第87回 自称「馬鹿八」元外相の上奏文
(2003・7・20記)
「……わが国が戦争に突入したのも馬鹿気きった話だが、あのみじめな敗戦も懲りもせず、今でも独りよがりの理屈を並べて再び戦争の危険を犯そうとしている者があるなら、それは神を恐れない者といわなければならない。この本の出版に意味があるとすれば、それは20年前日本が気狂いじみた(原文のまま)ことをやったいきさつの記録が含まれていて反省の材料となるということであろう。」
これは有田八郎(1884.9.21〜1965.3.4新潟県佐渡出身)の著書『馬鹿八と人は言う 一外交官の回想』(光和堂1959刊)の「まえがき」の最後の部分である。
有田八郎といえば、まず、三島由紀夫の「宴のあと」でわが国最初のプライバシー裁判を起こした人として思い出す人が多いだろう。しかし、この裁判もさることながら、有田は太平洋戦争突入前、広田(1936)、第一次近衛(1938)、平沼(1939)、米内(1940・1〜7)各内閣の外相を務め、とりわけ広田内閣当時は、日独防共協定の締結に尽力するなど太平洋戦争につながる時期に日本外交の重責を担っていた。その有田は、日・独・伊・三国軍事同盟を締結した第2次近衛内閣(1940・9〜)には関わっていない。そして外務省顧問だった太平洋戦争末期の1945年7月9日、『大東亜戦争終結に関する上奏文』を昭和天皇に提出した。
「もだし難き心」で直訴
上奏を思い立った経緯について、有田は前述の著書「もだし難き心」の項で、6月上旬、「極めて確かなる筋(内大臣秘書官長故松平康昌氏)から、陛下はいよいよ和平に御乗り出しになることに御決意遊ばされたということを仄聞(そくぶん)し」喜んでいたところ、いつまでたっても何らの動きがなく、「私は書面による上奏ということを考えた。拝謁上奏はわれわれには望み得ないことであったからだ。7月9日これを携えて内大臣(木戸幸一)を訪問して御取次ぎを乞うた。」と書いている。
このとき有田は貴族院議員で、『木戸幸一日記』(下)の7月9日(月)の欄には「11時半、有田八郎氏来室、時局に対する上奏書云々なり。1時15分より1時50分迄、御文庫にて拝謁。」という記述がある。『木戸幸一日記』にはその後も木戸が7月25日、8月3日に有田の訪問を受け、面談したことを記している。
この上奏書が昭和天皇に届いたかどうかは不明だったが、『昭和天皇独白録』(文藝春秋1991刊)には、「・・・有田は私(天皇)に対して此際是非共講和が必要だと云う意見書を提出した。かくの如く国民の間には講和の空気が濃厚となって来た。」とあり、一部で伝えられていたように木戸のところに留まっていたわけではなかった。
表紙は「上奏」「昭和20年7月9日」「 有田八郎」と直筆の署名があり、本文の一行目には「臣八郎」とあり、続いて次のようにカナ交じりの書き出しで始まる。
「熟々現下ノ情勢ヲ案ズルニ、国家ハ実ニ累卵ノ危キニ瀕シ、一度対策ヲ誤ラムカ、ソノ前途誠ニ言フニ忍ビザルモノアラムトス。而シテソノ対策ヲ決スルニ当タリテヤ、最モ慎重ナルヲ要スベキハ勿論ナルモ、苟モ期ヲ失セムカ、百千ノ名案モ遂ニ施ス術ナク、此際一刻ノ遅疑ハ実ニ国家ノ運命ヲ左右スルトイウモ敢テ過言ニアラザルベシ。」
上奏文は全文約3000字から成っていて、最後は次のように締め括っている。
「伏シテ惟ミルニ神州ハ不滅ナリ。否不滅ナラシメザルベカラズ。然レドモ神州ヲシテ真ニ不滅ナラシメムガ為ニハ、単ニ必勝不滅ノ信念ヲ呼号スルモ何等ノ益ナシ。宜シク大局ヲ洞察シテ時ニ忍ブベカラザルコトヲ忍ブコトモ必要ナルベク、臥薪嘗胆ヲ期シテ、一時後退ヲ策スルコトモ亦己ムヲ得ザルベシ。此ノ際若シ戦局ノ判断ヲ誤リ、忍バザルベカラザルニ忍ブコトヲ知ラズ、後退スベキトキニ後退ヲ肯ゼズ、徒ラニ必勝不滅ノ信念ヲ高唱シテ戦争完遂ノ一途ニ驀進セムトスル者アラバ、臣ハ虞ル如此ハ畢竟皇国ヲ滅亡ニ導クニ異ラザルヲ。
陛下英明ノ資ヲ以テ此ノ難局ニ立タセ給フ。仰ギ希クバ戦争ノ帰趨ヲ大観セラレ、一断以テ皇国ノ危急ヲ救ハセ給ハムコトヲ。
正三位勲一等 有田八郎」
ハーバート・ビックス著『昭和天皇』下巻131〜132ページ(講談社2002)は、有田の上奏文の以下の部分を引用して、有田が重光葵(元外相)、佐藤尚武(駐ソ大使)とともにソ連の仲介で戦争終結が出来るとは考えていなかったことを紹介している。
「7月12日、天皇と木戸は、近衛公爵を天皇の特使としてモスクワに派遣することで、ソビエトと秘密の直接交渉を始めようとした。しかし、数日前の7月9日、有田元外相は天皇への上奏で、『重慶若しくはソ連、延安を我方に引付け、現在の我地位を有利に展開せしめんとするが如きは殆ど望み得ざるところならん。然るにもかかわらず尚且つ之を試みるとせんか、或いは虞る徒らに寸刻を争う貴重なる時間を空費するに過ぎざらんことを』と指摘していた。大局から冷静かつ合理的な判断を下していた有田は『神州ヲシテ真ニ不滅ナラシメムガ為ニハ、単ニ必勝不滅ノ信念ヲ呼号スルモ何等ノ益ナシ。宜シク大局ヲ洞察シテ時ニ忍ブベカラザルコトヲ忍ブコトモ必要ナルベク』と、天皇に訴えたのである。」
私の手許には、上奏文全文と木戸幸一内大臣宛書翰草稿(8月7日付け)の2種類の複写したものがある。これは戦後、護憲連合などで有田とともに行動した原彪元衆議院副議長(1953・5〜1954・12在任)の遺族から托された遺品のなかに混じっていたものである。山本悌二郎著『有田八郎の生涯』(考古堂書店1988刊=著者は有田八郎の元秘書で、元衆議院議員。有田には、台湾製糖社長、農相、政友会顧問を務めた同姓同名の兄山本悌二郎がいた。)に載っている上奏文の写真(一部)と同じものである。上奏文が何時、どんな経緯で複写され、それがなぜ原元衆議院副議長の元にあったのか、それはわからない。
朝鮮半島の不穏な動きの中で、自衛隊が「イラク支援法」によって初めて海外派遣されようとしているいま、戦争の実態を知る上でも、自称「馬鹿八」元外相の上奏文の意味を改めて考えたい。
(敬称略)#
有田八郎略歴
明治17年9月 新潟県佐渡に生る。
明治35年3月 佐渡相川小学校を経て早稲田中学校卒業
明治38年 東京第一高等学校卒業
明治42年 東大法学部卒、外務省に入る
昭和7年 外務次官を経てアジア局長
昭和8年11月 ベルギー大使
昭和11年2月 中華民国大使
昭和11年4月 広田内閣外務大臣
昭和13年10月 第一次近衛内閣外務大臣
昭和14年1月 平沼内閣外務大臣
昭和15年1月 米内内閣外務大臣
昭和18年以降 外務省顧問