第38回 遺書が語る太平洋戦争(2,000・11・20記)
戦後50年の1995年、出目昌伸監督の映画『きけ、わだつみの声』がよく見られていた。いうまでもなく、この映画は日本戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』(東大協同組合出版部・1949)の映画化であり、映画としても同じ東映(関川秀雄監督1950)の2作目になる。
*わだつみ=海神(広辞苑)
映画のもとになった本の新版(光文社1959)の「あとがき」には
「本書が刊行されるや、本書にこめられた真紅の生命は、たちまち燎原の炎のごとく、戦後国民各層の中へ、広く深くひろがっていき、<わだつみのこえにこたえて>、<ふたたびわだつみの悲劇をくりかえすな>という願いは、当時の青年学生層の合い言葉になり、・・・本書はいわば戦後の若い世代の聖書ともなったのである」
と記されている。映画の方も当然多くの観客を集めたに違いない。 1949〜50年当時、日本は敗戦直後の荒廃からやっと立ち直ったばかりだった。お隣りの朝鮮半島では、米ソの冷戦激化でまた再びきな臭い戦争の臭いがたち込め、実際に1950年6 月には朝鮮戦争が勃発した。そうした世相のなかで、『きけわだつみのこえ』の本や映画に込められた「反戦」の思想が多くの共感を呼んだのだろう。
NHKでは去年の暮れ、戦後50年の特集番組に備えて、テレビ・ラジオで戦没者の遺書の募集を呼びかけた。その結果、全国の視聴者から800編近くの遺書が寄せられ、このうちの一部はNHKスペシャル「時は流れる〜794通が語る太平洋戦争」(8月13日)で放送された。私もラジオの戦後50年特集「あの日、あの時」(8 月7 日〜19日の13日間)に出演するため多くの遺書を読ませてもらった。ここではそのなかから庶民の遺書を幾つか選んで紹介したい。
寄せられた遺書は、戦地に向う途中に書いて軍事郵便で送られたものが多く、なかには戦場でいまわのきわに手帳に書き止めたものを戦友が遺族に届けたものもあった。軍隊での階級もそれまでに受けた教育も様々なのに、いずれも格調の高い文語調で、血書や血判を押したものもあった。これらの遺書は大部分が検閲を受けている。それを意識してかしないでか、みんな一様に、時候の挨拶に始まって、妻子のいる者は妻子の、また独り身の者は両親兄弟姉妹など身内の健康を案じ、自分はお国のために命を捨てる覚悟をしているので心配しないでほしい、と結んでいる。そして、ほとんど例外なく最後に「天皇陛下万歳」と記している。
しかし、こうしたなかにも僅かながらお上の命令で戦地に向う無念さを書いたものも目に止まった。「笑って死にます」という言葉を見たときにはギクリとするものがあった。この人などは自分の置かれた立場がよく分かっていたのだろう。
以下、具体例をいくつか紹介しよう。
【1】戦地を伏せて便りを出す
手紙を出す時に差し出人の住所、氏名、日付けを書くのは当たり前だが、戦地からの遺書の場合、どこから誰がいつ出したものか不明なものが多い。それでも受け取った方は父、夫、兄弟、息子からだと分かり、どの方面に向ったのか見当をつけて安否を気遣っている。「○○に到着した」「○○港に入港」と書いてあるのはいい方だ。差出人の名前を別人にしたものもある。
【2】貯金通帳の番号を通知
「この度、命により突然転任することになりました。志気いよいよ旺盛。誓って皆様の御期待に応うべく、努力の覚悟なれば乍他事御休神下さい。連絡事項。貯金通帳3冊。貯金局と番号は次のとおり。○○○○。××××。△△△△。」 このように、必ずと言っていいくらい、郵便局か銀行の貯金(預金)通帳の番号が書いてあり、お金の使い道を指示している人もあった。
【3】巻紙に長文(3b50a) の遺言
「生をこの世に享くること二十有余歳今日迄御養育賜わりたる父母の恩、御指導を頂きたる恩師各位並びに御交誼を辱けなうせる親戚又会社の上司友人各位の御恩を深謝す。皇国の民として生を享け、身命を君国に捧げ、屍を戦野に曝すは男子の本懐なり。戦死の報到るとも必ず悲しむべからず。唯母上様に先立つ不幸の罪は何れ黄泉にてお詫び申し上ぐべし。・・・尚後事を遺言す」
この後、家督、財産の相続の件、保険の受取人、蔵書の処分について12項目にわたって巻紙に細かく書き記している。
【4】幼い娘への思い
「謹んで可愛い○○子さんに遺言いたします。私はお前の父親です。父は昭和19年4月召集令状を拝し名誉ある帝国海軍の一員として大東亜戦争に参加したのです。勿論死は覚悟の上です。・・・父は本当に罪のない仏心の可愛いお前に別れるのが一番悲しい思いでした。真実の親子という因縁を結び乍ら僅か十ヵ月余にして最後の別れを告げ、お前は一生父親を知らず淋しい思いで日を送るのかと思えば本当に可愛そうでなりません。・・」
これは出征時に生後10ヵ月半だった娘宛ての遺書で、漢字にはすべてルビがふってあり、妻に託された封書の裏には「○○子の学校卒業するまでは開封厳禁のこと」と添え書きがしてあった。
【5】食物に箸の絵
えびの天丼、うな重、キントン、メンチボ−ル、ポタ−ジュ、アスパラガス、メロンなどの絵が並び、箸、ナイフ、フォ−クが添えられている。そのわきに、「どびんむしはダメでしょうな」「うなぎめしがタベタクナッタ」「毎日ゴボウト大根ノ煮タノニ冷麦飯ノ御馳走デス」と書いてあった。
【6】留守家族の悲劇
遺書は省くが、昭和19年11月、サイパンで散った17歳の海軍特別攻撃隊員の場合、留守家族は大変だった。妹さんの便りによれば、母は当時「軍神の母」といわれ、兄の葬儀は村葬として出してもらった。ところが、終戦と同時に価値観が変わって、「名誉の戦死」の家族は一番最初に狙われるというデマが飛び、家の門前と四辻に建てられた「神風特別攻撃隊○○の生家」と書かれた標柱を夜中に父が抜いて「何処に隠そうかと思案にくれていた」という。
こした反面、遺書を書く間もなく、散って行った多くの男たちがいることも事実である。グアム、テニアンで282人中遺書を残したのは2人だけという海軍兵学校第73期の記録「海ゆかば」があることを知らせてくれた人もいた。
冒頭、紹介した『きけ、わだつみの声』の映画監督出目昌伸氏は「50年の歳月は・・・あの戦争そのものを過去に追いやり<わだつみのこえ>すら・・・死語に近いものになりつつあるのが現状である。現に今回の再映画化に際し、全国から応じてくれた千五百人ほどの出演希望者のうち、あの本を読んでいた若者の数は、実に寒々しいものであった。」(『早稲田学報』'95・7・8 )と内幕を披露している。それなのに、戦後生まれの人が70%近い現在、この映画がヒットするのはなぜだろう。歴史の追体験なのか、単なるファッションなのか。それとも再びきな臭い臭いがあたりにたち込めているのを鋭く察知しているのであろうか。いずれにしても、この夏、350万人といわれる太平洋戦争での死者たちの声に改めて耳を傾ける時間を持ちたいものだ。霊よ安らかに。合掌。
(「くらしのレポート」No113)