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2012.平成24年1月1日(日)
家内の実家ではなく我が家で正月を過ごすようになったのが今から7年前の2005年/平成17年、元旦に神戸に初詣に行きだしたのが5年前の2007年/平成19年。そして三社参りを初めてしたのが2009年/平成21年。それから毎年22,23,24と今年で四回目になった。 今年は去年に比べて暖かくやっぱり温暖化なのか・・・と、心配したくなる正月だった。一人で三社参りをしだした時からJR新長田駅で降り、最初は鉄人28号を見て、次に長田神社→湊川神社→生田神社と参詣している。この元旦三社参りを歩けなくなるまで私の元旦の恒例行事にしたいと秘かに思っている。目標120歳。石ぶつけられながらでも生きてやる!フフフ。 二日前の30日に貿易センタービルの最上階26階から地下一階まで非常階段をふざけて歩いて降りた。翌日から思いもよらず足が筋肉痛になった。降りている時はたいしたことなかったのに・・・何でこんなに痛いのや??というくらい。下りがあんがいこたえることを実感した。階段を登らず下りただけだからホント今回良く分かった。 今日もまだ痛い。それに今日のように「長田〜三ノ宮」と、ちょっと長い距離を歩いただけで足の裏が痛くなった。日頃歩いているつもりが情けない。
JR新長田駅近くにある 周囲の人を比べればその大きさが分かる 小学生の頃、漫画雑誌「少年」を楽しみにしていた 確か当時は月刊誌だったと思う
今日は少し遅い時間だったので 初詣の人も例年より多かった
この上にあった市住に4歳から18歳まで暮らしていた 私の原点とも言える場所 長田神社から湊川神社まで 会下山を通って行く
こんな人出の湊川神社は初めてだった これだけの参拝客がありながら 着物姿は見かけないのが残念至極
いつもはここが一番人出が多いのに 今日は湊川神社が多かったので そんなに人の多さは感じなかった 営業用での着物姿が一人あり あと子供の姉妹・・・が さあ、今年もこれから一年が始まるぞ!
2012.平成24年1月2日(月)
三男が昨日の夜に帰宅し、今日は長男夫婦が嫁の実家から戻って舞子の墓で合流。我が家の恒例の正月行事は、二日の舞子墓参から始まる。その後、舞子ビラで昼食をしボーリング大会。これが私にとって一年に一回のボーリングであり、自分の体力を測るバロメーターになっている。 2008/平成20年8月20日を起日に一念発起し三ヶ月で10kgの減量し、平成21年、三年前の正月二日にボーリングをして筋力・体力の落ちたことを痛感した。そして22年、23年と「何でこんな下手になったのだろう・・・」と思いつつ今年を迎えた。 そして今日、いままで13ポンドのボールを12ポンドに下げてボーリングに挑んだが、それでも腕に力が入らず・・・というより、三男曰く「下半身が安定してないで・・」の一言で、ボーリングが下手になったというより自分の体力が落ちたことを再認識した。 今日のボーリングで自分の課題がはっきり分かった。歩いたり腕立て伏せをしたり、以前に比して運動をしていたつもりだが、それは“つもり”だけで実質を伴っていなかったことが実感できた。一番の体力低下は下半身の踏ん張りだと思う。腕立て伏せの回数から腕の力はさほど落ちていないのに強い球を投げれない。“ふらつく” 体力の低下はまず足腰から、そうだ!思い出した!愛犬ジョンもそうだった。後ろ足の踏ん張りが利かなくなったのが、老化の第一歩だった。犬は四本足だと思っていたが、そうではなく後ろの二本が足だ。いや後ろの腰が肝心要だ。前足=すなわち手は、けっこう最後の方まで融通が利いていた。 120歳まで生きるならこれからが勝負だ。思い立ったが吉日で頑張ろう。具体的な目標がはっきりしたから・・・。よし!
息子たちが上手くなったのではなく私が下手になったので賞金総額1万円はこのところすべて奴等の手中に渡っている。スポンサーはもちろん全額こっちだ。次回に雪辱を!
特攻隊の編成に中心的役割を担った大西中将自らが特攻作戦を「統率の外道」と言ったように、その是非については意見が分かれるのは仕方がない。そして、その特攻について戦後の人間が思う時、脳裏をよぎることの一つに、それは「命令だったのか?」「志願だったのか?」ということがある。 そのことについて答えはあるのか?どちらかに断定できるのか?まあ大雑把に分ければ、特攻隊の生き残りも戦後人間でも、特攻を非難する者は「命令」「強制」的要素が多分にあったと思っているようだし、特攻を是認する者は「志願」だったと認識しているように思う。 私が思うには・・・。 そのことについて幾ら詮索しても結論はなく求めるのは無意味だ。何故なら、特攻を批判的に見る者に幾ら言葉を費やしても志願を証明する術は最早ないからだ。そして当事者である特攻隊員も上官から発せられた言葉からそれが「命令」「強制」と感じた者もいただろうし、「志願」と受け取った者もいただろう。 そこに答えを求める必要はない。航空特攻の最年少は16歳、主体は20歳に満たない、或いは25歳にならない少年青年たちが夢ある明日を断ち切り、家族を守り、国を守るために笑みを浮かべて敢然と飛び立っていった。そんな少年、青年が少なくとも一人でもいたのは事実だろう。いや一人ではなく二人、二人ではなくもっともっといただろう。 私はそれで十分だと考える。そのことに私は言葉に出来ない感動と畏敬を抱く。心身強健の選りすぐられた若者が明日も生きていたい、明後日も来年もまだまだ生き続けたいというのは当然のことだ。誰だって死ぬのは嫌だ。青春真っ只中の若者こそがその気持ちが一番強くて当然だろう。それでも彼等は笑みを浮かべて飛び立った。 それをすぐに洗脳と言うつまらぬ性根の奴がいる。この洗脳ということについても「命令だったのか?」「志願だったのか?」と同じ次元で語るに落ちる。これをどちらかに翻すことは、その人間の性根が変ることでしか有り得ない。時間の無駄だ。 しかし、そのことで一つ言えるのは、当時特攻出撃の渦中でさえも、そこから卑怯に生き延びようとした上官・高官が存在していたようだが、特攻隊員の多くはそんな卑怯者に追従する道を選択することはなかった。そして当時も今もそうだが、そんな卑怯者を探しだし糾弾しても何か得るところはあるのだろうか? 多くの若き特攻隊員はそんな全てを知りながら自らの命を捧げて散っていった。そんな彼等の一途な気持ちは「あいつが行くなら俺も行く」という気持ちだったろうというのが私の推測であり、もし私がその立場になれば素直にそれが一番だ。 たとえ特攻を犬死といい非難する徒輩が声高にいくら叫ぼうが、卑怯な上官・高官がたとえ周囲にウヨウヨいたとしても、特攻がたとえ命令強制であったとしても「あいつだけには行かしはしない・・・」 そのことのみで私も行く。それが神風特別攻撃隊の真実の姿だと私自身はそう思っている。誰にも同意は求めない。
2012.平成24年1月8日(日)
今年は2012年、明石DSを開設して今年の3月で丸22年になる。ウィキペディアの説明によれば日本のバブル景気は1980年代終盤から1990年初期までの数年間に日本で起こったとある。 1990年はバブルは実質的にピークを過ぎていたが、まだその余韻はあり今より遙かに景気は良かった。それから徐々に下る一方だったように思うけど開設以来10年ちょっとは順調に仕事は続き我が家の出費のピークも何とか切り抜けた。 この5年間くらいは低迷を続けているけど、もう定年の年齢も越えたし、あとはボチボチ小遣い稼ぎという程度で仕事があればと思う。でもホントいつの時代もそうだろうけど日々年々変化があり、平々凡々と過ごすことの難しさを感じる。 昨日アメリカからメールをもらった。「動画レッスン」を見ての感謝のメールだった。最近はこれが一番嬉しい。誰かの役に立っていることが何より嬉しい。 お客さんが来てくれるまで生涯現役を貫きたい。ジャンボ宝くじ一等が当たれば迷うけど・・・それでもボチボチやり続けたい。今の所これくらいしか人の役に立つこともないし。
きっと人生を楽しむ達人は、山あり谷あり何があっても柔軟にそれに対応して楽しめるのだろう。 人生一度きりなら、楽しまなければ損だ。収入が少なければ少ないなりに、楽しみ方を創意工夫すればいい。最近は本を読むことが面白くなった。戦跡巡りから戦記本を読むことでいろんな知らないことを知り、知ることの面白さが実感できてきたから。 知らないより知っている方が絶対得だ。沢山知れば知るほど得になる。知るにはあまり金は掛らない。本を読むことが一番てっとり早い。本なら一人で時間さえあれば黙々と読むだけでわずらわしくなくて良い。大東亜戦争を知るというのをこれからの自分のテーマにしてもいいなあと思う。
主は野菜だけど魚も食べる。その魚について昨日の産経朝刊「町医者日記」に「ボケない百歳に学ぶ」ということで「青魚は元気で長生きの基礎」との記事があった。そして魚の調理方法として栄養価が損なわれない順番は
@刺身 と、書いてある。ふ〜ん、そうか。青魚を食すか。オランダ人の113歳で亡くなった女性の大好物は、ニシンとオレンジジュースだったそうだ。ニシン・サバ・イワシなど背の青い魚が良いようだ。EPA(エイコサペタエン酸)やDHA(ドコサヘキサエン酸)が豊富とのこと。 食い物が薬で薬は毒だから、何を食うかを考えて食べれば元気で長生き出来る。これが元気で長生きの大きな要点だと信じる。 身体は宇宙であり全知全能の完成品だ。自ら生きてゆくために体が持つ全ての能力を駆使して己が体を健全に保とうとする。正しき寿命が尽きるまで。 だからその能力を引き出してやることを体の管理者、すなわち自分が考えてやらねばならない。体と自分は別物で身体はペットと同じで飼い主が全てだから。身体がペットで自分が飼い主の関係ということになる。それが身体と自分の関係だ。 身体の能力を引き出すには、身体を甘やかしては駄目だ。一番は餌を与えすぎては病気になるし、他の全ても怠慢になる。少しの飢餓こそ身体にとって緊張感も芽生え各臓器はフル回転して百パーセントの能力を保とうと努力する。それこそが身体を鍛え活性化する。 時々褒美にご馳走を少し与えれば良い。そして何より胃腸を時々休ませることが大切だ。少ない餌を与えればその少ない餌を如何に利用するか?身体中の臓器は関係各所と緊密に連携を取りながら活き活きと働く。その細胞一つ一つの喜ぶ様が目に見えるようだ。ハハハ。 だから時々の「不食」は最高のご褒美でもある。分かっているけど・・・食ってしまう。大東亜戦争での飢餓、シベリア抑留による飢餓。ホンノ一時期でも、みんな最高に健康になったはずだ。そりゃあ空腹感が凄まじくあったようだから。それがまずは健康の証だ。何でも過ぎたるは・・・駄目だけど。 今や俺の体と俺は別物だ。身体は自分の物ではない。50兆〜60兆個の細胞それぞれの物だ。間違うことなかれ!細胞を苦しめる飼い主になるな。己の欲望を満たすために、それは人として最低である。
2012.平成24年1月10日(火)
「特攻生みの親」と言われる大西瀧治郎中将の副官をしていた人の回想記を読んでいる。東大出身の銀行マンから海軍主計中尉として太平洋戦争勃発時、真珠湾攻撃から戦場に出ていた人の回想記なので、海軍主計士官からみた太平洋戦争の様子が良く分かる。 銀行マンらしく几帳面でマメに日記を付けていた人のようで、時系列もしっかりとして文章も読みやすく面白い。まだ半分も読んでいないけど、戦争真っ只中でありながら戦場になっていない場所での日々の様子も伺えて興味深い。「ふ〜ん、そうやろな、南洋諸島といってもそこが戦場になるまでは、リゾート地での平和を満喫の日々なのか・・・」 昭和16年12月8日の真珠湾奇襲のために択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾から空母「端鶴(ずいかく)」の主計中尉(24歳)として向かう時、戦地赴任手当(通称:トンプク)を支給するか否か?戦争は始まっていないので中止になれば引き返す。そんなことにもやきもきしている様子がおかしい。 この本を読めば戦争と言うのは、どこにおいてもそれぞれの部隊の自己完結能力の優劣、すなわち後方からの支援の優劣が勝敗を決めることがホント良く分かる。ようするに当たり前だが総合力が勝敗を決する大きな要素だ。しかし、その総合力も圧倒的差があれば精神論は吹っ飛ぶが、そうでなければある程度は精神論でカバーできると信じる。 そこが日本と日本以外の国との決定的な違いだ。日本は特別な国だから。これはその是非とは関係なく特別だから特別としか言いようがない。他に類がないのが特別だ。だから日本は総合力においてある程度劣っていても対等以上に戦うことが出来る。しかし太平洋での連合国相手の戦いは精神論でカバーできない差があり、そのことを最初から意識していないかのような戦略戦術であり悲惨な戦いとなった。 戦争は人間同士の戦いであり、「腹が減っては戦が出来ない」というのは戦の原点でもある。その兵隊が生きるための賄い、戦うための武器の調達《武器、弾薬、食糧の補給や海軍予算の編成などを担当》をした主計隊の士官の目から見た戦争の実態というのは戦争の真実に迫るように思う。この本は本当にオモシロイし勉強になる。
健康管理が趣味 さっきちょっと見ていた「教科書に載せたいSP」のなかで、「腸内環境が全て・・・」というようなことを出演した医者が話していた。その通りだと思う。 ど素人の私の今のところの健康のための三大要素は、「胃腸を健全に」「血管を柔軟に保つ」「ある程度の筋肉を保つ」だと思っている。そして最近特に感じているのは、空腹の方が寝れる。空腹というのは大げさかもしれないが、腹が軽ければ寝つきが良い。 もう夜は腹一杯なんて絶対食いたくない。大概我が家の夕食は6時までに終わっている。そして、その後饅頭一個食べたり、コーヒー一杯飲んだり、豆乳ヨーグルト一個食べたりするけど8時以降は食わない。 もっと腹を減らせばもっと寝つきが良くなるような気がしている。まだまだ私は食べすぎだから・・・。大腸内視鏡外科医の権威である新谷弘美医師は、健康な腸は赤ちゃんのように綺麗なピンク色をしているそうだ。 私はサプリメントも何も飲んでいないが、腸内環境を意識している。まあなんといっても私は食う量を今より少しでも減らすことが健康への道だ。軽き腹こそが快眠の秘訣也。 世の中オモロクナイことばかりだけど、意地で元気で120歳まで生きてやる!乞うご期待だ。まあ病に倒れれば、すぐにも諦めて三途の川を越えたいけど。去年一年間は経過検査で行ったけど病気で医者には行かなかった。薬も皆無。今年もそれを目指す!
2012.平成24年1月11日(水)
「脳を鍛える」「心を鍛える」 今日の「試してガッテン」を見て、座禅もヨーガも同じとあらためて思った。ようするに不安解消するには自分を客観視する力を付けるということだ。 ////////////////////////// 座禅のスゴ〜い効果 不安を巨大化させないためのトレーニング、それはつまり、背内側前頭前野を鍛えることです。 そもそも私たち人間は、心に浮かんだ物に対して何かを連想してしまいます。その連想を断ち切る練習こそが背内側前頭前野のトレーニングにつながるのです。 その効果的な方法の一つが座禅などのめい想です。 研究の結果、長年座禅などのめい想を続けた人の脳は、通常の人に比べて背内側前頭前野などが分厚くなっているということが明らかになってきました。これは、神経細胞が増えたためで、この部分の能力が強化されたと考えられています。
その結果、客観視する力も向上し、 ///////////////////////////// 【実習コーナー】1日15分!脳の簡単トレ
まずは楽な姿勢をとります。 そして軽く目を閉じます。
次に、小川が流れている情景を思い浮かべます。
次に、その小川に葉っぱが流れている情景を思い浮かべます。
この情景が思い浮かんだら、次に自分の心に目を向けます。
この時、無理に流そうとしなくて結構です。
その場合は、もう一度すっと葉っぱに乗せて川に流してみます。
このトレーニングを1日10分〜15分程度、毎日続けてください。
無理をすると効果は得られません。 /////////////////////////////// 【実習コーナー】不安から抜け出す魔法のことば
不安からどうしても抜け出せない、 例えば
「自分は何をやってもだめな人間だなぁ」 これはどんな場合でも使える簡単な方法ですので、ぜひ試してみてください。
不安から抜け出せない時、感情に「・・・と、思った。」とくっつけます。
→「自分はだめな人間だなぁ、と思った」
→「将来が不安で不安でしょうがない、と思った」 ////////////////////////// ようするに「いくら心配してもなるようにしかならない」「心配の度合いが烈しくて夜も眠れず、食事も出来ず、吐き気を催すくらい心配の度合いを上げても、その心配の種に何ら変化なく、なるようにしかならない」「心配の度合いは、結果に何ら関係ない」「心配することで安心する?それって一体何になるの?」「心配しないと不安?って、そんな馬鹿らしいことないのとちゃう?」 とりあえずこれからは頭の中で、 「小川に葉っぱを思い浮かべて、次に思い浮かんだ思考を葉っぱに乗せて次々に流そう」 「背中が痛い。これはガンかもしれない」と思ったら、「背中が痛いからガンかもしれないと思った」と、「・・・と、思った」を最後にくっつけよう。この「・・・と、思った」をこれから実践しよう。 「座禅をやってみよう」 ヨーガの「今の自分をありのままを受け入れろ」 「今、ここに心をとどめる」と考え方は同じだ。客観視すること・・・か。理屈は分かっても難しいなあ。心や脳を鍛えて「なるようにしかならない」と、いつも思える自分になりたい。家内はなんでかしらんけどそれを見事に会得している。羨ましい。どこでも寝れるし、いつでも寝れる。口ぐせのように「なるようにしかならん」と言って何も心配していない。 ホンマ、幾ら心配したって結果に変化なしなのに、心配をした方が結果良くなるのでは?とか、心配しないと結果がもっともっと悪くなるのでは?心配すればするほど、心配してヤツレテ病気になるくらいの方がご先祖様神様仏様が同情して助けてくれるのでは?と思ってしまう自分を何とかしたいなあ。 「なるようにしかならない」・・・言葉として理屈としても分かっているのに、分かろうとしない自分から抜け出したい。「座禅」と「小川と葉っぱ」「・・・と、思った」を覚えておこう・・・ではなく実践したい。これを会得したらもうちょっとましな人間になれるかも。
2012.平成24年1月16日(月)
マバラカットの旅に向けて特攻隊の本を何冊か読んでいる。特攻第一陣からしばらくは当然厳粛な雰囲気もあり、特別な作戦だったようだが、それが日々のこととなればやがて送り出す側は慣れてしまう。そんな送り出す側と、隊員として選ばれた者の間には当初と違った雰囲気が出てきたのは十分想像できる。 そして特攻批判に、「命令」「強制」ということの他に「後から必ず行く」と送り出した上官が戦後に生き残ったということがある。一途な若者を日々の単なる作戦として死地に送り出し、自らは彼等との約束を守ることなく終戦後の人生を全うした。 このことが特攻作戦の「是非」「命令か志願か」とともに、この神風特別攻撃隊を語るときに必ずや避けて通れない議論の的に今後もなり続けるだろう。それについての私自身の思いがまとまってきた。 1月2日に記したのと基本は同じだが、もう一度ここに整理しておく。 私が思う「特攻作戦の総括」 日本という国は世界広しといえど、主要な国の中では唯一建国以来ほぼ単一民族、島国。そして男系継承による万世一系の天皇陛下を戴き、皇室のもとに一つの家族としての集合体である特異なる国として保ち続けている。それが故に、国民は他国に比べて類い稀のない平穏な歴史の中で暮らしてきた。 その上、四季があり自然に恵まれ農耕民族として温厚な性質を有する。そんな日本が覇権主義吹き荒れる時代に、独立を保つために戦いに挑まねばならなかった。明治維新後、日清・日露戦争とも大国相手に勝利を得た。 そして世界の白人列強に伍して後、有色人種代表となった日本と、それを叩き潰そうとする白人列強の間で起きた戦いが大東亜戦争である。この戦いは白人の黄禍論から端を発した歴史の必然だと確信する。 日本は怯まずこの歴史的な戦いに踏み込んだ。もし日本が白人から仕掛けられた戦争を忌避し、白人の軍門に下っていれば、今の世界は全く違った物になっており、それはこの地球を40%の白人が今より遙かに強権的に支配し、60%の有色人種は白人に媚を売りながら生きるか、或いは奴隷となって生きるのか。そんな世界になっていると思う。 日本人の民族の資質として、戦後のプロ野球で日本の投手が外国人助っ人バッターにボールをぶつけて、怒りで向ってくる外人バッターから迷わず外野まで一目散に走って逃げる姿。あれが「微笑ましい?」「大和魂を失った?」日本人の正味の姿だと思っている。終戦までの日本では有り得ない光景だろう。 他の民族とりわけ狩猟民族と比較すれば、格段に温厚であり、冷徹な人種差別も出来ず、残虐性もなく、根が臆病な日本人が、好戦的な白人と戦うには何を置いても精神面で強い気概を持たねば戦うことは出来ない。 その精神とは「軽き命」に他ならない。異論はあるだろうが、私自身は日本人は臆病だと思っている。そしてその日本人が強くなるのは「軽き命」という精神を有すればこそだ。それだけが日本人の戦いの強さの根源であり「命は惜しくない」「命より大切な物がある」「恥を知る」だから臆病なはずの日本人が白兵戦を戦える。 敵から見ればこんな強敵はいないだろう。「生きて虜囚の辱めを受けず」は、あの強大なる連合国相手の戦いには必須であり、これなくしては戦いにならなかったと信じる。 そして特攻隊が編成された。 その特攻の精神の根源も、やはり「軽き命」であり、昭和19年10月21日セブから発進し未帰還となった特攻ゼロ号とも称される久納好孚中尉は「戦果確認の為の直掩機はもったいないから不要」と上官に進言した。これこそ西郷隆盛の遺訓「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」この精神である。 大儀の前には「名誉も要らず名も要らず命さえ要らない」。これこそが真骨頂だ。それ故、特攻隊に関しての戦後の多くの中傷・非難も基本的には勝手にほざいておけと一笑に付す。 しかしながら・・・「最後には必ず私も行く」と言いながら生き延びた上官に対しての批判中傷に対して私の思うことを以下に記す。 このような上官を誰が非難・批判を出来るのか?誰が裁き罰を与えることが出来るのか? 散華した英霊諸氏がそれをするのか?当然彼等にはその権利があるだろう。しかし多くの若き英霊はそんなことはしないと思う。飛び立つ前から全て承知していたと思うからだ。そして例え裏切られたとしても靖國の英霊で恨む者は少ないと思う。 ならば遺族はどうか?遺族としてはそんな上官は感情的に許されないだろう。遺族が生き延びた上官を非難し恨む気持ちは私も認める。それはどうにも仕方がない。 それでは英霊と遺族以外の者はこの問題をどう考えるべきなのか?
山本七平が戦犯体験から曰く 上記の言葉に尽きると思う。「最後には必ず自分も行く」と大言壮語し、真実その時点では死の覚悟が出来ていた上官も、いざとなれば自決は難しい。そんなことは戦場や戦犯収容所では普通の人間に普通に起きることだ。約束を守れず生き延びた上官も普通の人間であり、犯罪者でも卑怯者でもなければ鬼畜生でもない。 戦後生まれでなんら命の危険もない場所に生き続けている私が、そんな上官を非難する資格は元よりないと思っている。同情し哀れんでも非難する必要も蔑(さげす)む資格も自分にはない。同じ境遇になった時、裏切らない人間でありたいと願うだけだ。それすら心もとない。 部下との約束を守らず戦後に生き延びた上官よりも、戦後にそれを声高に批判する日本人や元特攻隊員こそ見苦しい。ネットでも神風特別攻撃隊関係のブログで得々とそういった上官の非をあげつらっているのが沢山ある。そういう人間こそ哀れに思う。 戦後に生き延びた上官も、特攻で送り出した部下の霊を終生弔いながら重い十字架を背負って生きている人たちがほとんどだろう。彼等はみんな普通の人だ。英霊とその遺族以外の誰にも非難する資格はない。以上がこの問題に対しての私の思いだ。 我日本人足らんと欲す。特攻隊は日本人の誇りであり未来永劫心ある日本人に勇気を与え続けてくれると確信している。 次に戦うべき時も、大東亜戦争と同じくその精神を継承し戦う者あらば、卑怯者もあるだろう。その時どちらが多いかで勝敗はともかく戦いの様相は決する。大事なのは結果ではなく志だ。私の敗者の定義は戦いに挑んで敗れた者のことではなく、戦うべき時に戦わなかった者である。結果は時の運もある。 我特攻を賛美し感動する。敵も特攻に慣れて戦果上らず、さりとて何の方策なく日常作戦になった特攻に行くぞ悲しき、しかしながらそれでも行く。愚かなりと笑わば笑え、我はそうは思わじ。
Y君からもらったコピーに降圧剤のことについて書かれていた。 年齢+90=が普通だったのに、ある時から160以上は高血圧と日本動脈硬化学会が認定した。その結果日本では160万人の降圧剤を必要とする病人が発生した。そして、その数年後今度は140以上は高血圧とした。 今度は一気に3700万人の病人が発生した。そのお陰で製薬会社はボロ儲けとなり学会には億単位の金が届けられたという噂もある。世界で消費する降圧剤のおよそ半分は、日本一国で消費されているという笑うしかない報告もあるようだ。 まさに医者が病人を作り、生涯患者を薬漬けにし、その結果、脳への血流が悪くなり脳梗塞・痴呆などの病人も増やし続ける。一人を殺せば殺人で、二人殺せば死刑となるが、この高血圧の基準を作った学会の責任は万死に値する。 私も数年前から二年間ほど降圧剤の薬を飲み続けた。身体はなんともないのに・・・である。私は今血圧も測らない、無論降圧剤もとっくにやめた。身体はパーフェクトであり、身体の中で起きている現象は、自分の体を正常に整えようとすることであり体を壊そうとするための事象は何一つない。 血圧が高いのは体を正常に保とうしてのことであり、対処療法では余計に不具合があちこちに生じる。血圧を下げたければ、デブは先ず痩せることだ。そして血管を柔軟にし血管の内腔を狭くしないようにして血液の流れをスムーズにすればおのずと血圧は正常値に近づく。 とにもかくにも現代人は食いすぎだ。私は特にそうだ。今は食いたいのを我慢するようになった。以前感じなかった空腹感も感じるようになった。胃腸も少し柔らかくなってきた。断食すれば経絡が通じ、リウマチの痛みや筋肉痛も改善されると鍼灸師が述べている。何となくだが分かる。 治すには生活習慣を変えるしかない。その最重要が食い物だ。体調悪ければ「不食」こそまずすべきことである。溢れるほどある食い物を食べるのを減らす。量を減らし、種類も減らす。ひとへに胃腸の労働軽減だ。健康管理はめっちゃ面白い!!体調が日々それにこたえてくれる!
2012.平成24年1月17日(火)
大西長官が“神風特別攻撃隊”を「統率の外道」と語ったように、必死の作戦は邪道であり恒常的な戦法としては本来有り得ない。しかしながら万万が一恒常的に継続する必要に迫られたならば、無論通常作戦以上の万全の準備と後方支援の下に行うべきものだ。特攻に反対した搭乗員も数多くいるのは当然だろう。ベテラン搭乗員は全員胸の内はそうだったのではと思う。 そのなかに大西長官に向って敢然と反対論を述べ、特攻を受け入れなかった美濃部正大尉がいる。彼は昭和19年7月夜間戦闘機隊指揮官としてフィリピンに配属された。同年11月、すでに特攻第一陣が出撃しその後順次特攻出撃を行っていた時である。少佐に昇進した美濃部は大西長官に呼び出された。 呼ばれた理由はパラオ島の傍らにコッソル水道があり、米軍はそこに飛行艇50機余りを進出させ日本内地との輸送妨害をしている。その飛行艇を叩き潰す相談である。 美濃部少佐が「夜間、戦闘機で飛び立ち夜明けに銃撃で叩きます」と言うと、大西長官は「君は生きて帰って来れるのか?」と問われ、「冗談じゃあありませんよ」というのが現場の美濃部少佐の答えであった。無事に帰れる可能性は限りなく小さい。
大西長官「君が行ってはいかん」 「それなら特攻でいいだろう」と言った長官に美濃部は憤然と「特攻ならいいだろうという考えには承服しかねます。(中略)どうしてもやれとおっしゃるなら、私の思うとおりにやる。部下の使い方ぐらい、私は良く知っています。どうか好きなようにやらせていただきたい」 大西長官はこのように面と向かって特攻に反対した美濃部少佐を認め、その後、12月1日、再び呼び出され日本で夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の編成を命じられた。この芙蓉部隊は終戦まで多大の戦果をあげることになる。そして美濃部少佐は戦後、航空自衛隊に入り退任後は日本電装学園長となり平成7年に82歳で亡くなっている。 その美濃部少佐の大西評は「剛毅な大西中将の姿ではなく、むしろ冷静に自分の意見に耳を傾けてくれる上官としての包容力が印象に残っている」とのことだ。戦後に生きた美濃部少佐も特攻を全否定しているのではなく唯一残る公式見解では特攻に対して次のように述べている 『戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません』(「彗星」夜襲隊より) この言葉こそ特攻の本質を突いているように思えてならない。
「芙蓉部隊、特攻せずPART2/2」
2012.平成24年1月18日(水)
もし“神風特別攻撃隊”なくして終戦を迎えていれば・・・。 大東亜戦争時、帝国陸海軍に「玉砕」も「自決」も「神風特別攻撃隊」もなく日本はポツダム宣言を受け入れ終戦となっていれば、大東亜戦争はどんな戦争になっていたのだろう? 玉砕や自決、特攻を「犬死」といったり、「愚かな」といったり、「クレージー」と言ったり、「洗脳だ」「馬鹿だ」と言う奴がいるが みんな心のなかでは、なんと思っているか・・・分かっている。誰も馬鹿になどしていない、口汚くそれらのことを非難しても、心の中ではみんななんて思っているのか もし両親や兄弟、近親者、友達や知り合いのなかに、玉砕・自決・特攻でなくなった者あらば、誰しも心の中では誇りとなっている。幾らみんなの前では「犬死」と叫ぼうが・・・ 人間であるならば、誰しも、人種民族問わず・・・。玉砕も自決も特攻もない大東亜戦争は考えられない。少なくともその精神だけでも継承せねばならない。
2012.平成24年1月19日(木)
1565年からスペインの植民地となり、次いでアメリカ・・・と、400年にも及ぶ長期間、白人の植民地だったフィリピンなのに、何故?大東亜戦争を通じ、そして終戦後も支那朝鮮を別にして、他の東南アジア諸国と違って反日感情が強かったのか? そのことが今まで分からなかったが、今回フィリピンでの戦いを調べてその理由が分かった。まず太平洋戦勃発時は米国の植民地だったが、その時フィリピンは3年後の1944年:昭和19年の独立が約束されていた。 「フィリピンの歴史」:参照
///////////////////////////////// すでに独立準備政府が成立しており、日本がフィリピン攻撃を始めた16年末の3年後には400年に及ぶ白人統治から念願の独立を果たせるはずだったのだ。そんな時に日本のフィリピン攻略が始まり、フィリピンは戦場となった。 これだけでもフィリピン人の感情が分かる。そして日本軍占領後も物資調達のため軍票を乱発しインフレ・食糧不足が加速し、そんな日本の軍政はフィリピン人の反感をかった。日本も1943/昭和19年にはホセ・ラウレルを大統領として独立を認めたが時既に遅し。 そしてマニラで市民を巻き込んでの市街戦が起こった。フィリピンのマニラ市街戦での死者は日本軍1万6555人、米軍1010人、マニラ市民10万人と言われている。 そしてこのことが戦後、日本軍の市民虐殺のように言われフィリピン全体での今に続く複雑な対日感情の原因ともなっている。 しかし実際のマニラ市街戦は、マッカーサーが豪州に逃れた時に、オープンシティーとして戦火に巻き込まず日本軍に占領を許した。その為に市民は、マッカーサーの逆上陸に際して、まさかこのマニラを戦火に巻き込むことはしないだろうと思い避難する市民がいなかった。 それなのに米軍は容赦をせず無差別爆撃により多くの市民を巻き添えにした。そして武器なき弱体化しているマニラ守備隊に対して、米軍はマニラを包囲し日本軍は退路を断たれ徹底抗戦の道しかなかった。その市民は日本軍の情報を米軍に通報し、そのためスパイ行為として日本軍に殺害された者も出た。 マニラの破壊は日本軍の行為ではなく「(参照)対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒であり、そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった」。というのが事実だと思う。その責任の転嫁が山下奉文大将の死刑執行だとも言われている。 「学び語る会」のSさんも、昭和30年頃に船員としてマニラに上陸した時、「マニラ市民の対日感情は悪くてほとんど上陸しなかった」と話してくれた。Sさんからその話しを聞いた時、何でそんなに反日感情が?と思っていたが理由が分かった。 400年の長きにわっての植民地から、独立を数年後に控えたフィリピンへの日本の占領、その後の日本軍政の不備、そして全土を戦場にしたのが一番の原因だろうが、米軍の無慈悲な攻撃によってのマニラ市民の殺害・破壊の全てを日本軍のせいにした戦後のアメリカのプロパガンダの結果も大きな要素だろう。
2012.平成24年1月22日(日)
図書館で借りてきてレイテ戦記を読み始めた。まだ数ページを読んだだけだが、今まで気付かなかった太平洋での戦いの一端が分かり敗戦に至る経緯が見えてくる。 大東亜戦争は敗戦とはいえ日本の輝く歴史であると信じるが、反省すべきは山ほどある。こんな稚拙な戦いだったのか?と、海軍の愚かな真珠湾奇襲もそうだが、その後の無謀な戦域拡大。そして、この本の21頁に書いてあることを読み、根本的にこの戦争は一体何だったのか?大本営参謀本部は何を考えていたのかと思わざるをえない。 それは・・・↓。 『当時中国満洲戦線には200万人の大軍が常駐していたのに、太平洋戦線には15個師団25万人しかさけなかった。主敵が米英であることがわかっていながら、大軍をソ連と重慶の押さえとして動かすことが出来なかった。・・・これは太平洋戦争の最大の戦略矛盾で、18年のガダルカナル撤退以来、日本軍が始終防禦に立たされ、主導権を取り返すことが出来なかった理由の一つである。』 ホンマや・・と。これは一体何やったんや?南方に進出し、米英他連合国との戦端を開くなら、主敵はどこなのか大所に立てば即座に分かる。米軍をそこまで侮っていたのかとも思えない。「1〜2年は戦って見せます」と山本五十六も強敵米国を認識し、誰もがわかっていたはずだ。 昭和18年9月30日に絶対国防圏が定められたようだが、その時はニューギニアまでもが含まれていた。しかし18年9月と言えばガダルカナルから撤退し、山本五十六も戦死、イタリアも降伏していた。 そんな時点でまだこの調子とは・・・。陸海軍の間に戦況の認識のズレがあり、細部の情報も不足し現場の司令官クラスでも全く現状の正しい認識が出来ていなかったと思える。ホンマに何でヤンと思うことばかりなり。 フィリピンでも開戦以来、南方への兵站基地に過ぎないとの認識で飛行場もなければ沿岸防御施設も全然出来ていなかった。守備する第14軍司令官・黒田中将は昭和18年5月に赴任しながら、フィリピン人の妾を持ち、その年10月に日本がフィリピンの独立を認めその初代大統領となったラウレルやフィリピン要人たちとゴルフ三昧だったらしい。 それくらい能天気だった。これはサイパン・グアムやその他も同じような感じだ。司令官の愚かさというより、どことも同じような状態だったのは司令官でさえも全く実情がわかっていなかったといえる。なんやねん?これは・・・である。 余程陸海軍の相互の情報交換もなく、全てが行き当たりばったりで、次々と水が漏れて初めて慌てて水漏れを防ごうとする対処療法に追われていたのだろう。この黒田中将の任を解いて山下奉文大将が赴任したのは、レイテ島米軍上陸二週間前のことだ。これではどうしようもない。 大東亜戦争を紐解けば紐解くほど訳が分からなくなりそうだ・・・。一体どこで何を間違ったのか、もっと他に戦い方があったはずだ。次回に備えて専門家だけではなく日本国民全部が学び知る必要がある。一家庭の存亡と同じく、自分と家族が生きて行くためになくてならない国であるのだから。 我61歳にしてやっとそれを切実に思う 戦争を始めるあたっては、その戦争目的をはっきりすること。戦争目的というのは、すなわち終戦をどのような形で終わることを目的とするのか・・・だ。 米国と戦うなら、米国の首都ワシントンを陥れ相手を屈服させるのか?それは誰も考えていなかったろう。ならば、やはりどこかで停戦に持ち込み、戦前の日米交渉時の問題をどうクリアーすれば互いに矛を収めるのか? それは戦いながらの駆け引きになる。イタリアが降伏し、ドイツが敗れた。それでも日本は戦い続けた。想像するだけでも終戦・停戦を決めるのは難しい。こっちが思っても相手は有利ならば、停戦交渉など受け入れずどこまで攻め込んで来るのはいうまでもない。 ならば停戦ではなく降伏をするのか?・・・降伏を頭に描けば、次々と最悪のことを思い浮かべる。皇室の解体・植民地化・国の分割占領・占領軍によっての虐殺・降伏反対の軍人による暗殺・内戦等々。とくに軍部や政府の中枢に近い者は降伏には大きな決断を有する。そこには自分の命だけではなく家族一族を含めて降伏後のあらゆる恐怖が脳裏に浮かぶ。 似非平和を享受してきた今の人間には、なかなかその恐怖の現実は想像できないだろう。何とっても相手は殺し合いをしてきた敵なのだ。降伏するくらいならいっそのこと一蓮托生一億玉砕を目指そうとするのは十分考えられる。 まあボチボチ生涯の課題として大東亜戦争を考えるしかない。
2012.平成24年1月23日(月)
台湾沖航空戦:昭和19年10月12日〜16日 真実の結果 日本軍の損害:日本軍 航空機 312機
米軍の損害:航空機89機、搭乗員約100名 大本営海軍部の誤報 ↓ 10月19日、「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、(駆逐艦、巡洋艦を含む)艦種不明15隻撃沈・撃破」と発表した。 アメリカでは、投資家の一部が大本営発表の内容を信じたために、一時株価が大暴落するという事態も発生した。
40頁参照 もし陸軍がこれを知っていれば、決戦場を急にレイテ島に切り替えて、小磯首相が「レイテは天王山」と絶叫するこということは起こらなかったかも知れない三個師団の決戦部隊が危険水域に海上輸送されることはなく、犠牲は16師団と、ビサヤ・ミンダナオからの増援部隊だけですんだかも知れない。1万以上の敗兵がレイテ島に取り残されて餓死するという事態は起こらなかったかも知れないのである。』
78頁参照 この海軍の誤報とその後も速やかに訂正しなかった海軍の信じがたい行為によって、35〜50万人が戦死ともいわれるフィリピンでの凄惨な戦いが始まった。しかし追い詰められた状況ではこういったことが度々起きるのだろう。誰もが普通とは違う意識下に行動していることを肝に銘じておかなければならない。
日本は米国との戦いをのぞんでいなかった。しかし敵が自分より強い相手であることがわかっていても引き下がることが出来ず戦いに踏み切った。 これからもそういったケースがあるだろう。「世界でも」「社会でも」「会社でも」「個人でも」・・・こんなことは日常的に普通によくある話しだから。 そして日本は大東亜戦争に敗れ、敗戦の惨めさを今も引きずっている。二度と同じ事を繰り返さないために何をすべきか?答えは簡単だ。 やりたくない相手に仕掛けられることがあるのだから、そんな時でも相手に勝つには、相手より強くなるしかない。しかし総合力において強くなるのは、「国土の大きさ」「資源の多寡」「人口」「民族の資質」等々いろんな条件があるので、幾ら努力してもどうしようもない一面がある。 しかし今なら、そんな諸条件など関係なく、これさえ持てば相手がどこであれ「対等」といえる兵器が存在する。それは大量破壊兵器「核兵器」。そうだ・・・。大東亜戦争の反省なら、一発答えが出る。そしてこれ以外にない。 軍事力では世界No.1の米国を葬るだけの核ミサイルを備え、核ミサイル装備の原子力潜水艦を常時遊弋させていれば、どこの国であろうが「戦うつもりはなくても戦いが始まる」ことの確率は大幅に下げることが出来る。そして「もしやられても」それに匹敵しての「仕返しは可能だ」。 これしかないし、議論の余地もない。
2012.平成24年1月24日(火)
マニラ・マバラカットへの旅に備えて・・・。 東洋の真珠と謳われたマニラでの市街戦:1945/昭和20年2月2日〜3月3日 第14方面軍:山下奉文陸軍大将はマニラは無防備宣言をして司令部をバギオに移動し、持久戦を図ろうとしたが、大本営陸軍部も反対し、海軍も港を守ることにこだわりマニラ放棄に反対した。それによって、岩淵三次(さんじ)海軍少将を司令官とするマニラ海軍防衛隊が編成された。 マニラ海軍防衛隊はマニラ駐留の第31特別根拠地隊を基幹として、レイテ沖海戦での沈没艦生存兵士、現地召集兵3000名を含めて当初は総数約24000〜26000名であった。しかし、その後兵器の大幅な不足から部隊を各地に脱出後退させ、2月3日に戦闘となったときの兵力は約10,000人であった。 その中には海軍防衛隊の指揮下に入った陸軍:野口部隊の大隊も含まれるが、これも現地召集の兵が大半である。この1万名の中で地上戦訓練を受けていたのは根拠地隊の陸上警備科1個中隊のみである。 そして昭和20年1月9日、リンガエンに上陸した米軍はマニラに向って進撃した。2月3日米軍の先鋒がサン・トーマス大学に陣地を構えていた日本軍に攻撃を開始したのが最初である。日本軍は国会議事堂・農務省ビル・イントラムロス・マッキンレー(マカティ市フォート・ボニファシオ:桜兵営)等々各所に分散配置されていたが、サン・トーマスへの攻撃が始まった時も、各部隊への情報は皆無で午後7時頃市役所で「すき焼き会」を開いていた兵士たちもおり砲撃音を聞いて緊張感に包まれたという。 米軍の包囲網が狭まるなか、フィリピン人約3千人とも言われるゲリラ活動も活発化し、米軍との交戦に加えて、民間服を着て米軍から支給された自動小銃を乱射してくるフィリピン人ゲリラ(便衣兵)との戦いに日本軍兵士は追い詰められていく。 そんな中で、ゲリラの掃蕩も適わず、当然のように自分たちが殺されないためにゲリラと見境がつかない現地人に対しての殺傷に及ぶこととなる。これに対しての批判は到底出来ない。これこそが戦争であり殺すか殺されるかの世界である。米軍も次々とビルの地下にガソリンを流し込みそれに火を放って無差別に殺傷し、米軍の市街地砲爆撃も無差別である。 マニラでの民間人死者が10万人とも言われ、それをもって日本軍の「マニラ大虐殺」との非難があるが、その大多数は米軍の殺戮によるものと私は確信する。戦後の市街地の写真をみれば一目瞭然だ。米軍のマニラ市街地への攻撃を信じないフィリピン市民70万人が、その時まで暮らしていた。 2月3日に米軍は突入、3月3日にはマニラの戦闘の終了を宣言している。その間、各所に陣を構え貧弱な武器のみで戦い、あっという間に守備隊が殺されてゆく状況下で民間人10万人もの大量殺戮など、誰がどのように考えても出来ようもない。もとより武器も弾もないのだ。 市街戦の実情は、どこから誰の弾が飛んでくるのかも分からず、米軍、ゲリラ(便衣兵)、そして味方同士の撃ち合いにもなってしまうのが市街戦だ。後方支援もなく兵士たちは自暴自棄に陥っていく。そんな状況下、ルネタ公園から決死の斬り込み隊が毎夜のように出て行くが、武器は僅かな銃に刀や竹やりという状態となってしまっていた。 そして士官が亡くなれば隊はまとまりをなくし、ますます絶望的な状況を迎える。 2月20日に米軍は降伏勧告をするが日本軍は無視し、攻撃再開後は更に烈しく、フィリピン民間人も日本軍も関係なく米軍の無差別な殲滅戦となっていく。 そんな中、海軍巡査隊に属していた台湾兵士、劉さんたちは隊長:廣枝音右衛門警部から『お前たちは台湾から来た 連れて帰れないのが残念だ。どこまでも生きて帰れ、国には妻子父母兄弟が待っているだろう。俺は日本人だから責任は持つ』と米軍への降伏を命じた。廣枝隊長はその後自決した。 そして台湾兵士は2月23日白旗を掲げて米軍に投稿し劉さんたちは戦後に生き延びている。 2月25日残存日本軍は脱出命令を受けて脱出を図るも途中野口大佐も戦死した。2月26日に岩淵少将も、部下を脱出させた後に司令部で自決した。ここにマニラの攻防は収束する。以上 そうか・・・。こんな状況だったのかと、マニラ攻防の様子が少し分かった。そしてマニラ市民10万人が犠牲となった「マニラの大虐殺」が日本軍の汚名とは程遠い実態が分かった。マニラの無防備都市宣言を具申した山下奉文大将は、市民虐殺についての責任を問われてマニラ軍事裁判で裁かれ、絞首刑となった。 米軍の日本本土爆撃は、まさに無差別爆撃であり、広島長崎を含め大虐殺である。こうやって戦勝国の罪過が日本軍に転嫁され、山下将軍に転嫁され、戦後の自虐史観が出来上がっていったのか・・・と。
米軍侵攻のその時点でも「70万人」がマニラ市内に残って暮らしていた 米軍の無差別砲爆撃によって破壊し尽くされたマニラ市街地 マニラ市民10万人の犠牲者は この米軍無差別爆撃の結果だということが一目瞭然である 日本軍兵士が民間人を殺戮した数は不明であるが 日本軍防衛隊1万に対してフィリピン(便衣兵)ゲリラ3000名が 米軍供与の自動小銃を持ちマニラ市街地で積極的に活動していた そんな状況下で日本軍のフィリピン人殺戮は致し方がない
2012.平成24年1月26日(木)
「レイテ沖海戦」はウィキペディアにも膨大な量の解説が書かれている。その最大の注目点が栗田艦隊がレイテ湾を目前にしての「謎の反転」(昭和19年10月25日)である。 そのことについてこのレイテ戦記でも大岡昇平が詳しく述べており、その整理として以下のことを記している。 /////////////// 一、レイテ湾の輸送船は、進むに従って逃れ去るであろう。上陸開始以来一週間に近いから、兵員資材の大部分を揚陸して、空船にちがいない。 二、レイテ湾に入ればタクロバンの飛行場から攻撃を受けるだろう。 三、討ち洩らした機動部隊のほかに、強力な新手部隊が、レイテ湾南方に待機しているらしい。 四、二群の新手の機動部隊が北方にいる。 要するに出口のないレイテ湾内で、航空機の袋叩きに会うという判断がすべてを決定したのだが、これらはすべて想像である。偵察機を持たない栗田長官は、すべて自分の想像したものによって決断していた。しかも彼はこれを退却と思いたくはなかった。 /////////////// 戦後のインタビューの中で、レイテ湾目前(あと航行1時間)にして北への反転の決断について・・・「あの時は非常に疲れていた」との言葉が真実なら、そこにこの決断に「誤り」があったと本人が認めていると思わざるを得ない。 一応この反転について賛否両論多種多様な見方かたがあり、当時大和の通信士として現場にいた方の「大和艦橋から見たレイテ海戦」を読んでも反転についての是非は難しいようだ。これからも論争に決着はつかないのだろうが、結果を知る戦後の私にとっては、やはりレイテ湾に突入すべきだったというのが正直な気持ちだ。 湾内への突入によって艦隊の全滅を恐れたのだろうが、最初から栗田長官はこの作戦に納得いかない気持ちが意識下にあったのだろう。とにかくこういった戦場においては、山口多聞中将の口ぐせだったという言葉 「人間、死ぬか生きるかの瀬戸際に立って、判断に迷うような時には、まっしぐらに死に突っこむことだ」 これは至言だと思う。この時点では日本海軍もすでに瀬戸際だったはずだ。まともな正規空母艦隊もすでになく、栗田艦隊も航空機の援護もない状態だった。南雲・栗田等々消極的戦法に傾きがちな官僚的将官が司令官の座に定着したまま太平洋での艦隊決戦に向ったことが日本の不幸に繋がった。 そして何より以下の「YouTube」の証言こそが、謎の反転の真実を示していると私は思う。チャネル桜が「戦艦大和 副砲長 元海軍少佐 深井俊之助」のインタビュー映像を撮ってくれた。現場にいた者にしか分からない艦橋の固唾を飲む雰囲気がリアルに伝わってくる。
2012.平成24年1月27日(金)
「レイテ戦記」大岡昇平(著)は小説とあるが、内容はレイテ戦争史そのもので、時々刻々と変化するレイテの日米の戦いを詳細に解説している記録である。大岡本人は、19年3月の召集兵として、フィリピン・ミンドロオ島サンホセを警備していた中隊に属した一等兵・暗号手だった。 部隊名・地名等々あまりに詳細で、じっくり読めないが、もし自分の父親、身内がこのレイテ戦で亡くなったり従軍しているのを調べようと思えばこれほどありがたい本はないだろう。日米双方の膨大な戦記・資料を比較検討しながら、真実に迫ろうとしているのが伝わってくる。 片岡中将「従軍記」「須山日誌」、他に「第一師団レイテ戦記」「57連隊戦記・レイテの雨」米側「昨日の子供たち」「或る連隊の戦い」等々、同じ戦場で敵味方として戦い戦記を残している。それらを検証することによって真実の姿が現れてくる。 当時レイテに上陸していた米軍は、「砲兵10:1」「歩兵3:1」が確実に勝利を目指す原則だった。この一つをとってみても、日本軍がこの太平洋諸島での戦いが、いかに勝利とは及びもつかない体制であったことが分かる。しかし、大陸に200万、そして太平洋に25万・・・当初、日本もこれだけの人数がいたのにもかかわらず・・・である。 そして、武器・弾薬・その他食糧を第一とした後方支援体制が、米軍と比較すれば月とスッポン以上に乖離した状況であり、なんやねんこれは?としか思えない。人も武器も物も無かったのではなく、あまりにも無駄に海の藻屑としたり、遅きに失したり、有効利用できなかったのだ。戦いそのものに負けての敗戦ならまだ納得も行くが、まったくそうではないのでやりきれない。こんな戦に二度としてはならないと痛感する。 米軍の資料にレイテ島ピナモポアンにおいて日本軍と戦った連隊長:ヴァーベック大佐が第六軍情報部に提出した報告に、日本軍の戦いぶりを詳細に記述している。 その中の一節には以下のようなことが記されている。 『敵と交戦した者は、その見事な戦闘ぶりによって感銘を受けた。向こう見ずな攻撃、無益な犠牲や一般に戦術の初歩に反した行動は見られなかった。敵の最も顕著なる特徴は射撃の組織的なこと、あらゆる武器の使用の統御にある。敵の射撃は例外なく最大の効果を発揮する瞬間まで抑制されていた。』 これは軍の統制は無論だが、裏返せば日本軍にいかに弾薬が少なかったかを如実に表したことだと思う。 これを報告したヴァーベック大佐は祖父が宣教師として明治初年に来日し、彼も日本生まれで日本語もある程度出来たようだ。戦後、朝鮮戦争にも参加し、1950年東京に再び来た彼はGHQの意向に反し、靖国神社に参拝し、レイテで戦った第一師団長:片岡中将に出会い師団の善戦を賞賛している。そんな彼の生い立ちから、過酷な戦場で日本軍と戦った彼の心情に、日本を想う複雑な気持ちが伺える。 フィリピンでの戦いは、戦死者の膨大なることから当たり前であるのだろうが、こんなに大変な戦場だったのか?と、今まで何も知らなかったことに我ながら呆れる。マニラ四泊五日の旅なのに、何故レイテ戦記を読むのか?と、思ったけど、フィリピンの戦いの凄まじさの一端を感じることが出来ただけでもその価値ありとする。 でもやっと上の半分、それもほとんど読み流す程度で頁をめくりながら・・・。とても完読は無理だ。レイテ戦・フィリピンの戦いについては「第三大隊の戦史」というHPを見つけた。
2012.平成24年1月28日(土)
★『帝国海軍はやたらに戦闘艦の建造と乗員養成に熱心で、近代戦遂行に必要な輸送と護衛に気を入れなかった。それが西南太平洋全域にわたる戦争を遂行することが出来なかった原因の一つであった。18年度からあわてて護送駆逐艦を民間に発注したり、高速輸送艦の建造を始めたが、それが竣工した頃には、それらを有効に使用する作戦を立てる余地がなくなっていたのである。』 ★『「土居正巳少佐」「高橋正二少佐」「金子中二少佐」・・・レイテ戦においては陸軍大学48期卒の若き参謀が活躍していた。』 ★『原口大隊の奮戦は、惨めな語り草の多いリモン峠の戦いの中の華といえる。大隊長:原口豊二大尉(24才戦死)は大正9年生まれ、24歳の大隊長である。リモン峠の激戦地において師団最左翼の孤立した戦場で、作戦の余地もなく絶対後退を許されない戦場であったが、大尉の弾力性のある指揮によって優勢な敵を15日支え、一時は二キロ推し戻すことが出来た。 対峙した米軍の精鋭部隊の大隊長:クリフォード中佐は12月1日軍師団長から「貴下及び貴部隊の奮戦は永久に記憶されるであろう。貴部隊はレイテ島の諸部隊の語り草になっている」とのメッセージ受領し、後に大統領から表彰された。連隊長昇格後翌年ミンダナオで戦死している。これはそのまま原口大隊にあてはまる言葉である。 原口大尉は鹿児島生まれ、幼時よい家庭にあって、古い孝行の美徳を守り、兄弟と争ったことがなかった。人当たりも良く大言壮語する当時の士官候補生とは全く違っていた。良く戦う将校がこの型に多いのは、中国戦線も認められたことである。』 ★『第102師団長:福栄真平(ふくえ しんぺい)中将・・・陣地偵察の為に訪れた友近軍参謀副長に向って「われわれは一体いつ帰れるのかね」と質問をし、友近少将を憤激させた。後に無断でセブ島に脱出して、一ヶ月間指揮権停止の処分を受ける。レイテ戦に従軍した最も不名誉な将軍となった。「戦後、戦犯容疑により逮捕され、死刑判決を受け、1946年(昭和21年)、シンガポールのチャンギーにて銃殺刑が執行された。享年56歳」』 ★『「第35軍司令部(鈴木宗作中将司令官:昭和20年4月19日戦死・享年54歳)の敵襲を受けたる時の無統制振りを十二分に拝見す」と土居参謀は苦々しげに書いている。「軍参謀の面々敵攻撃を受けたる時はサッパリだらしがない。小銃射撃を受けると思考力、判断力を失い、満足に言葉が出ない。予は暫時して副長に軽迫集中を慮(おもんばか)り、司令官戦場離脱の意見具申をなしたり」 一軍の司令部がこのように敵歩兵の急襲を受けるということは、めったに起こることではない(恐らく太平洋戦線で唯一の例であろう。)米軍でもまさか軍司令部を奇襲したとは思わなかったらしく、その記録には載っていない。』 ///////////////////////////// 戦争での作戦に対しての批判、人物評価、愚将や卑怯者についての話は、本当に難しい。作戦批判も人物評価に同じくである。大将・将軍のように誰もが知るような公人であれば別だが、誰もが知らない下級兵士に対しての批判は、厳に慎まなければならない。 卑怯者の烙印を記すことは、その人物の先祖・現在・子孫に対して、どうしようもない重荷を背負わせることになる。安易に批判はできない。勇者ではないのに勇者と間違えるのは構わないが、その逆は、絶対駄目だ。 この本の中にも真の勇者は「百人に一人」という記述がどこかにあったが、そんなもの何の裏づけも無い。千人に一人なのかも?万人に一人なのかも?10人一人くらいいるのかも?・・・何を基準に勇者とするのかも分からないから。 日頃「大言壮語」している者より、温厚で物静かな者に勇者が多いのは当然だろう。これはスピッツと同じで「弱い犬ほど良く吼える」は、すべてに共通だ。強ければ強いほど、見栄を張る必要はないし、相手を威嚇する必要もないし。 まあ真に弱い者も目立たないように静かだろう。そして卑怯者は、いろいろ頭を巡らせて、自分の立場を有利にしようと悪あがきばかりで、いろんなパターンがありそうだ。 そしていつの時代、どんな状況下でも「正直者が馬鹿を見る」ことはない。いずれは「因果応報」の報いあり。 日本人というのは、一旦精神的な柱がなくなれば、ホンマにつまらぬ人間になる。捕虜になった途端に「自国の軍隊の悪口を言ったり、米軍に媚びたり」で、米軍兵士も驚いたようだった。それはシベリア抑留者のスターリン賛美も同様だ。恥を失くせば、屑になる。 ドイツのシベリア抑留者の態度は、日本人抑留者と全然違ってソ連軍に媚を売るようなことは、日本人に比べて圧倒的に少なく毅然としていたそうだから。だからドイツ人抑留者の死者は日本人に比較して圧倒的に多い。ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。日本人は60万で6万人(10%) そんな日本人だから終戦と同時に、敵が指名した戦犯容疑者をかばう事もせず日本官憲が探しまくった。その時から日本人は今に続くような屑になっている。極端に変る。まあ、情けないけど自分は屑ではないと言い切る自信はどこにもない。なんとか踏ん張りたいというのが願望だけど・・・。
2012.平成24年1月30日(月)
ふ〜ん、終戦時にまだ日本帝国陸海軍兵士は7百89万4千人余りもいたのか・・・。
終戦時における日本軍の配置人員数 戦争というのは、まことに理不尽なことであり、たまたまその時代にその年齢であった日本男子が国を守る役割を担い戦場に赴いた。そしてその中でも実際に敵の姿を真近に見て撃ち合ったのは、どれくらいの人数なのだろうか? フィリピンの戦場もニューギニア同様、飢餓に彷徨い人肉を喰らうこともあったようだ。日本軍も現地人を虐殺しただろうが、逆に現地人に多くの日本軍兵士が嬲り殺されている。米軍の残虐もしかり、私は戦場で何が起こっても全ては戦争の範囲だと思っている。 「殺すか殺されるか」の世界にルールは有り得ない。戦場にあるのは「戦時国際法」ではなく「人としての道義」だ。もしその場面において自分が命に代えても守るべき道義的価値があるなら殺される道を選択すればよいだけの話だ。そして戦い終わり、結果、負けたら復讐されるのも掟としてある。 私にとって如何なる戦死よりも、一番自分自身辛いと思うのはBC級戦犯として無実の罪ながら死刑に処せられることである。大東亜戦争の結果、1000人余りが死刑を宣せられた。勝者による復讐裁判によって・・・。白人の人種差別を含めての憎悪がここに表れている。 そして、この不当な裁判によって処刑された多くの日本軍兵士の見事な態度には感動と敬服しかない。とても自分ではそんなことは出来そうにない。終戦を期に日本人は軍人も含めて下り坂を転げ落ちるように無様な姿を晒したと思っているが、この戦犯の方たちの態度は立派であり、それが日本人として救いでもある。 戦争裁判・・・このブログにも紹介されているが、一日も早くこの方たちが日本人みんなの知るところになり、あらためて「日本人としての誇り」「恥を知る心」を取り戻すきっかけになって欲しい。 大東亜戦争を日本人はどのように戦ったのか?どこでどんな戦いがあり、誰が英雄的な働きをし、どのように遠い異国の戦場で露と散ったのか?日本軍兵士の戦死が約2,300,000名なら二百三十万の物語があり、教科書に載せ語り継ぐべき「英雄伝」は、万とあるはずだ。 フィリピンの戦跡は膨大すぎて、“へぇ〜こんなんやったんか?”と驚くばかりだ。今更だけど・・・。戦争に学ぶことはまだまだ山ほどある。
2012.平成24年2月1日(水)
早くも2月か、もうすぐのマニラ行きに備えてデジカメ映画の脚本?準備も大方できた。いつも言っているように自己満足の極地で赤面の至りだが、誰にもそんなに迷惑もかけないので好きにやる。一小市民が内容を問われず自分の思いの丈を許可なく発信することが出来るなんて今でも信じられない。 前回の延吉の旅行記は、フォートラベルへの掲載は邪魔臭くて一旦やめたが、やはり再度アップロードした。今年に入ってからもぺリリュー島・方正への旅行記を見てそれぞれメールをくれた方がいる。一人は青年、一人は瀋陽在住の方からだった。中傷メールをもらったことはない。YouTubeには、そんな書き込みも時々あるけど・・・。 戦跡を巡ることによって、その戦いを興味を持って学び、知らなかったことを知ることが出来る。旅そのものはたった四泊五日だが、私にとってその前後の時間の方が遙かに長い。もしこの趣味がなければ、何にこの時間を費やしているのだろう?他にしたいことはあるのか?そしてこれ以上に自分にとって有意義なことはあるのか? 日々「面白いこと」を探し求めているので、いつもそんなことを考えている。そんな性根だから、何でも薄っぺらい。この戦跡めぐりもそうだ。中国語もそうだし、すべては中途半端で自信を持っての特技も芸も取り得も技能も何もない。昔からそうだった。だからこれからもそうだろう。 夢中になれた少年サッカーの監督に比べて、それと同じかそれ以上に夢中になれるものにまだ出会えていない。そのことに夢中になれればその他のことはどうでもよくなる。命さえもそのためには惜しくもなくなるはずだ。プロゴルファー杉原が、ゴルフの為にガンの手術をしなかったように。自分の全てを投じれる何かがある人は幸福だ。 金が無くても、何も無くても、夢中になる物があればそれだけで人間は幸福だ。ゴッホは生前貧乏だったようだが、好きな絵を描くことが出来たから誰が何と言おうと十二分に幸福な人生だ。無論、金を貯めることに夢中なら、それも良し。 まあ、とりあえず死ぬまで夢中になれることを探し求めて生きる。死ぬ間際でもそんな物が見つかれば万歳である。それまで中途半端でも自分の好きなことをやっていたい。そのことに突然夢中になるかも知れない・・・し。 ボチボチ中国語を学び、ボチボチ旅をし、少々億劫ながら卓球もし、健康管理は面白く、仕事はお客さんが来てくれるまで続け、パソコンもオタクの様にやり続け、元気で120歳まで生きることを目標にこれからも生きる。 さあもうすぐ常夏のマニラに行こう。神風特別攻撃隊の第一陣が出撃したマバラカット西・東飛行場跡へ。マニラ市街戦は悲惨だった。そしてコレヒドール島へも。中国以外は初めてのところが多いので、いつも不安ばかりなり。今日百円ショップで百円四巻の蚊取り線香を買った。線香たてもちゃんと入っている。百円ショップは素晴らしい!
2012.平成24年2月3日(木)
双日総合研究所副所長・吉崎達彦(文責)「米国以上の自信喪失は情けない」という記事が目に付いた。 円高がその証拠のように日本は世界から評価されている。幾ら日本の家電メーカーが軒並み赤字に喘ごうとも・・・。米国・EU・中国・韓国と比べれば世界一の債権国であり、失業率も欧米に比較すればまだまだましだし・・・。 「米国以上の自信喪失は情けない」・・・ホンマに日本は不思議な国だ。
二日前、旅行を前にして腰にギクッとした痛みがあった。ホンマにこんな時に限ってと、思うが仕方がない。でも、この二年くらい腰痛にならないようにそれなりに筋トレもしているので酷い痛みにはならない。 旅たち前のギックリ腰は、3年前の虎頭に行った時を思い出す。あの時は今よりもっともっと痛かったけど、旅先で気合が入って東寧の勲山陣地の階段を駆け上がったのに大丈夫だった。ひどくならずに逆に痛みが軽くなった。 最近、腰痛はもう克服できただろうと、今まで鬼門だったスクワットを始めていた。20回、30,40,50回と調子に乗ってやっていた。やり始めて二週間くらいたって、洗面所でちょっと屈んだ時にギクッと来た。 また一から、ボチボチやろう。すぐに焦って無理するからこうなる。この二日間コルセットをしている、気休めだけど安定する。健康管理の道は遠い。
2012.平成24年2月4日(金)
明日の今頃はマニラのホテル・・・か。 真冬から真夏へ。凄惨だったマニラ市街戦は1945/昭和20年2月3日〜3月3日まで。ちょうど67年前の昨日3日、まず最初にサント・トーマス大学(捕虜収容所)を解放するために、戦車30輌を先頭にして米軍は侵攻してきた。 それに呼応して、フィリピン人ゲリラも蜂起し市街地は血みどろの戦場と化して行く。米軍がマニラを包囲したために日本軍は徹底抗戦しか道はなく、日本軍も米軍もフィリピンゲリラ(便衣兵)も、そして民間人も含めて無差別の殲滅戦になった。 ルネタ公園(リサール公園)から毎夜のように斬り込み隊が出たそうだ。銃もなく刀や竹やりで・・・信じられないが、そうだったのだろう。マッキンリーの桜兵営跡は、今米軍兵士の墓地になっている。マッカーサーが部隊を残して家族と逃げたコレヒドール島にも行く。旅のメーンはマバラカット飛行場跡、道を隔てて西と東にある。 そこからレイテ湾方面に敵機動部隊を求めて神風特別攻撃隊が出撃した。飛び立てば左手にアラヤト山が見える。飛行場跡も1991年のビナツボ火山の大噴火の火山灰で、当時の地面は姿を隠してしまったようだけど・・・。でも周囲の自然の風景は変わりようが無いはずだ。 明日は2月5日、米軍マニラ市内に侵攻後の2日目。その時マニラ市街は、どんな様相だったのだろう。想像も及ばないが。腰痛もほとんど良くなったし、とにかく行って見よう。 auショップに行って、“スマートフォン”のマニラでの使い方を教えてもらった。インターネットを使えば一日定額¥2980円がかかるらしい。しかしデーターローミング機能をoffにしていたらネットは使えないけど課金はされないとのこと。メールを使う時だけonにして、一体メールは幾ら掛るのか?試してみよう。
旭川の二男から“Skype”を試すからと昨日メールが来たので、今日Webカメラを買って準備していた。近くの上新電気で「今月のお買い得」というのがあったので、それを買った。320万画素で¥3980円也。 夕方、二男と“Skype”で繋がったが、相手の顔はこっちの画面に映るが向こうに映らず。ちょうど長男夫婦も我が家に来ていたので、長男に教えてもらってテレビ電話が無事に成功。便利な世の中になったことをあらためて痛感する。 昨年12月初めに初対面をした孫もその時と違って随分大きくなっていて驚いた。二男も仕事で派遣があったりで子供と離れての生活に備えて“Skype”の準備をしたのだろう。平成24年2月4日、我が家で初のテレビ電話試運転に成功す! |
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