第46回

豊田商事会長刺殺事件(2,000・12・25記)

     

 テレビニュ−スに仏さま(死体)の映像がいまのようにひんぱんに登場するようになったのはいつの頃からだろうか。正確に確かめてはいないが、約20年にわたったベトナム戦争(1954〜1975)の後半頃からではないかと思う。大量虐殺のソンミ事件や後ろ手に縛られた男の人が銃殺されるシ−ンは極めて衝撃的だった。

 日本ではそのころまで、事件事故の現場でカメラマンが死体を撮ることはまずなかった。たとえフイルムに映っていても編集段階でカットされていた。つまり死体はそれを報道することによほどの意味がない限り報道するべきではないという倫理観があった。それが大阪千日デパ−トビル火災(’72年5月13日 アルサロの客ら118人死亡)の時にはもう破られていた。ビルの屋上から飛び下りた女性の遺体がるいるいと横たわる現場。その映像がそのまま放映されたのを見て慄ぜんとしたのを覚えている。

 最近では、衛星放送を見ていると、テレビの番組中にスタジオに飛び込んできた男がけん銃で自殺するシ−ンや中国での公開処刑の場面などかつては考えられなかった光景が無造作にアップで放映される。今回取り上げる「豊田商事会長刺殺事件」はそうした傾向がエスカレ−トしたものだった。以下、事件のあらましを紹介する。

 豊田商事事件とは「金の現物まがい商法」とか「ペ−パ−商法」と呼ばれたもので、もっぱらお年寄りの家を訪問販売し、執拗に、しかも詐欺的な手口で勧誘しているのが特徴で、被害者はお年寄りを中心に2万9、000人、被害金額は約1、150億円といわれている。この事件で警察庁が摘発に乗り出そうとした矢先の1985年(昭和60年)6月18日午後、永野一男会長(32)は報道陣が大勢詰めかけていた大阪市北区のマンションで、乱入した二人組に刺殺された。この結果、豊田商事は事実上壊滅状態になり、大阪地方裁判所は、7月始め、豊田商事と親会社「銀河計画」の破産を宣告した。

 永野会長が殺された日、私は、渋谷のNHK放送センタ−で現場から中継回線を通じて送られてくるモニタ−映像(素材用)をウオッチしていた。放送された画面は、最も劇的なハイライト部分、つまり、

△加害者が椅子でドアをたたく

△それを報道陣が囲んでカメラのシャッタ−を切る△2人組が窓ガラスを割って乱入△暗い室内での動きと惨状のアップ

△血まみれで運び出される永野会長の姿・・

で構成され、誰もが息をのむような残虐シ−ンがそのままお茶の間に伝えられた。

 当時のNC9の木村太郎キャスタ−は「これから放送する映像はこどもには残酷なのでブラウン管から遠ざけて下さい」といって放送を始めた。放送メデイアの残虐シ−ンの扱いは各社とも50歩100歩だったように思う。

 一方、活字メデイアはどうだったか。その日号外を出した新聞社もあったが、翌19日の朝刊各紙の見出しをみると、テレビと同様にセンセ−ショナルである。

毎日新聞は社会面で「英雄気取り『犯人オレヤ』」「返り血あび平然と」「永野会長 頭割られ無残な姿」「警備空白つき・・白昼の犯行」。

読売新聞の1面は「永野会長 刺殺される」「豊田商事捜査に痛手」「2人組、銃剣で窓破り、自宅に乱入」。社会面で「『止められなかったのか』 目前のテロに電話殺到」「“凶行中継”茶の間に衝撃」「その一部始終がテレビで放映」。

朝日新聞は1面で「豊田商事の永野会長殺害」「自宅へ銃剣持つ2人組(大阪)」「窓ガラス割り乱入『法の追及は手ぬるい』」。社会面は「放送、茶の間に衝撃『なぜ止めぬ』本社への批判電話も」。凶行現場の写真説明には「I(記事では本名)に押さえつけられている豊田商事の永野会長 犯人が侵入 格闘するような物音が聞こえたあと、混乱の中で窓越しに暗い室内を撮影した中に写っていた」とある。

 この報道には二つの問題がある。残虐シ−ンの扱いと「凶行は阻止できなかったのか」である。残虐シ−ンの公開については、受け手の側から強い拒絶反応が寄せられ、事実を優先させた考え方が多くの批判を集めることとなった。「これ以上見るに耐えない」残虐な暴力シ−ンをながながと放送する必要があるのかという批判だ。放送の場合、死体のある事件・事故現場、処刑シ−ン、殺人の場面など、それ自体がショッキングな事実なだけに、センセ−ショナリズムに陥らないような自制が求められるのはいうまでもない。BBCのガイドラインでは、カメラマンがこうした場面に遭遇した場合、特に必要としない限り、アップショットよりもロングショットで撮ることをすすめているという。(松尾洋司著『テレビ報道の時代』兼六館)

 ただし、戦争における大量殺戮シ−ンやル−マニアのチャウシェスク大統領処刑シ−ンなどは別である。扱い方を工夫するとしても、むしろ戦争の悲惨さや独裁者の末路を歴史的事実として伝えるのがマスメデイアの義務であろう。

 もう一つの「凶行阻止」については、新聞の社説やコラムでも取り上げられた。

読売は「報道の義務はあるにせよ、異常な雰囲気の中で犯人の動きを少しでも制止するてだてはなかったのか。報道関係者として。批判は謙虚に受け止めたい」。

朝日は「天声人語」で「事実をみつめ、追及し、それを伝えることに全力を投ずるのが記者の立場だ。しかし、取材が全てに優先して、無法な行為を市民として見逃すといったことがあってはならない。その接点をいつも見きわめていくことを自戒としたい」。

毎日の社説は「犯人を制止し、事件を阻止できなかったというマスコミ全体の反省がある。痛恨の一事であり、自責の念にかられる。(略)蛮行には、マスコミ人はこぞって勇気をふるい、対抗し、行動したい。この事件にあたっての自戒と決意である」。建前としては各社のいう通りだが、現場では殺人の結果まで予想出来なかったにしても、当時の社会情勢から「悪者退治」に来た2人の行為をどこかで許容する心情もあったのではないか。

 私はこの事件発生の時、浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件(1960年(昭和35年)10月12日)とだぶらせて考えていた。その日、日比谷公会堂の3党首立会演説会で浅沼さん(61)は、演説中、右翼の少年のテロで倒れた。収容された日比谷病院で、「刺されなければあと10年は元気で活躍できる体だった」といっていた医師の話がいまも耳に残っている。刺殺現場の写真は各紙に大きく掲載され、このうち毎日新聞の写真はピュリツア−賞を受賞した。この時も、カメラマンの誰かが犯人めがけてカメラを投げつけていたら事態は変わっていたろうという声が高かった。日本の政治も変わっていたかもしれない。「職業意識」か「人命尊重」かの議論は、所詮、結果論なのだろう。状況によっては、同じことが起きないとは限らない。

 ともあれ、残虐シ−ンの横行がこどもたちの心に与える影響を考えると恐ろしい。毎日新聞の「記者の目」テレビ40年(93・2・4)の記事はそれを裏付けている。

 「こどもに人気のアニメでは、こどもを引きつけるため『戦闘シ−ン』が増えている。日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』(1963年)では30分の放映時間のうち約30秒だった戦闘シ−ンが、最近では15分前後になっている。『作る側からすれば戦いの場面は手間がかかってシンドイんですが、スポンサ−からの要求は断れないですよ』ある人気アニメ監督はあきらめ顔で言った。『これもビジネスなんですから』どんなものが若者に好まれるのか入念な市場調査をして、番組が制作されている」 (「くらしのレポート」No85号)