風祭文庫・アスリート変身の館






「杏の諦念」



原作・@wolks(加筆編集・風祭玲)

Vol.T-331





12月

「ここよ、あたしのアトリエ」

「はぁ」

杏が連れられたのは裏通りに面した倉庫を思わせる建物だった。

「あぁ、ここは、

 パパ…じゃなかった父の知り合いから格安で借りているの。

 ほら、ファッションデザイナーって結構荷物かさばるからね、

 大学への進学と同時に実家追い出されちゃったのよ」

気さくに笑いながら西本奈央は閉じていたシャッターを開け、

杏を招き入れる。

「うわぁぁぁ…」

奈央のアトリエに踏み入れた途端、

杏はその佇まい目を輝かせた。

倉庫の中はファッションデザイナーの卵が作業しやすいように改装され、

空調の利いたフローリング張りの室内には

おびただしい衣装の素材や型紙、

縫製作業中の服や完成品などが所狭しと置かれていた。

「すごい…

 デザイナーってこういうところで作業をしているんですね」

「これ、かわいい」

「これもいいかも…」

「うわぁ…」

嬉しさに頬を赤らめながら杏は奈央の作品を見て回ると、

「いやぁ、

 そんなに喜んでくれると、

 なんか照れちゃうな」

気恥ずかしさか奈央は笑いつつ頭を掻いてみせ、

「なんだっから、

 何か着てみる?」

と提案してきた。

「いっいいんですか?」

「どうぞどうぞ」

杏の言葉に奈央を薦めると、

杏は興味がある衣服を選びはじめる。

「試着室っていうのはないから、

 そこいらで適当に着替えて良いよ」

そんな杏の姿を見ながら奈央は言葉を掛けると、

「ありがとうございます!」

杏は礼を言い、

喜んで選んだ服に袖を通した。

自慢のようにしていた髪も切られ、

もはや完全に少年としての生活を強制されてきた杏にとって、

奈央のアトリエはまさに別天地、夢の世界だった。



「うん、

 それを着るときは、

 これをつけると良いよ」

「女の子っぽくなりたかったら、

 これと、

 これを組合せと良いよ」

「重なるときはこうね」

杏が選んだ服と装飾品と組み合わせたり、

また重ねて着るこで得られた色彩効果によって、

傍目にはノーメイクでも男だとは思えないほど

杏は女性らしい姿となった。

「すごい…」

完璧と思っていた自分の女装よりも、

遥かに女性らしく変身してしまったことに杏は目を見張ると、

「いやぁ、

 こうまで変身してくれると、

 着せ替えの甲斐があるってものよ」

と奈央は満足げにうなづいてみせる。

「本当にすごいですっ、

 これなら誰にも男ってバレません」

「そうだと有難いんだけどね」

「ちょっと、表に出ても良いですか?」

「え?」

「通りを歩く人の反応を見たいんですっ」

「まぁ、杏ちゃんがよければ…」

「はいっ」

杏の言葉に奈央は笑いながら送り出した。



「すごい…

 みんな、アタシを女の子って顔で見ている」

女装をして表に飛び出していった杏は

街の人たちの反応がかつて女性だった頃と変わらないことを確認すると、

嬉しそうに、

そして、颯爽と通りを歩いていくが、

女性用の服を着て女性のフリをして外を歩く、

女装趣味の少年でしか過ぎなかった。



その日以降、杏は普段は少年として生活する一方で、

休日になると奈央のアトリエで特別にデザインされた衣装を着て過ごす。

ほんのわずかな間だけど、

この瞬間の杏は幸せいっぱいだった。

普段どんなに髪が短くて、

汗臭い男の格好をしてても

ここでは女の子としての自分を取り戻せる。

でも彼女はこれだけで精一杯だった。

「あ、杏ちゃん。

 私、仕事が入っちゃったし、

 もう遅いから

 杏ちゃんも家に帰ったら?」

「はーぃ」

楽しかった時間が終わるとき、

杏は憂鬱な気分になってしまう。

そして、

渋々着替えを行い、

自宅から着てきた男子の服に着替え終わったとき、

「あの、

 天井からかかっている

 あれってなんですか?」

とアトリエの天井から下がる

青地に白文字で大きく”海”と書かれている幕を指差した。

「あぁ、あれ?

 あたしの屋号よ」

と奈央は説明をする。

「屋号…海がですか?」

「そう、

 あたしの家で代々引き継がれている屋号。

 おばあちゃんから引き継いだの、

 この木札と一緒にね」

そういいながら奈央は杏に

海と一文字書かれた漆塗り木札を見せる。

「へぇ…

 きれいですね。

 ストラップとは違うんですか」

「ノンノン、

 ぜんぜん違うわ。

 これにはね。

 とっても奥深い秘密があるの」

「秘密ですか?」

「そっ、

 と言ってなにも教えないのは杏ちゃんに失礼だから、

 一つだけ教えてあげる。

 この木札にはね、相手が居るの。

 そっちには”華”って書かれているわ。

 で、あたしは”華”の木札を持っている人を探しているんだけど、

 そんな木札のこと

 杏ちゃんのお婆ちゃん当たりから聞かされていない?」

「え?

 ごめんなさい。

 木札は知りません…」

「そっか、

 杏ちゃんじゃ、なかったか。

 もしも杏ちゃんがそうだったら、

 良かったのに」
 
杏の返事を聞いた奈央はそう呟く。

「じゃっ、

 じゃぁ、私はこれで帰ります。

 今日はありがとうございました」

「うん、バイバイ」

奈央に礼を言って杏はアトリエをあとにした。



そして、家に帰ると、

水泳時に自分が唯一着用することを許された男子用の水着を手にとりため息をつく。

実は、杏は水泳部に復帰していたのである。

アレだけ渋っていた杏の水泳部復帰は、

遠山幸司や水泳部員達からの励ましのお陰ともいえるが、

いじめグループによる杏へのイジメはだんだんエスカレートして来たための、

半ば緊急避難的な水泳部への復帰だった。

水泳部に居ればイジメは受けることはない。

けど、それと引き換えに

ほぼ毎日、杏は男子としての肉体をみなに晒さなくてはならず、

さらに杏が穿くのは俗に競パンと呼ばれるビキニタイプのもの。

下手をすれば女性用のビキニよりも切れ込みは大きいものであった。

そしてそれは男の象徴と筋トレによって引き締まってきた肉体を

引き立てるための装備にすぎないこともわかっていた。



女装時につけているサポータを先に穿いて、

競泳パンツを着用した杏は鏡の前に立つ。

女の子であることを意識して

毎日四肢や陰部の毛の処理をしているので、

杏の股間はさほど毛むくじゃらではなく、

見苦しさはなかった。

また、目立ってきたような体臭をわかりにくくするために

石鹸やシーブリーズをつけているお陰か、

鏡に立つ杏はさわやかな美少年のにおいととらえられてしまう。

よく言おうとすればスレンダーな美少年、

あえて男臭く言えばイケメンマッチョ予備軍というもので、

とてもかつてのような少女がいるとは思えず、

杏は再度絶望感に打ちひしがれることとなった。



杏の水泳部復帰と共にイジメは目立って少なくなり、

そのせいもあってか杏は水泳に打ち込んだ。

そして季節はめぐり、中学3年の夏休み。

男子に変身してから1年以上経過してしまった杏は

誰が見ても一介の男子生徒にしか見えなかった。

それでも、心は未だに女の子であることをかたくなに守っていた。

迫ってきた水泳の大会に備えるため部活の時間も増え、

当然、杏も男子部員として認められているため、

ビキニパンツを穿いて練習に参加しなければならなかった。

水泳のターンの練習中、

杏は今も片思いをしている幸司の顔を思い浮かべた。

幸司は水泳の特待生で、

杏たちの住む街とはかなり離れた高校へ推薦入学が決まったばかり。

「おい、木之下」

「…ハイ!」

「お前、何ボーっとしているんだ?

 しかもパンツを膨らませて」

片思いの人を思い浮かべていた杏はつい自分のペニスを勃起させていた。

「またエッチなことでも考えていたのか?

 よし、お前だけ後でクロール20本と背泳ぎ15本、

 あと筋トレも追加だ!」

体育会系のコーチが指摘したことはごもっともで、

たしかにエッチなことを考えていた。

そして、そのたびにきつい練習が追加されてしまうのである。

そんな練習をさせることは自分を完全に男として扱っているということでもあり、

そのたびに杏の肉体は鍛え上げられ男らしさは増していくこととなるのだが、

それでも杏は何とか自分に言い聞かせて耐えるようにしていた。

なぜなら、男子と一緒の練習に入れられることにより、

片思いの幸司と練習をともにしている時間が増えるからだ。

普段は席が離れていて、

女子のころはまったく違う練習時間・練習メニューだったが、

今では同じ練習時間・練習メニューを共有し、

しかも幸司をかなり身近で見ることが出来るようになったのだ。

さらにチームオーダーとはいえ、

幸司とおそろいの水着を着用しているのだ。

「(幸司君…)」

幸司はさわやかな美少年であり、

張り付いたビキニパンツが彼の筋肉質な体を引き立てている。

そんな彼に憚ることなくピタリ横に付くことができる。

こればかりは男性化してしまったことの唯一の利点であった。



その一方で中学3年生の夏は全員が進路を決める時でもある。

けど杏だけはその進路を決めかねていたのであった。

女子高への進学を希望し、

そして、女子高の制服に袖を通すのが夢の杏。

成績はクラスでは上位に位置し、

学力では十分ではあったが、

男になってしまった今では、

その夢を叶えることは無理であった。

学校でも家でも男扱いされた杏にとっての救いは

休日に奈央のアトリエで女装し、

平日は幸司の水着と同じデザインの水着で泳ぐことだった。

夕方の、いつもの通り練習を終えた杏は急いで奈央のアトリエへと向かう。

今日は今まで着ることの叶わなかった女子用の水着の試着が待っている。

アトリエで女子用の水着を着ることになった杏だったが、

いまの杏は男、しかも水泳でかなり鍛えられている。

そんな杏の前に差し出されたフリフリで花柄のピンク色の水着は

華奢な体であってもむしろ水着がどこか可愛そうだ

「これを…」

「どうぞ」

「はっはい」

簡単なやり取りの後、

杏はビデオの早送りの如く着ていた制服を脱ぎ捨てると、

差し出された水着に足を通す。

自分の体を包み込んでいくその感覚に懐かしさを感じつつ、

ふと杏はあることを思い浮かべてしまった。

もし女の子の体のまま成長したら、

どんなにこの水着が似合っていたことか…

そんな妄想をしていると、

ふと気がついたら杏の右手は股間に向かっていた。

「ああん…

 ああん…」

股間の手は止まることなく勢いよく股間をさする。

そして、

「あっぁぁぁ!」

喘ぎ声を上げながら

杏は勢いよく白い液体を吹き上げてしまったのだ。



「あっあの、

 ごめんなさい、

 こんなに汚しちゃって」

杏は奈央の前で罰の悪そうな顔をすると、

「いいのよ、

 男の子なら仕方ないことだから…」

「男の子…」

奈央からもきつい現実を突きつけられた杏だった。

どんなに女装をしていても自分は男の子…

唯一の心の支えだった女装でも現実を突きつけられた杏にとっては

これがとどめの一撃だっただろう。

その日以降、

杏は何もかもやる気がなくなり、

部屋にこもるようになってしまった。

けど、幸い時期はお盆。

水泳部とは言えどお部活は休みであり。

杏は旅行に行くという家族の声にも応じず、

ひとりで部屋にこもっていたのである。

「どうせ、

 ボクは、男の子なんだ…」

そう言いながら杏は競パン越しにオナニーを続ける。

最近では特に女性の言葉を話すことも

家族や学校から禁止させられているため、

男の言葉も一人称も自然に出せるようになっていた。

やがてお盆休みも終わると、

杏は家族旅行から帰ってきた家族に促されるように部活に顔を出した。

だが、その日は休み明けの部活ということで練習内容が変更され、

部員達の間でひとつのゲームが提示された。

それは、今からランダムでレースを行う6人を2000メートルを泳ぎ、

タイムの遅いものに罰ゲームを行うと提示されたのだ。

その6人に杏が含まれていたのは言うまでもない。

杏は精一杯の力を出し切って泳いだのだが、

もともと女子水泳部にいたためか

あと少しのターンでびりになってしまった。

「うーん、

 もと女性にしては早いし、

 惜しかったけど

 これはルールだから仕方がない」

水泳部の部長は杏と同級生であり、

杏の身の上はよくわかっていた。

しかし、彼も男。

いくらそうだとはいえ杏だけを特別扱いというわけにも行かないのである。

「とりあえず罰ゲームはこの中に入っている内容だ!」

そういうと部長は杏にひとつの封筒を渡した。

そして、そこには想像を絶する罰ゲームの詳細が書かれていたのであった。



深夜、学校の前。

そこには黒い水泳帽と黒いゴーグルを身につけ、

全身をオイルで縫ったビキニパンツ1枚の細マッチョな男が立っていた。

「これじゃあまるで男の変質者じゃない!」

細マッチョ男は文句を言う。

無論彼こそ杏なのだが、

美少年顔をゴーグルとキャップで隠してしまえば単なる男子水泳部員。

「まあ、罰ゲームだし。

 仕方ないってことで。

 まあ、なんかあったらこっちでフォローするから」

部長は仕方ないといわんばかりに肩をたたいた。

筋肉マッチョな図体の割りに割合に適当な面もみせる。

そして、この格好で学校の周囲を1週するというものだった。

いくら夏休みとはえ、こんな夜分遅くに歩く知り合いなどはいなかった。

もしここが学校だったらどうなるのか。

この姿をからかうであろう同級生のギャル達。

自分の競泳パンツの姿にドン引きする後輩。

このような姿に堕ちたことをいいことに写真を撮ったり

さらには自分の股間をなでたりするものがいることだろう。

「いいんだ、どうせボクは完全な男なんだから…」

もはや目の前の宿命にあがらう力すらも消えていた。

杏はちょうど合宿場所の入り口とは真裏のあたりで立ち止まってしまった。

杏は自分が幸司と同じ格好をしていること、

そして杏の妄想の中で自分を幸司に重ね合わせそうにもなっていた。

「自分は幸司と同じ格好をしているんだ…」

幸司と同じ水着、帽子、ゴーグル。

走っている中で杏は幸司のことを考えていた。

と、そのときだった。

キキキッ

闇を切り裂くタイヤの音が響き渡ると、

ガシャンッ!

橋の欄干を突き破って、

1台の幼稚園バスが川に落ちていくではないか。

「え?

 なに?」

深夜帯に指しかかろうとする時間にも関わらず、

園児達の悲鳴を響かせて幼稚園バスは落ちていく、

しかし、落ちていくバスに突然魔方陣が広がると、

今度は逆にバスを押し上げいく。

そして、元の位置に戻したとき、

奇妙な格好をした人影がバスの前に立ちはだかると、

『おのれ、鍵屋っ、

 そこまで我々の邪魔だてをする気かっ』

と闇に向かって声を張り上げたのである。

「なに、

 あれ?」

深夜とはいえ日常のソーンとは思えない展開に杏は呆気にとられる。

すると、

その声を受けるように別の一人が姿を現すと、

『どうかな。

 さぁ、ショータイムだ』

の声と共に男がしている指輪が光り、

現れた魔法陣が彼の体を抜けていく。

そして、始まった全力を尽くしてのバトル。

とそのとき、

『杏っ、

 なに見ているのっ、

 子供が一人、バスから川に落ちたよ』

と奈央の声が響いた。

「え?

 奈央さん?」

思いがけない奈央の言葉に杏は川を見ると、

バシャバシャバシャ…

川の中から音がする。

よく見ると子供がおぼれているではないか。

「子供が溺れている!」

「今助けるからな!」

こう叫ぶとと杏は勢いよく川に飛び込んだ。

まるで、かつて男に変身した自分を助けくれた幸司に重ね合わせるかのように。

ちょうど競泳パンツ一枚と言う

泳ぐことに都合が良い格好をしていたためか、

杏はすぐに子供にたどり着くが、

しかし、夜の川ほど恐ろしいものはない。

子供を助け岸に向かおうとしたそのとき、

杏は方向を見失ってしまったのだ。

「え?

 どっどこ…」

一瞬の判断ミス、

川の流れと共に杏と子供は流されていく。

「あっ

 あっ

 あぁ」

杏はパニックになりながら、

最悪のことを考えたとき、

『パニクらないのっ

 落ち着いてちゃんと立てば、

 足が付くでしょう』

と言う奈央の再び声がすると、

グイッ

まるで母親が転んだ子供を抱き起こすように、

杏の上体が起こされた。

と同時に沈んだ足先が川底に付くと、

「あっ

 あれ」

杏は子供を抱き臍から下を水につけた姿で

立ち上がったのである。



川から上がった杏は部活中に教わった究明処置を行い、

なんとかその子は脈拍を取り戻したのであった。

そのころ…

「木之下のやつ、遅いな」

「いまごろ警備員にでも捕まってるんじゃね?」

一部の心もとない男子部員は笑いながら話した。

その前に、ひとりの変質者が子供を連れて立ちはだかる。

「木之下…その子は…」

その質問に変質者は、

「裏の川で事故があったのよ、

 それでこの子が川に投げ出されたの。

 救急車を早く呼んで!」

と指示をする。

やがて救急車が到着し、

子供は運ばれることとなったが

「ありがとう…

 かっこいいお兄ちゃん…」

とその子は搬送間際にお礼を言ったのであった。

それは間違いなく杏に向けられたものであり、

「かっこいいお兄ちゃんか」

言われた杏はどこか照れくさかった。



【幼稚園バス、川に転落】

普通ならトップニュースになるはずの大事故であったが、

しかし、この事故のニュースはどのマスコミでも報じられることはなく、

また、バスが突き破った欄干もその翌日には修理され、

そんな事故など無かったかのような佇まいに戻った。

しかし、水泳部員が人命救助に及んだことについては学校中に知れ渡り

その当事者である杏は校長から表彰されることとなったのである。

そして迎えた水泳大会。

世界記録には遠く及ばないものの、

杏が出した水泳の記録は中学生としては目を見張るものであり、

それによってこれまで杏を異端視していた者の口を

見事ふさいでしまったのである。



「ええ…推薦入学ですか?」

「あぁ、そうだ」

幸司の進学先と同じ学校への思いがけない推薦。

杏は思わず声を上げてしまうと、

「で、どうする?」

と担任は杏の意向を問いただした。

「はっはい…」

幸司と同じ学校に行ける。

けど、その選択をすると女子高にはいけない。

杏はその場で少し考えると、

「お願いします」

と頭を下げたのであった。



早春、

杏は奈央のもとを久々におとづれた。

「おぉ、お久しぶりじゃない。

 杏ちゃん」

アトリエで新作の製作中の奈央は、

久方ぶりの訪問者を歓迎する。

「あのぅ、

 以前に着せていただいた服、

 譲っていただこうと思って」

奈央に向かって杏はそう切り出すと、

「なるほど、

 春だもんねぇ」

と奈央は呟き、

ガラス戸越しに表を見る。

「でも、

 どういう風の吹き回しぃ?

 持って帰って大丈夫なの?」

「えぇ、少し余裕が出来たので」

あれから数ヶ月、

すっかり女装を諦めたかのように思わせていた杏だったが、

全ては想い人の人と同じところに行くため、

そして誰にもはばかられることなく女装できる環境を得るためで、

だからあえて男子スイマーとして水泳に打ち込んできたのである。

「そういうことだったの」

「すみません」

「いいわ、

 これであなたとはしばらく会えそうもないわね。

 好きなだけ持っていくといいわ。

 サイズは全て直してあるから、

 その体で着ても大丈夫よ」

と頭を下げる杏に向かって奈央は言う。

「え?

 サイズって…」

その言葉に杏は驚き、

そして、以前着た服を試着してみると、

「うっそ、

 体のサイズにあっている、

 どうやって調べたんですか」

そう、男子水泳部員として鍛えられた杏の体に、

奈央の服はピタリと合ったのである。

「ども、君のおかげでいいものを作らせてもらったわ」

”海”の木札を指先で弄びながら、

奈央は驚く杏に向かって礼を言うと、

「あの、

 これまでお礼を言ってませんでしたが、

 色々ありがとうございました」

杏は深々と頭を下げる。

「いいって、

 いいって、

 困ったときがあったら、

 相談に来てね」

と奈央は言う。



この後、

女装した杏はスーツケースを持って奈央のアトリエをあとにした。

行く先は進学する高校の近くに借りた自分の部屋、

そして、その部屋で杏は新たな一歩を踏み出していくのである。



つづく