Date: Fri, 17 Jul 1998 20:25:06 +0900
To: ihmml@iijnet.or.jp
From: Yoichi Hamada <yhamada@ppp.bekkoame.or.jp>
Subject: [ihmml 1901] 【参考資料1】メジュゴリエ問題の総括とihmmlの指導司祭たる成相明人神父様への要望書

                             1998年6月23日

ihmml指導司祭
成相明人神父様

                              ihmml管理人
                               濱田洋一
                               丹野里絵
                               川崎重行

メジュゴリエ問題の総括とihmmlの指導司祭たる成相明人神父様への要望書

はじめに

 本来は書面で申し送る事柄ですが、火急の件につき電子メールで送信すること
をお許し下さい。

 成相神父様による再三にわたるメジュゴリエ否定発言は多くの会員の間で無視
できぬレベルの波紋を惹起し、ひいてはihmmlの将来にかかわる大問題に発展し
てしまいました。問題発生以来、私ども管理人は全員例外なく多数の会員の方々
よりメジュゴリエに関する夥しい数の個人メールを受信し、その対処になす術な
く思案に暮れておりました。

 率直に申し上げて、神父様の名誉を守る為、不本意ながら敢えて「ことなかれ
主義」に徹し、ネット上でコメントすることもなくひたすら嵐の過ぎ去るのを待
ち望んでおりました。しかしながら会員の切実な気持ちは一向に衰えることを知
らず、また私どもが冷静に判断すればするほど理に適った内容の陳情に思え、致
し方なく本状送付の運びとなりましたことをご了承下さい。

 本状は神父様を除くihmml管理人の総意に基づくものであり、ihmmlの進路に重
大な影響を及ぼすものと思われます。まずは標題の件につき、諸々の状況を観察
し、私ども管理人の意見を申し述べ、問題の所在を明確にした上、神父様への要
望事項を提出させていただきますので、宜しくご回答の程、お願い申し上げま
す。

1. 序論(聖母出現をめぐる混乱について)

 本論に入ります前に、聖母出現をめぐる教会当局のスタンスとこの種の出来事
に不可避な民衆の混乱について再確認しておく必要があろうかと存じます。

●長期かつ慎重な調査の最中に必ず起きる論争

 メジュゴリエに限らず歴史的に世界各地で無数の聖母出現が報告されているの
はご周知の通りです。その都度、教会当局は真偽の判定にこのうえなく慎重な態
度で対処してまいりました。最も有名な聖母出現といわれるルルド、ファティ
マ、グァダルーペにしても公式見解が出るまでに気の遠くなりそうな年月を要し、
それまでの間、聖職者、信徒の中には常に「出現」の賛成派と反対派の対立が
あったことは否めない事実です。いずれの「出現」も奇跡による裏付けがありな
がら今度はその奇跡の出所をめぐる議論、すなわち奇跡が天からの奇跡か下(地
獄=サタン)からの惑わしかで意見が激しく対立し、正式に「出現」が公認される
までの間、不毛な論争が繰り返されてきた歴史的事実を想起する必要を痛切に感
じます。

●中傷は決め手にならず

 又、このような論戦では相手側のスキャンダルの暴露合戦に移行することも少
なくなく、関係者のスキャンダルでもって出現の真実性が減じることすらありま
す。スキャンダルの中には虚偽のスキャンダルも非常に多く、聖母のメッセージ
が人間的闘争の犠牲になり、その伝播が妨げられるのは宿命であると心得るべき
です。

●ラ・サレットの例

 教会当局が正式に認可したとされるラ・サレットにおける聖母出現も長い間、
幻視者の行動に疑問を投げかける向きが多く、公認されるまでの間、ラ・サレッ
トは疑惑の出現地の扱いに甘んじておりました。しかし、公認後、賢明な人々は
幻視者及び関係者の行動が出現の識別の一手段ではあっても絶対的な決め手には
成り得ないことを学びました。

●常に上回る「出現」反対派の声

 さらに注記すべきは、公式見解が出るまでの間、教会は誤りなく信者を司牧す
る必要性と私的啓示が公的啓示に勝るポジションを得ないようにする配慮から如
何なる出現に関しても一見、無関心を装うかの如き態度を示し続けてまいりまし
た。教会が沈黙を守ることをよいことに反対派の声が賛成派を勢力の上では圧倒
してきたことも否めない事実です。

 これに拍車をかけるように最近の風潮である合理主義一辺倒の考え方が教会内
部にも入り込み、「科学的でないものは信ずるに値せず」という態度を露骨に示
す聖職者の数も急増した為、如何なる出現をめぐる論争も無関心派を含め反対派
が圧倒的優勢に立っていることも昨今の特徴として位置づけられます。

 また米国が顕著な例ですが、正しい聖母信心を持った聖職者が合理主義の見地
からではなく「教導職への忠誠」を論拠とする切り口で、限りなく真実に近いと
される出現までも否定する書籍を出版するという傾向が見られます。こちらの方
は、合理主義者の主張より一見、霊的に豊かに見える為、相当な見識者までが一
度は近づいた聖母のメッセージから引き離される結果をもたらしていることはご
存知の通りです。

●どの「出現」にも混乱はつきもの

 しかしながら、教会は飽くまでも誤った判定を避けるために過度に慎重な態度
をとり、果てしない歳月をかけて調査を進める訳であり、反対派に簡単に与すよ
うな愚を犯している訳ではありません。

 ルルドやファティマ、そして秋田でも初期の頃は大変な混乱がありました。秋
田については後述致しますが、心ない批判があたかも聖母の出現が偽りであるか
のような雰囲気を醸成した時期もありました。マスコミの中でもっとも早く反応
を示したカトリックグラフ誌は多くの小教区の不買運動の餌食となり廃刊に追い
込まれました。これを見て「偽りの出現に果実なし」と即断して否定論をふりか
ざす人が増えました。秋田に限らずどこの出現地でも多くの人々が反対ののろし
を上げ、重箱の隅をつつくような手口で反証を試み、本当の真偽がわからぬまま
迷宮入りしてしまった「出現」もあります。

 何処に聖母が現れようと「出現」が真実であろうとこの種の出来事には必ず混
乱がつきもので、公認されるまでの間、道のりは平たんではありません。メジュ
ゴリエもその途上にあり、教会当局からの正式な判断が待たれます。

 本論に入ります前に今一度、この事実を確認致したく長い序論と相成りました。

2. メジュゴリエに対する私どもの対応

●事態の静観

 メジュゴリエは今世紀に多発しているといわれる無数の聖母出現地の中でも
ファティマ以来の大型巡礼地に成長致しました。多くの巡礼者に無数の回心が起
こり、善い実を結んでいることから私どもは教会の公式見解が出るまでの間、事
態を暖かく見守ってゆきたいと考えております。

●成相神父様との見解の相違

 メジュゴリエに関して事態を静かに見守りたいと考える私ども管理人とメジュ
ゴリエを異端とし、ihmmlでメジュゴリエ関連の話題を禁止された神父様の間に
多少のギャップが生じてしまいましたことは遺憾の極みです。

 今まで鉄の連携を誇っていた私どもと神父様との関係ですが、メジュゴリエを
めぐり、というより今後のihmmlの運営に対する責任意識の発露より本状送付に
至ったことは断腸の思いです。人間の常として、如何に尊敬申し上げるお方とい
えども時として見解の相違が起こることは止むを得ないことと心得るより悲しみ
の発散法が見当たりません。

3. メジュゴリエを即座に否定できない理由

 ところで、私どもがメジュゴリエを現時点で否定しない理由はこの種の出現の
真偽を見極めるリトマス試験紙の役割を担う「実を見て木を知る」の姿勢にほか
なりません。いかなる奇跡にも勝る価値があると言われる「村全体の奇跡的な回
心」、多くの巡礼者の神への立ち返りなど一般常識ではおよそ考えられない霊的
な実りに私どもは目を見張っておりますが、これは神父様もすでにご承知のこと
ですので、他の理由も列記致します。

(1)メッセージがカトリックの教義に一致している

●母性愛を感じる暖かいメッセージ

 一般に偽の聖母出現といわれるものはそのメッセージの中にカトリックの教義
に矛盾する内容が必ず含まれております。非常に巧妙に真理の中にわずかな誤謬
の種を蒔くことはサタンの専売特許ともいえるトリックですが、たいした神学知
識を有していなくても、メッセージの底流に流れる恐怖感、薄気味悪さは神学的
証明を待つまでもなく「出現」の偽善性を証しするのに十分といえます。メジュ
ゴリエのメッセージにはそれがなくむしろ小川に流れる清冽な水の如き清涼感に
支配されております。断食のすすめなど一見すれば厳しい指示も含まれますが、
村全体が実行したということは村民がメッセージの持つ暖かさに触れたからにほ
かなりません。偽の出現地であれば、内容的にも文章的にも薄気味悪いメッセー
ジが通例ですので、それを真に受けた者は恐怖心から来る断食をしますので、笑
顔が見られることはありません。

●偽出現の例

 偽預言者といえば、リトルペブル(ウィリアム・カム)、ゴールデンロゼット
(ミミ萩原)、小さき花のテレジア(山本京子)などの名があまりにも有名です
が、米国ではベロニカ・ルーケン、カナダにはソーンブッシュ、シンガポールに
はホワイトローズなどの面々が神父様が引用されたパルマル・デ・トロヤ(スペ
イン)のクレメンテのような働きをしております。皆一様にメッセージの内容が
あまりにも異常であり、支持者を教会、あるいは教会教導職の権威から引き離す
結果をもたらしておりますが、メジュゴリエは全くその逆といえます。

 秋田と同じく人類の御父に対するの忘恩行為をつぐなう為に何をすべきかとい
うことを聖母は母親的立場から優しく説いているだけです。いとも簡単なことを
なかなか実行できない「子供たち」を憐れみ、幾度も幾度も忍耐強く親切に繰り
返しおっしゃっているだけのことです。

 先に例示致しました偽預言者の知識は個人の霊的成長には全く無用なものです
が、出現地の真偽を識別する上では大いに役立ちます。

●あら探しをすれば全ての出現地を潰せる 

 あら探しをすれば解釈次第で正真正銘の聖母メッセージでさえ、いくらでも疑
惑の余地があります。司教書簡で正式に認可された秋田の出現にも聖母がシス
ター笹川に伝えた言葉「従順、清貧、貞潔」が単語の並べ方の順序が違うという
理由で偽物と主張する神学者もおりますし、「これ以上、罪が続くのならもはや
罪の赦しはなくいなるでしょう」というメッセージもカトリックの教義に反する
として秋田否定の出版をした聖職者もかつておりました。奇しくも米国在住の司
祭でした。その結果、「聖霊に反する罪は赦されない」という聖書の言葉を知ら
ぬ人々が秋田を認めなくなりました。もっとも私的啓示ですから認めないのは勝
手です。

(2)事実ではない住民の教会離れ

●フランシスコ会の絶大な人気

 一部で針小棒大に喧伝されるフランシスコ会と教区の司教の対立は「出現」とは全
く無関係な歴史的事情に起因するものです。出現によって関係が悪化した、ある
いは分裂したと見るのは大きな間違いです。元々、当地にはそのような傾向が根
付いていたのです。その昔、イスラム教徒によるカトリック迫害の時期にフラン
シスコ会司祭は殉教してまでカトリック信仰を守り抜いたという痛ましい歴史が
当地にはあり、教区民は心情的にフランシスコ会の熱烈なファンであるにすぎま
せん。

●フランシスコ会の歴史的特徴 

 ご存知のようにフランシスコ会は情熱が売り物の修道会でした。「でした」と
過去形で書くのは現在の状況は知らないからです。

 地域住民に溶け込み、聖フランシスコがそうであったように将来を見通す戦略
家というよりは与えられた一瞬一瞬を精一杯生きる人が大半のようでした。我が
国のキリスト教黎明期においても、長期的展望に立ち、敢えて為政者と親しくし
て多少の妥協を甘受したイエズス会士とは対照的にフランシスコ会士は純情を貫
き通し、華々しく散っていったというではありませんか。地域住民が心情的にフ
ランシスコ会のファンであることをやめさせることはもはや不可能です。これは
一致に反するという次元ではないと思います。卑近な例を用いれば、鹿児島の司
教と神父様の間で若干の意見のギャップがある時、神父様に心酔している垂水教
会の方が司教ではなく神父様の肩を持ってしまうようなかわいらしい出来事と大
差ないといえないでしょうか。この程度のことに立腹する司教ならば人間の器が
小さいということです。しかし、公然と司教に反旗を翻すとなれば話は別です。
司教は信者を取り締まる義務がありますし、日頃は『ヴァティカンの道』などで
日本の司教団に論戦を挑んでおられる神父様もこの時ばかりは一時休戦されて、
ご自分のファンを司教に従わせるように指導されることでしょう。

●意見の上申と反抗の違い

 メジュゴリエの聖ジェームス教会では毎年、堅信式の時に司教の訪問がありま
すが、いつも暖かい歓迎ムードがあると聞きます。沢山人がいれば中には一人く
らい「司教は来るな」と言う不心得者もいるかもしれませんが、実際にはフラン
シスコ会司祭が司教に従順を尽くすように指導しています。

 しかしながら出現に関しては本来、長い年月をかけて慎重かつ客観的に調査す
べきところをいともたやすく否定され、証拠の不十分まま闇に葬られてしまって
はたまったものではありません。フランシスコ会司祭は聖母の証人としての使命
感から勢い長上に意見を上申することになりますが、それが不従順のレッテルを
貼られる結果となります。

 小さなことで揉めるのは人間の弱さであり、なんでも杓子定規に物事を識別する
のはキリスト教的態度と相容れないものがあることは明白です。

(3)現地司教の特別な事情

●バチカンが受理しなかった調査委員会の決議

 教会法において私的啓示の判定は現地司教に委ねられていますが、ご存知のよ
うにメジュゴリエの場合、異例の措置がとられております。バチカンの教理聖省
長官、ラッチンガー枢機卿はメジュゴリエの司教に対して新たに組織するユーゴ
スラビアの全司教による公正な調査委員会が最終決定を下すまでの間、メジュゴ
リエに関する一切のコメントを発表することを禁じました。これにより全てはふ
りだしに戻り、過去における司教の否定発言も効力を失ったと見るのが識者の見
解となっております。これには複雑な事情が絡んでおります。はじめメジュゴリ
エに好意的であった司教が突然、豹変し、メジュゴリエを否定する発言をした経
緯は一部に伝えられますように彼が「フランシスコ会陰謀説」を疑ったことに始
まります。教区民が自分の指導に従わなくなると恐れをなした司教は調査委員会
(第一次)を招集し、委員会はメジュゴリエの聖母出現を否定するに至りました
が、何故、バチカンはその決議を受け入れなかったのでしょうか。第一次調査委
員会の決議が十分に説得力があるものであればラッチンガー枢機卿はそれを諒と
し、メジュゴリエ論争に終止符を打たれた筈です。

●いまだ終了していない正式調査

 今、バチカンに秋田の聖母出現の真偽を問い正す質問をすれば必ず伊藤司教の
司教書簡が引用され、それに何かを付け加えることも差し引くこともありませ
ん。つまり、調査は終了したという態度が示唆されます。しかし、メジュゴリエ
に関して同様の質問をするとバチカンの回答はお決まりのように「慎重に調査
中」と返ってくるだけで過去の司教の発言を引用して「出現」を否定することは
ありません。これは調査中につき現段階では肯定も否定もできない状態を意味す
るもので、否定を意味するものではありません。

●早まった判断、客観性に欠ける考察は怪我のもと 

 秋田でもそうであったように調査委員会の構成メンバーが思想的、立場的にバ
ランスを欠く時、十中八九、調査委員会がまともな決議を出さぬことはもはや歴
史の教訓となっております。

 今でこそ司教の公認で白昼堂々と巡礼が許される秋田ですが、初期の頃は伊藤
司教も公的巡礼を禁止する旨の公告をカトリック新聞に発表しています。もちろ
ん、これは自らに課せられた重責から来る慎重な姿勢を意味するもので司教が否
定論に傾いていた訳ではありません。メジュゴリエも同様で、バチカンは公的巡
礼を禁止する旨の通達を出しましたが、誤解したジャーナリストとの会見でナバ
ロ広報長官は私的巡礼には制限を加えぬことと公的巡礼の禁止が否定を意味する
ものではないことを言明されました。これらは通信社からの配信記事でご周知の
通りです。

 秋田では司教と教皇庁大使との相談の結果、調査委員会が発足致しましたが、
調査委員会はわずか2年というずさんな調査の結果、否定的結論を出しました。
調査委員会はこの種の現象に精通されているとされるエヴァンジェリスタ神父
(イエズス会)が中心となって組織されましたが、エヴァンジェリスタ神父は始
めから秋田を潰す意向を有していた為、最終的にはシスター笹川を「特殊な精神
分裂者」に仕立て上げ、揚げ句の果てには超能力者のレッテルを貼り、聖母像の
涙も全て彼女の仕業という結論を下しました。

 誠に信じられない話ですが、現在も十分な情報が行き渡っていない為、調査委
員会の決定に従う人々は後を絶たぬのが現状です。例えば、ある司祭が信徒にこ
れらの経緯を話すとすれば、予備知識を持たぬ者にとってはこれだけで秋田を否
定するに足る十分な根拠と成り得ます。メジュゴリエと同様、秋田の調査委会も
実に短期間で的外れな結論を出しており、現在では、秋田に関する調査委員会の
決議は全て無効であるというのが通説です。

 ちなみに管理人の一人が秋田の調査委員会の調査結果(否定)の詳細とその反
論をまとめた資料を所持しており、ご依頼があれば提出可能です。これを読むと
いかに神聖な神の直接介入(真の聖母出現)といえども始めから疑いの目で見れ
ばメッセージや出来事はいくらでも曲解できることがわかり寒気を覚えます。

●バチカンへの忠誠

 結局、秋田でもメジュゴリエでも調査委員会の報告ではなく司教書簡による声
明が重要になる訳ですが、前述の如くメジュゴリエの司教はバチカンを代表する
ラッチンガー教理聖省長官から「口止め」されている状態ですので、メジュゴリ
エの真偽をめぐる議論の際、この特殊事情を鑑み、誰一人、司教決済に盲従でき
ない状況にあります。何故ならば、ラッチンガー枢機卿はメジュゴリエの司教よ
り教会位階の上位者であり、世界各地で報告される聖母出現の判断にかけては教
皇を除けば最高責任者の地位にある方であるからです。

 教会法で現地司教に委ねられた判断といえども最高責任者が直接介入される事
態となれば話は全く別のものになります。したがってラッチンガー長官の意向を
無視して禁じられたコメントを連発するメジュゴリエの司教に故意に盲従する
者、及び一部の人間が捏造したとされる「ラッチンガーはそんなことを言わな
かった」というデマを助長する者はその行為に悪意が含まれていれば間違いなく
終わりの時に神の前で裁きを受けることになりましょう。

 「ラッチンガーが司教に口止めしていない」というデマが百歩譲って真実であ
ると仮定してもバチカンへの忠誠の為、彼に従った人に科があるはずがありませ
ん。実際に複数のマスメディアを通して世界に行き渡った情報(ラッチンガー長
官によるメジュゴリエの司教への発言封鎖)の真相を調べることは市井の人間に
とっておよそ不可能なことです。マスコミ情報を疑うことも知識人の努めの一つ
でしょうが、このような通達の一つひとつを疑っていてはバチカン発の全ての情
報に疑問を呈するよりありません。私ども管理人は報道されております通りにラッ
チンガー長官の意向に従う次第です。これが私ども流のバチカンへの忠誠といえ
ます。

 メジュゴリエの司教は出現に関して一切コメントできぬ立場にありながらラッ
チンガー枢機卿からの命令を無視して今でも平気でマスコミの会見に応じ、言い
たい放題、否定発言を繰り返しているありさまです。識者の間ではこの司教こそ
が従順を欠いているという見方が最有力となっております。このような異常な状
況下で尚、司教を支持し、バチカンの意向に背を向けるということであれば、司
教もろとも聖座から離れることになり、そういう人々の一団こそが異端というこ
とにならないでしょうか。少なくても私どもはバチカンから離れたくはありませ
ん。

●正義を守る為の不従順

 幾分、誇張気味の小見出しに恐縮しておりますが、先に述べましたように神父
様は日頃から日本の司教団、もしくは特定の司教を相手どり論戦を挑んでおられ
ます。私どもは論旨において神父様のご意見の方にシンパシーを感じるものです
が、疑問もない訳ではございません。非礼を省みずに申し上げれば、神父様が一
司祭の身である以上、とりわけ教区司祭でいらっしゃる以上、司教への従順が求
められる筈です。それを先刻ご承知の上で、一戦交えておられるのはきっと日本
の司教団もしくは特定の司教がバチカンと一致していないという憂慮からではな
いでしょうか。これが果たして不従順にあたるかどうかの判断は私どもにはでき
ません。何故なら正義を守る戦いにおいてはある程度の不協和音は致し方がない
とも思えるからです。

 ところが、神父様がメジュゴリエのことを論じられる時、いつもメジュゴリエ
の司教とずさんな調査委員会のコメントをことのほか重要視されるのは何故で
しょうか。前述の如く司教がバチカン(ラッチンガー長官)より発言を禁じられ
ている特殊状況であれば尚のことバチカンに不従順な司教に矛先を向ける方が神
父様の本領発揮といえるのではないでしょうか。日本の司教団もしくは特定の司
教に「バチカンと一致せよ」と勇敢にも声高に発言されておられる神父様が何
故、同様の姿勢をメジュゴリエの不従順司教に対して示されないのでしょうか。
ある意味においてバチカンから離れた司教を支持される理由が私どもにはわかり
ません。司教がバチカンと一致していない時、バチカンに従えば司教とは一致で
きませんが、このような結果的不一致は止むを得ないというのが神父様の持論で
はなかったでしょうか。私どもはこれ以上に難しい話はできません。

(4)巡礼地としての規模

●限度を超えたサタンの悪戯を神はお許しになるか

 いわゆる偽物の出現は数多くあり、それなりに「巡礼者」が存在しますが、不
思議なことに大規模な巡礼地とはなりません。偽物で有名な地としてリトルペブ
ルの本拠地、ナウラ(オーストラリア)がよく知られておりますが、世界各国か
ら人々が殺到するということはまずありません。ゴールデンロゼットの本拠地、
広島も同様です。いずれもメッセージの内容がお粗末で、聖母からのものと考え
られないという事情もありますが、神様が自らシャットアウトされているように
も思えます。計りしれないみ摂理により、人間を試す為、時にサタンの悪戯をも
黙認するとされる神様でもサタンに限度を超えた行動は許さないのではないで
しょうか。

●偽出現地との比較考察

 メジュゴリエには今までに何千万人という巡礼者が世界各国から訪れて、その
善い実を持ち帰っているのは事実です。ボスニアの寒村にすぎないメジュゴリエ
がここまで発展したこと自体、驚異的です。これが全て悪の主導による成果であ
るとすれば、神様はこれほど大規模な悪の所業にも目を瞑っておられるという仮
説が成り立ちます。すると、では何故、他の偽出現地もメジュゴリエ同様に大規
模化しないのか、という逆説的疑問が生まれます。聖母出現を識別するためには
偽出現地との比較考察も重要です。神父様が引用されたパルマル・デ・トロヤな
どはまさに偽出現地の要件を満たすものであり、クレメンテは自らを次期教皇と
称したリトルペブルに相通じるものがあります。

 メジュゴリエの場合、メッセージの内容はもちろんのこと、規模が桁違いであ
ることや誰もが神の愛を感じる平和な雰囲気が他の偽出現地と大きく一線を画す
ものとなっております。

4. ihmmlにおける問題

●本論のはじまり

 さて、これまでに聖母出現全般にわたる教会当局の見解と不可避ともいえる
人々の混乱に言及し、さらにメジュゴリエに関する私どもの所見を申し述べまし
た。長文になりましたが、これは恐れ多くも神父様に要望を出す以上、ありのま
まの告白をすることが私どもの義務であり仁義でもあると考えた結果にほかなり
ません。しかし、本論はここから始まります。

●信念の押しつけと信仰箇条の違い

 私的啓示は受け入れようと拒否しようと本人の自由に属する事柄です。した
がって、神父様が一個人としてメジュゴリエを否定されることにはなんら問題が
ございません。しかしながら、如何にお強い信念があるからといって私的啓示に
関する一個人の信念を会員に押しつけるのは大変な問題であると考えざるを得ま
せん。

 誰かがカトリックの教義を脅かす発言をした場合、どのような組織においても
指導司祭はその誤謬を指摘し、正しい信仰スタイルに矯正する責務を負っており
ます。このような場合、神父様は我が国屈指の硬派司祭として大活躍されます。
その点につきましては私どもも心から敬服する次第です。

●会員に与えた衝撃

 しかし、ihmmlという小グループながら公的な場において、指導司祭のポジ
ションを使い、メジュゴリエが偽物であるという「個人的信念」を信仰箇条の指
導よろしく会員に押しつけるのは大きな問題と言わざるを得ません。少なからぬ
数の会員の皆様が神父様の一連のご発言に混乱をきたしておられます。しかし、
カトリック信者として司祭に最大の敬意を払おうとされる方、ネット上の混乱を
懸念される方など道徳的に成熟された人々が大半で、彼らの嘆きはサイレント・
マジョリティーといえるものです。又、せっかくお近づきになれた素晴らしい司
祭との関係を悪化させたくないとの深謀遠慮から沈黙を守っておられる方もさぞ
かし多いことでしょう。もちろん中には神父様の信念に賛成される方もおられま
す。しかし、それでも現在のihmmlが凍りついた状態であることは論を待ちませ
ん。

●司祭の発言は責任重大

 神父様がihmmlでご自分は個人的にメジュゴリエに反対、と唱えられるだけで
あれば誰も異論を挟まぬことでしょうが、「メジュゴリエは異端」、「メジュゴ
リエの宣伝を禁止する」とお命じになられる権能はどこから来るものでしょうか。

 仮説をあたかも真理のように発表されるだけでも会員を大いに迷わせるもので
すが、メジュゴリエ関係の話題を禁止されるとなっては指導司祭の越権行為を疑
う人が出てくるのも自然の理です。

●指導司祭の権限範囲

 会の発足時にこのようなトラブルを想定していななかった私ども管理人にも応
分の責任がありますが、指導司祭の権限に私的啓示の判定も含まれているので
しょうか。私どもの見解は私的啓示の判定は指導司祭といえどもすべきではない
と考えます。判定は飽くまでも「バチカンが認可する形」をとった上での当該出
現地の最終決済者が下すべきものであり、その決定までは慎重に事態を見守る、
必要であれば情報を交換する姿勢をとる方が健全であると信じる次第です。

 したがって、メジュゴリエの司教の置かれた特殊状況を十分に考慮し、新調査
委員会の決定を待つのが本筋であると考えます。指導司祭の個人的信念がそれを
上回る効力があるとは認められません。

 蛇足ながら個人のホームページの指導まで依頼した記憶はございません。個人
のホームページの運営は常識的に個人に委ねるべきものであり、ihmmlの指導司
祭の資格で会員のホームページの構成に介入されるのは今一つの越権行為ではな
いでしょうか。

●司祭の発言が及ぼす重大な結果 

 今までに秋田の聖母出現の例を頻繁に引いてまいりましたが、司教公認前に多
くの司祭によって犯された軽率な否定発言が如何に多くのダメージを信者及び共
同体に与えるかということを示す意味もありました。

 昭和55年頃、東京教区で信者数が非常に多いとされる某小教区で主任司祭がミ
サという公的な場において説教で秋田をこきおろした結果、所属信者の大量離脱
という悲しい出来事が起こりました。秋田を信仰の拠り所にしていた信者の中に
はあまりにも大きなショックを受け、教会から離れてしまった人も沢山おりまし
た。主任司祭のこの程度の発言で情熱を失う信者に一番の問題があることはいう
までもありませんが、世の中には精神的にタフな人もいれば弱い人もいます。弱
いからこそカトリック教会の門を叩いた人も大勢いるはずです。牧者である司祭
が強い信念があったにせよ公の場ではっきりと「秋田はインチキである」と発言
したことが悲劇の発端となり多くの羊(信者)が路頭に迷った訳ですから司祭の
責任が問われない訳がありません。このような考え方は神学に造詣の深い司祭ほ
ど苦手なようです。

 ところで、秋田が本当に偽物であればまだ良かったのですが、数年後には司教
から出現公認の声明が出されました。小教区主任司祭の立場で公的な場で秋田を
否定し、多くの信者を迷わせたこの司祭の責任は全くないといえるでしょうか。 

 公認前の秋田をメジュゴリエ、小教区をihmml、主任司祭を指導司祭と置き換
えてご判断いただきたいところです。

5. 要望事項

 さて、最も重要な部分に入りますが、よろしいでしょうか。私ども管理人の要
望事項は下記の2点です。

(1)今後、ihmmlという公的な場において、メジュゴリエに限らずあらゆる私的
啓示に関する議論をオープンにする。(但し、教会当局による「正式な否認」が
出たものは例外)

(2)私的啓示を個人的に研究した結果を発表するだけに留め、これを会員には
強要しない。

 可及的すみやかに上記要望事項2点の諾否につき管理人までご通知下さいます
ようお願い申し上げます。

6. 今後のihmmlの運営について

 もし神父様が上記要望事項に承諾していだけるのであれば、過日の管理人会議
で決定致しましたようにihmmlは新会則を起草し、神父様を含む管理人の決議を
経て、リニューアルオープンとなります。

 残念ながら神父様が上記要望事項に異議を唱えられる場合は神父様を除く全管
理人が引責辞任致します。管理人の辞任のみならずihmmlを退会致します。最
近、神父様が大野雄大氏に対してご自分の指導に従えなければ退会せよと勧告さ
れましたが、私どもは司祭への従順を守る為に爽やかに退会する覚悟でおりま
す。その時は神父様お一人が残された管理人ということになりますが、今後の
ihmmlの運営を宜しくお願い致します。もしそうなれば私どもは新しいメーリン
グリストをスタートさせることになりますが、これは申すまでなくihmmlと対立
する組織ではありません。

7. 些細なことで真剣になる真の理由

 ihmmlは聖母の汚れなき御心に捧げられたメーリングリストです。したがっ
て、真実である可能性が強いと考えられるメジュゴリエの聖母のメッセージを教
会当局による正式な判定の出る前に闇に葬ってしまうような荒っぽい組織にした
くありません。恐らく神父様もご高察のことと存じますが、メジュゴリエを信じ
ないという理由で悲しまれるほど神様は狭量なお方でないことは百も承知致して
おります。又、私どもは全員、性格的に神経質な方ではありません。どのような
問題にも過敏に反応する訳ではありません。

 では、何故私どもはこの問題にこれほどまでにこだわるのでしょうか。

 それはやはりihmmlが聖母の汚れなき御心に捧げられているという厳然たる事
実がある以上、聖母から人類に送られる愛のメッセージを不十分な証明でもって
認めないとする運営方法が「看板に偽りあり」という芳しからぬ結果を招くこと
になるからです。私どもが他の趣旨のメーリングリストの管理人であれば、自分
たちの考えはともかくこの程度の混乱にたじろぐことはないと思います。

 ところで、万一、メジュゴリエが真実でないという教会当局からの正式な判断
が将来、発表されることがあったとしても、それまでにメジュゴリエ関係の情報
を交換する程度で、静かに事態を見守っていた私どもに罪が問われるとは到底思
えません。

8. 結び

●再びメジュゴリエの聖母出現における最終決済者について

 鹿児島教区の一司祭である神父様が教会当局の要請に基づくものではなく自発
的に外国で起きたとされる聖母出現の研究をされた結果、海の向こうの出来事を
本来の決済者に成り代わって判定し、その信念を(神父様の言葉を借りれば)他
者と自己の救霊の為に発表し、その信念を人々の救済の為に強制することは尋常
一様の出来事といえるでしょうか。

 繰り返し申し上げますが、私どもは基本的に神父様を尊敬致しております。こ
の一点のみ理解できないだけのことです。誤解なきようお願い申し上げます。

 念の為にもう一言、申し添えます。神父様がいろいろと研究された結果、「私
にはメジュゴリエが真実とは思えない。これこれこういう事情で云々」と発言さ
れるだけであれば、参考意見として尊重することは十分に可能です。又、プライ
ベートな場において、親しい会員を相手に私的啓示の研究結果を切々と述べられ
るのも問題ではないでしょう。

 しかし、神父様が最近なさっていることはこの範疇から逸脱されていることは
誰が見ても明らかです。

 聖母出現は決してカトリック信仰の中心をなすものではありません。しかし、
一つひとつの出現が紛れもなく歴史的事件であり、教会当局は全知全能を傾け真
相を解明するものです。ご自分の意見を持つためにご研究に励まれることは大事で
しょうが、本来の決済者に成り代わり、一個人の信念にすぎぬ「判定結果」を公
に発表して、分かち合うというより他者に強制的に信じさせる行為は「歴史に対
する挑戦」でもあります。

 もし鹿児島教区で聖母の出現が起これば、神父様のような信仰熱心で頭脳明晰
な司祭は真っ先に駆り出され、調査委員の一員として司教への報告を求められる
かもしれません。その時に神父様が多くの巡礼者に囲まれ、愛に包まれた平和な
雰囲気の中で司祭としての生きがいを感じる時、どこかの外国の一司祭が英文で
書かれた中傷記事などを読み、公的な場においてその「出現」を否定したとしま
しょう。神父様はその司祭に従う人々にお得意の英語で「正式な調査結果が出る
まで待ちなさい」とは忠告されませんか。

●賢者ガマリエルの進言

 非常に長い要望書の結びにあたり、使徒行録5章38〜39節を引用させていただ
きます。

「そこで私は今、諸君に申し上げる。あの人たちから手をひいて、ほおっておき
なさい。もし計画や業が、人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、
もしそれが神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできないでしょう。
まかりまちがえると、諸君は神を敵にまわす者となるかもしれません」

以上