(5−2)第二次ソロモン海戦

甘く見た反攻作戦

兵力 経過 結果
 連合艦隊司令長官の山本五十六は、ソロモン諸島でのアメリカ軍の作戦を、本格的な反攻作戦と判断して、機動部隊の出動を命令する。昭和17年(1942)8月11日に、第二艦隊司令長官近藤信竹中将率いる前進部隊に、16日には第三艦隊司令長官南雲忠一中将率いる機動部隊にトラック進出を命じ、17日には自らも連合艦隊を率いてトラックに向かった。ここに至り、日本とアメリカはソロモン諸島での制空権をめぐって、いや、ガタルカナル島のたった一つの飛行場の為に大決戦に突入する。ガタルカナルでは苦戦を強いられ、一木支隊の増援隊(約千五百名)の上陸作戦が敢行される事になった。これを支援する為に機動部隊を派遣、そこでアメリカ機動部隊と戦う事になり、第二次ソロモン海戦が開始される。
(5−2−1)失った制空権
 昭和17年(1942年)8月24日、南雲中将率いる機動部隊本隊(空母翔鶴、瑞鶴中心)をソロモン諸島の当方を警備し、原少将率いる支隊(空母龍驤中心)が上陸船団の護衛をしていた。原少将率いる支隊は、ガタルカナルの飛行場を空襲するが、その時に敵機の攻撃を受け、空母龍驤が沈没した。一方本隊は、偵察機により敵機動部隊を発見し、直ちに攻撃をかけ、空母エンタープライズを中破した。が、支隊の空母龍驤が撃沈した事によりこの作戦は中止が決定し、同時に、ガタルカナルの制空権は完全に連合軍の手に墜ちた事を意味した。今後ガタルカナルへの作戦は、速度の速い駆逐艦による夜間攻撃に限定される事になる。
(5−2−2)アメリカの本音
 ガタルカナルへの上陸を慣行したアメリカ率いる連合軍だったが、実は太平洋戦線にはそれほど戦力を投入する訳にはいかなかった。アメリカの本音は、ナチスドイツに苦しんでいたヨーロッパ戦線を何とかしたかった。しかし、戦争突入の理由を「リメンバー・パール・ハーバー」とした所から、対日本だったら問題はないのだが、対ドイツ戦に関して戦う理由がない。まだ宣戦布告していない時に、イギリスへの郵送船が、ドイツのUボートによって撃沈された事は何度もあったが、アメリカ国民を戦争に駆り出す程の説得力はなかった。ここにアメリカの矛盾がある。従って軍事的には対日戦を主力にしたいのだが、政治的には対独戦を主力にしたい。アメリカは当時の日本と違って、シビリアンコントロールがうまくいってる為に、軍事より政治の判断が重要とされる。当時のアメリカのルーズベルト大統領は、ヨーロッパ上陸を企図したが、イギリスのチャーチル首相に反対され、その矛先を北アフリカに向けた。従って主力の大半は、北アフリカ戦線に投入される事になった。だからと言って太平洋戦線を放ってく事はできないし、当時の軍人は対日戦を主張していたのを無視もできないので、取り敢えずソロモン諸島の小島、ガタルカナルを目標にしたのである。
(5−2−3)認識の甘さ
 以上のような理由により、あまり大軍を対日戦に投入する事はできなかった。ガタルカナルに上陸したのは、1海兵師団(約2万)だけで、それ以上投入する事はできなかった。それに、ニューギニアでも日本陸軍がポートモレスビーに向かっている為、それを阻止する為の軍も必要としていた。それに対する日本も、アメリカの本格的な反抗と考える指導者は少なく、何よりもアメリカ軍をなめていた。だから一木支隊のたった千名の小部隊を上陸させれば、アメリカ軍は駆逐できると考えたのである。ここでもし一気に片づける事を考えて大軍を送り込む事さえしていれば、ガタルカナルは簡単に奪回できた筈である。ところが、そこまでの認識がなかった。大本営は、アメリカ軍の数は二千くらいと考えていた。今までの戦いの経験により、千名を派遣させれば問題はないと思った訳である。ところが今回は、大軍でちゃんと準備し、装備された大軍だった。認識が甘すぎたのである。アメリカがいったい何を考えているのか?、何が目的でガタルカナルに上陸してきたのか?、そして、どのくらいの戦力を投入してきたのかを冷静に判断し、戦力を出し惜しみせずに戦っていればここまで苦しむ事にはならなかったのである。制空権を取られてからの反抗ではあまりのも遅すぎたのだ。
(5−2−4)遅すぎた決断
 この後、駆逐艦による夜間の攻撃と輸送を繰り返す事になる。増援部隊として陸軍から川口支隊(約三千名)が、8月28日〜9月7日までの間になんとかガタルカナルに上陸し攻撃をするが、9月15日には失敗に終わる。そこで初めて大本営は重い腰を上げ、本格的にガタルカナル奪還に向かう事になる。アメリカ軍がガタルカナルの上陸して一ヶ月以上もたった後で、既にソロモン諸島の制空権は奪われた後での決断は、余りにも遅すぎた決断であった。