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<第二章:放浪−1>
荷物をまとめていると、クローゼットの奥から黒い小さなカーテンが出てきた。
昔、台所の小窓用に使っていたものだ。なんだか暗いので今では、白いレース
のカーテンに変えてしまったが、そういう理由だったので、ほとんど汚れもなく
きれいなままクローゼットの奥に眠っていたようだ。右手は普段これで隠そう
と決めた。折りたたむとちょうどよい。
それから、人事に電話をした。同期の話の通じそうな人間に、ただあくまで
冷静に退職の手続きを依頼した。FAXで書類のやりとりをすませ、とりあえず
一安心した。そのあと実家にも電話をした。コンピュータ関係の研究で海外に
行くことになったと嘘をついた。両親と仲が悪いわけではないが、この年になる
とほとんど行き来がないので、まあ気をつけてとい言葉だけだった。
趣味もなく、女もいなかったので貯金はそこそこあった。気持ちとしては
右手を治したいというのと、つまらない日常を脱却したいというと半分づつで
あった。とにかくどこかへ行こうと思った。旅というのとは少し違う気持ちだった
が、言葉にするならやはり「旅」だろう。
一つ気がかりだったのが、医院長であった。ただ、今日帰るという話だが
一向に連絡がない。気が引けたものの、やむをえないので病院に電話をかけ
医院長について尋ねた。すると息子がまあまあ親切に、連絡がないということ
を教えてくれた。少しいやな予感がしたが、携帯に連絡が入ることを信じて
家を後にした。
どこへでも行けそうな気がしたので、東京駅に行くことにした。道中黒い
カーテンに周囲の人の目が集まることはなかった。人間は意外と他人を
気にしてないものだと思った。石膏のときより自由なのでときどき、大きな
右手で左手を掻いたりして、さらけだすこともあったが、さすがに気づいた
人は興味深く見ていた。力が強いので左手も血がにじんだ。
北海道。突然そう決めた。駅構内の喫茶店で地図と旅行情報誌を読んで
いて、電車で行けることを知った。この平成のご時世に、なんでも夜行列車
らしい。右手に、情報誌を載せていると、なんだか豆辞書みたいに見える。
<2>
電車は今時懐かしい感じのする、向かい合わせの古びた車両で心地よい
雰囲気だった。乗客はポツリポツリといたが、ほとんどのものは乗ってすぐに
寝る体勢をとっていた。外は出発から数十分の間、東京近郊の鮮やかな
ネオンサインを映していたが、しばらくすると真っ暗闇になっていた。
つまらなくなってきたので寝ることにした。ふと目を覚ますと朝の5時を
回っているところだった。外が薄明るくなってきていたので目を開け
しばらく景色を眺めていた。こんな自然を目の当たりにするのは何年ぶり
だろう。都会で荒んだこころが洗われるようだった。また、しばらくすると
停車した駅で、窓の向こう側から弁当を売っているおじさんの姿が見えた。
そういえば、昨日はほとんどご飯を食べていないので無性に腹が減っていた。
弁当欲しさに右手のことをうっかり忘れて、おもむろに両手で窓を開け
巨大な右手をバサバサ振って、「こっちこっち!」と呼んでしまった。
おじさんは弁当をポトリと落とし、呆然と右手を見つめて立ちすくんでいた。
電車は無情にも出発し、景色とともに後ろに流れ行くおじさんを見ること
になった。しまったと思ったが、立ちすくむ姿がおかしくて思わず声を出して
笑ってしまった。「そりゃあびっくりするだろうなぁ。ははは。」右手を隠して
いたときとはあきらかに違う自分の反応にも驚いた。しかし空腹は癒えない。
たばこを2、3本吸って、次の駅を待つことにした。次の駅では、右手は
見せないようにして、うまく弁当を買うことができた。「イノシシ弁当」だった。
イノシシの肉など食べたことないなと期待していたが、どれがイノシシの
肉だかわからない煮物が角のほうにちょちょいと入っているだけだった。
実は昨日、この旅ではなるべく右手を普通に使っていこうと思い、特製の
箸、ドラムスティックを楽器屋で購入していた。寸法的にぴったりで
しかも先端のプクッと丸くなっているところが意外と使えて、上手に食べる
ことができた。ただ、イノシシの肉がものたりなかったので
北海道で食べることができるのなら、絶対に食べてやろうと思った。
<3>
降りたのは小樽。この日は天気もよく、東京では一生お目に
かかれないようなすんだ青空だった。緯度のせいだろうか、これほどの天気でも
日差しがきつくない。1日ぶらぶらと散歩をし、旅でない旅を満喫することに
した。まず本屋に立ち寄り、周囲の地図を手にした。左手に本を載せ、右手で
ページをめくるが、とある拍子に右手のパワーが強すぎて、地図を破ってしま
った。やむを得ず買うことにしたが店主は構わないのに、といった様子だった。
そういえば、小樽についてから、ほとんど周囲の目が右手に来ていないことに
気づいた。普段刺激が少ないのかと思っていたが、そうではなく、都会ほど
情報、情報とかぎまわるように、みながピリピリしていないのだ。
久しぶりに歩き回ったので、すぐに腹が減ってきた。イノシシ肉を探して見たが
この辺にはないようだ。喫茶店に立ち寄りコーヒーとトーストを食べることに
した。店には50ぐらいの太ったおばさんがいて、カランカランと音を立てて
店内に入ると、びっくりしてこちらを向いた。しかし、右手を見てもやはり
なんのリアクションもなかった。いらっしゃいと声をかけられ、入る前に
決めていたのですぐさまキリマンジャロコーヒーとトーストを頼んだ。この
キリマンジャロというやつは高い。しかし喫茶店で飲むコーヒーはキリマン
ジャロと決めている、普通のコーヒーに600円出すのは忍びないが、これに
800円出すのは納得ができた。昔からだ。いつのまにかそんな話をこの
おばさんに話していた。そんな暖かみのある人だった。自分が久しぶりに
のんびりと世間話をしている余裕に、はたと気づいたとき右手のことを
聞いてみようと思った。それまで隠すつもりはないが、ひざの上に置いていた
右手をすっとカウンターの上に出し、
「おばさん、この手を見て別に驚かなかったよね。」ときりだした。
「いやー、内心はびっくりしたよ。でも気にしてたら悪いじゃない。」
とあっさり言い放った。そして
「それに、もう一つ気をつかってみたのよ。」とつけたした。
そのときおばさんの指差した、コーヒーの横のおしぼりを見ると
5つ積んであった。
<4>
それからおばさんと1時間以上は話しただろうか、その間誰一人として
店には入ってこなかったが、道楽で店をやっているというおばさんにとっては
気になることでもないようだ。帰り際2000円でつりはいらないと言ったが
おばさんの両の腕で無理矢理大きな右手につりをつかまされた。
意地になってもしょうがないのでありがたくちょうだいしたが、旅への不安を
取り去ってくれたことと、イノシシ肉を食べさせてくれる宿の情報は2000円
でも安すぎた。
聞いたとおりの道のりを歩いるうちに、あたりは薄暗くなり始めていた。
旅館滝本。古くなってチカチカしている蛍光燈が、白い板に筆で書かれた
ような字を映し出していた。
中に入ると60前後の女将と思われる女性が出迎えてくれた。荷物を
女将自ら持ってくれ、そっと宿泊の料金表を差し出した。
「すいません。ここでイノシシ肉が食べれると聞いたんですけど。」
「ええ、よろしければ今晩早速ご用意しますが。」
女将は透き通るような声だった。昔はさぞもてはやされたのだろう。肌も白く
体もしなやかで細い。
「そうですね。明日も泊まるかちょっとわからないもので、今晩お願いします。」
部屋は、ピカピカに新しいとはとても言えないが、順和風の落ち着いたたたず
まいは、疲れをよく癒してくれた。旅館のお茶はいつ飲んでもおいしいものだ。
落ち着いて窓から野山に日が沈んでいくのを眺めていい気分になっていると
遠くからドスンドスンという音が等間隔でこちらに近づいてきた。
部屋の前で泊まるとコンコンという静かなノックがあった。誰かがドアを開け
入ってきたようだが、そのときもう一つドスンという音が床を鳴らした。
熊でもきたかなと思ったが、すっと開いたふすまから正座した半身が見えた
のはとても美しい女性で、熊どころではなかった。30前後で、やや髪を茶色
に染め、肌は女将に似てとても白い、大きくはっきりとした目すっと伸びた鼻
小さな口元、ここ数年女性にときめいたことなどなかったが、このときばかり
は顔をしげしげと眺めてしまい、今日一度も意識しなかった右手も隠してしま
った。
「いらっしゃいまし。」
「あ・・・ど、どうも。」
「わたくし、ここの女将をさせていただいてます。三坂幸江と申します。」
「あ、そうですか。わたしは入り口に居た人がてっきり女将かと。」
「あれはわたしの母なんです。おととしまで女将をやってたんですが、
よる年波には勝てないようで・・・。」
それから幸江女将はそのままの場所から、手を差し伸べ、浴衣の場所から
電話の使い方、トイレの場所などを説明してくれた。
ふすまが閉じたあと、また、ドスンという音が聞こえたが、何か荷物でも
引きずっていたのだろうと思った。それ以上に幸江女将の顔に見とれチップ
を渡さなかったことを大きな右手で頭を抱えて後悔していた。
これが運命の女性、幸江との初めての出会いであった。
<5>
夕食まで、1時間以上あったので大浴場へ行くことにした。
大きな右手はもはや気にならなくなっていた。ただ、女将に見られるのだけは
少し嫌だったので、バスタオルで隠し風呂へと向かった。向かう途中では
和服姿で客間を行き来している人を見ると、女将かと顔を覗き込んでしまった。
しかし、右手のことを気づかれたくないという気持ちもあり、大女将にはすでに
見られているため、大女将 が女将に告げていないかということも気になっていた。
結局、女将の姿は見ることができずに、脱衣所にたどり着いた。
脱衣所には、中年の男と老人がいて、浴衣に着替え中だった。中年の男の方は
バスタオルを置き、右手をさらけ出すと、一瞬ギョッとした顔で右手を見つめたが
その後はすぐ向きを変え脱衣所を出ていった。老人の方はまったく気にならない
と言った様子で、のたのたと着替えつづけていた。
裸になり戸を開け、湯場へ入ると、5、6人のいずれも高齢者がいた。
誰も何も言わない。かまわず大きな右手でまず、髪を洗い始めた。
ザバっと流すと、いつのまにかとなりに座っていた、80過ぎと思われる
かなり痩せていて、しわくちゃな顔をした老人が
「そりゃあ、便利だね。」と声をかけた。
「ええ、まあ。」
唐突だったので、そうとしか言えなかった。
「生まれたときからですかい?」
「いや、何ヶ月か前突然大きくなりまして・・・。」
老人に事情を話すことには不思議と抵抗がなかった。
「ほう。いろいろあるもんだね、世の中は。ずいぶんお困りですかい?」
「まあ、いろいろありまして。わたしは東京の人間なんですが、
こっちに逃げてきたってところです。」
「まあ、道(北海道)の人間には悪いもんはいないし、温かいからの。
こっちでしばらくゆっくりしなさいな。」
「はい。そうさせてもらいます。」
「湯に入りますか?」
「はい。」
それから、していた仕事の話、生活の話などをのんびりと聞いてもらい、
代わりに老人の名前が重田あること、部屋の場所を教えてもらった。
この旅館に1年以上住み着いているそうだ。
風呂から出て、部屋に戻ると、携帯に着信が1件入っていた。番号を見ると
ペルーの国番号が入っていたので医院長だと分かった。
メッセージが録音されていたので、まだ火照っている体のまま聞くことにした。
<6>
北海道に来て落ち着いてせいか、メッセージを聞くときは鼻歌交じりだった。
「か、梶丸くん・・・」
まるで、何キロも走った後のような息遣いの医院長の声だった。一瞬にして
不安感と緊張感が押し寄せ、大きな右手が大きざみに振るえ出した。
震えの振幅も大きくなっていることに気づいた。頬に風が来るほどだった。
携帯を左手に持ち替え、座り直し続きを聞いた。
「も、もうしばらく電話はできそうもない。日本に帰るのも・・・。もう帰れないかも
しれんよ・・・。どうやら、き、君の右手にはとんでもない秘密があるようだよ。
ガ、ガソリーノも・・・。い、いかんやつらが来た。ひとまず君は逃げたま・・・え。」
メッセージにもかかわらず、「医院長!医院長!」と問い掛けてしまうほど
動揺した。医院長はまだペルーにいる。そして秘密とはなんなのか。
逃げろとはどういうことだろうか。この右手を狙う人間でもいるというのか。
どうしていいのかはわからなかったが、なんとかしなければいけないという
義務感から、持ってきていた鞄をおお慌てであさり、右手に関する資料を
卓の上に並べた。
医院長のメッセージを一つ一つ整理し、自分は今何をするべきかを考えた。
医院長は逃げろと言っていた。それならば好都合だ。このまま旅を続ければ
よい。ただし、右手については、自分でできる限り調べなければいけない。
しかし医院長も心配だ。国内でできる限りの調査をすませたら
ペルーにもいずれ行かなくてはならないだろう。
少し落ち着いてきたので、有料TVの右側についている小箱に100円を
挿入し、 今時懐かしい手回しのチャンネルをガリガリとひねった。
古いTVなので、画像が映る前に声が聞こえてきた。聞こえてきたのは
「 オィエーオエーオイエー」というニュースステーションの出だしだった。
しばらく経済動向などを見てなかったので、ゆっくりと堪能し、ニュース
一つ一つにうなずいてしまった。番組が後半を向かえ、小さなニュースを
まとめて紹介するあたりに差し掛かったとき、右手はまた大きく震える
こととなった。
「東京都内の病院で火事がありました。」
それは紛れもなく、医院長の病院だった。ニュースでは最後に
息子が逃げ後れ、死亡したことを伝えた。出火原因は計器の故障による
出火だということだったが、それを信じることは今は無理だった。
偶然であるはずがない。
さまざまな憶測が脳内をめぐり、いたたまれなくなって、たばこに手を
やると、先ほど調査していたとき吸いすぎてしまったのか、箱には
1本も入っていなかった。買いに出ようと収納からゆかたを出し、身にまとい
帯をしめ、スリッパを履き、部屋の外に出た。北海道という土地柄からか
時期的に旅行客が少ないからか、みな寝る時間だったのだろう、廊下は
静まりかえっていた。階段をやや早足で降りていくと、例のドスンドスンという
音が、階段下、左手の廊下から聞こえてきた。
自らの足を止め、何が来るのかを上からそっと見守ったが、次に目の前に
現れた映像に、絶句することになった。
それはこの大きな右手に匹敵するくらい巨大な左足にそれに見合った
巨大な足袋履き、慣れた具合で普通の大きさの右足と交互に歩く姿。
巨大な左足が歩を進めると同時にドスンという音を奏でながら歩く
女将の姿であった。
<7>
大きな右手から階段にシミをつくるほどの汗がしたたっていた。
「ま、まさか・・・」医院長の電話から、病院の火事、そして左足デカ女との
遭遇に混乱は頂点に達していた。ひとまず女将をやり過ごし、たばこを
買いにロビーへ出た。やはり北海道、ゆかたでは凍えてしまうほど寒く
冷え切った玄関のそばだったが、はやく一服したい気持ちを押さえ切れず
震えながら1本、そしてまた1本と煙を立ち昇らせた。
落ち着いたせいか、まずは明日の朝、重田爺さんを尋ねて女将について
聞いてみるというアイデアが浮かんだ。
それを思い付くと少し安心したので部屋に戻ることにした。
部屋にはわたし用に用意された遅い夕食、お待ちかねのイノシシ尽くしが
並べられていた。鍋、刺し身、焼きと絶品であったが、心ここにあらずと
いった感じだったので、味についてはよく覚えられなかった。
しかし一つの目標が達成されることがよいことであると再認識した。
食べ終わり、中居さんがお膳を下げに来ると、旅の疲れか、
急に睡魔が押し寄せ、いろいろ思い出す前にと部屋に戻るなり
床に入り灯りを消した。
次の日の朝、ロビーでまずは病院の火事の記事を読もうと新聞を
手にし座りごこちの良いソファーに腰をかけた。記事は社会面の角に小さく
出ていた。やはり事故としてしか取り扱われていなかったが、
息子の死はまぎれもない事実のようだった。
そのままスポーツ欄や経済欄に目を通しそろそろ、朝食をと思っていると
「おはようございます。」と声をかける重田爺さんがいつのまにか前に
立っていた。立ち上がって新聞を横へ放り去り
「あ、おはようございます。」と返すと
「ん?わしに用事でもありますかな?」とこちらの心を読んでいるかのような
言葉が返ってきた。
「あ、わかりますか?」
「人が新聞を折りたたんで、立ちあがるってことは、待ち人来たるってこと
ですかな。」
「なるほど。」やはりつかめない人だと思った。
「ここではあれですので、朝食後に。」
「では散歩でもしますか。」
「ええ是非。」
その後部屋に戻ると朝食がきちんと用意されていた。
都会でコンビニ弁当ばかり食べているときには絶対に食べることにできないような
メニューばかりだった。右手でドラムスティックでご飯を食べるのにもだいぶ慣れ
黒豆を一粒ずつつかめるほどになっていた。しかしさすがに米一粒は厳しかった。
食べ終えたので、中居さんを待つことなく、久しぶりにジーンズをはき
トレーナーを着てその上にジャンパーをはおりロビーへ出た。
重田爺さんはさぞや名のある家の人なのではと思わす、立派な和服姿で
もうすでにロビー来ていてのんびりとTVを見ていた。
そしてこちらに気がつくや否や立ちあがり
「いきますか。」 と声をかけた。
そのとき自分のトレーナーとジャンパーの袖が右手を一回強引に通したため
のびのびのデロデロになっていることに気づいた。しかし今更着替えるわけにも
いかず、気にせず表に出ることにした。
<8>
「女将のことなんですが・・・。」
「ほう。女将がどうかしましたかな。」
「重田さんは、よくご存知なんですか?」
「まあのう。わしはここに住み着く2、3年前からもここにはちょいちょい
来とってな。そのころはまだ今の大女将が女将でな。今の女将は手伝いをしとった。」
「昨日実は・・・。」
「左足のことかな?」
「な、なぜそう・・・。」
「こないだ風呂場であんたの右手を見たときに、『こりゃあ神さんもおもしろい
ことしよるわい。』と思ってな。おもしろいっていったら失礼かもしれんが。」
「別に大丈夫ですけど。あれはいつから・・・。」
「見なすったか?」
「ええ、昨日夜ロビーに行こうとしたら通りがかって。」
「ちょうど女将になったころかいな。いきなり大きな左足に包帯巻いてきよって、
『どうしたんかいねぇ?』いうたら。なーんも応えてきよん。昔は気立てがよくて
よくしゃべってくれたんじゃが、あれ以来無口になってしまいよった。
恥ずかしいんじゃろう。人前に出ないかんこともあるだろうし。」
「女将になったころというと1年前ぐらいですかね。」
「わしなんかは、あのドシンドシンっちゅう音さえなきゃあなんともないんじゃが
大女将とはしょっちゅうケンカしよった。やれ『恥ずかしい、あんたが店つぶすー』
いうてな。」
「実の親子なんですよね?」
「違うんだと。大女将の別れた旦那の連れ子らしいでな。旅館っちゅう仕事の
せいもあってか、ずーっと手伝いさせてきよったと。」
「複雑なんだ。」
「で、あんたそれ聞いて、なにしよっと?」
「重田さんにこんな話をするのもなんなんですけど、この右手を治してくれようと
がんばっている病院の先生がいるんですが、その先生が逃げろと言うんです。
この大きな右手には秘密があると。」
あって1日しかたっていない人物に話すことではなかったが、この重田という人は
医院長とダブるような懐の深さを持っていた。
「女将もあんたのその右手を見れば、なんかしゃべるかもしれんな。まだ見せとりゃ
せんのじゃろ? 」
「ええ、あれほどの美人だったので、ついなんだか隠してしまいました。」
「すみにおけんのー。はっはは。」
重田爺さんとはもうその話はせずに、それから30分ぐらい散歩した。
無趣味の自分にとって、なんでも知っている重田爺さんの話ははじめから
終わりまで、すべて興味津々で聞いてしまった。女将に話し掛ける勇気もできた。
旅館に戻ると、美人ではあるが目つきのするどい鼻の尖った顔をした女性が
待ち構えていた。
「どうも、今日からここの女将をやらせていただきます須藤光子と申します。」
我々二人はキョトンとして目を合わせた。
「前の・・・。」と言いかけると、重田爺さんが口を挟んだ。
「こいつは大女将の兄の娘でな、前々から女将の地位をねらっとったんじゃ。」
と指を差していった。
「あらやだ重田さん、それは失礼よ。幸江さんは体に障害を抱えちゃったら
しょうがないでしょ。」
「お前の両親は、ここをホテルにしてしまおうと思っとることもしっとるぞ。」
「それもしょうがないかもしれないですわ。大女将は兄に借金があって何も言えない
んですから。まあホテルに変わっても重田さんを泊めてあげますのでご安心
くださいな。」
「ふん、西洋かぶれの建物なんぞ、わしの好みにあわんわ。それより幸江は
どうした?まさか追い出したんじゃあるまいな?」
「自分から出ていきましたわ。あんな大足じゃどこでも勤まらないでしょうけど。ほほ。」
朝の散歩中の会話とこの会話から大体の状況はつかめた。
そのとき頭に描かれたのは東京の専務の顔だった。
<9>
押さえ切れなくなっているときにとどめの一言があった。
「さあ、わたしはちょっと忙しいので失礼しますわ。どいてくださるかしら。なあに?
この大きな手は、邪魔ねえ・・・。」
「待て!」須藤光子の肩を左手でつかみ、振り向かせたと同時に、あの時と同じ
ような巨大なこぶしを叩き込んだ。バキっという音は尖った鼻をへし曲げるほど
だった。
「やめたまえ!」
重田爺さんが止めに入ったが、大きな右手の一撃で須藤光子は数m先の階段の
ところまですっ飛び失神していた。通りがかった従業員が「ひっ」と声をあげ
「誰か!誰か!警察を!」と叫んだ。
「まずいぞ、どうする?」
冷静になった重田爺さんの声を聞き、はじめてこちらも冷静さを取り戻した。
「幸江さんの行きそうなところは?」
「うーん、小樽公園のそばによく行ってた喫茶店があるが・・・」
「ありがとうございます。失礼します。いつか・・・またいつか・・・」
と一方的に言って、荷物を取りに階段を駆け上がった。
何やら使命めいたものが自分の中に芽生えていた。幸江さんを見つけなくては
いけない。そして、逃げなければならない。そして、右手の・・・左足の秘密を
暴かなくては、と。荷物をまとめると従業員が集まってきてがやがやしている、
一階のどさくさに紛れ、表に飛び出した。
重田爺さんにきちんとした礼が言えなかったことが心残りだったが、 まずは
言われた通りの小樽公園に行くことにした。さすがに事件を起こした後だったので
礼の黒いカーテンで右手を隠し、大通りに出てタクシーに乗りこんだ。
小樽公園に着き、周囲を10分ほど散策すると「嶺門戸」という喫茶店の看板を
見つけた。「レイモンド」と読むのだろうか。和風な表向きだが、窓からシャンデリア
が伺えた。中に入ると、幸江の姿はなかった。しかたなく、キリマンジャロを注文し
しばらく今後を考えることにした。
マスターはヒゲの生えた小柄な男で、気難しそうな感じがしたので幸江について
尋ねるのをためらっていた。
店内はかなり広く50人は入れそうなほどだったが、客席には奥に老人夫婦、
カウンターに新聞を読む中年の男が一人、制服を着たOLが一人だった。
自分はテーブルにいたが、ふと気づくと向かいのテーブルのカップから湯気が
出ていた。もう一人いるのかと思った瞬間に例のドスンドスンという音が
化粧室の方から聞こえてきた。顔をはっと上げると、そこには間違いなく幸江が
立っていた。どうやらこちらを覚えている様子はなく、自らの席にすんなり
座った。正面に見える髪を後ろに束ね洋服を着ている姿も美しいものがあった。
慌ているところにキリマンジャロが届き、まずは一杯飲んで落ち着くことにしたが
うっかり隠していた右手でカップをつかんでしまった。
正面に座る幸江がそれに気づき目を大きく見開いてこちらを見ていた。
自分もそれに気づき軽く会釈をした。
<10>
幸江は次の瞬間ガタッと椅子から立ちあがり、ドスドスと音を立てこちら
へせまった。
「あなた!それどうしたわけ! あたしの足と一緒なの!どういうこと!」
胸ぐらをつかみそう叫ぶ幸江に、どうしていいかわからなかった。
「あたしはこの足のせいで・・・この足のせいで・・・」
大粒の涙がわっと溢れ出し、わたしの大きな右手にポトリと落ちた。
店内は一瞬騒然としたが、幸江が泣き出したところで見てはいけないといった
雰囲気につつまれ、みなこちらを見なくなった。
「ゆ、幸江さん落ち着いて。」胸ぐらをつかんだ手をゆっくり左手ではずし
そういうと、しばらく幸江はだまりこんだ。涙はとめどなくあふれていた。
長い沈黙のあと幸江は 「・・・やっぱり、あたしのこと知ってるのね。」と
涙声で応え、静かに振り返り自分のコーヒーと鞄を取りに行くと、
それを持ってわたしの向かいの席に腰を掛けた。
どうやら幸江の興奮ぶりを見ると、わたしはいたって冷静なようだった。
「落ち着いて話を聞いてください。」そういうと幸江は涙をぬぐいながら
かぼそい声で応えた。
「はい・・・。ごめんなさい。あたし・・・1年前ぐらいにこの病気にかかってから
もう・・・、婚約者には逃げられ・・・、友達も・・・とうとう仕事も失って・・・」
「お察しします・・・。わたしは前々からあなたを知ってたわけじゃないんです。
昨日、あなたいたの旅館に偶然泊まって、偶然あなたを見たんです。」
「あ・・・、イノシシ肉の?あらやだ、あたしお客さんの顔を一日で忘れ
ちゃうなんて。女将失格だわ。もう女将じゃないけど・・・。 」
幸江に少し笑顔が見られた。最悪の雰囲気だけは払拭できたようだ。
このとき味こそ覚えていないが、ごたごたの中で食べたイノシシ肉を
食べてよかったと思った。少し間があき、コーヒーをすすりながら幸江が
切り出した。「あなたはいつから?」
「2ヶ月ほど前です。いろいろあってわたしも仕事をなくしました。」
そういえば名を名乗ってなかったことに気づき、会社の名刺を差し出した。
幸江もあわてるように、鞄をあさり、「旅館滝本女将 三坂幸江」と書かれた
名刺を差し出した。
「幸江さんは病院に行きました?」
「はい。突然変異だと言われて、しばらく薬をもらってたんですけど、
半年ぐらいしても、なんの効果もなくて、結局やめてしまいました。梶丸さんは?」
「わたしが行った病院の先生は、もうそれはすばらしい方で、いろいろ一生懸命
調べてくれました。」
「治るの?」幸江が真剣に頼っているようなまなざしを送るので少々赤面して
しまった。大きな右手でおしぼりをつかむが、このときはじめてこの喫茶店でも
おしぼりが5つ出されていることに気づいた。北海道はなんて暖かいのだろう。
「いや、治るかどうかはまだわかりません。」幸江はうつむいてしまった。
医院長の話、ガソリーノの話、そして逃げなければ行けないという話を
伝えるべきかしばらく迷ったが、医院長の息子のような最悪の結果を考えると
自然と口が開いた。
「幸江さん。問題はどうやら私たちの想像を超えているようです。」
ふと、テーブルの下を見ると幸江の50cmのパンプスの先がこちらの椅子の
ところまで来ていた。
<11>
ひととおり、幸江にここまでの経緯を話し終え
「来てくれますか、一緒に」と倒置法を用いて言った。プロポーズなどしたことは
ないが、そのぐらいの緊張感があった。自分が誘っているのは、いつ終わるかすら
わからない長い旅。大きな体の一部の謎を解き明かすべく試練の旅である。
幸江もそのことは理解しているようだ。しばらく下をうつむいて悩んでいるよう
だった。
「確かに、わたしはこの後行く先もありません。でも・・・正直怖いわ。」
しばらくの沈黙が続き、やはり一人で旅を続けるべきかと思っていたとき
いつのまにかテーブルの横に立っていた人物がこういった、
「行ったらよいではないか。」
その人物は重田爺さんだった。
「女将。いや、わしの孫、幸江よ。彼はよい男だ。それにお前は蒸発した父を
探しているのだろう。わしもわが息子のことが気がかりだが、いかんせんこの年
では・・・。」
「おじいちゃん・・・。」
「重田さん、あなた・・・。」
「それと、これからはこいつが何かと必要じゃろう。」
といって厚みのある長封筒を差し出した。
「なんですか?」といいながら中を覗くと札束が山のように入っていた。
「困ります。こんな・・・」というと
「ただやるんではない、君にたのんどるのだよ。こいつの父を一緒に捜して
やってくれ。幸江が生まれてすぐに蒸発してしまったんじゃ。」
「ですけど・・・」
「さあ、あとは幸江の気持ち一つじゃ。どうする幸江?」
「行きます。あたし行きます。」幸江は立ち上がってそういった。
「お願いします。」わたしも立ち上がり思わず幸江と手を重ねた。なぜかこのときは
大きな右手が重く感じなかった。
3人が街の喫茶店のテーブルで立ち上がり何かを決起している姿は異様なものが
あったかもしれないが、3人の気持ちは晴れやかだった。
それから重田爺さんに今度は丁寧に別れを告げ、右手の大きい男と左足の大きな女
が旅立つことになった。
街を二人で歩く姿は、いままで以上に目立ってしまうものがあったが
同じことで悩んでいる幸江とともに行動できることはうれしく、孤独という面での
不安がやわらいだので、そんなことがだいぶ気にならなくなっていた。
幸江も同じ気持ちだったかもしれない、二人は右手と左足のことを真剣に考え、
語り合い、 疲れると好きな映画や音楽、初恋の話などをして、本当によく
しゃべった。
今日からしばらくは北海道でこの体の秘密を探るべく動き回ることにした。
札幌に大きな図書館があるというので、そこを起点にし、近くにホテルの部屋を
二つとった。3日目の昼、図書館で幸江が興味深い写真が載っている
年鑑誌を見つけた。わたしの方は興信所に幸江の父についての調査を依頼して
いた。その夜、ホテルのわたしの部屋で幸江はその年鑑誌を見せてくれた。
右手が久々に汗をかく瞬間であった。
<12>
その年鑑誌の国際情勢の記事の片隅に、中国の市場の写真が載っていた。
写真の真ん中の奥に小さく写っている男の右腕を見て、わたしは自分の右手と
見比べてしまった。男は何やら大きな魚を掲げて客引きをしているようで
そのつかんでいる右手は普通のサイズだが腕はあきらかに太い。
この右手にぴったりの腕のようだった。
「こっこれは」
「そうよ。きっと同じ症状ね。よく見て。左腕は普通の大きさなのよ。
写真が遠くてよく顔が見えないけど。体格から想像しても、わたしたちと
同じくらいの年ね。」
「そういえば、幸江さん、年齢を聞いてなかった。失礼でなければ・・・。」
「12月で30になりました。」
「12月で?わたしは1月で30です。ガソリーノも確か29歳。そしてこの男も
そうだとしたら・・・。これは何かあるよ幸江さん! 」
「落ち着いて。それにもう一つ気になることがあるわ。あなたが教えてくれた
ガソリーノは右足。あなたは右手。わたしは左足。そしてこの男は右腕。
みんな違うのよ。」
このとき幸江がとても頼もしく思えた。頭が切れる。失礼だとは思ったが
北海道の古宿の女将にしておくのはもったいなかった。
「なるほど。サイズを見てもみな同じぐらいの大きさですね。場所は?」
「福建省って書いてあるわ。」
「烏龍茶の・・・。」
ここまでのところ整理し、幸江を部屋に戻した。
次の日、わたしは興信所の所員と会った。意外にも情報があるという。
幸江の父は、5年前まで道内にいたが、その後、南のほうへいったという
話である。漁師だったので、おそらくどこかの雇われ水夫になっているので
ないかという推測もつけてくれた。一度漁師をやったものの転職は難しいという。
それから、幸江と落ち合い、晩飯を食べることにした。
繁華街を二人で歩いていると、金切り声をあげでこっちに走ってくる一団が
あった。
「いたわ!あいつらよ!」
前に東京で見た、TVのスタッフと同じような格好をした者たちが3人、
そして着物で、パタパタと走る女、須藤光子であった。
「おおかた見世物にでもしようって魂胆ね。」
幸江がポツリとつぶやいた。
「逃げよう!幸江さん」
「ええ。」
初めて幸江の手に触れた。大きな右手で幸江の左手を引き、二人で走り出した。
さすがにホテルの前までは追ってこなかったようだ。荷物をまとめ、
駅に向かうことにした。駅までの道もうかうかできないので、少し早歩きで
タクシー乗り場へ向かった。幸江が疲れたというので缶ジュースを買ってくると
言ってその場に待たせることにした。ジュースを販売機から取り出し、幸江のほうへ
向かうと、幸江の真上のマンションの一室から大声が漏れているのに気づいた。
「あんたのせいよ!」
「子供はお前が面倒見てるんだろ!」
夫婦喧嘩のようだった。
しょうがないなあと思いながら歩を進めると、窓から何かが落ちてくるのが見えた。
植木蜂のようだった。
とっさに缶ジュースを放り捨て、幸江の方へ飛び込んだ。
「あぶないっ!」
幸江が振り返ったときはもうすぐ頭上まで来ていたので、大きな右手を
名一杯差し出し、植木蜂をつかみにいった。
幸江にぶつかり、突き出した格好になったが、辺りに植木蜂の破片は飛び散って
いなかった。植木鉢は大きな右手にすっぽり包まれていた。
「大丈夫でした?」
そういうと幸江は一瞬何が起こったのかわからなかったようだが、
右手の中の植木蜂を見ると、状況を把握し、
「ありがとう。」
と一言いって、わたしについた砂や土をはらってくれた。
そこから駅までの道、幸江は無言でわたしの右腕につかまり寄り添うようにしていた。
<13>
「九州へ行こうと思いますが。」
タクシーの中で幸江に尋ねると、幸江は黙ってコクリとうなずいた。
「九州で一通り調べたらその後は・・・。」
そこまで言いかけると
「ペルー?」
と幸江が挟んだ。
「いや、中国が先だ。医院長とガソリーノは何者かに襲われている。
もちろん安否は気になるが、今わたしたちが行っても二の舞になるだけ
のような気がする。なぜ、狙われるのか、なぜ、手が大きくなったのかを
調べなくては。あの写真に出ていた人はまだ無事かもしれない。
あの写真の場所でまだ、魚を売っているかも知れないから。」
ふたたび、幸江はコクリとうなずいた。
「お父さんのこと聞いてもいいかな?」
このときいつのまにか、タメ口が聞ける自分に気がついた。
「父のことは、全く知らないの。ものごころついたときすでにあの旅館に
いて、おばさんは何も教えてくれなかったわ。」
「でも会いたいんだね?」
「足が大きくなったとき、生まれて始めて助けが欲しかったの。それまでは
なんでも一人で解決できたのに。どうしようもなくって。それで父のことを
思うようになって・・・。」
「うん。わかるよ。すごくよくわかるよ。そして、お父さんに会えばきっと
何かの助けになると思うよ。医院長、喫茶店のおばさん、重田爺さん、
わたしが最近会った人たちは、みんな何かの助けになってくれたんだもの。」
そこまで話すと、タクシーは駅前でドアを開けた。
ひとまず仙台までの電車があったので、乗り込むことにした。
仙台までの旅は二人とも疲れたのか熟睡だった。
仙台につく5分ほどまえに、二人は合わせたように、目を覚ました。
「梶丸さん、寝る前にふと思い付いたんだけど・・・。」
幸江がやや寝起き声でつぶやいた。
「なんだい?」
「わたしたちの秘密は生まれにありそうよね。」
「うん。年齢はみんな同じぐらいだね。」
「だとして、生まれた病院にもし資料が残ってたら、何かのヒントになるんじゃ
ないかしら。」
「なるほど、で?幸江さんの生まれた病院はどこにあるんだい?」
「ここ、仙台よ。」
そういって、窓から駅前の総合病院を指差した。
<14>
晩飯を食べてからの最終電車だったのでもちろん、仙台で降りるとあたりは
真っ暗闇だった。ひとまず、駅前のホテルに駆け込んで泊まることにした。
病院へ行くのは明日朝ということにしたが、電車でたくさん睡眠をとったこともあり
二人ともそれぞれの部屋でいろいろなことを考え寝付くことができなかった。
次の朝、寝付けなかった二人は駅前の総合病院へ向かった。
受付ではわたしが切り出した。
「すいません。ここで生まれた人の資料っていうのは残っているもんなんですかね?」
「あれ?あなたは昨日の人たちと関係あるのかしら・・・?」
「いや、はじめてきましたけど・・・。」
「あっ、そうですか・・・。でも、ここにそういう資料があるにはあるのだけど、
ほら、あくまで個人情報ですからね、簡単にお見せするのはできなくてね、
本人の方の確認手続きが必要でね、身分証明とかそういうのも必要でね、
一週間以上かかるのよ 。」
「あ、そうなんですか・・・。素朴な疑問なんですけど、膨大な資料ですよね?
やっぱりパソコンか何かで管理してるんですかね?」
「そうね。うちも5年ぐらいまえから、高ーいコンピュータっていうの?わたし
よくわからないもんだけど、そういうのでね。」
おっとりとした感じの中年女性はやさしく教えてくれた。
「ところで、昨日来た人たちっていうのは?」
「いや、なんだか黒い服を来た外人さんたちが後ろにいて、実はちょっと
怖かったんだけども、その、受付に来たのは日本人の人でね、
やっぱり、出生の資料を見たいということでね。」
「まさか・・・。あっ、とにかく、ありがとうございました。」
「いいえ、お役に立てませんで。」
そんな気はしていたが、幸江にその話をすると、幸江は困惑した。
身分を証明するものどころか、生まれたときの名字もわからないという。
そして、外人が尋ねに来ていたことも話した。医院長を襲った連中がと
思ったが、その疑問はすぐに解決することになる。
ひとまず病院を後にし、仙台で一番大きな図書館に向かった。
ここで、特に突然変異に関する本を漁っていると、
『ねずみに人間の頭皮の細胞を移植したところ、数年後に人と同じ成分の
髪の毛が生えた』という記述を見つけることができた。やはり出生にという
感は強くなるばかりだった。
幸江は以前と同じように年鑑誌をパラパラとめくっていたが、特に気になる
ものは発見できなかった。
一人でタバコを吸いに外へ出ると、タイミングよく携帯が鳴った。
出ると相手は重田爺さんだった。
「あっどうも、今、仙台にいるんですよ。」
「幸江の生まれた病院か?」
やや緊迫したような声をしていたので
「何かありましたか?」とこちらも声を改め聞いてみた。
「実は、幸江のことをかぎまわっている連中がおってな。
光子のやつが、あることないことしゃべっとったんだが、ひょっとして君らの身に
何かと思って電話したんじゃ・・・。」
「それは外人のいる一行ですか。」
「知っとったんか?」
「いや、まだあったわけではないです。」
「とにかく気をつけたまえ。」
「はい、情報ありがとうございます。いつかきっとお礼は・・・。」
正体はわからないものの、そのときは、とにかく「奴等が近くに来ている。」
と直感的に思った。
<15>
電話のことを幸江に告げ、足を隠すすべのない幸江にはひとまずホテルで
待機してもらうように頼んだ。多少グズったが、今見つかったらすべてが終わりだ
とあくまで仮想の説得を繰り返し、図書館を後にさせた。
久々に例の黒いカーテンを右手にかけ、しばらく図書館で調査を続けたが
特に有力な情報は得られなかった。どうしても幸江のカルテが見たい。そして
次はわたしの生まれた病院、東京へ向かって二つのカルテを刷り合わせたい。
そう想いながら繁華街を歩いた。幸い出生したのは医院長の病院ではない。
日もすっかり落ち、幸江にうまいものを買っていこうとそこかしこのお店を
散策していると、ナースキャップはとっているものの看護服にカーディガンを
羽織ったさっきの受付の女性が通りがかりこちらに気づいた。
「あらどうも。」
「あっ、覚えてましたか?」
「そうねえ、なんだかお困りの様子が印象的でね。失礼かしら?」
「いえいえ、お仕事終わりですか?」
「そうね。いつもこのぐらいね。で、なんだかお調べの様子だけど
うまくいってるのかしら?その様子じゃだめみたいね。失礼かしら? 」
「いえいえ、まあでもゆっくり調べますよ。」
「ここだけの話、今夜病院の警備は手薄よ。いっそ忍び込んじゃえば?
なんて冗談よ。あはは。」
「そんなあ。あはは。」
何気ない会話のやりとりだったが、このとき、自分は本気にしていた。
もうそれしかないようだ。コンピュータの扱いには自身があったのもそれを
実行に移させるひとつの理由だった 。
時計の針は23:00を回っていた。幸江が心配になったが、喫茶店で計画を
練り、黒いジャージなどを買っていたら連絡しそびれてしまった。
昨日はあまり眠れなかったのでもう寝ていることだろう。
人気のない公園のトイレで黒いジャージに身を隠し、着替えをトイレの裏に
隠した。それからなるべく裏路地を通るようにして病院へ向かった。
法に触れるようなことをするのは生まれて初めてだったが、多少映画の主人公に
でもなったような気分で心は高揚していたかもしれない。
救急患者用の入り口がぼんやりと赤く光っていたが、人気はなかった。
近づくと、入り口脇の受付室のようなところで、警備員が2人お茶を飲みながら
しゃべっているのが聞こえた。まったく用心している様子もなかったので
しゃがんで受付室の小窓の下をくぐるようにして中に入った。
心拍数は相当あがったが、なんのことはない簡単なものだった。
薄明かりの中病院内の地図を見つけ、資料室を探した。ありがちというべきか
資料室は地下の奥の奥だった。階段、廊下を忍び足で通過し、
資料室のドアの前に来ると、ひょうしぬけしてしまった。
鍵が開いていたのだ。慎重に慎重にドアを開け、お目当てのパソコンを探していると
ほかのパソコンはすべて何らかのスクリーンセイバーを映しているのに
一台だけ、いろいろなウィンドウが開けられ、あたかも使用中のような画面を
見せていた。ハッ振り返ると、何者かが鈍器のようなものを振り上げ、
自分に襲い掛かろうとしていた。
「誰だ!」
とっさにその振り上げた両の腕を大きな右手でつかみそう叫ぶと、意外な返事
が帰ってきた。
「か、梶丸さん?」
その声は幸江だった。左足も充分に大きい。間違いなく幸江だった。
<16>
「幸江っ!」
初めて呼び捨てにした。
「ごめんなさい、どうしても不安で、何か手がかりが欲しくて・・・それで・・・」
「いいんだ、私も自分勝手な行動だったんだ。これからは連絡をとりあうように
しよう。ところで、出生時の資料は見つかったのかい? 」
「いえ・・・まだ・・・。」
「よし、私が調べよう。君は見張りを頼む。」
そういって椅子に腰掛け、 片っ端からフォルダに検索をかけていった。
年度別のそれらしきフォルダがあったが、プロテクトがかかっていてパスワードを
要求された。あわてずインターネットに接続し、パスワード解析ツールを
ダウンロードし、見事にフォルダを開けることができた。
あたりに置いてあったフロッピーに情報を落とし、幸江に声をかけ、資料室を後にした。
廊下を忍び足で進み、階段付近まで来たときようやく心拍数が下がっていった。
完璧だ。と思ったその時、階段を駆け降りてくる複数の足跡を耳にした。
幸江と目を見合わせ「まずいっ。」ともらしたとき、すでに男たちが目の前に
仁王立ちになっていた。
奴らは、病院の受付と重田爺さんの情報通り、3人のメスチーソと1人の日本人
だった。日本人は30歳ぐらいの小柄な男でオールバックにして薄めのサングラス
をかけていた。
「はっははは、これは探す手間が省けた!まさか二人も!はっははは。
資料室に用はなくなったよ。さあお二人さんご同行願いましょう。」
といって後ろに立っていた3人のメスチーソに小さく母国語で語り掛けた。
「ま、待て、何の因果で私たちを狙うんだ!おまえたちは何者なんだ!」
「名前ぐらいは名乗ろうか?わたしは柳原。このものたちは左から
エスカチョ、ミシェル、ランドだ。お前たちはこれからペルーに行くんだ。
わけあって我々はお前たちの持つ大きなパーツを探している。
まあ、詳しくは将軍に聞くんだな! 」
「将軍だと!」
3人のメスチーソがわたしたちにゆっくりと手を伸ばし、ジリジリと近づいてきた。
そのとき、さらに新たな集団が声をかけた。
「お前たちそこで何をしている!」
階段の上に立っていたのは、病院のガードマンたちだった。
「ちぃ、邪魔が入ったか。まあよい、すぐに再会できるさ。」
柳原はそう言った後、3人のメスチーソに声をかけると、資料室とは反対側の
廊下の方へ走り去っていった。3人のメスチーソも後を追うように続いた。
ガードマンは残った私たちに詰め寄り、詰問し出したが、幸江が前に出て
「この足を見てください!急に腫れ出して!先生を!先生を呼んでください!」
と叫び、苦しがった。
混乱するガードマンの一人が
「わかった!今、当直の先生呼んでくるから!君たちはタンカを!」
と他のガードマンに声をかけた。
あっという間にガードマンたちはわたしたちの前から姿を消した。
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