(6)「い」号海戦

対応できない官僚機構

兵力 経過 結果
 ガタルカナル撤退後、戦力を消耗しきった日本軍は次期作戦を立てられずにいた。連合軍も対ドイツ戦に戦力を裂かれていたので、本格的な反攻作戦は立てられず膠着状態になっていた。従ってガタルカナル撤退後もソロモン、ニューギニア付近での小競り合いが続いた。昭和18年(1943年)2月28日、この戦いで脇役だった陸軍がニューギニア戦線に戦力を増強させる為、ラエに約6千9百名を上陸させる作戦を実施、が、連合国軍の反撃に会い、ほぼ全滅するに至った。ガタルカナル同様、ニューギニア戦線の制空権も連合国軍に奪われていたのだ。それを奪回する為、日本海軍初の連合艦隊司令長官が陸上で指揮する大規模な作戦が展開される事になる。
(6−1)「い」号作戦の意味
 制空権ない所に制海権なし。日本海軍はガタルカナルや他の戦いで嫌と言う程これを味わってきた。しかし日本陸軍はそれを良く理解してなく、しかもこの戦いに於いては完全に脇役になってしまった日本陸軍は、ニューギニアを死守する事で主役になろうと考えた。そこでラエに主力部隊を送って連合国軍に対抗しようとした。が、そう甘くはいかなかった。連合国軍の基地航空隊に攻撃され、ほぼ全滅する事になり、ニューギニア戦線への補給路は断たれ、ガタルカナルの二の舞になりつつあった。そこで日本海軍はありったけの航空機を投入し、連合国軍の基地を空襲する計画を立て「い号作戦」と名付けられた。
(6−2)総力戦
 この作戦で画期的な事は、連合艦隊司令長官である山本五十六が、自ら直接指揮を執る事になり、しかもラバウル基地で指揮を執る事になった。長い日本海軍の歴史の中でも、司令長官が陸上で直接指揮をする事は初めての事で、しかも最前線で指揮するのもあまり無い事で、山本長官の意気込みが感じられる。が、精一杯集められるだけ集めた航空機だったが、総計で348機に過ぎず、真珠湾攻撃に360機よりも少ない状況であった。この時、ガタルカナルの消耗戦で、真珠湾以来の歴戦の勇士だったパイロットはほとんど戦死し、まずパイロットを育てる事が必要となっていた。航空機は作ろうとすればいくらでも作れる。が、パイロットを育てるには年数が必要なのである。
(6−3)転用
 当時、南雲に変わって機動部隊の司令長官となっていた小沢治三郎が手塩にかけて育てたパイロットが投入されたが、小沢はこの作戦に反対していた。それは、まだ完全にパイロットが育っていなかった事と、あくまで機動部隊を復活させる為に育てたにも関わらず、空母用の航空機をこんな陸上作戦に転用してしまったら機動部隊復活が遅れる事を懸念したからであった。陸軍の航空機が全く役に立たない状況でのこの反攻作戦では、海軍の航空機を使う以外に方法はなく、小沢も山本長官のこの作戦をしぶしぶ了解したのだった。
(6−4)状況
 4月7日、X攻撃と呼ばれたこの攻撃は、ゼロ戦157機、爆撃機67機をもってガタルカナル基地を攻撃、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻、輸送船10隻を撃沈する成果を上げた。続く11日、Y2攻撃と呼ばれたこの攻撃は、ゼロ戦72機、爆撃機21機をもってニューギニアのオロ湾とハーベー港を攻撃、駆逐艦1隻、輸送艦4隻をを撃沈。翌12日、Y攻撃と呼ばれた攻撃は、ゼロ戦131機、爆撃機44機をもってポートモレスビー基地を攻撃、14日にはY1、Y2攻撃と呼ばれた攻撃は、ゼロ戦133機、爆撃機60機でミルン湾とラビ基地を攻撃、輸送艦4隻、基地を爆破する成果を上げた。山本長官は一定の成果を上げたと判断し、「い」号作戦の終結を宣言した。