第182回『坂の上の雲』に見る司馬遼太郎の新聞批判(10・12・05記)


【1】司馬遼太郎の新聞批判

(1) ロシアの実情を知らずに戦争報道 (2)戦勝報道の気分が太平洋戦争に

(3)「日本の新聞の右翼化」米大統領指摘(4) 新聞は日露戦後の総決算せず

(5) 新聞は戦争を勃発させる力もつ

【2】『朝日新聞社史』を読んで

(1)「(池辺)三山、強硬論を唱える」(2)「日比谷焼き打ち事件」4日前の紙面

(3) 新聞の売れ行きは飛躍的に増大

【3】米西戦争とアメリカの新聞

【4】むすび 言論人の反省

 NHKテレビ『坂の上の雲』の第2部
(第6回日英同盟 第7回子規、逝く 第8回日露開戦 第9回広瀬、死す)が始まった。いよいよ戦闘場面にさしかかる。日露戦争開戦当時、日本の新聞・世論はどうだったのか。

 作者司馬遼太郎は「あとがき」のなかで、「日露戦争前、政府はもっぱら避戦的態度であり、自然、政府系の新聞とされる国民新聞や東京日日新聞は自重論であり、これら数種の新聞は経営の危機が伝えられるほどに人気がなかった。民衆はつねに景気のいいほうでさわぐ。むろん開戦論であった。この開戦への世論形成をしたのは朝日新聞などであった。学者もこれに参加した。」(文春文庫第8巻 P303〜304)と書いている。

 自らも新聞記者(1948〜1960)を経験したことのある司馬は、作品の中で随所に内外の新聞記事を引用しながら、書き進めている。ここでは司馬遼太郎の新聞観といったものを見てみたい。(敬称略)

【1】司馬遼太郎の新聞批判

(1)ロシアの実情を知らずに戦争報道

 まず、日露戦争の開戦時に日本の新聞は何を伝えていたか。1905(明治38)年1月25日付け東京朝日新聞の大見出しに、「突如、露京に革命の烽火揚る」とあるのを槍玉に挙げ、ロシア革命の前兆となる「血の日曜日」の勃発を「突如」というのはありえないとしている。

「朝日」だけでなく、当時の日本の新聞は、戦場以外に海外特派員を配置するほどのゆとりがなかったことを認めながらも、数ヶ月前からロシアで革命の機運が高まっていたのをキャッチできず、「いかに国際感覚に欠けていたかがわかるであろう。」と痛烈に批判している。

「それにしても敵国の状態について不勉強すぎるであろう。そういう無知が、この見出しの感覚にも出ている。」「・・新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。要するに日本では軍隊こそ近代的に整備したが、民衆が国際的常識においてはまったく欠けていたという点で、なまなかな植民地の住民よりもはるかに後進的であった。」「・・・この当時の日本人は、ロシアの実情などはなにも知らずに、この民族的戦争を戦っていたのである。」(文春文庫第6巻 P203〜205)

(2)戦勝報道の気分が太平洋戦争に

 それに比べて、ルーズベルト米大統領は東京の公使館から日本の新聞論調をまとめた報告を受け、奉天会戦後、日本人が慢心しはじめていることや日本の国力窮乏について「知りすぎるほど知っていた」と書いたあと、新聞の危うさを次のように指摘している。

「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。・・・新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化に少しも気づかなかった。」(文春文庫第7巻 P218〜219)

(3)「日本の新聞の右翼化」米大統領指摘

 さらに、日露戦争後、ルーズベルトは、「日本の新聞の右翼化」という言葉を使って新聞自体の体質変化を警戒していた。奉天会戦以前の2月6日付けですでに駐伊・アメリカ大使に「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう。」と書き送っていたことを紹介している。

「日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。」と記している。 (文春文庫第7巻 P219)

(4)新聞は日露戦後の総決算せず

 日露戦争では日本、ロシア両軍とも兵士12万人近くがそれぞれ犠牲になった。しかし、日本の新聞は戦後総決算をせず、それが日本軍隊の絶対的優越性という迷信を生んだと司馬は見る。

「(日露)戦後も、日本の新聞は、――ロシアはなぜ負けたか。という冷静な分析を一行たりとものせなかった。・・・もし日本の新聞が、日露戦争の後、その総決算をする意味で、「ロシア帝国の敗因」といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負けるべくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずから負けた」ということになるであろう。

 もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争後に日本でおこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対優越性といった迷信が発生せずに済んだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも免疫性をもちえたかもしれない。」 (文春文庫第6巻 P206)

(5)新聞は戦争を勃発させる力もつ

 秋山真之が滞米中、米西戦争が勃発した。「米西戦争の戦訓は、のちの日露間で行われた海上封鎖と決戦のためにどれほど役に立ったか分からない。・・・日本人がロシアとたたかうためのヒナ型を提供するためにアメリカ人とスペイン人が戦ってくれたようなものであり、その戦訓の取材者として天が秋山真之をキューバにくだしてくれたようなぐあいである。」(文春文庫第2巻 P253)

 しかし、それはそれとして、その米西戦争は米大統領が好まないのに新聞社同士の販売競争のために仕組まれた戦争だったことに触れ、日露戦争でも似たような取り組みをした日本の新聞の実態を浮き彫りにしている。

「良質な新聞は別として、低級な新聞(黄色紙=イエローペーパー)が紙面を挙げて戦争気分をあおった。かれらは『無知で浅薄で景気のいいことが好きなアメリカおやじ』どもの感情に迎合し、迎合することによって新聞を売ろうとした。真之の滞米中におこった米西戦争は、戦争というものの社会科学的必然性はなにもなくて勃発した。アメリカ政府を戦争にひきこんで行ったのはハースト系の新聞とピュリッツア系の新聞であったという点で、世界戦史の珍例とすべきものであった。」(文春文庫第2巻 P230〜231)

【2】『朝日新聞社史 明治編』から

(1)「三山、強硬論を唱える」

 当時、東京、大阪の主な新聞で非戦論を唱えていたのは、東京日日、毎日(東京横浜毎日を改題)、萬朝報。主戦論をとったのは大阪・東京の両『朝日』、時事新報、大阪毎日だった。

 このうち、『東朝』で主戦論の急先鋒は池辺三山だった。社史に「三山、強硬論を唱える」の項があり、三山が社説(明治36年4月30日)で、クリミヤ戦争を例にとり、「ロシアの横車には兵力に訴えることもできるぞと、という強硬論をはいた。」とし、『三山日記』には元老山縣を訪ねて意見を聞いたところ、山縣が「積極論を唱えた」とあり、新聞記者が政治家を動かす場面が出てくる。(432ページ)

 『大朝』では内藤湖南、西村天囚、鳥居素川が開戦前から戦争中を通じて主戦論を唱え、内藤湖南は社説「和戦の決と其特質」の最終回で植民地・新市場の必要性を説き、大陸にむかって開戦に踏み切るべきだと強調している。

「我邦は実に人口の繁殖の為に土地の必要あり。而して工業生産物の排泄の為に新市場の必要あり。・・・この大なる要求を満足せしめ、永く他国の圧迫より脱するは戦争の結末による外なし。」(435ページ)

(2)「日比谷焼き打ち事件」4日前の紙面

 1905(明治38)年9月1日の大阪朝日新聞には、「白骨の涙」という題の絵が載っている。その絵解きとして、「29日の講和談判会見に於いて成立したる条件は一切日本の譲歩のみ・・・。という書き出しで始まる全文を黒枠で囲み、社説は『屈辱的な条件』としてその破棄を要求した。『白骨の涙』の絵はサレコウベが泣き、軍刀は無残に折れている。激越な内容の紙面である。」という説明文がついている。(480ページ)

 同じ日、池辺三山は社説「講和談判の成立」で、「講和条件中の満韓処分問題のごときは、すでに日本が実力によって解決していたものであり、のこるは 償金、割地、露艦交付、海軍力制限の4条件のみであるのに、当局はこの主張をことごとく放棄した。」として、日本政府は国民を侮辱し、国事を誤るものだと、激しく攻撃した。

 その上、『東朝』は講和条件反対の投書を募集する社告を出した。投書の数はぞくぞく増え、9月4日には社説を止めて社説の載る面1面を投書に当てた。内容は小村全権の責任をなじるもの、ロシアの保護国になれと皮肉るもの、桂内閣を大露探(ロシアの大スパイ)ときめつけるもの、狂歌、漢詩に託して痛罵するものなどだった。(479ページ)
 この記事の4日後に「日比谷、焼き打ち事件」が起こった。司馬はなぜか「日比谷焼き打ち事件」についてはあまり触れていない。
 
(3)新聞の売れ行きは飛躍的に増大

 経営が傾きかけていた新聞社にとって日露戦争は救いの神だった。

「日露戦争が始まると新聞の売れ行きは増大した。1904(明治37)年上半期(4〜9)の1日の平均発行部数は『大阪朝日』が2万195部増え15万2403部に、『東京朝日』が2万195部増え8万7266部になった。」(487ページ)とある。

 号外も驚くほど多かった。大本営、陸・海軍、外務省の発表ものを中心に、1日5回発行された日もある。「毎日」は日露戦争中、号外を498回、1ヶ月平均22回発行したという記録がある。


【3】米西戦争とアメリカの新聞

 ピュリッツアと米西戦争について、ピュリッツアの評伝(『マスメディアの先駆者』講談社)の著者香内三郎は、概ね次のように記している。

「マッキンレー大統領は気乗り薄だったようだし、スペインもアメリカの要求を全部呑んだのに、ピュリッツアも含めた『新聞』が戦争を起こしたのだ、とまで言われている。ピュリッツアが後年、教育に力を入れ、コロンビア大学に『スクール・オブ・ジャーナリズム』を作り、『ピュリッツア賞』を設けたのは、その反省であり、懺悔のしるしだと言われている。

「『ジャーナル』と『ワールド』を先頭にするジンゴイズム宣伝、好戦熱病の扇動がなければ、あるいは回避できたのではないか。」

「・・・諸新聞の、虐げられた『キューバ』を解放せよ、という叫びはまことにものすごいものがあった。スペインを『悪玉』にしたて、キューバ人民を『善玉』にすえ、あることないことととりまぜてエロ、暴行、サスペンスを好きなだけ盛り込めるこのテーマは、部数競争に血道をあげる両紙にとって、まことに格好のテーマであったのだ。」(96ページ)

「アメリカ・ジャーナリズムの名誉のために一言しておけば、1897年にも、戦争反対を叫ぶ新聞はあった。『ヘラルド』『イーブニング・ポスト』『トリビューン』『タイムズ』。ある計算によると、ニューヨークの好戦紙全部の総計は、およそ156万部、反戦紙の部数は以上の総計で約22万5千部だった。」

【4】むすび

 ジャーナリズムの落とし穴に、センセーショナリズムとスキャンダリズムがあることは歴史が教えている。米西戦争と日露戦争の報道もその一つである。軍隊での経験もある司馬遼太郎は、戦争を勃発させる力をもつ新聞に脅威を感じ、『坂の上の雲』の新聞批判を通じて、太平洋戦争に突き進んだ日本の新聞のあり方に猛省を促したかったのではないか。

 尖閣問題やビデオ流出事件、さらに北朝鮮の延坪島砲撃、米韓・米日の軍事演習などの動きを見るとき、太平洋戦争で演じた新聞の轍を2度と踏まないように、日々、自省自戒のもとで報道をしてほしい。ここで太平洋戦争後明らかにされた言論人の反省を改めて噛み締めたい。#

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(言論人の反省)

高杉孝二郎(毎日新聞西部本社編集局長)
 毎日新聞の社史によると、高杉は「その日まで戦争を謳歌し,煽動した大新聞の責任、これは最大の形式で国民にお詫びしなければならない」として、敗戦の翌日から8月20日まで5日間、終戦の詔書と公的機関の発表・事実経過だけを掲載し、2ページしかなかった紙面の半分以上を白紙で発行した日(8・17)もあった。

 高杉は白紙で発行することによって、社長に新聞の廃刊を進言したという。この白紙事件に対して、1カ月後、毎日新聞会長の高石真五郎は「西部本社の取った態度については小生、ただ呆然として解するを得ず」と怒りを表している。高杉は、その前の8月29日、退社した。 
緒方竹虎(朝日新聞社主筆)
 緒方は伝記『緒方竹虎』に収録された遺稿の中で次のように書き遺している。             
「〜日独伊三国同盟が調印された時、日本の新聞幹部の大多数は、これに反対であったろうと思う。然し如何なる国内情勢があったにせよ、日本国中一つの新聞すらも、腹に反対を懐きながら筆に反対を唱えなかったのは、そもそも如何なる悲惨事であったか」
美土路昌一(朝日新聞社長)
 美土路は『回顧談』の中でマスコミ人の一人として何も出来なかった自分を責めた上、次のように反省している。
「〜全新聞記者が平時において大声叱呼した言論自由の峰火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼らを誤らしめたその無気力、生きんがための売節の罪を見逃してはならぬ、・・・言論死して国遂に滅ぶ、死を賭しても堅持すべきは言論の自由である。」
福岡s二(読売報知新聞社会部記者)
 福岡は、真珠湾攻撃の朝、宿直勤務で、大本営報道部から呼び出され、三宅坂の参謀本部へ駆け付けた一人。
「思想的に締め付けられ、批判記事を書けば経営が脅かされる時代だった。新聞だけが責めを負うべきでない。世の中全体が戦争遂行に追従していったのだ。」
宮本太郎(読売報知社九州総局長)
 宮本は、紙面で沖縄決戦での特攻隊の任務の重要性を説いた。
「上からの圧力で筆を曲げると言うよりも、目先の記者活動に自分を埋没させてしまい、時流に流されていった。」
 戦後、自分の書いた記事を悔やみ、新聞社の戦争責任をめぐり発生した「読売争議」に身を投じ、その後退社した。
(福岡s二記者、宮本太郎局長の話はともに『20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争』読売新聞社編)
柳沢恭雄(日本放送協会報道部副部長)
 柳沢恭雄はラジオニュースの責任者の一人。玉音放送の前夜、内幸町放送会館で反乱軍将校に拳銃を突き付けられ、決起の放送を強要されたが、これを拒否した。
「私の放送人としての仕事は戦争とともにあった。大本営発表とともにあったともいえる。一生懸命やればやるほど間違いを犯す地位で仕事をやってきた。この責任は永久に残る。わが生涯の戦後は終わる事はない。」
(『20世紀放送史』NHK編)

第101回 59回目の8月15日を前に(2004・8・9記)

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(参照)

【日比谷焼打事件】

1905国民大会がきっか(明治38)年9月5日、日比谷公園で行われた日露講話条約反対のけになって発生した大暴動。交番や政府系新聞社などを襲う。翌日続き、鎮圧に限界も例が公布される。

【センセーショナリズム】
人の耳目を引くことを第1とする立場。扇情主義。

【ジンゴイズム】 
好戦的な愛国主義

【米西戦争】
1898年アメリカとスペインとの間に行われた戦争。キューバの反乱とアメリカ軍艦メイン号の爆沈事件とを契機として勃発。この結果、アメリカはキューバを保護国とし、プエルトリコ、・グアム島を手に入れ、フィリピン諸島を獲得、ドイツがスペインから南洋群島を購入した。

(以上、いずれも広辞苑から)