(5−7)ケ号作戦

不幸中の幸い

 「ケ号作戦」と聞くと、何か重要な作戦かと思われるかもしれないが、何て事はなくガタルカナル撤退作戦の事である。何の計画性もなく小出しにガタルカナル上陸作戦を行い、その度に失敗してジャングルに隠れていた影響で、ガタルカナルのジャングルにはかなりの日本兵が取り残されていた。ガタルカナル放棄を決めた大本営だったが、その残された兵を救出する作戦、それが「ケ号作戦」である。
(5−7−1)あり作戦
 昭和十七年(1942年)十二月三十一日。大本営はガタルカナル放棄を決定する。太平洋戦争における日本軍初めての後退である。そしてガタルカナルに残された日本兵を救う為に撤退作戦が考案され、「ケ号作戦」と名付けられ、翌年二月に実施する事になる。その作戦の準備行動として、ガタルカナルへの攻撃と共に、「あり作戦」と言われた潜水艦による物資の輸送も行われた。もはやガタルカナル周辺の制海権、制空権は完全にアメリカ軍に握られていて、海中から物資を輸送するしか方法がなかったのである。情けない限りである。
(5−7−2)限界
 そんなセコイ作戦を実施しながら「ケ号作戦」は敢行された。と言ってもガタルカナル周辺の制海権、制空権はアメリカ軍に握られていたので、夜間に行う事、そして何よりも高速船である事が条件となる。アメリカに気づかれずそっと日本兵を救い出し、パッと逃げなければならないからである。日本の輸送船は低速で使えず、従来の作戦通り、駆逐艦を輸送船変わりに使う方法がなされた。駆逐艦は輸送の為に作られた軍艦ではない。が、駆逐艦を輸送船団として使わざるを得なかった所に日本軍の限界があったと言える。
(5−7−3)作戦成功
 昭和十八年(1943年)二月一日深夜、第一次作戦が実施され、駆逐艦十九隻がガタルカナルに接近し救出に成功した。続く二月四日に第二次作戦が実施され、駆逐艦二十隻からなる艦隊で救出に成功。最後に二月七日に第三次作戦が実施され、駆逐艦十六隻からなる艦隊で救出に成功。計一万人以上の日本兵の救出に成功した。この作戦の被害は駆逐艦一隻が撃沈、二隻が大破でとどまった。
(5−7−4)理由
 今まで失敗続きだった日本にしてみれば、珍しく成功した作戦になった。何度も繰り返すが、ガタルカナル周辺の制海権、制空権は完全にアメリカに握られており、そういった中でのこの大成功は幸運としか言いようがない。今まで散々不幸が続いていたガタルカナルの戦いであったが、この作戦は不幸中の幸いだったのかもしれない。最もその頃には、日本軍の暗号はアメリカ軍に解読されていたので、日本がガタルカナル放棄を決めた事でムダな損害を避ける為に、アメリカ軍もそれほどの反撃はしなかったのが本当の理由に思えてならない。
(5−7−5)不幸中の幸い
 しかしこの頃の日本軍にはまだ余裕があったのであろう。ガタルカナルに残っていた日本兵を救出するなど、その後の太平洋戦争の歴史を考えてみれば珍しい事だったと思う。この後、ニューギニアを初めとして、マキン、タワラ、アッツ、サイパンと玉砕が続く。玉砕と言えばいくらかはカッコが良いが、簡単に言ってしまえば必死に戦っていた日本兵を見捨てたに他ならず、救出する気も、そしてそんな兵力も残っていなかったのだ。それを考えれば、「餓島」と呼ばれたりしたガタルカナルの戦いではあったが、それ以後の戦いよりかはまだ良い方だったのかもしれない。そういう意味でも「不幸中の幸い」だったのかもしれない。