ちょっとしたコラム      
               
03.4.26付


田淵(西武)、夢の両リーグキングへ快進撃

 1983年、田淵幸一は西武ライオンズへ電撃トレードで移籍してから5年目を迎えていた。移籍1年目の79年は大きな期待を背負いながら27本塁打、69打点の成績に留まり、最下位のチームにあっては戦犯扱いを受けていた。80年はリーグ3位の43本塁打して面目を保ったものの、81年になるとプロ入り以来最低の15本塁打に終り限界説まで出る始末。82年に広岡新監督の元、徹底的な意識改革を受けた田淵はプロ生活14年目で初の優勝、初の日本一に輝いていた。ベテランを容赦なく扱う広岡監督に初めは反発もあったが、勝つ喜びを教えられた田淵は今年も優勝をと意気込んで83年のシーズンに臨んでいた。そのモチベーションは近年になく高いものだった。

 しかし開幕当初の田淵はスロースターターだった。開幕戦で3安打、その後も2試合続けて2安打とヒットは出るもののホームランが出ない。5試合目の日本ハム戦でようやく1号が出たが、後が続かない。27日になってようやく第2号が飛び出した。4月末では僚友のテリーが6本塁打でリーグトップに立っていた。
 5月の声を聞くと田淵のバットが唸りを挙げ始めた。4日に3号、7日に4号そして10日に5号を打つと12日からは4試合連続ホームランを放った。22日の10号はこのシーズン初めて勝利に結び付かなかったが、24日からの阪急3連戦では4ホーマーの大暴れで3タテに貢献。28日の南海戦でも打って月間13本塁打の荒稼ぎ。テリーも月間12本と打ちまくりトータル18本と数字を伸ばしたため、田淵の15本塁打はまだリーグ2位だった。それでもこの活躍で5月の月間MVPに選出されている。

 6月に入っても田淵のバットは好調だった。5日の阪急戦で17号同点ソロ、7日のロッテ戦で18号逆転3ラン、11日・12日の日本ハム戦では2試合連続2ホーマーの固め打ちを見せた。この時点で田淵にホームランが出た試合は10連勝を含む19勝1敗と圧倒的な好成績だった。結局6月も2ヶ月連続二桁となる12本塁打を量産。6月末ではトータル実に27本塁打となり、月間4本と当たりの止まったテリーに5本差を付けてリーグトップに躍り出ていた。チーム63試合目で27本は130試合では55本ペースであり、日本新記録への挑戦も話題に上るようになった。

 そして7月2日に28号、10日に29号を放って早くも30号に王手を掛けた。5月以降では51試合で27本塁打の凄まじい量産ペースだった。トータル29本塁打は2位テリーの23本に6本差を付けトップであり、67打点も同じくテリーに7点差を付けてトップだった。史上初の両リーグ本塁打王だけでなく、本塁打日本記録そして初の打点王へと、まさに驀進している田淵であった。7月10日時点では打率も.311と好調で、すでに2位を10ゲーム以上離して独走状態の西武にあってはMVPの最有力候補になっていた。
 とにかく田淵に本塁打が出た試合の勝率は抜群だった。ここまで田淵が本塁打を打った26試合(1試合2本が3度)のチーム成績は23勝2敗1引き分けの勝率.920、貯金は21であった。対して田淵に本塁打がない試合は22勝18敗1引き分けで勝率.550、貯金は4つである。

 心技体が充実、すべてが上手く行っていた。7月13日を迎えるまでは・・・。この試合、いつも通りに「4番・指名打者」で先発した田淵は5回表の第3打席に柳田投手から左手首に死球を受け退場。検査の結果は「左手尺骨下端骨折」で全治4週間と診断された。両リーグ本塁打王、本塁打日本記録、打点王、MVP、オールスター出場・・・、数々の目標が消えた瞬間だった。

 個人記録の楽しみは消えたが、チームは独走を続け優勝へ突き進んでいた。セ・リーグは巨人の優勝が濃厚で、田淵はかつての宿敵との日本シリーズを目標にリハビリに励んだ。骨折から約3ヵ月後の10月4日に南海戦で一軍復帰。日本シリーズ対策で「4番・ファースト」で先発出場した。結果は4打数ノーヒットだったが、復帰を待っていたファンからは大きな拍手を浴びた。その後、復帰7試合目となる10月11日の近鉄戦で鈴木啓から区切りの30号2ランを放った。規定打席不足で年間30本塁打を達成したのは日本プロ野球史上初の出来事だった。
 結局この年の田淵の公式戦成績は82試合で30本塁打、71打点、打率.293だった。タイトルは何も取れなかったが、その活躍と高い印象度から現役選手としては王貞治に次ぐ2人目の正力松太郎賞を受賞している。

 そして迎えた日本シリーズでは第1戦の2回裏、二死1・2塁の場面で江川をKOする1号3ラン。第5戦では日本シリーズ新記録となる29イニング無失点を続けていた難攻不落の西本からレフトポール直撃の先制2号ソロを放った。内角に切れ込むシュートに的を絞り、ワングリップ余してバットを握り鋭く振り抜いた技ありの一撃だった。巨人の誇る両エースから本塁打を放ち、トータル22打数8安打6打点と活躍。2年連続日本一に大きく貢献した。

 翌84年は快進撃の再現が期待されたが、自己最少の14本塁打、打率.230に終わってその年限りで現役を退いた。通算474本塁打は当時歴代6位。天性のホームラン打者でありながら怪我に泣かされたプロ生活で本塁打王のタイトルは75年の一度にとどまった。
 1983年の田淵幸一。あの死球がなかったらどんな数字を残したのか、今でもふと考える事がある。

 田淵が逃した両リーグ本塁打王は、ロッテで3度タイトルを獲得した落合博満(中日)が90年に34本塁打でキングとなり達成した。その後2人目は出ていない。

<1983年・田淵の公式戦全本塁打>
  月日・カード スコア 投手     月日・カード スコア 投手
1号 4/14日本ハム ○6−4 川原   16号 6/3阪急 ○11−7 木下
2号 4/27近鉄 ○9−5 久保   17号 6/5阪急 ○4−3 金本
3号 5/4日本ハム ○6−2 木田   18号 6/7ロッテ ○4−3 水谷
4号 5/7ロッテ ○16−3 中居   19号 6/9ロッテ ○6−3 小俣
5号 5/10阪急 ○5−3 今井   20号 6/11日本ハム ○13−2 佐藤誠
6号 5/12阪急 ○14−9 山沖   21号 6/11日本ハム ○13−2 佐藤誠
7号 5/13近鉄 ○6−1 柳田   22号 6/12日本ハム ○12−7 田中富
8号 5/14近鉄 ○6−2 村田   23号 6/12日本ハム ○12−7 荻原
9号 5/15近鉄 ○10−4 久保   24号 6/14近鉄 △3−3 鈴木啓
10号 5/22南海 ●3−7 山内和   25号 6/21ロッテ ●3−4 梅沢
11号 5/24阪急 ○9−1 山田   26号 6/28ロッテ ○14−2 仁科
12号 5/25阪急 ○12−2 山沖   27号 6/29ロッテ ○8−3 土居
13号 5/25阪急 ○12−2 山沖   28号 7/2近鉄 ○7−0 山村
14号 5/26阪急 ○8−4 木下   29号 7/10日本ハム ○5−4 高橋一
15号 5/28南海 ○9−3 山内孝   30号 10/11近鉄 ○5−3 鈴木啓

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