっていた

「ふーん。

 でもその子が男の子として幸せ、

 っていうか幸せだったら

 性別なんてどうでもいいんじゃないの?」

話を聞いた美緒はあっさりとそう答えると

「じゃあね、

 あたしの家はあっちだから」

杏と分かれて立ち去っていく。



家に戻った杏は、

制服を脱ぐと深くため息をつき、

「ちくしょう…

 なにが、性別なんかどうでもいいのよ、

 まったく」

と文句を言いながら持ってきたカバンを机に置くと、

2本の焼印が零れ落ち、

床に音を立てる。

「いっけなーぃ、

 もって来ちゃった。

 明日返さないと。

 でも、これって何だろう」

杏は床に転がる焼印を拾い上げて、

明かりの下で眺めて見ると、

片方には【男性失格印】と書かれていて、

”使用済”の表示になっていたが、

もう片方は【女性失格印】と書かれているが

こちらは”未使用”の表示になっている。

「女性失格印?

 ふーん」

焼印を興味津々に眺めながら

「どうやって使うのかな?

 こうやって当てるのかな?」

杏はその焼印を自分の手に押す仕草をしてみせる。

すると、

キンッ!

「あいたっ!」

夜勤はかすかな音を立てて、

杏の手の甲に烙印を刻んでしまったのだ。

「あっしまった!」

それを見た杏は驚くが、

しかし、

【ERR】

あのミケネコの時と同じ表示に変ると、

シュワァァァ…

烙印は消えてしまい

それ以上のことは何も起こらなかったのである。

「なにこれ?

 ちょっと痛い思いをしただけで、

 それで終わり?」

杏にとっては肩透かしの結末に、

「ばかばかしい、

 さっさとシャワーを浴びてこよう」

と腰を上げる、

男の汗と塩素の匂いを消すかの如くシャワーを浴びる。

「はぁあたしは女の子なのに、

 なんで男の子で幸せだっていうの?

 まったく」

怒りと呆れが混じったようにつぶやくと、

「…はあ…

 なんで…」

今の自分は男だということを、

慣れた手つきでそれを洗ってる自分で再認識するのだった。



翌朝…

「あ、もうこんな時間…」

杏が目を覚ますと、

部屋の目覚まし時計は7時を回っていた。

「あ、でも今日は休日、

 しかも部活がオフの日じゃないの。

 まったく慌てて損しちゃった」

水泳部の大会は夏と秋の初めにある。

そのため、主要な大会が終わったこの時期は部活もオフになることが多い

しかし、杏は珍しく早く目が覚めた。

外出するために、

杏は女物の衣類をバッグに詰めた。

最近では自分の住んでいる街にも知り合いが多くなったため、

女装するのは遠くに行ってからにするようにしている。

そのため杏は男物の私服、

といってもカジュアルショップの店員に進められるがままに買ってしまった服を用意した。

まず黒いタンクトップの上に、

やや濃い色のジーンズに合わせる。

ベルトもカジュアルショップに売っているような凝ったデザインのものだ。

そしてその上から白っぽい色の半袖、

男物のシルバーのアクセサリーを首からかけると、

その上からスプレーをかける。

鏡を見るとどこにでもいそうな爽やかな美少年にしかみえない。

バッグを首にかけて家を出てしばらく歩いていると、

目の前から美緒が歩いてきた。

「…おはよう」

「昨日は付き合ってくれてありがとうね…」

すれ違いざまに美緒は顔を赤らめながら小声で言った。

「え…?」

杏が問いかけると、

「なんでもなわよ!

 さっさと行きなさい!

 この変態!」

美緒は大きな声を出した。

しばらく歩いている杏は、

「…実際素直じゃないんだから…」

そうつぶやいていた。

今の杏がおかれている状況は咲子と美緒、

そしてその間の美少年、

これだけ聞けばこれほど幸せな男はいないだろう。

「…はあ…性別なんか、

 どうでもいいか…」

杏はこの瞬間も自分の中で男性化が進んでいることを実感したのであった。



つづく