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たわごと・95

2012.3.1〜4.30

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2012.平成24年3月1日(木)


■正月だったのに、もう3月か

4年前に死んだ我が家の愛犬ジョンの散歩の時、ジョンは散歩に出ると勢い良く走り出す。コースは決まっているので早く走れば早く戻ってくる。散歩の時間が短くなる。それが分かっていないジョンが不憫?だった。朝夕の外の散歩が一日二回の食事と同じくジョンにとって楽しみのはずなのに・・・。

「何でそんな急ぐんや?」「もっとゆっくり行けばいいのに」・・・そんなことよりジョンは思い切り走りたかったのだろう。今にして思えば、散歩の時間をもうちょっと長くと思わないでもないが、まあ口だけで私はそんな優しくないし。

きっと人間の一生も振り返ればあっと言う間なのだろう。正月越えたと思ったらもう三月だし、何かをしようと思っても目先のことに追われて、そんなことの何もしない。整理なんて思うだけで、いつまでたっても出来ない。そんな忙しいのか?一体何してんねん?と、思っても大したことはなにもしてない。

孫が出来たりで我が家のイベントもそれなりに増えた。だから余計その日を考えてたら、あっという間にその日が来て、次々と日にちがたち次のイベントが待ち構えている。これぞ嬉しい悲鳴なのだろう。無難にその日を迎え、次のイベントを楽しみにする。早いなあ〜・・・ホンマ。

今日の産経朝刊に、医者で小説家の人の健康に関してのコラムが目にとまった。このところ連載している。

オーストラリアには「人間ドック」なるものはないそうだ。悪くも無いのに検査は不要という考えらしい。そして医療とは縁遠いパプアニューギアの人たちの方が健康そうに見えるとのこと。ホンマに納得する。動物病院に行くペットは早く死ぬ。これは犬と猫を飼った経験による実感だ。我が家の猫ミミは一度も病院に行っていない。今年20歳。

俺も病院に行きたくない。最近何故か?調子悪くて、何で?と落ち込んだが病院行かずに治った。健康管理を趣味にして120まで生きてやると豪語してるのに、「牛乳飲まず肉食わず」を大体実践してるのに気分が悪くなった。こんなこともあるのか・・・と。60年以上生きていればこれからもあるのだろう。

体調悪くなったらまず食う量を減らす。出来れば食わず。そして腹が減って、熟睡できれば治る。空腹感と寝れるか否か?それが今の私の健康の指標だ。血圧なんて測らない。どちらかなら絶対、脳梗塞より脳出血を選ぶ。血管詰まるより切れる方が良い。その方が体に良い(笑)血圧降下剤が日本人を病人だらけにして、痴呆症を増やしている。




2012.平成24年3月3日(土)


■卓球

去年の5月28日(土)から毎週、土曜日の7時〜9時の卓球に行きだして今も続いている。欠席も連絡なしでOK。まだメンバーの名前も覚えていないし、全員揃ったことはない。そんなクラブだが私は出席率は良い方だ。用事がない限り参加している。

やりはじめより少しは上手くなった手ごたえはあるけど、まだまだ下手なほうだ。もっともっと上手くなりたい。15分間隔で相手を替えながら2時間ぶっとおし。冬でも汗をかく、すごく良い運動になっている。まあ億劫になることもしばしばしだが続けたい。




2012.平成24年3月4日(日)


■橋下市長

昨日の読売テレビで、つまらん「辛坊 治郎」司会で「橋下市長 vs 国会議員四人」との討論会をビデオに撮っていたので昨日の夜見た。

とにもかくにも橋下市長の弁舌に、四人の国会議員は生徒のように大人しく聞き入っていた。圧倒的に迫力が違い、内容が違う。一人の政治家と四人の落ちこぼれ書生の討論であった。

橋下市長の国家観は、まだはっきりしていなく不気味とも言えるが、今は橋下に期待するしかない。そしてこの橋下という政治家が出現してくれたからこそ他が書生に見える。その書生たちが政治家になるべく、今までの発言を一気にレベルアップし、橋下の次元に持ち上げないと最早勝負にならず。

橋下に対抗出来る真の保守派政治家の台頭を祈念してやまぬ。橋下登場のおかげで日本は変わるかもしれないとの可能性を感じる。橋下は自衛隊の式典で朝日新聞を名指しでこき下ろしたこともある。核武装論者であったはずだ。

どんな質問にも堂々と返答し、自分の信念を持っている。今は彼に期待し、彼と対抗出来る人物の到来を待ち望む。橋下にかかれば他は“屁”のようだ。


■住吉大社へ

三男の長男のお宮参りに「住吉大社」へ行った。神社の前に路面電車が走っておりなかなか風情のある風景の中に神社はあった。

普通、宮参りというのは生後一ヶ月くらいということだが、もうすぐ三ヶ月の孫は他の宮参りの子よりも大きかった。朝から何組もの宮参りの人たちが来ていたが「両方の祖父母」「片方の祖父母」「夫婦だけ」と様々だった。服装も着物姿の正装もあれば、そこそこもあり、一応私たちもスーツで。

授与所で金1万円(ここの定価)也のご祈祷料を払い、神楽殿へ。人が多いので何組もまとめて祈祷を受ける。私は形だけなので祈祷中も気合が入らず、キョロキョロ人間ウォッチング。

「息子の母が抱いていた子が泣くので嫁の母に交代しろと・・・」そんな目の前の光景であった。そして嫁の母が抱こうとしたが、嫁が抱いて着物だけが嫁の母の膝に。我が家は嫁のご両親は来ていないので三男夫婦と子、そして私たち夫婦の「四人+孫」の宮参りだった。

その後、予約していた神社前の写真館へ。 メチャ、テンションの高い奥さん?がいっさいを仕切っていた。“おっちゃん”は写真屋の店主らしく出てきたけど、終始、奥さん?に押されまくり出る幕わずか。“おっちゃん”「おかあさん笑いすぎ」と嫁に二度ほど注意をする。絶妙のコンビなり。

「お父さん」「ご主人」と一体息子に言っているのか私にか?最後まで不明。「そんなん、どっちでも宜しかろう」ということが分かった。写真は「パーフェクト!!」という奥さん?の絶叫で終了す。楽しみなり。

その後、三男宅の近所「かごの屋」で食事。

孫は連れまわされ迷惑顔なれど、泣き叫ぶことはなく辛抱していた。「かごの屋」も一杯だった。それぞれ、ご馳走を頼み、プラス単品で「中トロ五巻+あぶり一巻=6巻」を頼む。三男今日もまた「一巻は一個?二個?」と店員に聞く。店員答える「一つです」と。

最初に六巻の中トロ来る。三男が「中トロとあぶり」の二巻を食い、他の三人が中トロ一巻ずつ食う。そりゃあ名代のすし屋と違って一巻¥300円と安いけど中トロ、口のなかでとろける。残ったのが中トロ一巻、私は嫁に「これ食べよ」と勧めたが、嫁は「頼んだのが食べられないと困るから・・・」と遠慮する。

聞くが早いか、すかさず家内が食う。家内曰く「私の頼んだの少ないから」と。くそったれ!俺も食いたかったのに・・・。でもまあ腹一杯食い満足した。不食・小食を是としているけど、たまには食う。

三男宅には寄らず西明石に戻って、今日の我が家のイベントは終了した。あとはパーフェクトなる写真を待つのみ。孫と三男夫婦・我が一族の幸を祈る!



住吉大社

阪堺電気軌道の路面電車が

神社の前をトロトロ・ごろごろ

久しぶりに路面電車を見た



反橋(そりばし):太鼓橋とも言われている
「へぇ〜、こんな橋が」・・・有名らしい。

腰の曲がった婆さんが渡っていたけど、何で?

『神さまに近づくのに罪や穢 (けが) れを祓 (はら) い清めるためです』
地上と天国を繋ぐ橋なのか

婆さんも危険を冒して、罪と穢れを祓っていたのか
そして目指せ天国か




2012.平成24年3月9日(金)


■「学び語る会」

今日は30回目の「学び語る会」だった。メンバーも増えぬままで、語る内容も同じだが、それでも盛り上がる。私にとっては、討論するというより自分の考えを整理するというようなものだ。

互いに頑固で、幾らこっちが正論だと思っても相手を納得させることなど出来ない。ようするに平行線のようなものだから。ならば時間の無駄のように思うが、それでも幾分その平行線の間隔が狭まっているような気もするし。

S君が来る限り続けるつもりだけど・・・。永遠はないので、一体何時まで続くのか楽しみでもある。


■「笹幸恵 戦没者の思い伝える気迫」

昨日の産経朝刊の笹幸恵さんの記事が目に留まった。19歳の二人の特攻隊員の姿が書かれている。




「笹幸恵 戦没者の思い伝える気迫」

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120308/art12030808040004-n1.htm

2012.3.8 08:03


靖国神社第7代宮司の大野俊康氏は、宮司としては「変わり種」であったのかもしれない。かつて学徒出陣で軍隊に入り、のちに特別操縦見習士官として飛行訓練に励んだ経験を持つ。飛行学校で教えを受けた教官や助教は特攻隊の一員となった。実弟もシベリアで亡くなっている。

戦争は、大野宮司にとって「すでに終わったこと」ではなかった。特攻基地であった各地を巡拝し、ゆかりのある遺族を捜し出しては訪ね、お神酒を持って慰霊碑や墓前にぬかずく。人情味あふれる、行動派の宮司である。

そんな彼の講演録をまとめた『特攻魂のままに』(展転社)を読む機会があった。戦没者の思いを伝えようとする気迫が、文章から伝わってくる。

知覧に着いてから、左腕をくじいてしまった中島豊蔵軍曹。
白い包帯で首から腕をつっている状態だったが、「日本が勝つためには、自分は一刻も早く行かねばならんのです」と言って、第48振武隊として出撃の日、自転車のチューブで操縦桿(かん)に左腕をくくりつけて沖縄に向かっていった。

第72振武隊の千田孝正伍長は、出撃の朝、千田機の整備軍曹に「食ってください」と朝食の弁当を差し出した。「腹が減っては戦はできんぞ」と軍曹が言うと、彼はこう返した。

「あと3時間もすれば突っ込むんです。すぐに航空母艦を食うのに、今食ったら食いすぎて腹をこわします」。エンジンが始動すると、千田伍長はにっこり笑って敬礼し、出撃していった。

彼らはいずれも19歳。今なら、大学生として楽しくキャンパスライフを送っているであろう年頃だ。大野氏は慰霊碑にぬかずくと、「宮司、あとは頼むぞ」と戦没者の声を聴く。

東日本大震災から1年がたつ。福島の原発の状況はいまもって予断を許さない。がれきの処理は一向に進まない。人々は将来に不安を抱えながら過ごしている。いったいこの国はどこへ向かおうとしているのか。私はいつも思う。

「あとは頼むぞ」と言った19歳の若者に、私たちはどう応えたらよいのだろうか、と。





2012.平成24年3月14日(水)


■卒業式の国歌斉唱

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大阪府立和泉高校(岸和田市)で2日に実施された卒業式の君が代斉唱の際、学校側が教職員の起立だけでなく、実際に歌っているかどうかを口の動きでチェックしていたことが分かった。式典終了後の事実確認で、1人が起立しただけで歌わなかったと認めたため、府教委が処分を検討している。同校の中原徹校長は橋下徹・大阪市長の友人で弁護士。同市長が府知事時代の10年4月に民間人校長として採用された。
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メディアはこの問題に対して待ってましたとばかりに「やり過ぎだ!」と批判の矛先を校長や橋下市長に向けている。メディアの攻勢に負けずに「職務命令違反」として厳格に処分をして欲しい。

そもそも、日本国の「教師」「公務員」として公の立場の者が、国家や国旗に敬意を払わず、思想信条の自由を掲げての不敬な態度こそ許されないはずだ。

思想信条をどこまでも貫き、周囲にその自らの信念を明らかにしたいのであれば公務員を辞めて、自由な立場になってするしかない。卒業式や入学式の主人公が生徒ならば、尚更教師が注目を浴びるようなことをするのは論外だろう。

メディアや腐ったコメンテーター・メディアの御用評論家はそれらの教師の非を咎めず、違反を取り締まる側を非難するかのようだ。本末転倒とはこのことであり、卒業式・入学式をぶち壊しているのはどっちだ。私が親なら国歌国旗に敬意を払えない教師にわが子を教えてもらいたくない。

そんな教師を選択する親や子がこの日本にどれだけいるのか?


■西田昌司議員の女性宮家容認発言

期待していた西田氏が女性宮家容認を語っている。西田氏曰く「男系を維持するために皇族の数を確保し、その女性の婿に敗戦で皇籍離脱となった旧宮家の男子をもらえば男系を担保出来るから・・・すでに皇籍を離れ半世紀以上もたった人を皇族に戻すには世間の抵抗もあるだろうし」

そんなことを語っていたようだ。元より男系とは血の継続であり、皇室を百年離れていようが関係ない。女性宮家を作っても、その婿に旧皇族が来るとは限らない。婿選びが難儀になるのは目に見えている。ややこしいことなど金輪際無用だ。旧皇室の皇籍復帰をすれば良いだけだ。

西田氏には失望した。彼がこの発言を取り消さない限り、本質も理解し得ない男であり保守とはいえぬ。がっかりだ。




2012.平成24年3月19日(月)


■旅行記

まだ延々と日々時間を費やしているが完成には程遠い。これからやっと動画の編集に掛る。映画を作る気分でナレーションを入れる。“神風特別攻撃隊”に関して、こんな分際で意見を述べて良いのか悪いのか?知らないが、それでも思うことを述べる。

まあアクセスも少ないし、自己満足に過ぎないけど。それが出来ることが凄いと今もそのことにまだまだ驚くばかりだ。一体、この先世の中はどんな変化を遂げていくのだろう。誰もが世界に動画を発信できるなんて・・・。

仕事が超暇なので時間があるのが幸いだけど、稼げないし、良い事ばかりではない。


■揃い踏み

二男・三男・長男に子供が誕生し三人の孫が出来た。無事誕生を先祖に感謝しかない。三人は、どんな子育てをするのだろう?

誕生の時にデジカメで動画を撮り、一応編集して18分くらいのDVDを作った。その時に「Windows ムービーメーカー」でビデオで見れるDVDが作れることを知った。ホンマに便利な世の中になっている。嫁の実家に送付したら「お父さん」に喜んでもらえた。お母さんは出産に間に合うように来てくれて今もこちらで世話をしてもらっている。

でも長男には不評だった。第二弾は作るがそれ以上は止めておこう。思いはそれぞれなのだ。私のようにHPを公開するような者と普通の人?の思考は違うのだろう。でも動画作りが趣味になってまた忙しくなった。




2012.平成24年3月27日(火)


■未だ旅行記完成ならず。

“神風特別攻撃隊”の第一陣:敷島隊の出撃したフィリピン:ルソン島のマバラカット東・西飛行場跡が今回の戦跡めぐりだった。

これに関しての資料や本も多く日本人にとって特攻隊というのは、誰もが何らかの思いを持っている。私も特攻隊についてこれだけ本を読み、じっくり考えたのは生まれて初めてのことだ。そして自分なりにやっと特攻隊への思いがはっきりしたような気がしている。

「特攻作戦の是非」「特攻は命令だったのか?志願だったのか?」「“後から俺も行く”と送り出した上官が戦後に生き残ったことについて」

この三つのことについての自分の思いである。戦後生まれの私のような人間が生意気を言う事に後ろめたさはあるが、構わず自分の思いを述べる。反論批判は覚悟の上であり、一体、日本人はこの“神風特別攻撃隊”についてどう思っているのか?

「賛美も出来ないのか?」「感動もしないのか?」

“神風特別攻撃隊”に関しては、奥歯に物が挟まったような感想ばかりが多いのにはウンザリしている。


マバラカットにて「神風特別攻撃隊」に思う


私が思う「特攻作戦の総括」




2012.平成24年3月31日(土)


■見切り発信。

まだちゃんとは完成という訳ではないが、旅行記は一応アップして一段落とした。量が多ければ良いというものではないのに多すぎた。もう疲れた、しんどい。

もうちょっとやりようがあるだろうに。まあ“神風特別攻撃隊”については勉強になった。「零戦隊長」神立尚紀(著)を読めば当時の海軍航空隊の日々が手に取るように分かる。神立尚紀氏は1963年生まれの報道写真家だが、とにかく元兵士たちの取材人数も含めて、内容も凄いの一語に尽きる。

良くぞこの本を残してくれたと思う。他に「特攻の真意」「戦士の肖像」この他にもあるが、真実に迫る素晴らしい本だと思う。そして当時の歴戦のパイロットたちは凄いとしかいいようがない。かっこ良すぎる。命を張ってかっこよさを競っていた。そして簡単に散った。そんな人間集団とは、今は比べようもない・・・。




2012.平成24年4月3日(火)


■「特攻」

「空母バンカーヒルと二人のカミカゼ:米軍兵士が見た沖縄特攻の真実」マクスウェル・テイラー・ケネディ(著)

この“マクスウェル・テイラー・ケネディ”は、暗殺されたロバート・ケネディの息子。すなわちジョン・F・ケネディ大統領の甥である。そんな人物が、この特攻と言う本を書いたことに興味を持った。

初版が平成22年とある。今日、この本を図書館で借りてきた。このバンカーヒルに体当たりした特攻機は二機、搭乗員が判明している。一人は兵庫県出身だ。この空母でも米軍兵士の英雄的行為があったという。それで沈没はまぬがれたらしい。

今から読むのが楽しみだ。「特攻」


■教習車

教習車の購入手配をした。今の教習車は平成15年10月登録で今年で9年目になる。ホントは7年で買い換えたかったが、景気悪く稼ぎ少なく修理しながら使ってきた。

車は同じ日産ブルバードシルフィ教習車と思っていたが、いつの間にか生産は中止になっており、教習車は「ティーダ ラティオ」という車になっていた。しかし電話をした時には、ついこの間生産中止で注文を受けれないとのこと。

トヨタ・マツダ・ホンダに電話したが、ホンダは既に生産中止、マツダの教習車は3ナンバーで大きくて駄目。トヨタは「コンフォート」か「プレミオ」を教習車として販売していた。それで一安心して見積もりを頼んだが、その直後に日産から電話があって「一台なら今なら何とかいけるかも・・」と連絡があった。

その日の夕方早速営業マンが来て、まだ納車可能か否か確定ではないがということだったが一応商談成立。「2〜3日内に分かる」とのことだった。それがOKという連絡があり、開設以来四代目の教習車の購入が決まった。

@「マークU:1800cc:7年」→A「ブルバード:1800cc:7年」→B「シルフィ:1500cc:9年」→C「ラティオ:1500cc」となった。今から7年使うと私は69歳。5代目を買えば7年使うと76歳になる。生涯現役のつもりだが、76歳の技能指導員にお客さんが来てくれるとは思えないけど。

一体自分はいつまで生き、いつまで働くのだろうか?今回の教習車が最後にならないように頑張ろう。フフフ。

健康管理を趣味にして120歳まで生きると豪語していたが、先月から体調最悪になった。情けないけど落ち込むのは速攻だ。もうちょっとで医者に行きかけたが行かずに、なんとか今また持ち直した。だから先のことは分からない。ゆえに面白きかな人生か。




2012.平成24年4月5日(木)


■電話

今からちょうど10年前の2002年/平成14年、私は初めて靖國神社を参拝した。その時遊就館で、ある特攻隊員の遺書を目にし鳥肌が立った。その遺書を認めたのは宮内榮中尉、大正11年生まれ、特攻第一号と言われている海兵卒の関行男大尉の一つ年下である。

昭和19年2月、中央大学から学徒出陣で海軍航空隊に入り、昭和20年4月28日沖縄の敵艦隊に向って飛立ち散華した。その宮内中尉の遺書を私のHPで紹介したことがきっかけで、いつ頃か忘れたが戦後生まれで宮内中尉の後輩であるHさんからメールをもらい、同時に宮内中尉の妹のNさんを紹介してもらった。

そのNさんから、今日電話をもらった。それは私が2月に行ったマバラカットの旅行記に記した「“神風特別攻撃隊”に思う」をプリントして送付したことへのお礼の電話だった。その内容に気分を害されないかと心配しながら送付したが、感謝の言葉を掛けていただきひとまずホッとした。

それだけでなく、私のような戦後育ちの者が「特攻隊を誇りに思っている」ということに対して、電話の向こうで涙ながらに感激され感謝される度に、額に冷や汗でどう返事したら良いのか分からず、ただただ恐縮するのみ。本来特攻隊員の遺族は、一命を賭して国を守ろうとした英雄の親族であるはずだ。

「特攻隊を誇りに思っている」ということに対して感激してもらえるのは、Nさんの意識にはその逆の日本人が多いのではという気持ちが今もどこかにあるのだろう。私は特攻隊員の遺族ではないので、遺族の方々の気持ちは分からないが、同じ日本人として申し訳ない気持ちで一杯だ。

日本人は、どこまで腐れば目覚めるのか?まだまだ光は見えない。その証が同胞でありながら震災瓦礫の受け入れ反対を声高に叫んでいる醜い日本人の姿である。こんな日本人に特攻隊員やその遺族の気持ちは分かるはずもない。因果応報の報いが必ずあるはずだ。




2012.平成24年4月6日(金)


■映画「戦火の馬」

今日この映画を見て感動した。アメリカ映画らしいが、こんな内容の映画を作るということはアメリカ人がカッコいい精神を有するということだろう。

やっぱり真に“かっこいい人間”の行為は、普通の“人”であれば国も人種も文化も越えて誰もが同じように感動するのだろう。そのカッコ良さは、損することだ。自己犠牲の行いである。それが結果的に得になることもままあるだろうが、損を平気ですることだ。

迷わず「損を選べ」、産経新聞のコラムで曽野綾子女史もそんなことを書いていた。その時もなるほどと思ったが、今日の映画でそれをまた思った。

損得勘定に一番敏感な私だからこそ「損を選ぶ」のは至難だ。しかし還暦を越えた年齢からか、少しだけ欲は減っている。考え方も少しは変ったとの自覚もある。車の購入にも「値引き」には以前より遙かに寛容になった。

今日の映画はみんなみんな「ホンマかっこ良かった」・・・あんな人間になりたいけどなぁ〜。「損を選べ」・・・か。座右の銘にしたいくらいだけど難しいなあ。でも心掛けたい。素晴らしい映画だった。親が死んでも涙は無い私だけど、映画でも本でも涙が出ることは良くある。今日は我が母の二十八回忌、もうそんなになるのか。いつも見守ってくれているのを感じている。




2012.平成24年4月9日(月)


■「特攻」を読み終えた

600頁を越える分厚い本だったが、一つの街とも工場とも言える巨大空母の実態が詳しく書かれており勉強になった。空母の運用がこんなにも大変であり、艦載機の燃料や弾薬などが満載であり攻撃を受ければ、誘爆の危険性も高く危なっかしい。

昭和20年5月11日、二機の特攻機が正規空母(エセックス級空母)に体当たりを果たし、沈没こそまぬがれたが400名くらいが死亡し、250人くらいが負傷した。

突入した二機の搭乗員は、安則盛三中尉(兵庫県赤穂郡上郡町出身)と小川清少尉(群馬県碓氷郡八幡村[現高崎市]出身)と判明している。小川清少尉は甲板に顔は綺麗なままの上半身がそのまま残っていたそうだ。その小川少尉の遺体はどのように処置されたのか?記録にはない。甲板を引き回されたとの口述もあるらしいが。

米軍は今もって“神風特別攻撃隊”によって受けた損害や精神的なダメージについては、正確には明らかにしていないようだが、敵に与えた脅威は日本人が考えている以上なのだろう。


■OB会

昨日は神港クラブ(サッカー部)の同窓会だった。OB(72歳)の一人が叙勲を受けその祝いを兼ねて30年ぶりくらいに集まった。76歳〜61歳まで22名くらいが集った。

そして名簿ももらったが鬼籍に入っているひとも多い。その中にNさんの名前もあった。私が20代はじめの頃、Nさんの会社に一年間お世話になった。Nさんは背が低いので大学在学中に志願して陸軍航空隊に入り隼の戦闘機搭乗員となった。

四年前に亡くなったとのこと。当時私は今ほど戦争に興味なく、Nさんの話をたまに聞き流していただけだ。Nさんは熟練パイロットとして特攻隊の直援を終戦まで勤めていた。「特攻隊員は、みんな立派だった」といつもその話になれば口ぐせのように言っていた。

一度会いに行かなければと思いつつ、敷居が高く足がなかなか向かなかった。もう今となってはNさんのご冥福を祈るしかない。


■次は張家口へ

マニラの旅行記が完成したら、気持ちはすぐに次の戦跡へ。次は・・・。張家口。丸一陣地跡へ行こう。

駐蒙軍司令官・根本博中将は終戦の詔勅のあとも頑なに武装解除を拒み侵攻ソ連軍と戦って、四万人の在日邦人を無事に避難させた。張家口から北方27キロにある丸一陣地でソ連軍と戦い避難の時間を稼いだ。詔勅に反して逆賊となる汚名を恐れずの決断は賞賛に値する。

同胞4万救出作戦

この根本中将の決断と実行とその結果を思えば、満洲の関東軍が8月16日幕僚会議を開いて「ただちに戦闘行動を停止する」と決定したことの間違いが鮮明になる。内蒙古では残留日本人孤児は実質的に皆無だそうだ。

丸一陣地がどこなのか場所の特定は今は出来てない。早く見つけたいけど・・・。




2012.平成24年4月11日(水)


■丸一陣地

「戦略将軍 根本博」小松 茂朗(著)
「この命、義に捧ぐ」門田 隆将(著)
「昭和20年8月20日 日本人を守る最後の戦い」稲垣 武(著)
「祖国はるか(三)」門脇 朝秀(著)

上記の本や幾らネットで探しても丸一陣地の写真もなければ、戦跡らしき場所もない。「ソ蒙烈士陵園」というのが地図の上に記されているので、其の辺りのようでもあるが そこに陣地跡があるのか何も今の所わからない。張家口の旅行記も少ないし・・・と思っていたが。

そんな時、ネットで下記のHPを見つけ「丸一陣地跡の場所を教えてもらいたい」とメールを送った。同窓会を経由してのメールだったがすぐに本人に連絡をして下さったようで、その旨の返信があった。そしてそのMさんに早速電話を掛けた。

昭和20年、中学生だったMさんは「学徒挺身隊」として「響5331部隊」に入隊し、留守部隊の警備、弾丸弾薬運びをしていた。Mさんも電話では場所を説明しにくいので、私が又質問を整理してから訪ねることにした。今も「張家口の会」がありこの土曜日(14日)に東京で総会があるそうだ。そして秋にツアーを計画しているとのこと。

一人旅が基本の私だが、日程もなにも未定なので「丸一陣地への慰霊」にだけ同行できればと勝手に考えている。Mさんは大淀町の元町長でもあったようだ。思わぬことで次回の戦跡巡りの目途が付いた。さあ次はどんな旅になるのだろう。

故郷紀行
http://www.oyodo-h.ed.jp/alumni/contents/katsudou/katsudou.html

内蒙古からの脱出
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S7-2.html




2012.平成24年4月14日(土)


■予言の書「日本の自殺」再考

この論文をKさんがコピーして送ってくれた。一読すれば確かに誰もが驚くはずだ。1975年に書かれた「日本の自殺」という論文が、衝撃を持って今又甦っている。

私が25歳の時、高度成長期真っ只中で未来は希望に溢れていたはずなのに「日本の自殺」とは・・・。そして、それが今全てに的を得ている。その洞察力とは如何なるものなのか??


■先祖との繋がり

今日は兄弟揃って綾部に年一回恒例の墓参に行った。その時、本堂に祖父母・両親の位牌と共に鹿蔵さん(祖父の弟)の位牌が置かれていた。綾部に墓参に行きだしたのは私が25歳の頃からで、毎年恒例になってもう37回くらいになるがM家の鹿蔵さん(祖父の弟)の位牌を見たのは初めてだ。

そもそも鹿蔵さんの墓は四国にあり、生まれ故郷の綾部に分骨して墓を立てているが、ここにも位牌があることは知らなかった。それが今日突然置かれているのには驚いた。何故?そんなに驚いたのか?実は昨日の夜、鹿蔵さんの長男のMさんから電話があり「地元にも墓があり、綾部は遠いので今後墓守も出来ないので・・・」という相談の電話があった。

そんな昨日の今日なのでホントにビックリ仰天だった。今もただただそのことに驚いている。鹿蔵叔父さんが何らかの想いで私たちの前に姿を現したのだとしか思えない。鹿蔵さんはM家に養子に行ったが、元の名前にこだわり続けた人である。そしてこの綾部にこだわり続けた。そんな鹿蔵叔父さんの気持ちが痛いほど伝わってきた今日だった。

鹿蔵叔父さんの気持ちはみんな良く分かっています、どうか安心してこれからも見守り続けてくださいね。


■張家口/丸一陣地

今日は鹿蔵叔父さんの位牌にも驚いたが、11日(水)に張家口:丸一陣地のことで電話した大淀町の元町長Mさんが、兄の知り合いだったことが分かりビックリ仰天だった。綾部に行く前に西紀のサービスエリアで待ち合わせレストランで軽食をした。

その時に、私が張家口:丸一陣地の話しをすると、兄も同じようにその陣地を知っている人がいると言い、その人から聞いた話を語りだした。その内容が似ていたので私は冗談半分に「それMさんやろ」というと、「えっ!そうやけど」というので私がまだ半信半疑でフルネームで「M〇〇さん」というと「そうや!」だった。

ホンマにビックリ仰天というしかない。世間はこんなにも狭かったのか?同じ奈良県、同じ中国語講座の生徒同士だったようだ。そして二年ほど前にMさんが体調を壊した時に兄が丸一陣地のことが書かれている本「この命、義に捧ぐ」を見つけ、お見舞いを兼ねてMさんに贈ったという。

そして兄は数年前、その講座の中国人先生や仲間と一緒、Mさんも一緒に張家口周辺を旅したそうだ。ほんまにほんまにほんまに今日はビックリすることばかりなり。今度兄と一緒にMさんを訪ねることにした。きっとMさんも驚くだろう。




2012.平成24年4月16日(月)


■支那の今昔

終戦後、ソ連侵攻によって満洲では関東軍兵士がシベリアに抑留され、在留邦人が言語に絶する苦難の避難行を余儀なくされた。無事に日本に帰国できた人は幸運の範疇にはいるのだろう。しかし、蒋介石が率いる国民党傘下の地域では敗戦後の様子は満洲と全然違う。

そのことを今まであまり考えたこともなかった。国民党軍・八路軍とも内戦を勝ち抜くために日本軍や日本人を味方に付けたほうが今後の得策だということもあったのだろうが・・・。今との違い、そして蒋介石(Jiang jie shi)についても今回考え直す機会になっている。

蒋介石の言葉「徳を以って恨みに報いる(以徳報怨)」なんて所詮本心とは程遠い偽善に過ぎないと思っていたが、どうも一概にそう言い切れないものがあるかも??と、思うようになった。台湾/本省人粛清の悪名高き二・二八事件は1947年(昭和22年)であり、蒋介石はまだその時大陸にいたということも今初めて知った。

「この命・義に捧ぐ」は根本博中将が蒋介石の恩義に自分の命を捧げるというものであり、当時の日本人の蒋介石に対しての評価に正直驚くとともに、私の思いも半信半疑ながらも変化が出てきた。それは蒋介石一人だけではなく支那人に対しての評価もそうだ。

「義理堅い」というか「まとも」というか・・・今の中国人とは全く別人種であるかのような支那人を感じる。それがこの終戦以降の混乱の一時期に現れている。ソ連との比較をすれば、まだまともな人たちだった。

そのことで思い出したのが、あの満洲龍井の小学校に通っていたIさんが語っていた言葉。「終戦後、日本人に対して冷徹だったのは、どっちかといえば朝鮮人のほうで、まだ満人のほうが優しかった」と言っていた。今度の旅行に備えて根本博中将に関する本を読みながら、私の支那人への思いに変化が出ているのは確かだ。

根本中将が「命を捧げる」くらい蒋介石に感謝したのは、戦争末期、日本の戦後処理に関してルーズベルト・チャーチル・蒋介石のカイロ会談において、後日、蒋介石総統から直接聞いた話として、ルーズベルトから「日本は民主国にして、南北に二分割し、北を米国、南を中国が統治し、天皇制は廃止する」という提案があった。

この時、蒋介石は「私は、日本及び日本人を良く知っている。日本は一国で完全統治しなければ巧くゆかない。また日本人は先祖から精神的な柱として、天皇は絶対必要である」と強く主張した。そしてチャーチルも「英国もデモクラシーの国である。しかしそれでもキングは存在する」と言った。そこで手打ちして現在の姿となったそうである。

もしこれが事実なら蒋介石は敗戦日本の救世主とも言える。敗戦後、武装解除命令に背き、ソ連軍と死闘を演じて四万人の日本人を北京から天津へと無事に避難させ、シベリア抑留も防いだ根本博中将。そして戦後、密航してまで台湾に赴き「この命・義に捧ぐ」を実践し、金門島で中共軍を殲滅した。そんな名将が、「命を捧ぐ」とまで敬意を抱いた人物が蒋介石なのか・・・と。

無論「通州事件」で見られるような支那人の残虐性は言うまでもないが、今まで考えていた支那人と違う支那人が当時は存在していたのかも知れないと思うようになっている。

そして支那人を現在のように道徳心の欠片もなく、物欲と利己主義の塊として世界の嫌われ者にしたのは、共産主義と文化大革命ではないかと思う。共産主義・社会主義は、どうしようもないほど人心を荒廃させる。「平等」などという綺麗ごとの行く末はすべて「醜悪」でしかない。


■根本博中将の逸話

根本中将の逸話は沢山あるが、以下の話もいろんな書物に記されている。

『南京事件:1927年/昭和2年3月(36歳)、南京駐在武官の時に南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に銃剣を突きつけられ金庫の鍵を開けるように要求されたが「殺されても鍵は渡せない自殺しよう」と、腹と足を銃剣で刺されながらも窓から飛び降りた。しかし落ちたところがトタン屋根の上で、瀕死の重傷を負っていたが、日頃可愛がっていた二人の中国人ボーイに助けられ命拾いをした。』

「世に何事かを成せる大人」と小市民の違いは、やっぱり「いざとなったときの度胸の有無」のような気がする。その究極は命を掛けれるか?否か?ということだろう。分かり易くいえば、その掛けることの出来る大きさによって人の器は決まる。そうではないのか・・・。

金庫の中味がどうであれ、駐在武官が暴兵の恫喝に屈し鍵を渡せば幾ら命は助かっても汚点は残る。危機の瞬間の言動こそが器量だ。その資質の大部分は生まれ持ったものとしか思えない。そして瞬時の判断なので運や吉凶別れることもありそうだと思うのは間違いで、瞬時の時の言動こそ、その人物そのものだ。何があっても言い訳は見苦しい。

しかし、この世に生まれ来る命に不要なるものはなし、どんな自分であっても偉人、大人と共に世界を作っている。


■宮参りの写真館

30数年前に長男の宮参り写真を写した写真館が今もあった。そこで今回も撮影しようと思ったが、グーグルの地図:ストリュートビューを見たらその写真館はあまりにひなびていた。周囲の写真館に比べて料金が安い理由がその建物の写真を見て分かった。

折角の晴れの記念写真であり、嫁のご両親も来るのにそんな写真館に行くことは出来ない。他を予約した。親子二代同じ写真館でというのは駄目になった。一葉の写真は多くを物語る。今はデジカメで写真は溢れているが、記念写真は昔も今も値打ちはある。じっと見ればいろんなことが見えてくる。写真館で撮る価値は十二分にある。




2012.平成24年4月17日(火)


■「祖国はるかB」門脇朝秀(著)

この本の一篇が「敗軍の将なれども」であり、根本中将のことが書かれている。そして二篇が「中ソ国境、葦の茂みに」ということで、昭和20年8月9日、ソ連侵攻後の満ソ国境の悲劇が纏められている。

撫遠・饒河・海青など私がまだ行っていない満ソ国境・東北の果てから生き延びて日本の土を踏んだ人たちの手記である。それを読めば、ソ連軍の残虐非道ぶりは話にもならないが、やはり満人・朝鮮人の態度も満洲以外の大陸からの引揚げとは、何故?こうも違うのかと思わざるをえない。

解放軍と称するソ連軍兵士の暴虐三昧を見て、朝鮮人・満人も、それに倣って良心の呵責もなくエスカレートしたのだろう。最後の関東軍最高司令官:山田乙三大将の決断:侵攻してきたソ連軍と全面対決を避け「大連 - 新京 - 図們」まで防衛線を下げたことはともかく、終戦後早々の武装解除承諾は誤りだった。

結果論だが、もし日本が8月15日に降伏せず、その後も長期に渡って戦うのであれば、防衛線を下げ仕切り直そうとしたことが、正しい戦略であったのかも知れない。その評価は難しいが、終戦後ソ連軍の蛮行を前に邦人保護を放棄し早々の武装解除承諾は最悪だった。根本中将が断固戦った背景は、ソ連軍の傍若無人を予想し意識しての判断だった。山田大将にはその観点がまったく抜けている。

根本中将と山田大将の違いは何ぞや?帝国軍人として、その時の心中に去来した優先順位はなんであったのか?目の前の同胞を見捨てて命令に従順に服すのか?大東亜戦争の戦域は広く、各所において状況は様々だ。敗戦処理の経験がなかったこともあって司令官の人間としての差が出てしまった。

命令に服する前に眼前の同胞を守ることに徹することが第一義だろう。そのために後に責任を問われ死刑に処せられたとしても、その覚悟のあるなしが大陸と満洲の明暗を分けた。


■東京都が尖閣諸島を買う

国が軟弱だから東京都が買うのは賛成だし、橋下市長も石原都知事に賛意を示しているのが心強い。しかし、本日の産経夕刊の一面の「中国の激しい反発必至」という見出しには怒りというより情けないの一語だ。「産経よお前もか」である。

「尖閣諸島、都が購入へ」
地権者と交渉「国土守るため」

これだけで十分であり、中国をわざわざ煽るような見出しは必要ない。ホンマに日本のメディアはしょうもない。




2012.平成24年4月19日(木)


■飯田房太大尉(享年29歳)

飯田房太大尉は、昭和16年12月8日、空母蒼龍から真珠湾攻撃時に出撃被弾し燃料が漏れたので帰還は無理と判断、部下を母艦への帰投針路に向け、自らは引き返し飛行場格納庫に自爆した。

「修羅の翼」の著者:角田和男中尉は、『飯田大尉こそ、私の11年半の海軍生活の中でただ一人だけ、この人となら、いつ、どこでも死んでも悔いはないとまで心服していた士官だった』と、自らの著書で記している。

その中に、飯田大尉のこの自爆についてが書かれている。

「修羅の翼」86頁
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『何故?列機が飯田隊長が一人で突っ込んで行くのに、ハイ、そうですか、と真っすぐ帰って来たのだろうか。当時の私たち搭乗員の心情では、自分の隊長が自爆すれば、列機も当然後を追って自爆すると信じていたからである。

昭和17年正月、偶然蒼龍より若い艦爆操縦員が教員として転入してきた。その人に飯田大尉の戦死状況と、列機は誰だったか、本当に帰れないほど大きな穴がタンクに開いたのだろうか、などと喰い下がって聞いた。

はじめはなかなか話さず、戦闘機の方のことは分からない、と言っていた彼も

「班長の熱心さには負けました。実はこれは絶対に口外してはならぬ、と箝口令が敷かれたことで、他人には話せないことですが、あまり班長が飯田大尉のことを心配されるのに感じて言います。実は、飯田大尉は帰れないほどの被弾はしていなかったらしいのです。私も直接聞いたのではないのですが、分隊長は攻撃の前日列機を集めて

「この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算も無い。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄ある開戦の日に自爆するが、みなはなるべく長く生き伸びて、国の行方を見守ってもらいたい」

という訓示をしたそうです。予定通り引き返した時も燃料は洩れていなかったということでした。しかし、このことは、その日のうちに艦内全員に口外することを禁止されたのです」

とのことだった。私はそれを信じていた。そして最近になって、当時の攻撃隊編成表を見ることが出来た。そして飯田大尉直率の列機二、三番機も共に続いて自爆していたことを知ったのであった』

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私はこれを読み飯田大尉のことよりも、列機の二人が隊長に続いて自爆していたことを知り、ただただ驚きを隠せない。角田中尉が『隊長が自爆すれば列機も後を追って自爆すると信じていた・・・』ということが、まさに事実であるからだ。

ウィキペディアにも『二番機の厚見峻一飛曹、三番機の石井三郎二飛曹 (ニイハウ島付近で海面に突入し自爆)も未帰還となった。』とある。隊長機と列機「迷わず死を共にする」・・・そんな関係とは一体どんなものなのか?言葉では分かっても、実際には想像も出来ない。戦争と言う中で生まれる「絆」としか思えない。それも日本人の美の文化だろう。

飯田大尉は、「真珠湾偉勲の三勇士」となり戦死後、二階級特進して中佐となった。

そんな彼が攻撃前日に日本の滅亡を予想し、「・・・・、私は明日の栄ある開戦の日に自爆するが、みなはなるべく長く生き伸びて、国の行方を見守ってもらいたい」と言ったということをそのまま信じることは出来ないが。

飯田大尉は、昭和15年零戦が支那大陸で、向うところ敵なしで圧勝し、支那方面艦隊司令官より感状をを授与され時

抜粋
「こんなことで喜んでいたのでは困るのだ。空襲で勝負をつけることはできないのだぞ。戦闘機は制空権を握って攻撃隊、艦隊の安全を確保するのが任務だ。最後の勝利は陸軍の歩兵さんに直接足で踏んでもらわなければならないのだ。砲兵も工兵も歩兵を前進させるための援護部隊にすぎない、その陸軍の歩兵が重慶、成都を占領する見込みがなくては困るのだ。

今、奥地攻撃で、飛行場に全弾命中などと言っているが、重慶に60キロ爆弾一発落とすには、爆弾の製造費、運搬費、飛行機の燃料、機体の消耗、搭乗員の給与、消耗等諸経費を計算すると約1千円かかる。相手は飛行場の爆弾を埋めるのに苦力の労賃は50銭で済む。実に2千対1の消耗戦なのだ。

こんな戦争を続けていたら、日本は今に大変なことになる。歩兵が重慶、成都を占領できないなら、早く何とかしなければならないのだ。こんな感状などで喜んでいられる状態ではないのだ」

以上

部下に、この人とならいつどこで死んでも悔いはないと言わしめ、実際真珠湾で列機が続いて自爆している。それだけ人望厚き人物だったのだろう。勇猛果敢な軍人と言うより客観的な判断をする有能な人物だったことを感じさせる。戦争は多くの英雄を作り、似非平和は多くの愚民を作る、公平かな。




2012.平成24年4月23日(月)


■親思う心に勝る親心

「親思う心に勝る親心今日のおとずれなんと聞くらん」

我が家の三人息子にそれぞれ子供が出来た。我が家の子として生まれ、今自らも親になり「親思う心に勝る親心」が実感できるようなっただろうことが、私は一番嬉しく思う。

この歌は29歳で刑死を前に独身だった吉田松陰が親の心中を思って書き遺した。親にならずともこういった親心が分かる松陰のような人もいる。でも私が独身の時は、こういう気持ちは思いもよらなかった。親に対しての感謝の気持ちもまことに希薄だった。子供ができて「親心」なるものを「ほんまやなぁ〜」と実感した。

だから、今、子育てに一喜一憂している息子や嫁を横目に見ながら、「あいつらも親になって良かったなあ・・・親心が分かるやろ」と、一人ほくそ笑んでいる。子育ての楽しさ、感動、悩み、不安、心配、子育てとは親自身の成長の糧でもある。「子は親の鏡」「親は子の鏡」は真理なり。


■張北ソ蒙聨軍烈士紀念塔

張家口から北西に27キロ、張北から南に16キロ。そのあたりで昭和20年8月15日の終戦後、張家口を目指すソ蒙連合軍の進撃を阻止した日本軍「響兵団」の死闘があった。その「丸一陣地」を探していたが、中国のホーム頁でその場所を確認できた。

そこに「張北ソ蒙聨軍烈士紀念塔」が建っている。それも広大な敷地で一大公園になっており中には戦史資料館のような建物や塹壕跡もあるようだ。

丸一陣地での戦いを指揮した辻田新太郎少佐によれば「野戦陣地に毛の生えたようなもので、ところどころに拠点としてコンクリート製の機関銃座があるだけだった」ということだが、「モンゴル人民革命軍五十年史」によれば、丸一陣地はまるで永久要塞のように記されている。

『日本帝国主義者は、45万人の中国民間人を駆使し、1935年から1940年にかけて、同地区に要塞兵舎20余の他、大砲及び機関銃陣地36を作っていた。張家口に入る主要道路に沿って掩蔽して作られ、最新の技術を用いて造築された地下交通壕、兵舎、食堂、軍需用品貯蔵庫があった。』・・・その他、延々とこの陣地の強固なることを形容している。

『主力はソ連の機甲部隊と外蒙騎兵隊の混成部隊で、兵員四万二千名、戦車、装甲車合わせて約四百両、迫撃砲等約六百門が駐蒙軍に襲いかかってきた。』・・・こんなソ蒙軍が、この丸一陣地で2500名程の日本軍に進撃を止められた。そしてその間に張家口に集まっていた在留邦人四万人が北京、天津へと避難した。

丸一陣地の場所も写真も探しても見つからずだったが、敵側の記念碑によってその場所が分かった。この秋そこに行く。そして今週、張家口で中学までを過ごした方に会い当時の話を伺うことになった。今、その為の質問事項を列挙している。縁とは不思議なり。根本博中将から張家口、そして丸一陣地に繋がった。




2012.平成24年4月26日(木)


■張家口

奈良のMさん宅に行き張家口:丸一陣地のことを聞いてきた。Mさんは終戦時中学2年生で、学徒動員として親元を離れ「響(ひびき)5331部隊」に配属され警備などに従事していた。

そして8月21日、突如解散命令を受け帰宅。家で待っていたくれた母と妹の三人で最後の避難列車にのり北京・天津を経て日本に無事帰国された。小学校2年生から7年間過ごした張家口はMさんの第二の故郷でもある。その旧居も現在残っているそうだ。

三人(兄・友人)でご自宅にお邪魔し話を伺った。質問事項をプリントして持って行き順番に答えてもらった。しかし折角、ICレコーダーで録音したはずが帰宅後パソコンに取り込んだら最初の数分しか録音できていず残念無念なり。電池を新しく換えて用意万端のはずが、理由は分からない。

でもメモっているし、肝心なことは大体は把握出来たので、それ以上は最早仕方がない。街の真ん中を南北に流れる河、清水河とかいて「せいすいが」:清河「せいか」と呼んでいたそうだ。

四合院で暮らし、暖房は石炭ストーブ一つ。冬は氷点下20度以下になる地域だ。いつもストーブは真っ赤に焼けていたそうだ。風呂は五右衛門風呂。電気製品はラジオのみ。米は近くで美味しい米もできて豊富にあったそうだ。

Mさんは旧城内に住んで周囲は中国人ばかりだった(現在もある)。でも向かいは日本人。張家口には白系ロシア人もそこそこ住んでおり、いろんな仕事をしていた。張家口駅は1945年当時のまま。今は張家口北駅となっている。中学は日本中学。男子高校はなし。学徒動員の服やゲートル、靴などは支給品。

お父さんが自宅にモーゼル銃四丁、実弾箱入りを置いていた。Mさん自身も試射したことは何度もある。弾丸の火薬の量を減らして撃ったら、弾はふらふら飛ぶ。友人の誤射で左上腕部から腕を貫通し、腹部に入り骨盤で跳ね返って腸に何ヶ所も穴が開いた。半身麻酔の手術、一ヵ月半の療養で部隊に復帰する。

そして帰国数年後日本で摘出手術を受ける。その弾丸を今日、見せてもらった。写真を写すのを忘れた。三八銃の弾と同じくらい。手榴弾は中学生には重くそんなに飛ばせない。部隊に配属後すぐに手榴弾二個をもらう。

8月15日玉音放送を30人くらいの同級生と一緒に聞く。天皇陛下の声は初めて聞く。時間は日本と同時刻。その時は意味は分からず。負けたといわれても、こっちでは八路軍に負けなしなので実感は全然なかったそうだ。根本博中将は見たことなし、多分ほとんどの一般市民も知らない。

玉音放送後に根本博中将がマイクを通して在留邦人に呼び掛けたラジオ放送も誰も聴いていない。19日〜21日に避難とあるが、その前の14日に脱出した友人家族もいた。張家口に各地から集まってきた避難民の宿泊先は分からない。

8月17日のソ連機の空襲は爆弾投下1発か2発、Mさんも直後に見に行った。支那人の家に落ちて一人、二人死んだらしい。血痕があった。北方学院第一病院は「せつなん病院」蒙疆神社あとに、今も狛犬がある。それと社務所?ような建物も今そのまま使われている。

アヘンの配給は、お父さんは土木建築の仕事で、中国人労工の多くがアヘン中毒者が多く、アヘンがなければ仕事をしないので必要だった。アヘンはグリコの飴のような感じでキセルに詰めて吸う。

清水河中州で、北白川宮殿下が事故死した時、Mさんもその後を見に行ったそうだ。

張家口の市街地図やその他の資料も頂いた。Mさんたちの「張家口の会」は毎年のように現地旅行を重ねている。今年も8月にツアーがあるそうだ。今も残っている丸一陣地の戦車壕の写真も見せてもらった。さあ、これからボチボチ整理をしよう。今度の旅では、今も明の時代からある城内のMさんの旧居を見つけたい。




2012.平成24年4月30日(月)


■「修羅の翼」角田和男(著)

この本は本当に価値ある本だと思う。それは実際に支那から始まり太平洋での最前線で戦い続けた零戦搭乗員が、自らが参加した戦争の全てを見たまま感じたままを書き残した実録だからである。

角田氏は幾多の修羅場を潜り抜け奇跡的に終戦の日を生きて迎えた。共に戦った戦友たちが、どのように戦い散って行ったのか・・・。本人もその場その場で何度も涙を流したようだが、そいうった場面での淡々とした文章が余計に胸を打つ。

一体今の日本人とまったく人種の違う日本人が戦っていたのかと思うぐらい、そこには言葉に尽くせない見事な男たちがいる。そんな状況になってこその生き様死に様なのだろうが・・・。どうにも同じ日本人、同じ人間だとは思えない。死にたくないけど、心底うらやましいと思う。

でもいくら羨ましく思っても、どっちを選ぶかと問われれば、私は迷わず今を選ぶ。どんなに腐りきった人生でも生きたいのだろう。息子たちにも読ませようと中古書を買った。良くぞ書き残してくれた一冊だ。この本は日本人の宝である。これを読んで涙しない日本人はいるのだろうか?泣かす本ではないはずなのに・・・。


■いろんなことがあったけど・・・。

年に一回の京都綾部への墓参の前日に、親戚のMさんから電話があった。そして翌日の墓参当日、何故か?綾部の寺の本堂にMさんの父親(私の祖父の弟:S叔父)の位牌が私の祖父母・両親と共に並んでいた。

私が墓参に行きだして30年以上になるけどS叔父の位牌が、綾部にあるのは知らなかった。何故なら、S叔父は婿養子に行き、その四国に自分の位牌も墓もある。なのに自分の故郷:綾部にも墓を建立した。だからこっちは墓だけかと思っていた。

無論墓を建てたくらいだから位牌もあって当然なのだろうが、今まで我が家の墓参の時に、祖父たちと並んで位牌を出してもらったことは一度もない。前日S叔父の長男である四国のMさん(80歳)と、S叔父の今後の墓守について相談を受けたその明くる日に、私たちの墓参があり、そして住職がたまたま何故か?S叔父の位牌を並べた。

すべては偶然なのだろうが、私は偶然とは思えない。先祖との繋がりをいつも感じている。そしてMさんが、その時、S叔父の遺品でもあるワニの剥製を本家筋に当たる私たち兄弟の誰かに引き取ってもらえないかとの相談も受けた。S叔父は20代でシンガポールに渡りホテルを経営して一財産を築き、その後日本に帰国して生涯働かずに暮らした。

ワニの剥製や虎の敷物などは、S叔父がシンガポールで「日本ホテル」を経営していた時、徳川義親がこの宿を常宿にして、徳川の殿様と一緒にジャワにわたり像狩・虎狩などをした時のものだろう。

「馬来の野に狩して」徳川義親(著)
この本の中に安保(S叔父)の名前が何回も出てくる。みんなと写している若きS叔父の写真も何枚か挿入されている。日本ホテルを定宿にした理由も書いている。

『日本ホテルという名ばかり聞くと、実に堂々たる伽藍の様な建物を想像しますが、実は日本の宿屋で、ジョホールの護謨(ゴム)園にいる人々が新嘉坡(シンガポール)に出てきた時の定宿であって、極めて貧弱なものです。しかし安保という人が極めて実直なのと、猟につれる馬来人(マレー人)の出入りの自由の為にこの宿を選んだのです』

この徳川義親はS叔父よりも年下だが、当時(大正時代)は畏れ多くも殿様であり、S叔父も徳川の殿様の猟の手伝いに東奔西走、貴重な経験を沢山しているようだ。そのワニの剥製を長兄が引き取ることになった。それをMさんの妹が久方ぶりの里帰りで堺まで持ち帰ってくれた。

そして、堺に持ちかえってくれた数日後、私は西成に住む三男の家に行くつもりだったので、その時に足を伸ばして堺にワニをもらいに行った。そして、これも偶然だが、張家口のことを一緒に聞きに行くために奈良の兄の家に行く日も決まっていた。不思議だけど何かに導かれるようにことがとんとん拍子に運んだ最近である。かくしてワニの剥製はあっという間に長男宅に納まった。



「馬来の野に狩して」徳川義親(著)

S叔父(祖父の弟)が極めて実直と紹介されている

シンガポールで一旗あげたS叔父

殿様と像狩・虎狩など貴重な経験をした

その話を一つも聞けなかった。

私が高校生の時、まだ健在で出会っているのに



安保(S叔父)・吉井信照・徳川義親

「馬来の野に狩して」徳川義親(著)挿入写真より



S叔父が経営したシンガポールの「日本ホテル」

徳川の殿様にとっては、極めて貧弱なホテルだったのだろうが

私が見れば立派なものだ

どうやってこのホテルを手に入れ、一財産築いて帰国したのか?

40歳前に帰国して、生涯仕事せず暮らしたらしい





日本文化放送「チャネル桜」は日本を救う。

95先頭





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