このコーナーは、私の身近な方々から寄稿して戴き、自然に関する魅力を多くの方々に知って戴き、このコーナーを充実したものにして頂こうと考えております。但し、ジャンルとしては「自然」に関した記録・あるいは写真に限らせて頂ます。
 幅広い分野の方々の掲載をお願いいたします。            快くデータの提供をして頂いた八木様に深く感謝いたします。

南極タイトル

 


  
 南極とは、この地球上で唯一原住民の居ない雪と氷の大陸である。南極大陸は周辺の棚氷を含めると、その面積1360万kmもある。日本の面積の約36倍である。と言ってもこの広さは容易に理解できない。そこでアジアの地図を開き、中華人民共和国の1.4倍強の広さと言えば少しは理解できるのではなかろうか。
 このように広大な広さをもつのが南極大陸である。地球の底を南極大陸とすれば、地球の頭にあたる北極には陸地は全く無く、逆に同じ程度の広さの海、つまり北極海を持つのである。この関係は偶然か、重心の関係か未だ解明されていない。
 南極大陸までの距離は、日本の茨城県にある通信総合研究所の鹿島局と昭和基地との直線距離11.391km。南極に一番近い南米大陸のアルゼンチンのホーン岬からでもドレーク海峡を隔てて、1,000kmも離れている。船で行くと50〜60時間もかかる。このように地球上で唯一の孤立した大陸であることも特徴の一つである。
 南極大陸は雪と氷の大陸である。その大陸の95%以上は厚い巨大な大陸氷(氷床)に被われている。南極大陸の平均標高は2,300mで地球上の大陸の中ではずば抜けた高さである。
 二番目に高いアジア大陸の標高が約900mであることから、南極大陸がいかに高い大陸であるか理解することができる。ところが厚い氷床に被われている南極大陸は、その氷床を除いた標高、つまり大陸岩盤の平均の高さは海面よりも低く、-160mである。もし、この氷が解けるようなことがあれば南極大陸はすべて水没してしまうと思われるが、氷床が無くなると、『アイソスタシー』(地殻均衡)により陸地部分が600〜700mも上昇すると予測され、南極大陸も普通の大陸と同じ高さになる。
 南極大陸の最大の特徴は大陸の95%以上が氷床に覆われていることで、その氷床の厚さは平均2450mもある。この氷床が全部解けたとしたら、一体地球はどうなるのであろうか、解けた氷がすべて海に流れ込んだと仮定すると、現在の地球上の海水面は少なくとも70〜90mも上昇することになる。その結果は、東京や大阪などの日本の主な都市はもちろんのこと、ニューヨークやロンドンなどの世界の大都市の多くは標高20mくらいの地域にあり、完全に海面下に没してしまうことになる。つまり、それだけ多量の氷が南極には存在しているのである。
 もし、このまま地球の温暖化が急速に進み、この膨大な氷が半分でも解けたと仮定したら我々の住むこの地球が大変なことになるだろうと危惧されるのである。
 大陸氷床は大陸に降った雪が積もり圧縮されて氷になったもので、盆地状の岩盤地形と、流れにくい氷の性質でドーム状の氷床が作られる。一年に発達する氷の厚さは10cmくらいだから、2,450mもの厚さになるには2〜3万年もかかることになる。
 南極大陸の中心部の氷床は4,000m以上もの厚さがあり、その重みで大陸の周辺へ氷床が移動し、海に流れでたものが氷山である。その移動する速さは1年に内陸部で10m,海岸部では1km以上にもなることがある。大陸の中心部から流れてきた氷床は、氷山となるまでに数万年もかかるといわれている。この氷山の大きさは大きいものから小さいものまでさまざまだが、大きいものになると海面上の高さが40〜50m、海面下はその何倍もの厚さがある。記録によると、長さ185km,巾75kmもの氷山があったという。海面下を合わせると如何に氷山が大きいか想像することができる。
 このように大きな氷山は、南極海では1日2〜3kmの速さで漂流し、その平均寿命は、12〜14年といわれている。今までの例では最大級の氷山が亜熱帯地方の海まで漂流した記録もあるそうである。このような氷山も北半球では、グリーランドが主な供給地だが、氷河の末端が分裂して生まれるため、氷山の頂上は平坦ではなく、尖ったり割れたりと色々な形のものが生じる。又、供給源が狭いため大きな氷山は生まれにくい。その点南極は供給源が非常に大きいため、巨大な卓状氷山が生まれてくる。これが南極の特徴の一つと言えるのである。
 この氷山の供給源である氷床が海に押し出され、海岸周辺に留まり海に浮いている状態を棚氷と呼ぶ。南極大陸では周辺がくぼんだ海岸地形、いわゆる大きな湾のようなところに棚氷が発達する。表面はほぼ平坦か、ゆるやかな起伏となっている。この氷の厚さは200〜500mもあり、この棚氷の末端が割れて分離し、巨大な卓状氷山となるのである。南極では大きな棚氷は西南極に多い、ロス棚氷,ロンネ棚氷が特に知られている。このロス棚氷の面積は、57万kmもあり、日本の面積の約1.5倍もある。如何に南極大陸の棚氷が大きいかがわかる。このほか南極大陸の周辺は大きさはいろいろだがすべて棚氷によって埋めつくされている。このように南極は雪と氷ばかりの大陸である。
氷河
 
 地球はほぼ球形であるから、南極点の意味は、地球の自転軸が地表と交わる点、いわゆる南極点が地球の極である。緯度は90°S、経度は表現できない特異点。これが地理学的な極である。しかし、地球は大きな磁石と言われ、その磁石の極、つまり磁石の針が指す南の位置、これが南磁極である。
 1909年に確かめられたときは、緯度が72.4°S。155.2°Fであったが、この磁極は1年に10kmもの割合で北に異動しており現在では、南磁極、すなわち磁石の指すS極は南極大陸から大分離れて、海の上にある。私たちがが考える団子に串を刺したような状態、すなわち地球の自転軸が地表と交わる点(南極点)と磁石が示すS極とは大変な違いがあると言うことである。南極も北極も同じように二つの極がある。すなわち地理学的な極点、地球に串を刺した場合の南北の点、普通我々がいう南極点と北極点ともう一つは磁石が指す南極,北極の点である。一般に言われる南極点は、2,800mの氷の上にあり、この附近の氷は1年に10mくらい動いている。そこで元旦に位置を測定し(近くにアメリカの基地がある)ポールを建て、南極点を示しているのである。その点、北極点は海の上にあるため、その移動は相当なものであろうと考えられる。
 南極大陸は、地球上で最も強風と寒さの厳しい場所だと言われている。1978年140°E附近にあるフランスの基地で最大風速96m/sという信じられないような風速を観測している。そのほか、オーストラリアの基地でも80m/s以上の最大風速が観測されている。この基地のデーターではもっとも弱い1月でも45m/s50m/s以下の月は、1月を含め3ケ月しかない。70m/s以上の月が5ケ月もあり、この基地周辺の風が如何に強いかがわかる。
 日本の昭和基地はそれほど強い風は吹かない、それでも最大瞬間風速59.2m/sを記録している。この強風に雪が伴った時をブリザードと呼ぶ。南極のブリザードは風速14m/sこれに雪を伴い視界150m以下の状態。『激しいブリザード』は風速20m/s以上、視界はほとんど0、気温は-12℃以下のときと定義しているようである。昭和基地での記録を見ると3月から10月までは、平均5日以上、もっとも多いのは7月の7日、1972年の9月には17日と月の半分以上もブリザードが吹き荒れた記録がある。
 このようなブリザードのため観測に出た隊員がほんの数10mの場所で方向を失い尊い命を失った例もある。これほどブリザードは凄まじく、恐ろしい南極の自然現象である。
 
 南極大陸における最大の特徴は何と言っても寒さであろう。この寒さについて、北半球ではシベリアで-67.8℃が記録され、地球上で最も寒い場所とされていた。南極では、1911年7月に-60.5℃が観測され、これが南極における寒さの記録であったが、内陸部ではもっと下がるだろうと予想はされていたが、実際の観測例は無かった。1957年アメリカ隊が標高2,800mの南極点近くで観測をはじめると、たちまち-74.5℃の最低気温を記録した。また、東南極の中心部の標高3,000m以上の場所にソビエト隊によるボストーク基地が建設され観測が始まると最低気温がつぎつぎに更新され、1958年8月、月平均-71.8℃(これは月平均の最低世界記録)が観測された。その後、1960年8月24日この基地で-88.3℃が記録され長らく世界記録を保っていたが、1983年7月22日、同じ場所で今度は-89.2℃が記録された。これが現在の地球上に於ける最低気温の世界記録である。南極点では最高気温-15℃年平均気温-56℃となっている。
 昭和基地では、最低が1982年9月4日の-45℃、最高気温は1977年1月21日の10℃、年平均は、-10.6℃でそれほど寒くはない。昭和基地の最も暖かい時期は日本の冬と同じ程度だと言えよう。
 これほど過酷な条件の南極で観測を続ける越冬隊員の労苦は如何ばかりか、どれほど設備が整ったとしても一歩外に出れば死と背中合わせの毎日ではなかろうか、人生を超越し、強靱な精神力を持った人間のみに許される自然の掟のように思われてならない。
 以上のように書いて見ると、如何にも人間を寄せ付けない過酷な条件ばかりで普通の人間には及びもつかない場所のように思われるが、これらは南極大陸の冬の状態、又、中心部に近い所の条件で、私達が観光に訪れる夏期の南極半島附近では、西日本の冬と同じ程度の気温であり、それほど心配する必要はない。
 南極旅行は、南極大陸到達までの距離が非常に遠く『ドレーク海峡』という世界一荒れるという魔の海峡を渡る、これが何んとも大変なことである。
 先ずは空の便である。成田空港を夕刻に発ち、日付変更線を越え、ロサンゼルスまで9時間半、現地時間で同日の10時15分、飛行機の中は殆ど眠れない、背中は痛い、腰は痛いで大変だが、ロサンゼルスに着くとアメリカという外国のためか体がしゃんとした。着後、市内観光となる。
町は非常に美しい、道路も広く車道3車線から4車線が続く、それと植樹帯が広く木が大きいのも道路を美しく見せる要因だろう。
 まづは、ハリウッドのチャイナシアターに行く、ゲイリークーパー、マリリンモンローとかの往年の名スター達の、足型,手型とサインが広場のコンクリートの平板に刻まれているのを見る。次に野茂選手で一躍有名になったあのドジャーススタジアムに行く。収容人員は57,000人というから日本では大きいが、アメリカでは中ぐらいとか、それよりも駐車場の大きさに驚く、2万台という。この球場の作りが一寸以外な気がした。丘陵地に作ったのであろうか、駐車場を出て球場に入ると、これがなんと観客席の最上段に出る。グランドは摺鉢の底に小さく見える。今は野球はシーズンオフでグランドに人影はないが、観光客のために売店は開いていた。中に入ると何と野茂グッズばかり、アメリカでも相当人気が高いのであろう。また、日本人の観光客も多いのだろうか、こんなことを思いながら値段票を見るとこれが結構高い、買うのを止めにした。
 今夜も夜間飛行である。市内観光を終わりホテルに入り休息、20時30分に集合して空港に向かう。23時59分、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに向け出発。途中給油のため、翌日の昼頃今話題のペルーの首都リマに寄るが緊張感は全くない、ほっとする。ブエノスアイレスに18時45分到着、約15時間の空の旅である。体も大分疲れてきた、ホテルに入り夕食後はただ眠るのみ。
 明朝は早い4時の起床である。ブエノスアイレスからはいよいよ、今回の目的南極への玄関口、ウシュアイアまでの最後のフライトである。3時間半である。ウシュアイアは、南米大陸の尖端にあり、南緯55度、アルゼンチンの最南端の港町である。この町のことは後に記すことにするが、今は真夏だというのに気温3℃、すぐ近くの山には新雪があり美しい雪景色である。リマ空港では気温30℃一足とびに夏から冬である、体調が崩れない方がどうかしていると思う。
 少し市内を歩いたり、ホテルで休んだりして、19時いよいよ乗船である。20時今回の長い南極への船旅の最初の夕食。日本を発って3日間日本食を口にしていない、船で出してくれた『ウドン』がとても美味しかった。日本人を考慮してのことだろうが、国内だったらとても食べられるしろものではない。贅沢は言わないことにしよう。
 21時30分、いよいよ待ちに待った南極に向けての出航である。心が弾む、こんな気持ちは長らく味わったことはなかった。究極の旅として南極を選んだことを本当に良かったと思う。
 今回の船は、船名ALLA TARASOVA号(アラ・タラソワ)総屯数3,940t、全長100m、全幅16.2m、1974年ユーゴースラビアで建造され、その後1991年にフィンランドで大改造されたロシア船籍の耐氷客船である。乗組員80名、クルーは全員ロシア人、他のスタッフはヨーロッパ人、その他案内役と通訳の日本人4名、今回の参加者総員82名、まさにマンツーマンの船旅である。良い旅であればと願う。
 今は海は穏やかだが夜半ホーン岬を過ぎれば、いよいよ名だたるドレーク海峡である。この海峡は今は海流が西から東へ流れており、世界一とも言われる荒れる海峡である。船はこの海峡に直角に進みながら南極へと向かうのである。どのくらい傾くのか、どのくらい揺れるのか予想すらできない。夜中、足を引っ張られるような気がして目が覚めた、1時である。船は揺れ始めた、右に左に前後にと、それは凄い揺れである。とてもじゃないが眠ることはできない。ベットに座っていても体が倒れそうになる、こんな経験は未だかつてしたことがない。揺れはだんだん強くなる。仕方なく廊下に出てみると皆んなが青い顔をして、ビニール袋を持って座り込んでいる、同室のものに遠慮してのことだろうが何とも気の毒な話である、が、当人達にとってはそれどころではない、風も体裁もない、とにかく今が一番大変なのである。
 翌朝の食事に出てきたのはほんの少し1/3にも満たない人達であった。他の者は船酔いが酷く、出てこれないらしい。また、食べると戻しそうな気がして避けているのかもしれない。このように船は南極到達までの2日半のうち2日間(48時間)も揺れに揺れてようやく到着である。この間の最高の傾きは右27度左に18度を記録した。27度もの傾きのときは船の廊下は全く歩けない、手摺りをかなり強い力で握っていても引っ張られたり、押し戻されたりで今にも手が離れそうになる。廊下に出ていて急に揺れが大きくなった時は、じっとして揺れが少し治まるのを待つしかない。この27度程度の傾きは普通の揺れだという、今までの最高記録は45度も傾いたという。45度も傾くとはどんな揺れだろうか、聞いただけでも恐ろしくなってくる。
客船
 船のレストランの食卓は固定されてはいるが、上に載せてある皿やグラスが飛ばされることがある。そこで台の廻りに1cmくらいの麻雀台のような縁が作られ、台の上には荒目の厚い布が敷かれている。揺れが大きくなるとすぐこの布に水をかける。このようにして食器類の滑りを止め、転倒を防いでいる。
 食事にしても半分はバイキングだから、余程気を付けてもジュースやミルク,水等を持って歩いているとき大きな揺れがくるとこれをかぶり大変なことになる。こんな場面を何回か目のあたりにした。また、皿や小鉢類は量を多く入れても重心が低いためそれほど心配はないが、高さのあるコップ類は半分以上入れると転倒し易くなるので要注意。面白いのは、リンゴやオレンジの果物類である、台の上に皿に載せて置くとき場所が悪いと(端は落ちやすい,中央に置けば転んでも台の中にある)全部転げ落ちてしまう。同じ人が果物を再度取って来ているのを見たこともある。転んだのであろう、朝の食事後の掃除のときリンゴやオレンジが20個以上も転がっていたとシェフが笑っていた。
 私達の同行者の中に若いカップルがいた。昨年末に結婚したが忙しく新婚旅行ができなかったので今回その変わりに参加したとか、この若いお嫁さん船酔いがひどく南極までの船では一度もレストランに姿を見せなかった。本当に気の毒な話である。特に旦那様が・・・・・・・・
 このように船酔いのひどい人が何人も居たようである。特に大変だったのが洗面とトイレとシャワーである。片手で顔を洗い、片手でのトイレだがこれが相当に難しい、私もこの作業に慣れるまでに3度も頭をぶっつけ、たんこぶを作ってしまった。特に難しかったのがシャワーで広さは畳半分もない、この狭いところで洗うのも片手ではなかなか上手にゆかない。それよりも大変なのが終わって体を拭くときである。片手ではどうしても拭けない仕方なく同室の人に断りシャワー室を出て部屋で座って拭くことにした、これが男同志なら何のこともないが、4人部屋とか女性同志の場合はこうもゆかない大変だろうなと心配する。
 私にはお陰様というか、生まれつきというか今まで一度も乗り物酔いはしたことがない。今回のドレーク海峡の話を聞くと少し不安になり酔い止めの薬を準備し、最初に一度呑んだが別にどうということもなく、その後忘れてしまったが最後まで酔うこともなく無事船旅を終えることができた。同室の人は、私のことを船にも強いが酒にも強い、人間ばなれしていると驚いていた。私自身も自分のことながら少し呆れた次第である。
 
 1997年2月7日成田を発ちロサンゼルス,アルゼンチンのブエノスアイレス,ウシュアイアと飛行機を乗り継ぎ、3日間30時間。ウシュアイアから船60時間、2日と半日合計5日半日を要して、ようやく2月12日早朝、南極クーバービル島に到着。この朝5時頃遥か遠くに氷山を見る。まさにこれが感激というものだろう。夢にまで見た氷山である。朝もやの中にぽっかり浮かぶ白い巨大な氷の固まり生物のような氷の固まり、これが氷山である。氷山は水が凍ったものではなく、雪が圧縮されてできているので、色も透明ではなく中に気泡が多く白く輝いて見える。このため、断面積が大きくなり、プリズムの作用で本来なら7色になるそうだが氷の厚さのため青色以外の色はすべて吸収され青色だけが残るのだと説明してくれた。
 南極の第一歩は大陸ではなく、半島近くのクーバービル島であったが、島といっても相当に大きく説明を受けないと大陸とは区別できない。私達の今回の旅行は南極半島ではなく大陸そのものにどうして行かないのか少し不満に思っていたが、ここに来て始めてその理由がわかった。南極半島そのものでもその広さは、詳しくは解らないが日本と同じくらいあるとか。もし、大陸そのものに行くとすれば船であと10日も20日もかかるのではないだろうか、とても日数的にも観光では無理ではなかろうか。これほど南極大陸は大きいのである。船は次々と移動して目的地に上陸すると、ペンギン,オットセイ,アザラシ等その数の多いのに驚く、このように見てくると、この南極半島が適切だと思われる。
 南極半島やその周辺の島への上陸は、本船に積んである『ゾジャック』と呼んでいるゴムボートである(15名くらい乗れる)このゴムボートは空気室が何室にも分かれており、二つや三つの空気室がもし破れても絶対に沈まない構造になっているそうである。このボートはもとは軍隊の上陸用に作られたものでかなり丈夫にできている。沈む心配はないがボートの廻りにぐるりと座っているので、しっかりロープに捕まっていないと大きく揺れたとき後へ投げ出されてしまう。 このようにして上陸地点に近づくと先に着いているスタッフの方達が少し海に入りボートを確保して私達に手を貸して降ろしてくれる。それでも少しは私達も水に入ることがある、波の高いときは細心の注意を要す。このゴムボートの本船から上陸地点までの時間は最大15分だという、これは天候が急変したとき上陸している人達をゴムボートで本船に収容するのに必要なぎりぎりの時間だという。
 本船は常時、無線で交信し、異変をキャッチすると、上陸している人達に合図を送り、直ちに本船に呼び戻す。このように南極は天候も変わり易く、何時荒れはじめるか不気味なところである。今迄、事故は一度も無かったが、天候が急変して本船に引き上げたことは何度かあったとか、私達は9回も上陸したが一度も天候の急変は無かった。幸運と言うべきだろう。
 ボートゴムボートでの上陸の場所は、雪の無い砂礫か岩盤の低いところである。雪や氷の場所は、常時崩れており断崖絶壁が続き、高さも低いところでも10〜20mもある。上陸どころか何時崩れるかわからないので近づくことも危険である。
 最初の上陸地、クーバービル島へは8時半より上陸開始、全員を8班に分け順序よくゴムボートに乗り込む。次の地点での上陸は先頭の班が最後に廻り次々と順位を替え公平に上陸を繰り返す。帰りは用の終わったと思う者から順次船に帰る。最終のゴムボートの出発時間は最初に全員に知らされている。
 クーバービル島に上陸して先ず驚いたことは、ペンギンさんの多いこと、いるわ、いるわ見渡す限りペンギンだらけ、数千羽はいるだろう。全員が海に向かって直立不動の姿勢で(なかには寝転んでいるやつもいる)私達を迎えてくれる。(ペンギン達はそうは思っていない?)夜もこのような直立の姿勢でいるそうである。
 ペンギンは5,000万年くらい前は、カモメと同じように空を飛んでいたと考えられている。その後、飛ぶことと、泳ぐことの両方の時代を経て、氷河期を過ぎ、少しずつ寒冷地の生存に適するように進化してきたという。ペンギン達は流線型の身体、密度の高い皮下脂肪と細かい厚い羽毛、翼からヒレへの進化などにより、自分達が飛ぶことより泳いだり潜ったりすることが好都合なように適応させたといわれている。ペンギンの身体は、3cm四方に70本という鳥類では最も密度の高い防水羽毛に覆われ、さらにその下に柔らかい細かなうぶ毛がウールのフェルトのように密生し、皮下の何重もの脂肪層を守っている。このような完全な防寒装備では気温が上がると体温が過熱する心配があるが、そんなときはすべての羽毛を逆立てて放熱をはかり、また、目のまわり、ヒレの付け根,足など羽毛に覆われていないところから放熱し、体温の調節をしているという。ペンギンは泳ぎは非常に上手である、ヒレ(翼)を支える骨は平たく一体化して肩のところだけ動くようになっている、これと三角形の尾が舵の役目をして泳ぐときの強力な推進力となっている。
 彼等は時速20kmもの早さで泳ぎ皇帝ペンギンなどは、20分間、270mもの深さまで潜ることができるといわれている。陸上でのペンギンは近眼だというが、いったん水中に入るとその視力は抜群で、紫,緑,青色を良くとらえる。特にペンギンの主食であるオキアミが発する青緑色に鋭く反応すると言われている。ペンギンは食事のときは大量のオキアミを海水とともに飲み込み、余分な海水は特殊な排水線により鼻孔から体外に出してしまう。このように適応能力抜群である。
 地球上のペンギンは17種類、そのうち6種類が南極大陸で良く見られ、この南極半島周辺では、ジェンツーペンギン,アデリーペンギン,ヒゲペンギン(アゴヒモペンギン)が殆どである。身長65〜75cm、体重5〜6kgである。昭和基地あたりまでは最も大型の皇帝ペンギン(身長120cm,体重45kg)やオウサマペンギンが見られるがこの半島周辺では、この種のペンギンは見られない。
 南極半島での3種類のペンギン達は多少の差はあるが、黒い目が丸く白いまぶたで縁取りされ、身体は白と黒の燕尾服を上手に着こなし、その身体つき、歩き方、どの仕種を見てもユーモアにあふれ可愛い縫いぐるみそのものである。ペンギンは非常におとなしい性格を持っている。自分達だけの喧嘩は殆ど見られない。面白いのは親が海から餌を取ってきて自分の子供にやろうとすると自分の親がまだ帰ってこない他人の子供が自分にも餌をくれと催促する。なかには大きな声で脅かしたり、嘴でつついたりする、親の方は自分の子供にだけ与えたいので急いで逃げる、子供達は懸命に追う、親は転びながら必死で逃げる、2匹の子供達は何処までも追っかける。このような争いが20〜30mも続くことがあるが本気ではなく何となく遊びの延長のようである。子供達も身体は親と同じくらいに成長しているので2匹の子供達に体当たりされると親はたじたじである。最後は他人の子供の方が諦めるようである。見ていて何とも微笑ましく、愛嬌があり、何時までも見ていたい仕種である。また、氷の上で急ぐときは、足の水かきと翼をいっぱいに広げ上手に氷の上を滑る、転びそうでなかなか転ばない、この動作がとても可愛いのである。
氷の上のアザラシ ペンギンは、大人しく人なつこく、愛嬌ものである、陸上では殆ど外敵に襲われることが無いからかも知れない。しかし、ときどきは、『南極トウゾクカモメ』に小さな子供や卵を狙われる。このカモメは羽を広げると1.3mにもなる。茶褐色の大型のカモメである。雑食性でペンギンのルッカリー(集団営巣地)の近くに要領よく巣を作り、何時もペンギンの卵やヒナを狙い捕って食べるので『盗賊』というあまり嬉しくない名前が付けられたという。ペンギン達はこのトウゾクカモメが近づくと全員でカモメの方に向かい大きな声で『ガァーガァー』と鳴き追い払うがカモメも然る者、一寸の隙間を見て急降下して卵やヒナをさらってしまう。カモメも生きるためには必死である。これも弱肉強食、仕方ないことかもしれない。
 ペンギンは私達が歩いて行っても少ししか逃げようとしない、逃げると言うより避けてくれる。ペンギンにとっては人間は目線が高いので少しは怖いのかもしれない。写真を撮るため座っていると安心するのかペンギンの方から寄ってくる。 特に子供の方が好奇心が強いのか良く寄ってくる。ペンギンは赤や青色が好きなようである、このような色のズボンをはいていると良く近づく、なかには足をつついたり、ボタンを引っ張ったりするものもいる。こんなにもペンギンは人なつっこく可愛いのである。
 アザラシが陸上で寝そべっているのを良く見かける、多いのは『ミナミゾウアザラシ』で大きいものは体重500kgにもなるらしい、殆ど2匹(夫婦だろう)でのんびりりしているように寝転んでいるがアザラシは気が荒いので近づかないようにと再三の注意があった。アザラシは海で食事をし、腹が太ると陸に上がって昼寝をしているようである。一度こんなこともあった。ゴムボートで本船に帰る途中、小さな氷(長さ15mくらい)の上で寝ている『カニクイアザラシ』を見つけた。ボートを近づけ写真を撮っていたが、ボートの船員が面白半分にこの氷にゴムボートを体当たりさせた。アザラシは逃げるどころか全く知らん顔、少し顔を動かし私達の方を『何だ』と言わんばかりにくりっとした目を向けて見てるだけ。又、その顔がまん丸にちょこっと目と鼻と口がついている。何とも可愛いものである。このほか『南極オットセイ』がいる。オットセイは、アザラシに比べ体は大分小さい、体重150kgくらいで、陸上でも良く歩き廻る。ペンギンに夢中になって写真を撮っていると後から襲われることがあるので充分に気を付けるよう注意を受けた。
 オットセイもアザラシも歩き方は本当に面白い、歩いているのか転びながら進んでいるのかわからない、でも本人達は一生懸命なのだろう。海の中では泳ぎの名人も、陸に上がれば不器用この上ないが、仕種がユーモアーいっぱい可愛いのである。
 このほか、遠くではあるが鯨も三度ほど見ることができた。

鯨の骨とペンギン

 南極では、ナガスクジラ,イワシクジラ,セミクジラ等のヒゲクジラと、マッコウクジラやシャチなどの歯鯨が知られているが、ヒゲクジラが歯鯨より圧倒的に多いのは、ヒゲクジラが主食とする『オキアミ』が非常に多いことである。しかし最近ではこのクジラも少なくなり、大きな国際問題となっている。
 私達は、1997年2月12日最初の上陸地点クーバービル島をはじめとして、全部で9回も上陸したが、その殆どでペンギン,アザラシ,オットセイ等を見た。
 1997年2月13日14時 ラメール海峡を通過して待ちに待った南極大陸に上陸した。永年の夢が今、叶ったのである。これが感激というものだろうか、胸が熱くなるのを押え切れなかった。ここまで日本から5日半もの長い道程であったこと、また大変な労働であったことが感激を一層深いものにしたのかも知れない。
 南極大陸の上陸地点が『パラダイスベイ』である。このパラダイスベイは地球上で最も美しい自然港と言われ、訪れる人々が声を揃えて感嘆する。それほどに見事な景色である。ここにはアルゼンチンの『ブラウン基地』があり、小さなショップもあった。Tシャツとワッペンくらいしか売っていないが私達が上陸する南極大陸唯一の売店である。皆な記念に何かは買ったのではなかろうか、私もワッペンとバッジを買った。
 この南極大陸の上陸日時はあらかじめ知らされていたので、ウイスキーを持ち込み氷山のかけらで『オンザロック』と洒落こんだ、氷には沢山の気泡が含まれているのでウイスキーを注ぐと『ブチブチ』とかなり大きな音が聞こえる。(オホーツクの流氷も試したがこれほどの音はしない。)この氷がまたウイスキーを吸って氷そのものに味がつく、ひと味変わったオンザロックである。こうして皆んなで乾杯した。この味がまた格別。南極大陸という場所だけに感慨無量、生涯に二度と味わうことはないであろう。皆んなそれぞれに感じたことと思う。 この基地の背後に小さな山がある。雪の中を20分ぐらいで登れるところだが、急勾配で滑り易く、歩きにくいので皆んな中止し最後まで登ったのは、ロシア人の船員と私ともう一人の若い人だけであった。この頂上から見るパラダイス湾は、南極半島西海岸の入り組んだ海岸線と幾つもの島に囲まれ何10個もの氷山が浮かび、鏡のようなコバルトブルーの海面には周囲の山々や氷山が姿を映し、そのさまはまさに美の頂点とも言えるのではなかろうか、言葉の形容も無いほどの美しさである。地球上で最も美しいと言われる自然港、その形容を素直に認めたい気持ちになってくる。
 この山から下り、次はゴムボートで湾内を巡る。これがまた素晴らしい、切り立った絶壁には、『南極アジサシ』や『青目鵜』『海ツバメ』が巣を作り子育ての真っ最中。湾内に浮かぶ氷塊の上には、アザラシがのんびりと昼寝を楽しんでいる。ペンギン達も次々に海に飛び込み楽しく遊び廻っている。まるで動物達の楽園である。私達もこんな光景を見ているとつい遠い日本を忘れてしまうほど感傷に浸るのである。この絶壁が尽きると今度は何と氷の絶壁の連続である。長年の雪が固まり氷となり、その重さによってだんだんと海面近くに押し出され、その先端が海に落ち込み絶壁となるのである。高さ30〜50mもある、海に落ち込んだ大きなものが氷山となり海に浮かぶのである。ここでの氷山はあまり大きなものはできないそうだが、それでも長さ100mくらいのものはある。その崩れた壁が又、見事である。前にも述べたが割目や窪みはブルーのそれは凄いほどの色を見せてくれる。この氷の壁(氷床)は何時崩れるかわからないのであまり近づけない、せいぜい40〜50mくらいまでである。もし近づいたときに突然崩れたら、その風圧と余波で人々はボートから投げ出され大変なことになる。しかし、その崩れるところも一度は目にしたいと皆んな皿のような目をしているがとうとう一度も崩れてはくれなかった。こうしてパラダイスベイの湾巡りを1時間以上も楽しんだ、ここだけで南極に着た甲斐があったと思っている。
 このようにして5日間の南極半島の観光は終わったのだが、やはり南極は凄いということが結論である。ペンギン達にしてもアザラシにしても動物園でしか見ていない私にとって、これほど自然の中で自由な生活をしているのを見ると、まさに脅威である。私が目にしただけでもペンギンの数、何万羽ではなかろうか。花でも一輪でも似合う百合やバラのような花もあれば、コスモスや桜のように多ければ多いほど人を引きつける魅力のある花もある。ペンギンも動物園のように少数のものと何千羽ものがルッカリーを作って生活をしているのでは、全く違った感じである。南極はペンギン達だけの世界のように錯覚するのは私一人ではあるまい。こんな良さが南極である。
 この南極も年々観光客が増え、自然環境の汚染が問題になりつつある。このままでは南極は大変なことになるだろうと危惧され、世界中から『もっともっと規制すべきである』との声が上がっている。私達も大分待たされたが予定の上陸地点に近づいても、先の船が上陸していると、この人達が終わるまで待つのである。このように一度に大勢の人が上陸すると汚染やペンギン達に与える影響が多いことを考え、こんな措置をとっているのである。私達は2時間も待つことになった。このような配慮はしているが南極は急速に汚染が進んでいるという。
地上のペンギン 日本は南極大陸に昭和基地をはじめとして、みずほ基地,あすか基地と三ケ所もの基地を持っているが未だ南極条約を批准していない。先進国を自負する日本は早く南極条約を批准して、名実ともに世界の一流国になるべきではなかろうか。(現在国会で審議中)南極には現在、世界中の各国が建設した基地が60ケ所以上もありそれぞれの観測を続けている。チリの観測基地を見学したときの向こうの人の話しだが、気象や地質・植物等の調査研究はあくまでも表向きの理由で本音は軍事面に関する調査,鉱物資源の所有権を確保するための調査が我々の指命だと公然と話してくれた。
 私が国は、第二次世界大戦が終わって10年、ようやく敗戦国日本が国際社会に復帰をはじめた1956年11月、砕氷船『宗谷』で第一次の観測隊が日本を出発し、1957年1月29日、ようやく『オングル島』に上陸し基地を建設した。この基地を『昭和基地』と命名し現在に至っている。この年2月14日、11名の越冬隊が組織され、日本初の越冬が始まったのであるが、宗谷にとってはこの海域の氷の状態は厳しく砕氷能力の弱い宗谷では無理と判断し翌年の第二次越冬隊は断念せざるを得なかった。
 このとき、昭和基地に残した15頭の犬のうち『タロ・ジロ』が生きて第三次隊を迎えた話は『タロ・ジロ物語』としてあまりにも有名で、南極とともに永久に語り継がれてゆくことであろう。
 最初の砕氷船宗谷による観測は、第6次で終わり、4年間の中断の後、『ふじ』が就航し再び観測が再開された。この頃より昭和基地には次々に新しい設備が整い観測が急速に進められた。
 1983年には『しらせ』が作られ、1,000tもの荷物が運べるようになり、日本隊の活動が広範囲に渡ったのである。この『しらせ』は、18,900排水t、30,000馬力のディーゼルエンジンを搭載した世界に誇る砕氷船である。
 南極への人類の歴史は古く、ノルウェー人のアムンゼンが南極点へ人類初の足跡を残したのは、1911年10月15日のことである。我が国では、白瀬(シラセノブ)が明治45年(1912年)1月12日開南丸で南極に接近し、ロス棚氷上に上陸し、ここに根拠地を作り、南極点を目指した。この人容は白瀬以下5名29頭の犬と2台のソリである、一行は寒風の吹き荒れる氷原を悪戦苦闘しながら9日間で300kmを進んだ、1月28日のことでここを最南点としたのである。このときの位置は、80.05S,156.37W,標高305m。白瀬はこの地点を中心に見える限りの氷原を『大和雪原(ヤマトユキハラ)』と命名し『これを日本の領土とする』と宣言した。白瀬はこのとき一塊の岩石をも採取できなかったことを悔いたと言われるが、それもそのはず『大和雪原』は、ロス棚氷の一部で海の上であったのだから仕方のないことである。この地点から南極点まではまだ1,000kmも離れている。これが日本に於ける南極観測の夜明けとなったのである。
 南極大陸は、海洋資源,鉱物資源に恵まれており、各国とも競いあって調査を続けているがこれらの資源も自国の所有権は認めず、また南極大陸そのものも何処の国の領土にもできない。したがって、私達が、イギリス,アルゼンチン,チリと三ケ所の基地へ上陸したが、パスポートの閲覧は一切ない。ただ、親切でチリでは南極のゴム印を押してくれた。このように南極大陸は世界の皆んなの共有物であり、世界の財産である。これらのことがらを皆んなで守ってゆこうというのが南極条約である。この条約を批准し守ることにより、地球上最高の財産を次の世代へ引き継ぐため、我々の手でこの南極大陸を大切に守って行かなければならない。
 このようにして南極の観光は終わったのである。やはり南極は凄い。私も冬のスイスやアラスカで雪や氷は沢山見てきたが、まるでその大きさが全く違う。とにかく大きい、あまり大きすぎて氷山やら島やら大陸やら全然区別がつかない、船が進んで行くと島と思っていたのが氷山であったり、氷山と思っていたのが島であったりと、このように大きいのである。又、色が素晴らしい海はコバルトブルーというよりもっともっと濃い青色である。色が濃すぎるためか水の透明度はないが濁りもない。海に浮かぶ大小の氷山は何時も漂流しているので少しずつ方向を変え、形を変え、色を変えるので氷山は生きているのだと実感する。このように南極はすべてのものが私達の想像の域をはるかに越え、本当に素晴らしいのである。やはり南極は凄いの一言。こうして南極の観光は終わりをつげた。
南極の山々 1997年2月15日夕刻南極を後にし、船はまた60時間のドレーク海峡であるが帰りは、船に慣れたこともあってか、それほど気にならなかった。他の人達も往きのような船酔いはなかったようである。
 2月17日早朝、ホーン岬が見えたときは正直いって無事帰って来たことを痛感した。ホーン岬は豪快で美しい岬である。翌2月18日早朝アルゼンチン最南端の町ウシュアイアに入港した。今日はウシュアイアの泊まりである。午後は周辺の観光にでかける。このウシュアイアは、南米大陸を数千キロも貫くアンデス山脈の最終部分に位置し、風向明媚な人口4万人ほどの港町である。周辺の山並みには真夏でも雪がのこり、緑が多く町全体が公園である。今日の気温5℃、土地の人々はそれでも短い夏を惜しむように公園ではキャンプを楽しんでいた。
 ここには地球最南端の汽車の駅がある。私達は時間の都合で乗ることはできなかったが、地球最南端の汽車ともなれば一度は記念に乗ってみたかったが残念であった。このウシュアイアは最近南極大陸観光の玄関口として急激に開発されつつあるが、まだまだこれからといったところ、空港も3,000m滑走路はできているがターミナルビルは建築中、今年いっぱいかかるという。町の道路の舗装はまだ半分もできていない。今は夏だから観光客も多いが冬ともなれば人も寄りつかない陸の孤島になると思うと一寸気の毒になってくる。何分にも緯度が55度というのだから。
 翌19日は、ブエノスアイレスまでの4時間半のフライトである。ブエノスアイレスは南米を代表する都市だけあって、町は非常にきれいである。緑が多いこと、木が大きいこと、とにかく土地がとてつもなく広いことである。我が国のように街路樹の剪定は一切していない、自然のままに自由に伸びている。ここには世界一という大きな道路がある。道路幅なんと140m20車線である。中央分離帯と側道の分離帯が大きく、道路の横断にしても何度も信号待ちして渡るのである。
 このブエノスアイレスは、今迄の歴史のなかで忘れてはならない事柄を道路とか公園,建物などの名前に由来させ国民皆んなで忘れないようにしている。この世界一の道路も「7月9日通り」と呼ばれている。(理由は一寸忘れてしまった)翌日は100kmほど離れた農場の見学に行った。馬に乗ったり、タンゴを聞いたりと良い思い出となった。特に驚いたのは、農家の耕地面積が広いことである、150ヘクタール(150町歩1.225m×1.225m)もある。今は丁度トウモロコシと大豆を作っていたが、境界が見えないくらい広い。北海道でも考えられない一戸当りの広さである。
 ブエノスアイレスでは、本場アルゼンチン料理を食べた。名前は良いが一口に言うと、牛の内蔵が主の料理である。少し臭いもあり、それに固い私にはあまり馴染めない味であった。ビールとワインは、どこもあまり変わらないお味しく呑めた。
 アルゼンチンの通貨は『ペソ』だが、『USドル』とレートが同じだということでどちらの国のお金も使え、買物は非常に便利であった。しかし、物価は少し高いように思った。品物としては皮製品が特に多い、どの国も同じだろうが、女性用の品が多かったのが印象に残った。夜は、アルゼンチンタンゴの劇場へ行く。タンゴは現在では世界的にも一時ほどではないが、さすが発祥の地アルゼンチンである。
 我が国でもタンゴは昭和30年頃に良く流行した。この劇場は昭和初期の建物かと思われるような古いもので木の椅子が並び人も200人くらいしか入れないが、当地では一流と言われる劇場だそうである。ダンサー達もかなりの年齢(30〜40才くらいに見えた。)の人が多かったが、日本にも何度か来たこともある世界的にも有名な人達ばかりとか、2時間ほどのショウーであったが、始まると同時に観客を魅了した。あの早い動きと強烈なリズム、それに各ダンサー達の鍛えぬかれた芸術的とも言えるスタイル、これが美の頂点かと思うばかりに美しい。動きには優雅さのなかにも迫力がある、皆んなうっとりとして目と耳を傾ける。音楽に酔うとはこのようなことを言うのであろうか。先に出してくれたドリンクやアルコール類も殆ど手を付けなかったのではなかろうか、これほどにアルゼンチンタンゴは凄いのである。
 最後の締め括りは、あの世界の名曲『ラ・クンパルシーター』さすがに感動した。このラ・クンパルシーターのレコードは今から40年くらい前、ドイツの初代『リカルドサントス楽園』が日本で初めて演奏したときのLPレコードを今も大事に持っている。感慨無量であった。こうしてアルゼンチンの首都ブエノスアイレスの観光を終り夜の便で出発した。ニューヨークを経由して、24時間の長い空の旅である。
 1997年2月22日15時、16日間にも及ぶ南極旅行に終わりを告げ無事帰国した。この度の旅行は生涯に二度と訪れることのない南極であり、その感動は何時までも心に残り終生忘れ得ぬ思いでとしてここに旅行の記録を記す。
 
 
八木 政志