旅行記 安保


方正・佳木斯・同江・富錦の戦跡を訪ねる


哈爾濱~方正~佳木斯~同江~富錦~哈爾濱

2010:平成22年9月11日(土)~9月21日(火)

10泊11日


①ハルピン9/11.20:②方正.9/12.13:③佳木斯.9/14.15:④同江.9/16.17:⑤富錦.9/18.19




はじめに

これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。

思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。

公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。

目 次

(0)旅たち前:佳木斯・同江・富錦の戦跡を訪ねて
(1)9月11日(土)関空~哈爾濱へ到着
(2)9月12日(日)哈爾濱~方正へ
(3)9月13日(月)方正での一日
(4)9月14日(火)方正~佳木斯へ
(5)9月15日(水)佳木斯での一日
(6)9月16日(木)佳木斯~同江へ
(7)9月17日(金)同江での一日
(8)9月18日(土)同江~富錦へ
(9)9月19日(日)富錦~哈爾濱へ:夜行列車
(10)9月20日(月)哈爾濱での一日
(11)9月21日(火)哈爾濱~関空:帰国
(★)帰国後:番外編


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富錦から東南東約11キロにある五頂山


日本軍の要塞陣地が築城されていた


2010‎年‎9‎月‎18‎日、‏‎14:26:32.撮影




満洲への旅で思うこと

日本が大東亜戦争に敗北を期するまで地球世界は、白人列強を中心に覇権主義全盛の時代を歩んでいた。まさに当時の世界は強い国がどこまでも勢力を拡張し、植民地からの収奪を当然としながら覇権を競いあっていた。覇権国家すなわち文明国が弱小国家を非文明国と定め、それらの弱小国を植民地化し、非文明国を発展させてゆくという、強者の論理が当然の如くまかり通っていた時代だった。

当時の地球の人口の内訳は白人種4割:有色人種六割、そんな世界で日本は有色人種唯一の覇権国家として白人列強と並び存在していた。そんな中、日本は白人列強の植民地化とまるで異なる“併合”という形で台湾・朝鮮・サイパン・パラオなどを統治した。それこそ非文明国を文明国にと発展させる日本独特の統治であった。

今にして思えば行き過ぎた同化政策はあっただろうが、当時の白人列強やその傘下の植民地国は、日本の台湾・朝鮮統治をどのように思っていたのか想像が出来る。併合した国に自国民から徴収した多額の税金を投入し、ありとあらゆる社会資本整備を進め、短期間に見違える国にした。その事実は誰にも否定できる物ではないはずだ。

そして満洲。
ロシアの進出を日本は日露戦争で食い止め、その後も満洲の大地を巡って群雄割拠の時代が続いていた。そんな満洲に資源なき日本は新天地を求め、「五族協和」「王道楽土」の大儀を掲げ満州国を建国した。

白人列強が世界を制するのを食い止めるには日本が強国にならざるを得ず、何をおいても日本の独立自尊・皇室を戴く国体護持が最優先されたことは、今思い返しても先人たちの英断と行動を賞賛する。ただ一点支那事変の拡大だけは疑問に思うが、悔やんでもせん無きこともあるのが歴史の常だ。

そして昭和16年12月8日:白人列強相手に火蓋を切った。これは「黄禍論」に示されるように人種差別という人類の宿命が招いた戦いであり、戦争に至った経緯に関しては、覇権を争う時代での歴史の必然と私はそう確信している。

そして戦いに結果は付き物である。しかし、世に敗戦と言う結果はあれど、私の戦争の定義は、共に大儀を持っての戦いならば「戦争に敗者はない。」私の敗者の定義は「戦うべき時に戦わない者、戦えない者」が真の敗者だ。

その気になれば今の日本の力で現実に十分可能な「拉致被害者奪還」「竹島の奪還」「尖閣諸島の実効支配を強化すること」・・・それが出来ない戦後の今の日本と日本人こそ恥ずべき「真の敗者」だと、私は、そう思っている。




■ソ連との密約問題

関東軍とソ連軍との間に交わされた関東軍兵士の労働使役に関する密約、世に言う「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」は、1993年:平成5年7月、ロシア国防省公文書館により公開されたものだ。

この報告書を探し出し、世間に関東軍憎むべしを画策したのが、シベリア抑留の補償を日本政府に求める裁判を起こした故・斎藤六郎:全国抑留者補償協議会会長と共同通信社である。その真実は、斉藤が裁判を有利にするために、この資料を関東軍をこき下ろすための材料として、その文言を悪意を持って解釈している。それは草地貞吾参謀が、武装解除後に、関東軍兵士や在留邦人を救うために元帥へ陳情した文章だ。

その文章を読めば日本人なら誰しも分かることであり、それを関東軍参謀を密約の悪者に作りあげんがために作為的に吹聴した。そして抑留されたことを、あろうことか暴虐非道なるソ連への怒りではなく、敗戦ゆえの武装解除に陥り、何の効果的な対策を取り得ない関東軍にこれでもかと責任を押し付け、日本政府に保障を求める。

「シベリア抑留1450日」の著者:山下静夫氏によれば

《日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。抑留者は60~65万人。抑留中の死亡者は6~9万人。 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。

比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。》

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↑こういった記述があります。 そしてこれがスターリン共産党の実態であり真実だ。戦争で亡くなった人の総数よりも、戦争とは無関係に戦後、ソ連・中国の共産党独裁政権下で粛清や飢餓で死んだ人間の方が圧倒的に多いのは周知の事実だ。そんなスターリンに感謝状を贈ったのは、紛れもなく関東軍を罵り日本政府を糾弾する日本人の抑留者だけだ。

これらの顛末を産経新聞記者がブログに記している。これを読めば所謂「密約」なる物の真相が良く分かる。




■ドイツの戦後処理と日本の戦後

シベリア抑留の代償を日本政府へ求める裁判の原告である元シベリア抑留者が、Web頁「老いたる蟷螂の言い分」で、ドイツの戦後処理を賛美しています。

そこにはドイツ賛美が次のように書かれていました。

5、見習うべきドイツの抑留者対策

私は抑留地でドイツの捕虜を知ったが、民族のプライドの高さ、簡単にはソ連に屈しない毅然たる日常には感心させられた。捕虜の資格や国際法も知らず、ひたすらソ連に引き回された当方に比べまことに立派な集団であった。偉いのは抑留中だけのことではなく、戦後処理の見事さは雲泥の差で、比較にもならない。

シベリアでの強制労働はもともと国の担うべき賠償を肩代りしてくれた愛国的苦役として彼らは英雄とされ、さまざまな優遇を受けている。彼らには国際法も労働証明書も裁判も不要で、国は「帰還捕虜に対する援助に関する法律」など一連の手厚い補償で労苦に酬いている。

アデナウアー首相をはじめ与野党国民が一丸となって占領弁務官やソ連と渡り合い、国の誇りと公正を保ちながら見事に戦後処理を終えているが、われわれが格段に見劣りするのは抑留中だけのことではなかったのである。

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↑以上のような文章がありました。「格段に見劣りがするのは抑留中だけのことではない」という文言に全てが含まれている。それは敗戦を期に今に続く日本人の無様さが顕著に現れたのが「シベリア民主運動」であり、「スターリンへの感謝状」だ。

こんな連中が戦後の日本で大手を振って生き抜き、敵はソ連ではなく、当時の日本軍の中枢及び幹部を敵として、自らを戦争の被害者とする卑怯者たちだ。厚顔無恥とはシベリアで民主運動を行い同胞である日本人抑留者を苦しめた民主運動の指導者たちだ。

ハイラル・シベリア戦友会の方々はシベリア抑留中も民主運動なるものに染まらず同胞同士の骨肉の争いとは無縁だったようだ。そういった関東軍抑留部隊も現にいる。

そしてドイツが戦後、帰還兵たちを優遇したのは、理の当然だ。その理由は、ドイツという国とドイツ人は戦争には敗れたが、アウシュビッツの責任はナチに押し付け、戦後のドイツもドイツ人も元兵士も戦争自体を何ら自虐することなどしていない。

敗戦後も自国の憲法を自ら制定し、軍隊を持った真の独立国への道を選択した。引き換え戦後の日本は、まんまと占領政策にのり、戦後、国民も帰還した元兵士も戦いを遂行した日本帝国や先人たち、そして満洲建国・大東亜戦争・帝国陸海軍、その全てを“悪”であるかのように声高に否定し、自分を被害者の立場に置いてきた。

もし、敗戦となっても堂々と戦ったことを誇りとし、先人たちの名誉を傷つけることなく、昭和26年のサンフランシスコ平和条約締結後、占領の頚木から脱した時に、占領憲法を即刻廃棄し、軍隊を持つ真の独立国への道を選択したならば、戦後の日本国も日本国民もドイツ同様、先の戦争で辛酸を舐めた元兵士の方々への十二分の配慮を行ったに違いない。

その上、東京裁判などと言う勝者による一方的な復讐裁判を肯定し、絞首刑にされた方々を未だに戦犯扱いしたがる日本人の醜さと情けなさは言語に絶する。そして、その延長にシベリア抑留の代償をソ連ではなく、何処までも日本政府に要求する情けなさには哀れとしか言いようがない。自ら先の戦争を自虐し否定し、挙句にソ連の暴挙の前に「スターリンに感謝状」を贈り、今になってまで日本政府に文句を言う。そんなつまらぬ日本人に同情する気持ちはない。

ドイツを褒め羨む前に、自らの無様な姿を省みろ。戦後の日本を腐らせた原因の一つが、シベリア民主運動に見る戦後日本人の卑怯極まりない姿だ。無論、シベリアでの民主運動には同情すべき点は多々ある。しかし復員後、今に至るまでの抑留者たちの心根と、この裁判に見られる日本国への恨みのような意識が、何処までも救われない日本人の資質の堕落を感じる。

ただ、こういったシベリアの運動に関東軍の将官や高級将校の参加は、上記のWeb頁によれば長谷川宇一大佐一人を除き、他にないというのが、せめてもの救いだ。

立派な日本人は戦場で亡くなった。或いは敗戦の責任と散華した戦友への想いから自決した。或いは戦後生き延びても大儀を掲げて戦った大東亜戦争の兵士であったことを誇りに思い、戦場で散っていった戦友の名誉を聊かも裏切ることなく、戦後の反戦反軍の風潮に媚びず、黙して語らず、または堂々と聖戦を語り、草地貞吾参謀のように生き抜いた。私が尊敬する真の日本人は本当に数少ない。




■我、反日日本人を嫌悪する

毎回同じことを繰り返し書くが、私は満洲からの引揚者やシベリア抑留者が語る、反戦反軍・反日本帝国を根底とした能書きは聞くに堪えない。まして中国や中国人を美化し、謝罪の行脚を繰り返す日本人には嫌悪と哀れみしか感じない。

未だに誘拐や人身売買が横行し、チベット・新疆ウィグル・内蒙古を軍事力で抑圧し、漢族入植による侵略をしているのが中国であり中国人だ。伝統文化は今も昔も変わらない。だからこそ伝統であり、文化となる。

関東軍の満洲建国統治の失敗の一つは、建国後、いち早く国境を画定し人の移動を厳重に管理すべきだった。満洲国の安定と発展が、漢族の止め処もない流入を加速し、漢族の為の満洲にしてしまった。それが敗戦後の日本人への虐待になり、満洲を戦後中共政府の支配下に置いてしまった要因でもある。圧倒的多数の異民族の中で、今までの統治者、権力側が敗者になれば、一挙に態勢は翻り殺戮されるも已む無しが中国、いや大陸の歴史でもある。

不毛とも言われていた大地に工業化を図り、鉄道沿線の都市を急速発展させた。新京は当時から市街地は下水が完備された素晴らしい都市だった。お人よしな日本人の満洲建国であり、統治行政である。今に思えば漢族のために日本本土から莫大な投資を行い、当時の世界が驚く国を作り、戦後、独裁者:毛沢東に感謝される始末に及んだ。

その日本人自身が、戦後、一転して満洲建国を呪い、先人を罵倒する。そして戦争放棄などと言う非現実的な憲法を護持し、敵国米国の庇護の下に八方美人の如く、或いは太鼓もちの如く、平身低頭しながら小銭を稼ぎ国家の誇りと名誉には関心もない。そりゃあ自分の国を自分で守る気概も憲法も軍隊も持たず、強者に従属する人間に誇りは不要であり名誉はあり得ない・・・が。

必ずやそんな国と国民には、いずれ罰が当たると信じる。因果応報とは自分だけではなく子々孫々になって罰が当たる。でないと日本の独立を守るために散っていった英霊や戦後に不当に嘲笑された真の日本人及びその家族末裔が浮かばれない。何度でも同じことを書く、それだけ私は反日日本人への嫌悪の思いが強いからだ。

皇紀2670年/平成22年10月2日(土).Age60(記)




五頂山山頂の要塞跡



2010‎年‎9‎月‎18‎日、‏‎13:13:18.撮影

富錦市内から車で30分くらいで行ける。東南東11キロくらいのところに位置する

1945年8月9日以降、ソ連の侵攻を受けて富錦の関東軍は奮戦敢闘した

2010年の今年から65年前のことだ。この山に陣地を築城していたので

各所から転進してきた部隊の集合場所にもなった

その後、転進命令によりソ連軍の包囲をを突破して

各隊は方正方面に向かった。この山の山頂に今も当時の痕跡がある

日本軍兵士かく戦えり。我ら子孫が誇りとするところである。

英霊の皆様方に心より感謝し、哀悼の意を表します。




三江口:松花江よりロシアを望む



2010‎年‎9‎月‎17‎日、‏‎11:13:26 撮影

同江にも8月10日にソ連軍が侵入してきたが

転進命令により、同江の在留邦人及び部隊は

ソ連軍同江侵攻前の8月9日午後4時後退し

8月11日に富錦、五頂山に無事に辿り着いている



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