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2008:平成20年10月22日(水)〜10月27日(月)
5泊6日
九五式軽戦車

2008.10.24/am.11.54:撮影
ペリリューに17台あった戦車の内の1台
米軍上陸当日の9月15日午後4時30分
「斬込隊と協同し、飛行場北側よりアヤメ陣地方向に対して反撃し、敵を撃滅すべし」
命を受け天野戦車隊長は反撃を開始する。まだ紅顔の少年戦車兵の姿もあった。
戦車にロープを巻き付け、それに斬込隊が掴まり突進する。
斬込隊は飛び降り展開し白兵戦になる。
擱座を免れた戦車も爆雷をつけて敵戦車に体当たりするなど勇戦虚しく全滅する。
その中の一台
草を刈り取った広場に錆び付いた姿のままここに放置されている。
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2008.平成20年8月18日(月)
■ペリリュー島へ行こう 数日前、チャネル桜の討論番組で西部 邁氏がペリリュー島の日本軍の玉砕戦を紹介されているのを聞き、「その話し、確か前にも聞いたこ とがある・・・」と思い出した。 それでネットで検索し、次の旅はパラオ共和国ペリリュー島に行くことに決めた。そして今日、ツアーを企画している旅行社に電話して申 込をする。 そして、それに関しての本を読もうと調べたら複数の本があった。図書館に蔵書のある本は図書館で、無い本はアマゾンで購入することに した。ガイドブックはいつもように「地球の歩き方:パラオ」を直ぐに注文し、既に手元にある。
アマゾンで購入した本↓(新品・中古)
○「ペリリュー島玉砕戦:南海の小島70日の血戦」:舩坂 弘(著) ¥ 735 4冊、計¥2,101+送料4冊¥1304円=¥3,405円
図書館で借りる本↓
○「女ひとり玉砕の島を行く」:笹幸恵/著、 これから順次上記6冊を読もうと思っている。 ![]() この他にも図書館で借りた そして・・・。 インターネットからの情報は無尽蔵とも言える
■関西発着■【7〜10月料金掲載】
【会社名】 エアーワールド株式会社
出発日:10月22日(水) 合計:¥129,150円 燃油特別付加運賃の追加請求¥5,000円が来る。 結局:¥134,150円になる。 このツアーは空港からホテルへの送迎があるだけで、あとは全部オプショナルツアーである。スケジュールは何も無い。これからペリリュ ー島への戦跡巡りの一人旅をボチボチ計画しようと思う。さあ、どんな旅になるだろう?
2008.平成20年8月23日(土)
■送金完了
申込み金¥2万円だが、全額¥129,150円を振り込んだ。 今、手元にペリリューへの旅の為に読もうとしている5冊の本がある。上記の6冊の内「ペリリュー島玉砕戦」舩坂 弘(著)の一冊だけが まだ届いていない。二冊は図書館で借りた。 まだざっと目を通しただけで読んでいない。出発までに読んで、頭の中にも、そしてある程度はまとめて整理しておきたい。知れば知るほ ど興味も湧いて来るだろうし、旅も有意義な物になると思う。でも欲はかかない。
さあ、何から読もうか・・・。
2008.平成20年9月3日(火)
■サクラ、サクラ 「女ひとり玉砕の島を行く」は読み終えた。この本にはペリリュー島のことは書かれていないが、私が知らない島々での玉砕があまりに多 いので驚いた。 ツラギ島・ムンダ・タラワ島・マキン島・等などである。その他にも有名なガダルカナル、ブーゲンビル、サイパン、テニアン、硫黄島へ の戦跡巡りについて書かれていた。 ガダルカナルでは同行した元兵士の方である一木支隊生き残りO氏から笹幸恵さんに「どうか戦友たちのことを悪く書かないで下さい。 」最初と最後に二度も・・・頼まれたそうである。
今、「ペリリュー島・玉砕戦」船坂弘(著)を読みかけた。 通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ最後ノ電報ハ左ノ如ク致シ度承知相成度。 一、軍旗ヲ完全ニ処置奉レリ。
ニ、機密書類ハ異状ナク処理セリ。 昭和十九年十一月二十四日午後四時、軍旗を焼却し、守備隊長以下は自決。パラオ本島通信部に以下の電文が届いた。 サクラ サクラ 我この島に行く。
1898年1月23日 - 1944年11月24日:享年47才 自決後、2階級特進し陸軍中将となった。
2008.平成20年9月19日(金)
■高垣勘ニ少尉 「ペリリュー島・玉砕戦」を読み終え、次いで「秘話パラオ戦記」を読んだ。 「秘話パラオ戦記」には高垣少尉のことが書かれている。 高垣少尉の勲功は陸自の太平洋戦争公刊戦史の第十三巻、アンガウル島とペリリュー島の戦史の中に以下のように記されている。 『昭和十九年十一月八日夜、高垣勘ニ少尉以下九名の集団海上遊撃隊は、ガラゴン島(現在・ゲロン島:NGERCHONG IS)に斬り込み、米兵 多数を殺傷、補給品を鹵獲したが、我方にも戦死三名の損害を受け、十二日マカラカル島に帰還した』 著者:船坂氏には良くぞ若き青年士官:高垣少尉のことを調べてこの本を書いてくれたと感謝の言葉しかない。まだ今の日本では埋もれた 話しだと思うが、いつの日にか日本人の多くが知るところになるだろう。 高垣少尉と共に戦い戦後帰還された部下の方々が当時二十三歳だった小隊長の思いを語る言葉には、尊敬と信頼に溢れ隊長を信じ戦い抜い た誇りがひしひしと伝わってくる。感動の本だ。 「日本軍かく戦えり」
「秘話パラオ戦記」船坂弘(著):享年23才
マカラカル島の下にガラゴン島がある 現在・ゲロン島:NGERCHONG IS
■高垣勘ニ少尉
「秘話パラオ戦記」船坂弘(著) 著者である船坂氏もアンガウル島の玉砕戦を生き延びた元兵士である。
その著者に昭和四十四年、高垣少尉の母から一通の便りが来た。
手紙の内容は ニ階級特進の栄誉は「軍神」とも言われるほどの名誉で、「爆弾三勇士」「真珠湾攻撃の九勇士」「加藤隼戦闘機隊長」「西住戦車隊長」 などごく限れた勇士が対象になる。 それ程の勲功を上げ一度はニ階級特進と言われながら現実にはされなかったのは何故なのか? 著者はあらゆる限りの手を尽くしながら調査したが、なかなか辿りつけずにいた。しかし三年後の四十七年、そんな著者の所に高垣少尉と 共に戦った元部下の四人(半井兵長・井上上等兵・藤川伍長・林伍長・各氏)が訪ねて来た。それで全容は明らかになった。 半井:「私は高垣小隊長殿に、とくにかわいがられたものです。いつも小隊長とは一緒でした。ガラゴン島に斬り込んだときも、小隊長の そばをはなれませんでした・・・」 半井氏は筋骨逞しい古武士をそこに見るような男で、かっての軍隊においては、さぞかし模範兵であり、かつ猛者であったと思われる風貌 姿勢をしている。 井上:「私は斬込隊の第二班に編成され、ガラゴン島に行きました。当時は上等兵でした。ガラゴン島では、軽機関銃がじつによく働きま した。全然故障がなくて、面白いように弾が出ました」 藤川:「私は当時、高垣小隊の先任下士官でした。斬り込みのときは第三班でした・・・。兵庫県の藤川です」 温厚なタイプであるが、どことなく極限のなかをくぐり抜けて来た沈重さをその言葉に含んでいた。 林:「私はガラゴン島に斬り込まれた高垣小隊長殿や、ここにおります方々を見送って、マカラカル島に残留していました・・・」パラオ 戦線で負傷し視力を失ったが帰国後の治療でわずかな視力を回復した。 著者はこの林さんを知り、高垣小隊長のことを教えてもらいたいと言ったが、その時、林さんは「自分一存の判断では出来ないということ であった」 やはり、それは何か高垣小隊長についての深い事情があるようだった。そして林さんはその後、当時の戦友と相談し四人で著者の家を来訪 した。
昭和19年8月中旬(米軍のペリリュー攻撃一ヶ月前) 理由は、竹を割ったような性格の高垣少尉がペリリュー島でパラオの色街から大隊長を追って来た女性(久松・芸者)を追い返した。この 女性・久松は大隊長自決の後も機関銃を乱射し最後まで米軍と戦い戦死したそうである。
昭和19年9月15日ペリリュー島米軍上陸 高垣小隊は米軍厳戒の中を夜間、ペリリューに向って渡渉するも敵艦の探照灯の照査によって小隊の全滅を危惧し『全員ガラゴン島に転進 すべし』『大儀とは生きて戦い抜くことだ』と言い、ガラゴン島に帰島した。 その後、ガラゴン島にも米艦船からの艦砲射撃の猛爆が始まり、高垣少尉は艦砲の餌食になるのは愚の骨頂だと判断し、北方2キロのマカ ラカル島、そして尚艦砲を避け北にあるウルクターブル島へ再度の転進をする。これが敵前逃亡・抗命罪に問われることになる。 そして11月初旬、ウルクターブル島からパラオの司令部に少尉は出頭し罵声を浴び糾弾され、小隊を引き連れただちにガラゴン島に切り 込んで汚名を挽回せよとの命令を受ける。 「少数精鋭による決行」との命令内容から小隊全員を連れてゆくのではなく、小隊長以下9名を選抜する。選抜された者は全員、支那大陸 での歴戦の勇者たちであった。 11月8日夜半、米軍一個中隊が上陸し、強力なる陣地を構築しているガラゴン島へ高垣少尉以下2・3・2・2の4班=九名の決死隊が 乗り込むのである。 あくまでも高垣少尉は生還を期し、10日夜半にイカダを持って水泳の達者な残存兵士にガラゴン島北西20メートルの地点にある浅瀬に 迎えに来るように命令を出す。 米軍一個中隊は240名、9vs240、約30倍の敵と戦闘して必ず帰って来るという固い信念を少尉は持っていた。 午後12頃、ガラゴン島に苦心惨憺しながらも全員無事にたどり着く。小隊長と半井兵長が敵情視察に出て1時半ごろ戻る。 黎明期の午前5時を期に4班は、それぞれの目標に攻撃を掛ける。それは米軍の宿舎だった。高垣少尉と半井兵長は爆薬を仕掛けるも不 発で、米軍に気付かれ、少尉は米兵に向って射撃をし、同行した半井兵長が手榴弾を投げ込む。米兵は裸のまま海岸目指して逃走する。 その他の三班も高垣小隊長たちの襲撃した方向からの炸裂音を聞き、それぞれが与えられた目標の宿舎を爆破し手榴弾を投げ込んだ。四ヶ 所の米軍宿舎を全部破壊し、米兵を追っ払い、負傷させ、大成功だった。 その上、少尉たちも米兵が逃げ去った宿舎の横の食堂から衛生材料・薬品、食料、缶詰類を分捕った。そして全員が集合地に戻った。大戦 果を上げたのである。 分捕り品の食料を食べ小休止をしていた時、米軍が上陸用舟艇で逆上陸して来た。その時、みんなは一刻も早く退却しなければ大変だと思 った時、高垣少尉は「どこだ!何隻だ!」と、軍刀を持って立ち上がると「よし!俺のあとに続け!米兵を全滅させるんだ!」と言った。
半井兵長はその時のことを・・・。 上陸した米兵が滑走路まで来た所で、9名は一斉射撃を加えた。井上上等兵の軽機関銃は見事に火を吐き続け敵兵をバタバタ倒した。敵は 死体を残したまま再び舟艇に飛び乗り逃げていった。 高垣少尉の「深追いはするな」の命令の下、みんなは逃走する米兵に向って勝鬨(かちどき)をあげた。その勝鬨を上げた場所は、マカラ カル島の監視哨から手にとって見える位置だった。そして監視哨隊長がちょうど彼らの行動の一部始終を見ていたそうだ。
半井氏談 しかし、たがいの無事を祝ったのもつかの間、こんどは完全武装した米軍が大挙して上陸して来た。小隊長が軍刀を手にかざして、的確に 指揮をし、みんなは夢中で応戦した。それに手を焼いた米軍は又も撤退を始めた。 しかし小隊からも犠牲者が出た。その内、海上から艦砲射撃が始まり、小隊長の命で単独行動になり、戦闘は夕方まで続いた。日が落ちる と米兵の撤退で戦闘は終わり、彼らは舟艇に引揚げると一目散に海上に去って行った。 その後、またも猛烈な艦砲射撃が続き、各自安全な場所を探して退避する。小隊全員が固まっていれば一発の砲撃で全滅の可能性があるか らだ。藤原伍長が重傷を負い小隊長が背負っていたが亡くなり、高垣小隊長自らがねんごろに葬った。 その後の高垣少尉の行動:著者の調査によれば・・・。 夜に入ってから、集結場所に行ったが、高田伍長と井上上等兵の両名しか集結していなかったので、二人をマカラカル島へ報告のために先 に帰還させ、自らは単身で部下の安否を確認のために全島を捜索した。しかし吉田伍長の戦死を確認しただけで他者の者とは遭遇できず、 いったん夜明けにマカラカル島に帰り、舟艇によって10日、11日とガラゴン島を再捜索したのであった。 高垣少尉の勲功は陸自の太平洋戦争公刊戦史の第十三巻、アンガウル島とペリリュー島の戦史の中に以下のように記されている。 『昭和十九年十一月八日夜、高垣勘ニ少尉以下九名の集団海上遊撃隊は、ガラゴン島に斬り込み、米兵多数を殺傷、補給品を鹵獲したが、 我方にも戦死三名の損害を受け、十二日マカラカル島に帰還した』
米国海兵隊公刊戦史には、この斬り込隊に関して 高垣勘ニ少尉の最後:マカラカル島に於いて 高垣小隊は「海上遊撃隊」という名称が付けられ特設決死隊として義務付けられた。その任務は隊員一人一人が漆黒の闇夜を利用して、敵 艦船に泳ぎ着き爆薬を船体やスクリューに取り付け点火爆破させる。或いはガラゴン斬り込みのように敵前上陸を敢行するという、まさし く決死隊である。 その任務を遂行するために日夜、厳しい訓練に明け暮れたそうだ。そしてペリリュー島も昭和19年11月24日午後4時、「サクラ サ クラ」を連打し玉砕した。 人命尊重の目的で米軍攻撃用の手製爆雷の導火線を長くする研究していた小隊長だが、自給自足を送っている現地は魚類の宝庫で、高垣少 尉は魚を取るための火薬の研究もしていた。そして魚を取るための「缶詰爆雷」を発明した。
昭和20年3月9日 そして高垣少尉が導火線をのぞきこんだところ・・・すさまじ炸裂音と共に少尉は爆死し、林伍長も眼下のリーフに叩き付けられた。 林伍長の言葉 「たしかに高垣少尉殿は、不慮の事故によって志し半ばにして戦死されました。だからこそ私は言いたい。敵前逃亡の件のときもそうだっ たが、小隊長殿の表面にあらわれたことのみしか知ろうとせず、なぜ内なる少尉殿の忠誠の心を見てくれなかったのか・・・と。 あの勇敢なガラゴン島斬り込みの名誉ある武人、りっぱな指揮官を、なぜに戦争の裏面史の中に生きる運命に、置きかえてしまったのでし ょうか。いまの世に言う“死に方”が“カッコ悪かった”からですか。 敵の前で死ぬことが、華々しい戦死なのですか。しかし小隊長殿がどのような死に方をされようと、私たちは知っています。あの勇敢、豪 快、実直、潔白、日本男児の最たる気性を!」 こういい終わると林さんは、涙をおさえかねて沈黙した。半井、藤川、井上の三勇士も同じ様に目頭に手を当てて泣いていた。
事件の真相は意外な結末に終わった。だが一人の勇士の勲(いさお)が、ここに記録された。これは偉大なことである・・・と、私はその
時、位牌の中の高垣少尉にとも、私のうしろにいる四人にとも、また私自身にともなく、ひとり語りかけていた。
平成17年:パラオ諸島慰霊巡拝 上記巡拝に高垣中尉の弟さんが参加されている
2008.平成20年10月1日(水)
■ペリリュー島を目指して・・・。 9月18日(木)
安保様
はじめまして、ロックアイランドツアーカンパニー ○○です。弊社オプショナルツアーお問い合わせいただき誠にありがとうございます。
○○に代わり下記お問い合わせ回答させて頂きます。
お問い合わせ内容: 兵庫県の安保と申します。58歳(男) 10月22日〜10月27日までパラオ、コロールのココロホテルに滞在します。 すでにエアーワールド(株)ツアーに予約済みです。一人旅で目的はペリリュー島、アンガウル島の戦跡を巡りたいと思っています。 遺族でも関係者でもありませんが、戦跡に興味を持ち可能な範囲で巡っています。 星亮一(著)のアンガウル・ペリリュー戦記を読み貴社と○○さんの名前をしりメールを差し上げるしだいです。一人を案内するのは多額 になりそうであれば遠慮なく言ってください。その場合、一人でも往復できるルートや方法があれば教えて頂ければありがたいです。 まことに勝手なお願いですがお返事お待ちしています
→ペリリュー島へ行くには弊社の<ペリリュー島1日観光>にご参加いただければご案内可能です。ただ上記ツアーは3名様からの催行とな
りますので、他にお客様がなかった場合不催行となります。強くご希望であれば3名様分のお支払いがあれば確定します。
現在のところ上記23日から26日ではご予約はありません。とりあえず1名様、リクエストでご予約をいただき、他のお客様のご予約を待つ
ことも可能となります。ご検討ください。
またアンガウル島へ行くにはボートチャーターとなります。
金額は概算で、ボートチャーター料金のみで$750.00
こちらにガイド料、現地車料、弁当、ドリンク代等がかかってきます。
ペリリュー島からアンガウル島までは外洋となりますので、海況が荒れると島に辿りつけない場合がございます。
また、アンガウル島へは定期船などもありますが、いつ、何時に出港するなどの具体的なスケジュールは申し訳ありませんが弊社では把握しておりません。
またこちらを使うと、海が荒れて戻ってこれなくなく可能性もありますのでお勧めはいたしません。
ヘリコプターという手段もありますが、現地での車手配、ガイドなどはありません。
また、ご質問等ございましたらご連絡ください。ロックアイランドツアーカンパニー ○○
********************************* 9月19日(金) ロックアイランドツアーカンパニー ○○ 様 早速ご丁寧な返信ありがとうございます。 アンガウル島へ行くのは難しそうですね。これから有意義な旅になるように検討させて頂きます。その節は又お問い合わせするかと思いま すが宜しくお願いします。 /////////////////////////////////// 9月19日(金) マーメルダイバーズ パラオ 様
兵庫県 10月22日(水)〜10月27日(月)
エアーワールド(株)のパラオ6日間のツアーに予約しています。
★23日
★24日 一人旅です。ペリリューは一人でもOKとありましたが、上記、一人でも宜しいですか?可能であれば料金を教えて下さい。 宜しくお願いします。
///////////////////////////
安保様
初めましてパラオダイバーズネットの○○です。
>10月22日(水)〜10月27日(月)
>エアーワールド(株)のパラオ6日間のツアーに予約しています。
了解です。
>★23日
$45
>
>★24日
$120
>一人旅です。ペリリューは一人でもOKとありましたが、
両方とも、お一人なので、他のツアー会社さんとも確認して相乗りでいけるように調整してみます。それでよろしいでしょうか?お返事お
待ちしております。
パラオダイバーズネット 代理店マーメルダイバーズ:○○
http://www.palaudivers.net/mt/
○○ 様 早速のご返答ありがとうございます。
・・・・・・・・・・・・・・・・
↑そのようにして頂ければ助かります すでにエアーワールドでのパラオ行きツアーは決定しています。 /////////////////////////
9月30日(火)
安保様
とりあえず、10月24日は、ペリリュー島内観光の手配できました。ツアー催行会社は、RITCという会社です。お迎えは、8:30にロビー
にRITCのスタッフさんが来ます。
23日の半日島内観光は、もうしばらくお待ちください。ちなみに、お支払いは、銀行送金でしょうか?クレジットカード支払いでしょうか?
*******パラオダイバーズネット***** ○○ 様 24日のペリリュー島観光の手配、ありがとうございます。支払いは、どちらでもOKです。どうすれば良いでしょうか?支払い方法をお 知らせ下さい。 宜しくお願い致します。 ////////////////////////// パラオダイバーズネットにペリリュー行きの手配をしてもらったけど、結局、最初に問い合わせた「RITC」のツアーに参加ということ になった。 希望は定期船に乗ってぺリリュー島に渡り、初日は現地ガイドに案内してもらって、ぺリリュー島に一泊し、二日目に自分でゆっくり島を 散策したかったけど・・・。ぺリリュー島とコロール島を結ぶ定期船も毎日ではないようで・・・ツアーを利用するか、もう少し事情が分 からないと難しそうだ。 アンガウル島に行くのもボートをチャーター($750.00〜$550)したり、ヘリコプターなどの手段のようだ。ある程度の数の慰霊団体ツア ーでないと一人で行こうと思えばそれなりにお金が掛かる。定期船もあるようだけどアバウトで一週間くらいの旅行者は無理とのこと、残 念だけど仕方がない。 ぺリリュー島戦跡巡りも何人かのツアーで駆け足になるかもしれないが、行けるだけでよしとする。25.26日はどうしよう?
2008.平成20年10月16日(木)
10月22日(水) 10月23日〜26日 終日フリータイム
10月27日 ・・・・・・・・・・・・ 今のところ予定は、10月24日(金)ペリリュー戦跡ツアーだけ。 23.25.26の三日間は予定がない。バベルダオブ島一周探訪ツアー{¥105ドル}に一人参加出来れば行こうと思っている。着い てから天気の状態をみて考えよう。
昨日、明石駅前の三井住友銀行で600ドルを両替した。
9月15日
午前5時30分
午前6時15分
西浜目指して進む米軍上陸用舟艇
オレンジビーチ(西浜)に上陸 釘付けの米軍海兵隊
午後1時 米軍上陸 西南地区の守備は、茨城・群馬健児を代表する現役兵を主体とした、当時満20歳以上23歳までの若い世代であった。
水戸大ニ連隊第二大隊(635名)大隊長:富田保二少佐
高崎歩兵第十五連隊第三大隊(750名)大隊長:千明(ちぎら)武久大尉
富田・千明、両大隊計1400名が、米軍上陸部隊一個師団四万二千人を迎えた。 クロマツ陣地とアヤメ陣地の間隔が空き過ぎており、ここに米軍は来襲し突破される。
午後2時20分 この日、ペリリュー海岸に米軍の将兵は死体の山を築き、爆破された戦車と上陸用舟艇は水際を埋め、兵力の損失は米軍にとって莫大であ った。その損害は、日本軍の数百倍に達したのである。
午後4時30分 15日の戦死者:800余名
9月16日
午後3時頃
9月17日
9月18日
9月22日
主力、合計1192名
9月23日
9月25日
斬込隊 「勇敢な日本軍の皆さん、夜間の斬り込みは止めて下さい。あなた方が斬り込みを中止するなら、我々も艦砲射撃と飛行機の銃爆撃は即座 に中止します」 斬り込みとは、言うのは簡単だが、常に死との対決である。ひとたび出陣して行ったら絶対に生還は期しがたい。敵陣に阿修羅となって肉 弾で飛び込み、敵を刺し殺し、最後には手榴弾を爆発させて自爆し、敵とともにたおれるという、夜間戦闘の特別肉攻斬込戦術だ。 私は多くの戦史を読んでいるが、米軍が日本軍の斬り込みに対して、条件を付けてまでこの損害の恐怖から逃避しようとした事実があった のは嘘偽りのないことである。同時にこのような斬り込みのあったのは、この島が最初にして最後であった。(船坂弘:文責)
9月28日
10月1日 ガラカヨ島⇒二日二晩泳ぎ続ける:三ツ子島:休憩せず、マカラカル島の西側を泳ぐ。 パラオまで約半分の行程⇒鮫島⇒潮流の最も激しい難所・獰猛な海蛇の生息地を抜けて: マカラカル島:上陸せず突起した岩陰で休憩⇒海軍の舟艇と遭遇するも同乗を拒絶される⇒難所:ヨオ水道⇒ガムドコ水道⇒ パラオ・コロール島到着。10月1日・出発から4日後、連続力泳48時間。
直線40km、優に60キロを越える長距離であった。 奈良四郎少尉はその後中尉に昇進・戦後は天職に専念しながら剣道に精進)
米軍からの投降勧告ビラ・放送が盛んに行われる
水戸山洞窟陣地:収容人員数千人の大規模洞窟
ガドブス島への米軍の攻撃・・・飛行場がある 引野大隊配属:歩兵第二連隊第三中隊主力・鈴木清大尉
10月2日頃
10月3日 10月3日暴風雨 この日、ハンキンス大佐戦死:ペリリュー攻略戦の米軍側最上位の階級。
10月13日
10月17日
10月19日
10月21日
10月23日 戦闘開始以来、38日目、軽傷者を含めて戦闘兵力:700名
10月26日
10月28日 10月末、戦闘員は軽傷者を含め500名
大山附近の攻防
11月2日:大山:観測山:米軍に奪取される。 11月3日:明治節 9月15日より数えて50日目 11月4、5日:豪雨、敵は動かず。 日本軍残存兵力:軽傷者を含む、350名。重傷者:130名、計480名。 11月6〜8日:台風
11月11日:米軍、ペリリュー島北方のゴロゴッタン島を占領。
11月18日:日本軍兵力:軽傷者を含め150名 7時40分:ペリリューより打電 『通信断絶ノ顧慮大トナレルヲ以テ、最後ノ電文ハ左ノ如ク致シタク、承知相成タシ。』 一、軍旗ヲ完全ニ処置奉レリ。
ニ、機密書類ハ異常ナク処理セリ。
11月24日
午後4時 大山戦闘指揮所洞窟で、軍旗をはじめ秘密書類を焼却した大佐は、続いてパラオあてに打電した。玉砕の電文は
サクラ サクラ午後5時:中川州男守備隊長名での最後の電文 「遊撃隊の編成を完了、断固徹底せる攻撃戦闘に移るに決す。爾今主として敵幹部及び敵を随所に奇襲し、以って中川地区隊長の意志を敬 重し、持久に徹せよとの集団司令官の意図に沿わん。遊撃隊は一同士気旺盛、闘魂に燃え、神出鬼没、敵の心胆を寒からんしめん。必ずや 夜鬼となりてもこれが粉砕を期す。通信断絶のため、本日を以って連絡期し難く、御了承乞うふ」
村井少将・中川州男大佐・飯田少佐 午後6時:根本大尉よりパラオ本島に打電
「18時より遊撃戦に移行す、遊撃隊長、根本大尉より」 この電文を最後に、その夜、大山をあとにした。
なお、米海兵隊公刊戦史によれば
手前に飛行機の姿が見える
スペインの統治:15年間
皇紀2600年南洋神社創建
パラオ共和国・日本・バングラデシュ人民共和国
バングラディシュ
パラオ共和国
高さ80メートルの中央高地 中川州男大佐が死守した高地:頂上の平坦部・3メートルほど、米軍の記念碑「戦死者を追憶して。アメリカ陸軍第323連隊。1944 年」とある。 大小合わせて500に及ぶ洞窟陣地で戦った。 「天山死守」を命じられた富田大隊と海軍の生存者計34名が投降したのは、終戦後約2年を経過した昭和22年4月であった。 残存兵士の証言:「土田喜代一氏のの証言」
富田大隊と海軍の生存者計34名が投降した
日本軍側戦死者:約10022名、生還者(捕虜を含む)446名。 米軍側戦死者:約1684名、負傷者約7160名。
2008.平成20年10月22日(水)
19日(日)にOWSパラオ (パラオフィールドオフィス)に問い合わせのメールを送ったら、パラオの倉田先生に転送して頂き出発前日の昨 日21日に連絡先を教えてもらった。 早速、メールを送ったら夜分に係わらず返事を頂き、ペリリューに行く前の23日にお話を聞かせてもらえることになった。ココロホテル から朝の9時半に電話を掛ける約束をした。 今、出発当日22日の午前7:53分、まだリックに何も詰めていない。これから準備し昼過ぎに我が家を出発する予定だ。
米軍に占領される 正面の建物が西カロリン海軍航空隊ペリリュー司令部
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